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「G型大学」「L型大学」の個人的な解釈

カテゴリ:世の中の事

最近Twitterを賑わせているこの件。

「L型大学って何!?」文部科学省が大学を職業訓練校化しようとしていたことが発覚し、ネット大炎上 – NAVER まとめ

ネットでは「こんなことが国で議論されているなんて」という驚きと共に
批判的な声が挙がっているが、僕としてはこの提案に違和感はない。
(冨山氏の著書を読んでいたということも大きいと思うが)

僕の解釈を以下に述べる。

「G型大学」と「L型大学」の射程

「G型大学」が想定しているのは、グローバル企業の経営幹部や
技術的なイノベーションをもたらす人材の輩出である。
その担い手になれる若者は同年代の何割か?という話。

すべての大学生がグローバル企業に就職できるわけではない。
しかしながら現在の大学教育は、医歯薬理工等の専門教育を除き
多くが教養や汎用的な能力の要請に終始しており、
それは大企業への就職をモデルコースとしているからだ。

今後グローバル企業はますます知識集約的になり、
求められる人材もよりハイスペックになっていく。
それなのに大学生のほとんどをそこに送り込むスタンスで良いのか?
大学のミッションとして、ローカルな産業の担い手育成を
明確に掲げる方が、労働市場のニーズに応えられるのではないか?

というところから始まったのが「G/L」の区別だと思っている。

「L型大学」のあるべき姿

「G型大学」はハイスペック人材の輩出に特化するものだ。
では「L型大学」は具体的に何を目指せばよいか?

日本のローカル経済は労働集約的な産業が大きな割合を占める。
例えば、教育、医療・福祉、インフラ、小売業などがこれに当たる。

そうした産業は専門的な能力(産業特殊的技能)が求められる。
また、多くは中小企業であり、大企業ほどの社内教育体制を持たない。
したがって汎用的な能力(一般的技能)を身に付ける機会の創出は
そこで働く(働こうとする)個人にある程度委ねざるを得ない。

したがって「L型大学」では大きくはローカル経済の担い手、
具体的には汎用的な能力に加えて専門的なスキルを身に付けており、
かつ自ら能力開発に取り組める人材の輩出が必要となるだろう。

全国規模の経営戦略の構築は「G型人材」の仕事だが、
大きな方針の下で各店舗の運営を担うのは「L型人材」の仕事。
そこには経営学の理論よりも、より実践的な知識が求められる。

また、ローカル経済の射程には個人事業主も含まれる。
個人でカフェを経営するときに必要なのも「L型」人材要件だ。
MBAを取得する必要はないが、実店舗を経営するための諸知識や
接遇など基本的なコミュニケーションのスキルは必要だろう。

こうした人材を育ててほしいというローカル経済側のニーズは
今後ますます膨らむと思われる。

「G型大学」「L型大学」への批判への反論

以上のようなスタンスから、冨山氏への批判の声に対して、
ツッコミを入れておきたいところがいくつかある。

批判1.「実践的な能力」なんてすぐ陳腐化する、意味ない

この批判自体はある意味で的を得ている。
問題は「実践的な能力」の捉え方だと思う。

ある会社や産業に固有の技能というのは時代と共に陳腐化する。
しかし、就職という入り口の時点では(いずれ陳腐化するにせよ)
その数年の間即戦力として求められるスキルであり、
「実践的な能力」はそういう意味で求職者を助けるものだ。

もう一つ、「実践的な能力」の中には恐らく汎用的なものも含まれる。
汎用的な能力(ジェネリック・スキル)とは、
批判的思考、問題解決、コミュニケーションといったものを指す。
こうした力を身に付けるということも「L型大学」の射程に入るだろう。

批判2.大学を職業訓練校化させるべきじゃない

この批判の裏には「職業訓練校」蔑視がふんだんに盛り込まれている。
これだけ職業教育が軽んじられているのは先進諸国の中では珍しい部類だ。

大学が職業訓練校化すると何がまずいのか

教育と雇用の接続は先進諸国共通の課題だ。
そして社会保障分野での研究でも指摘されている通り、
雇用とのつながりは社会全体とのつながりを生み出す大きな役割を果たす。

このblogosの記事は空論のオンパレードで途中で読むのをやめた。
教育はその個人の人生を豊かにするためだけにあるわけではないし、
職業訓練校はその個人の人生を無視するものだ、という見方もひどい。

まとめ:著書を読んでから批判するべし

これだけ批判が上がるのも一部分のみを取り出されてしまったからで、
手っ取り早いのは冨山氏の著書を手に取ってみることだろう。

なぜローカル経済から日本は甦るのか (PHP新書)

また、教育と雇用の接続の課題を知ることも必要と思われる。

この本は専門書だが浅く広く読みやすい仕様になっている。
「G/L」の議論においては、実際に高校生や大学生が
就職する際にどのような困難に直面するのかをまず知るべきだ。
また、「新しい能力観」についても避けて通れないと思う。

多くの人にとっては「寝耳に水」であり、内容も過激だったことが
受け入れがたさにつながっているのだと思う。
一方ですんなりと意図を汲む人もいることは頭に留めた方がいい。
決して突拍子のない提案ではないことはここで強調しておきたい。

関連する記事

地域資源を活用したイベントを通じた移住・定住促進の仕組み素案

カテゴリ:世の中の事

なんだか論文かレポートのタイトルみたいですが。

先日、兵庫県の高校生と島の高校生とのディスカッションに参加しました。
お題は「島前地域を元気にするイベントを考えてください」。

・島前地域の課題とは何か。
・地域の「元気」とはどういう状態を指すか
・以上を踏まえてどのようなイベントが効果的か

イベントの是非は一旦脇に置きつつ、プロセスや価値観を重視した議論となりました。

地域の課題はやっぱり人口減少

生徒+大人30名を5班に分けてのグループディスカッション。
どの班からも課題として挙がったのが、「少子高齢化」。
「後継者不足」「仕事がない」なんて課題も出ましたね。

「少子高齢化」。21世紀における日本の最たる課題です。
単純に考えれば、Uターン率の向上、あるいは定住促進につなげる必要が出てきます。

しかし、単に「収益が上がる」「観光客が増える」が定住促進にはつながりません。
「面白いイベントがある」からUターンする、というのも相当にロジックを積まない限り、そう簡単に説明できるものではないでしょう。

このあたりがやはり既存の「イベント」そのものの難しさだなあと感じました。

それでも定住促進につなげるイベントを

僕がいた班ではこういうアイデアが出ました。

スポーツイベントは人が集まる。でもただマラソン大会なんかしても魅力がない。
競技中に山菜や海産物を採集し、ゴールしたあとに調理するイベントはどうか。

これ、元ネタは北海道のカレーライスマラソンです。
詳しくはリンク先を見ていただきたいのですが、結構面白そうですよね。

実現可能性はともかく、「人を集める」に関しては、悪くないなあという感じがします。
では、「移住・定住促進」についてはどうか。
ここはやはり高校生にとっては実感のわかない課題のようで、意見もなかなか出ませんでした。

ここからはジャストアイデアです。

「スポーツイベント」に「スカウト」制度を取り込んだらどうか、と。

スポーツイベントで上位に入るような体力の持ち主であれば
島の第一次産業の担い手としてはもってこい。

さらに山菜、海産物の採集がミッションになるのならば、
島で暮らす者として、あるいは漁師としての適正を見極められるかもしれません。

イベント後の交流会などでめぼしい参加者に島の人が声をかけ、スカウトする。
島外の人が島(の人)を気に入るように、というのはどうも一方通行な感じがします。
島内の人が島外の人を気に入る、住んでほしいと思える機会も必要なのかなと。

さらには、引きこもり支援の一環で、島外から引きこもりの人を集めて毎日トレーニングし、
数ヶ月のトレーニング後に本番のマラソン大会を走ってもらう、みたいなやり方もありかなと。
「心」のケアは田舎では難しいものですが、「体力づくり」「マラソン完走」を目標にすれば、
関わり方もシンプルになるし、目標が達成できることで自信を持つことができるはずです。
もしかしたら島を気に入って、そのまま残ってくれるようになるかもしれません。
ここでも「スカウト」が機能する可能性はあります。

声を掛けることで記憶に残る

「スカウト」をアイデアとして提示したのには理由があります。
ほかならぬ僕自身が、学生時代に海士に来たときに「スカウト」を受けたからです。
本気ではないと分かりつつも、「こげな仕事あっけん、来てごせな」といわれると、
やっぱり頭の片隅に残るんですね。「こういう可能性もあるかもなぁ」と。

そのときは単なる「可能性」かもしれませんが、転機が訪れたときに、
「スカウトされた」という記憶が蘇り、有力な「選択肢」となるかもしれないのです。
(事実、僕がそうでしたから)

「ありがとう」、「また来てね」。
イベントで地域の人から送られる言葉は、どうしても全体に向けたものになりがち。
参加者一人一人との関係性をつくることが、リピーターづくりにつながり、
もしかしたら移住・定住促進につながるのではないか。

そんなことを思いながら、この記事を書いてみたのでした。

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伝統・文化の副次的な意味が多く語られる傾向について

カテゴリ:自分事

「伝統や文化を残す意味は?」と問われると

伝統工芸や地域の祭りが廃れていくのを見ると、
やはり寂しさを覚えます。

伝統や文化を残そう、という動きは
最近になってますます活発になっており、
「伝統や文化を残すこと」を大事と思う人は少なくありません。

さて、「伝統や文化を残す意味は?」と問われたとき、
どのような答えが返ってくることが期待されるでしょうか。
例えば祭りを守る意味について問うと、
このような回答が寄せられる傾向にあります。

・祭りを通じて地域コミュニティのつながりが醸成される。
・祭りに関わることで人々が役割を得ることができる。
・まちに活気が溢れることで、明日への活力となる。
・人が集まることで経済効果が期待できる。

これらは同様の質問に対する高校生の意見を参考にしています。
「祭りを通じて地域に良い影響が生まれるらしい」
ということは容易に想像できることです。

文化そのものの意味が軽視されていないか?

しかし、高校生の回答に気になるところがあります。
そもそも祭り自体の意義への言及が見当たらないのです。

では「祭り」自体を残す意義とはなんなのでしょうか。

昔からやっているから

残すべき理由がこれだけというのは難しいものがあります。
祭りは何らかの起源と目的や意義があってはじめて成立し、
そうして現在に至るまで継承されてきたもののはずです。
しかし、今残っている祭りという伝統には
そもそもの意味合いを喪失しているものが少なくありません。
実際、すでに観光資源としての位置づけが全面化してしまい、
元々の信仰や歴史的意義からかけ離れて、
学術的な価値が見出されないと指摘されるものもあるくらいです。

文化の副次的な価値に注目せざるを得ない事情

とはいうものの、そもそもの起こりを大事にしたところで、
昔と今とではその価値が移り変わることもあるわけです。
農業技術が発達した現代において、
豊作祈願の”切迫さ”は弱まるのは至極当然のこと。
元来の目的をその祭りの価値として据え続けることは
時代を追うごとにその目的が失われるリスクに晒されるということです。

結果的に、経済効果やコミュニティの維持といった理由が
伝統や文化を残す意味の中心となっている傾向が見られます。
もちろん、文化そのものの本来の目的や意味とは異なる
副次的な効果も”価値”ではあるのですが。

そこばかり目を向けてしまうときに僕が危惧するのは、
伝統や文化が形骸化し、本来の意味が損なわれることです。
伝統が本来の意味を失うとき、蓄積された地域のアイデンティティもまた喪失される。

これが例えばキリスト教徒の宗教上の行事になると、
多少状況が違うように思えるんですよね。
彼らは副次的な効果もさることながら、
行事そのものの(宗教上の)意味を忠実に守っているように見えます。
(あくまで「見える」というだけですが)

「文化を守れ!」という掛け声は大きくなるばかりです。

なぜ守るのか、何を守るのか、どう守るのか。
(あるいは何を変えていくのか)

慎重な検討ができる素養を身に付け、地元に帰りたいものです。

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