カテゴリ:自分事
2016/02/03
勤務先で2回目のプログラミング講座を終えて帰宅。
今回は眼鏡男子ばかり5名の精鋭が集い、
それぞれ自分のペースで頭を抱えながらコードを書き、
約2時間半があっという間に過ぎたのだった。
(前回の様子はこちら)
学習に必要な情報はすべてWikiにアップしたことで、
当日は質問対応に終始。黙々と課題を進める生徒の姿に、
プログラミングというコンテンツの魅力を改めて思い知った。
僕は基本的にプログラミングを独学で進めて来たし、
身近に頼れる人がいない環境だったこともあって、
個人的には生徒も独学でどんどん進めてほしい、と思っている。
次回も企画すればリピートしてくれるであろう手応えはあったものの、
なるべく早い段階からわざわざ講座を設定せずとも
一人で、あるいは複数人で日時を合わせるなどして
プログラミングするように促せないものだろうか。
大人の勉強会を企画していてもそうなのだが、
自分自身、なかなか他の人との予定を鑑みながら
いちいち場を設定するのは心身ともに負荷がかかる。
持続可能にするためにも、手離れが必要だ。
しかし、現時点では手離れして自立するイメージが持てない。
もう少し手をかけないといけないのだが、どのようにすれば
自立する芽が育つのかという道筋も見えていない。
例えば、仕事の引継ぎであれば強制力も働き、
お互いに必要性を感じながら進めることはできる。
しかし、自主的な参加が前提の場においては、
自主性を育むということが必要なのだろうとは思う。
年度末を一旦の区切りとして、
自立の可能性を模索していかないといけない。
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2015/10/10
借り物なので、気になったところをここに簡潔にまとめる。
支援の提供者から利用者に近づいていくこと、どうすればその人たちに直接会えるか、頭を柔軟にして真剣に考えること、これがトロントで成功している支援に共通したポイントだったと思います。
社会で子どもを育てる―子育て支援都市トロントの発想
トロントの子育て支援の充実ぶりもさることながら、
やはり気になるのは「どうすれば充実させられるのか」だ。
端的にさらりと書かれているのが、かえって目を引く。
著者が訳した「実践コミュニティワーク」が
まさに具現化されていると言っていい。
現場へ足を運び、そこにいる人たちの声を聴く。
いや、声を聴くだけじゃダメで、その人たちと関わり、
信頼を一つ一つ積み上げていくという先にしか、
地に足の着いた実践は為しえないということなのだろう。
この一文に出会えただけでも、本書を手に取る価値はあった。
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カテゴリ:世の中の事
2015/07/26
『学び合い』との出会い
最近、文科省がアクティブラーニングを喧伝している。
直訳すれば「能動的な学習」であり、要は学習の形態として
伝統的なチョーク&トークは受動的であり、
もっと生徒が能動的に取り組めるようにするべきだ、ということ。
具体的な方法は幾らでもある。
先に「伝統的な」という枕詞を付けたが、
「調べ学習」や話し合い活動は少しくらい経験するはずだ。
最近はより抜本的に授業形態を変える手法が増えているらしい。
『学び合い』というのもその一つだ。
実践者に話を聞いてみると、これが面白い。
授業形態の話だったはずが、最終的には「人間観」の議論になる。
端的に言えば、「性善説」か「性悪説」か。
『学び合い』は「性善説」の信念の具現化を試みるものであり、
世に言うアクティブラーニングもきっとそうであるはずだ。
逆に言えば、「人間観」の転換なくして
アクティブラーニングは成功しない、と僕は思っている。
それがアクティブラーニングの最も難しい点だろう。
誰か一人で何とかする時代などではない
ここまで「教育」について述べてきたが、
別に「まちづくり」や「政治」の分野でも同様のことが言える。
田舎はもちろん日本全体で見ても
今後確実に人は減っていく。
効率を重視し、分業を推し進めてきた結果、
専門化・資格化した分野から特権化が始まり、
「中央集権」とか「官僚制」なんてものが生まれた。
この説明が正しいかどうかはわからないけど、
言いたいことは「みんなでやらないと回らないんだ」ってこと。
「授業」も「まちづくり」もたった一人が責任を負って
成功裡に導かなければならないなんて時代は終わる。
スーパーな人材なんて幾らもいないのに、
そうした人材が必要な現場は増える一方なのだから。
『学び合い』は教師だけでなく全生徒が
「一人も見捨てない」を合言葉に授業をつくっていく。
なんだ、これこそまちづくりじゃないか。
手法とか授業形態とかそんなんじゃなくて、
結局コミュニティづくりの問題なんだ。
アクティブラーニングを推進する流れは
大学入試改革と連動して今や待ったなしの状況。
過疎に苦しむ離島中山間地域は勿論のこと、
地方都市レベルでも土砂崩れの予兆が出ている。
きっと、問われているのだ。「人間観の転換」を。
今更こんなことに気づいてしまった。まだ遅くないと願いたい。
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