Tag Archive: Something Good

幸せな暮らしのための「楽しさ」の質について

カテゴリ:自分事


さまざまな「楽しさ」

「楽しい」ことは僕にとって生活の潤いです。

仕事が「楽しい」。食事が「楽しい」。日々の暮らしが「楽しい」。友達といる時間が「楽しい」。
生徒が伸びる瞬間が「楽しい」。海遊びをして昼寝をしてから仕事を始めるのが「楽しい」。

いろんなことを「楽しい」の一言でくくっていますが、もちろん「楽しい」の質は異なるもの。

これまでは「楽しい」を大きく二つに区別していました。

・長く続くもの、これからにつながるもの
・その瞬間のもの、一時的なもの

前者をより大事に、後者はそれなりに。
それくらいの配分が大切だなんて思っていました。

「楽しい」の優劣

最近、「区別する必要が果たしてあるのかな」と感じる場面が増えています。

みんなとばか騒ぎした夜が明けたとしたら、後には何も残らないかもしれない。
それでも、次につながらないようなことの意義は小さい、と断言できるだろうか、と。

結局のところ、「楽しい」と思えるのは、「いま・ここ」が充実しているということ。
「いま・ここ」を充実させることが将来の充実のために僕ができる唯一のことなのです。

そう考えると、そのとき・その場にいた人たちとの時間を大切にすることと、
将来に向けて自らを磨くために時間を投資することとは、優劣のつけようがない。

いずれも「いま・ここ」の充実を図る活動に他ならないのだから。

「こんなことやってて将来は大丈夫なのだろうか」と思うことがあれば、
それはすでに「楽しい」ことではないのです。飽和した「楽しさ」と言うべきでしょうか。

「楽しい」と思えるということ。
その状態をつくり続けられれば、幸せな暮らしも夢のような話ではないな、とかすかな手ごたえを感じています。


関連する記事

消費とクラウドファンディングの間~新しい資金調達のカタチ~

カテゴリ:世の中の事


2009年2月と少し古い記事ですが。

反対するだけが能じゃない。「買うことで変える」新しい消費者運動のカタチ「キャロットモブ」 | greenz.jp グリーンズ

当事、消費(購買)は投票行為である、という観点を教えてくれたのがこの記事でした。
キャロットモブという活動自体は少し違和感を覚えるところもありますが、示唆に富んでいます。

久々に読み返してみて、これはクラウドファンディングとはまた違う資金調達の方法になりうるなと考えています。
いえ、このような形の消費行動は現実に存在しています。
例えば被災地の水産物、エシカルジュエリー、パタゴニアの登山用品を購入するという行為。

消費者が自身の効用のみでなく、企業への共感も基準に取り込んだ消費行動を、資金調達の方法とするということ。
クラウドファンディングのように目的を限定し、寄付者ではなく購買者を集め、寄付ではなく商品・サービスの購買を通じた資金調達。

これまで当たり前に行われてきた新しい消費行動を、消費とクラウドファンディングの中間にあるものと見ることで、なにか面白そうなことができる気がしています。
クラウドファンディングが、寄付者の効用を曖昧にしてしまいがちであることの反省も含めて。


関連する記事

「世界はひとつの教室」を実現するKhan Academy

カテゴリ:読書の記録


TEDにも出演し話題となったサルマン・カーン氏が著者。
Khan Academyのこれまでとこれからを自身の信念と絡ませながら紹介しています。

論理は簡潔でテキストの端々から情熱が溢れだし、一挙に読み終えてしまいました。
未来の(あるいは現代のあるべき)教育のビジョンをこれだけわくわくさせられるものとして描けるとは。

本記事では僕が気に入ったところをかいつまんでご紹介したいと思います。

「完全習得学習」というシンプルなアイデア

完全習得学習の根っこの部分を一言で言えば、生徒はある学習内容を十分に理解したうえで、もっと高度な内容に進むべきだということです。そんなの当たり前だと言われそうですが、完全習得学習の歴史はけっして平坦なものではありませんでした。

世界はひとつの教室 「学び×テクノロジー」が起こすイノベーション

著者が運営するKhan Academyの重要なコンセプトが「完全習得学習」です。

現在の単元を完全に理解してから次の単元に進む。

このアイデアは学習における自明なプロセスであり、当然のように感じられるでしょう。
しかし、実際に我々が課されてきた学校のテストを思い出してみてください。
我々が学習内容をその都度漏れなく理解していたなら、赤点どころか平均点もありえません。
完璧な理解とは100点がとれるということなのだから。

一般的な教育及びその評価システムは理解度(質)を保障するものではありません。
単に全員に同じ内容を同じ時間だけ指導した(量は担保された)というだけの話なのです。

ある単元の理解が不十分なために、得意教科に突然つまずく生徒は少なからず存在します。
たとえば「三角比」。正弦定理や余弦定理でつまずく生徒は少なくありません。
多くの場合(既に学習したはずの)分数の処理と方程式の理解が曖昧であることが課題になります。

著者がKhan Academyで実現しようとしているのは、まさに質の担保です。
そして、この思想はクリステンセン氏の「教育×破壊的イノベーション」に共通するものです。

これは非常に重要なアイデアです。
一人一人の理解のスピードは違いますから、こちらの方が合理的です。
しかし、(残念ながら)既存の学校制度を前提にすればこの発想に行き着くことはないでしょう。

参考:「教育×破壊的イノベーション」-教育問題の根本原因と解決案

社会的・政治的産物である現行教育制度の正当性

「民主主義は最悪の政治といえる。これまで試みられてきた、民主主義以外の全ての政治体制を除けばだが」

ウィンストン・チャーチル

(民主主義がそうであるように)教育も現在の姿が最善であるという正当性はどこにもありません。

いまや当たり前になった授業や学期や学年の長さ、一日何時限という区切り、学習内容の「教科」への細分化などは、いったいどのような経緯で誕生したのでしょう?(中略)当時は先鋭的だったK-12教育(初等・中等教育)のイノベーションの数々は、じつは十八世紀のプロイセンに端を発しています。ひげから帽子、行進のしかたまで、何もかもが堅苦しいあのプロイセンで、いまの基本的な教室モデルは発明されたのです。(中略)プロイセンの哲学者にして政治理論学者、この制度整備のキーパーソン、ヨハン・ゴットリープ・フィヒテは、制度の目的を隠そうともしませんでした。彼はこう書き残しています。「人に影響を及ぼしたいのなら、話しかけるだけでは足らない。その人をつくり変えなければならない。あなたが望む以外の意思決定をできないように」

世界はひとつの教室 「学び×テクノロジー」が起こすイノベーション

政治的な意図と経済的な制約とからスタートした現在の教育制度も、一定の成果を出したことは間違いありません。
しかし、学年の横割りや「教科」の縦割りは、あくまで「大人の事情」です。
それが改善できる(そしてより良い効果を得られる)のならば改善すべきものであるはずです。

「大人の事情」で”スイスチーズ”のように穴だらけにされた生徒の理解。
学校で学んだことを実社会に応用できない大人たち。
設備や人材といった資源を遊ばせている夏休み。
実に義務的な目的で課され、家族との時間を奪う宿題。

著者は現行制度の犠牲者をこれ以上増やさぬためにも、抜本的な解決策を描いていきます。

「世界はひとつの教室」

未来の学校は垣根のない「ひとつの教室」を中心にすべきだと私は思います。さまざまな年齢の子がいてかまいません。一方的な講義や画一的なカリキュラムに支配されることがなければ、それができない理由はありません。(中略)年上の生徒やできる生徒が、理解が遅い生徒を教えたりして、先生の助っ人をします。年下の生徒は、お兄さんやらお姉さんやら、いろいろなお手本に接することが出来ます。

世界はひとつの教室 「学び×テクノロジー」が起こすイノベーション

マイペース学習(完全習得学習)が可能になれば、学年・学級の垣根はなくせる。
著者は、ここで生徒同士のコミュニケーションが生じるというポジティブな面を強調しています。

年齢混合クラスの必然的帰結としてさらに提案するなら、生徒と先生の比率はそのままに、クラスを合併してはどうでしょう。(中略)ただ、二十五人の生徒と孤独な先生がひとりいるクラスが四つあるよりは、七十五~一00人のクラスに先生が三~四人いたほうがよくはないか、と思うのです。これにはいくつかの明らかなメリットがあります。

世界はひとつの教室 「学び×テクノロジー」が起こすイノベーション

教員はチームとして生徒の指導に当たり、それぞれの強み・弱みを補完しあうことが出来る。
これは現行の制度(そして学校という施設)から出発して思いつくものではないですね。

また、マイペース学習が導入されれば教科指導の時間は現状より削減できる、と著者は言います。
であるならば、そうしてつくった時間をより創造的なプログラムにあてることもできます。

 

僕はまだKhan Academyのプログラムを体験したことがありません。
著者の思想をジャッジするにはまだ早いかもしれませんが、実に魅力的な提案でした。

日本語翻訳プロジェクトもあるようなので、ちょっと試してみます。


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