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相手の「言語」を話すということ

カテゴリ:自分事

「変化の原理」を読んで印象に残っていたのが「相手の『言語』を話す」という表現だった。ブリーフセラピーの現場では、治療者はクライアントに具体的な指示を出す。しかし、その指示通りに動いてくれるかどうかは、そのクライアントに合わせて指示を出せるかどうかがポイントとなる。

教員が、学級崩壊の如く騒然とした教室で「先生の言うことを聞きなさい!」と大声で指示したところで、子どもたちがその指示に従わなさそうであることは想像に難くない。相手に指示をするということは、そのまま相手が指示通りに動くという結果を生み出すわけではもちろんない。

相手の「言語」を話すということ

相手の「言語」を話すということは、「話し手がどんなふうに世界を見ているのか丸ごと感じ理解しようとする」ためのアプローチの一つだと思う。「話し手を観察する」のではなく、「話し手の目から見える世界を見る」という試み。相手が意識するしないにかかわらず用いる言葉を大切に扱い、相手の話をそのままに受け取り、それを損なわなずに話す、という言い方がよいのかもしれない。

センスもあるのかもしれないが、自らの感受性を、相手の「言語」をきき、きき手の側もそれを用いるということに集中させるという意味では、かなり意識的な働きが強いのだろうと思う。僕自身、インタビューを幾つか実践してみると、出来不出来は置いておいても、そうして意識的にきこうとすれば、驚くほど消耗が激しいことを自覚する。

その意義

どうしてそんなことをわざわざしようとしているのか、を改めて考えてみた。僕が考えているメリットは例えば以下のようなものになる。

・話し手の「言語」を用いることが話し手の納得、「きき手はちゃんときいてくれている」という安心につながる。
・話し手が自分自身の「言語」を自覚し、これまで疑いもせず振り返ることもなかったこれまでの認識について深く考えるきっかけにつながる。
・話し手の言葉をきき手が理解した「つもり」になってしまうことを避け、謙虚な態度で話し手の言葉に耳を傾けることができるようになる。

これらの観点は「ひとのはなしを遮らず促すようにきく」ことを主要な関心としている。しかし、そこからさらに一歩踏み込んで「話し手の抱えている課題や悩み事を解決する」という段階になっても有効であると思っている。例えば、こんなふうに。

・話し手の文脈に無理のない形で介入(冒頭の言葉を用いるならば「指示」)することができる。
・話し手が「課題を解決できていない」状態を責めるのではなく、むしろそうした状態でありながら自分なりに課題に当たろうとする態度に目を向けることで、敬意をもって対応することができるようになる。

特に相談を受けるようなケースでは、相談をする側の方が立場が下になりやすい。そういうとき、敬意をもってきくことの重要性が増してくる。「どうせこんなことで悩んでるんでしょ」といった具合についついパターン化したくなるところをぐっと抑えないといけない。

その背景・人間観

というようなことを考えていると、なんとなく、ある一つの人間観のようなものが見えてきたのだった。単純に書くと、こうなる。

「ある人にとっては、その本人が最大の当事者である」

例えば「悩み事」にフォーカスしてみると、その最大の当事者であるということは、その「悩み事」について最も多くの情報量を有し、最も長い時間をかけて向き合い、最も試行錯誤(あるいは四苦八苦)している、ということ。その本人を差し置いて誰がその人の「悩み事」を解決できるのだろうか、というスタンス。

これは「解決に至れない本人に問題がある」という自己責任論につながる危うさがあるが、そういうつもりはない。相手の「言語」を用いながらコミュニケーションをとることが、相手は自分の認識をよりクリアに自覚する助けになるかもしれない。そうして真の問題が見えてくることで、本人が自らの力で解決できるかもしれない。この可能性を信じる、というニュアンスを強調したい。

人それぞれ世界をどう見ているのかは異なるという前提に立つことではじめて、きき手が自分の理解や考えを押し付けるのではなく、その当事者の言葉に耳を傾けることの意義に目を向けることができるのだと思う。

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カテゴリ:自分事

読書という趣味

僕は身の周りの人と比べればよく本を読む人間で、
読む本の種類も、偏りはあれど幅広い、というささやかな自負があった。

「なぜそんなに本を読むのか?」

僕の蔵書にある類の本を普段あまり読まない人、
またはそもそも読書が趣味ではないという人からたまにそう聞かれる。

「本がつながっていく感覚がたまらないから」

例えばそんなふうに答える。
これは実際に僕が今のような選書のスタイルをとりはじめた経緯でもある。

読み終えたときに次の関心や参照すべきテーマが見えてくれば、
あとは引用や参考図書の欄だろうが、誰かのブログだろうが、
その関心やテーマに沿った本との出会いを待てばいい。

興味・関心がホットであれば出会い頭に購入するし、
とりあえずストックしておいて、ふと思い出したときに買う、ということもある。
一度ストックしておいた本に、また別の文脈で再会するのも嬉しい。
そうして時機の熟成を待つという楽しみ方もあったりする。

知識としての記憶、理解としての記憶

たいていの場合、本の内容についての記憶はほとんど残らない。
特に知識として残っているものは断片的で、
サマリーとしてのぼんやりとした理解しか残らないことが多い。

知識として残すためにはもちろんそれなりの作業が必要で、
一冊一冊にそれだけの時間を投入していないのだから、
残っていないのは当然で、それでよいと思っていた。

ところが、ここ数日は自信が持てなくなっている。
理解に偏った読み方をするとわかりやすく都合がよい情報しか残らない。
それは今まで読んできた本の価値を損ねることになりかねず、
自分の中のストックにならない行為ではないか、と。

ブログに書評を残す意義

それでも何らかのインプットの軌跡として、
ブログに書評のようなものを書けるものなら書く努力はしていた。

しかし、自分の書評記事を読み直すと、
いかにその本を自分なりに解釈するかに関心が向いているように思える。

もしかするとその本自体を知識として身の内に収め、
著者の言わんとすることに真摯に向き合っていないという見方もできる。

結局のところ、本のエッセンスを読み解くことにばかり気を取られ、
一語一語、一文一文を軽視しているのかもしれない。

抽象的思考の果てに

つまり、いかに具体の事柄を抽象化するか、にだけ目がいっている。

思えば、小学生の頃から人の話を最後まで聞くということが苦手で、
2割だけ聞いて全体を推測し、サマリーだけ頭に収めるという
雑な授業態度をとっていた自覚はある。それは今でもあまり変わらない。

事物のエッセンスを抽出することには熱心だから、
無関係な事柄の共通性を無理やり見出してつなげる、という芸当は得意だ。
素養としては「アイデア出し」や「デザイン思考」に適性があるはずなのだと思う。

選書の方法も、抽象化の産物である、と思う。
あまり人が手を出さないような書籍も本棚に並んでいるのはそのせいだ。

抽象的思考偏重は、僕の中で限界を迎えつつある。
ストックが蓄積される実感がだんだんと持てなくなり、
出会ったものにはすぐにグルーピングやラベリングをしたがる。
目の前の具体のものから得られる情報量も減っているかもしれない。

世界を新鮮に見る姿勢に欠けるのは、僕自身の責任によるものなのだ。

4. “同じ”にするとは抽象化するということ

 人の”同じ”にしてしまう能力はいわゆる”抽象化”という言葉で表現できる。抽象化とは対象から重要な要素を抜き出して他は無視すること。人は抽象化によって、あらゆる物や現象に対応する言葉を作ってきた。世界に全く同じ物や現象は存在しないが、それら個々の小さな差異を無視する(抽象化)ことによって言葉が生まれる。

鈍感な人は抽象的な思考ができる人 – Floccinaucinihilipilification

まさに僕のことを言っている、そう素直に受け取った。

抽象化の罠から抜け出すために

西村さんが「かかわり方のまなび方」の中で、「風姿花伝」という本に触れている。

この本は明治42年にある大学の教授によって現代語に直され、以来多くの人に読まれるようになった。が、それ以前は秘本で、能のお家元の人たちも若いうちは読むことを許されなかったという話を以前聞いたことがある。歳月を重ね、芸については十分研鑽したと思える頃になって初めて紐解く。そんな書物だったようだ。
秘本とされていた理由は何だろう。経験が十分でないうちに他人が整理した言葉や視点、価値観や要所を得ると、むしろそこで失われてしまうものがあるということ。たとえ内容が本質的で真理を突いていて、きわめて普遍性の高いものであっても、他人の言葉を通じて知ることと、自分の経験を通じて感じ、掴み取ってゆくことの間には大きな隔たりがある。場合によっては、それは損失にもなりかねないということを、あの書物を受け継いでいた人々は重視していたんじゃないか。

かかわり方のまなび方: ワークショップとファシリテーションの現場から

抽象化思考の危うさを感じ始めている今、この文章は胸に刺さる。

実際に体験したことからはテキストの何倍もの情報量を得られる。
もしかしたら洗練された言葉に比べてノイズが多いかもしれない。
だからこそ、プロセスとしての抽象化にリアルな厚みが出てくるし、
抽象化自体の精度が上がるような道程をたどれるとも言えるだろう。

「もやもやした体験」は、語られることで他人と共有され、社会化され、意味がはっきりしてきます。ここでは私は、「体験」という言葉と「経験」という言葉とを区別して使っています。「体験」→「経験」の間に「語る」という作業が入ることによって、語る相手の人と共有されるのです。「体験」は、まだ自分だけのなかに留まっています。それは、誰か他人に語ることによって他人と共有される「経験」になります。他人に語るということは、他人に自分の「体験」をわかってもらえるように語らないといけませんね。そこには、他人に伝わるように、わかるように語ることによって、自分の「体験」を他者と共有し、社会化していくという意味が含まれます。相手にわかるように語られてはじめて「体験」は「経験」になるわけです。

カウンセリングを語る―自己肯定感を育てる作法

高垣氏がいう、「体験」→「経験」の見立てにも通ずるものがある、と思う。
抽象化されたテキストとは、自分の内から言語化された「経験」ではなく、
「体験」を経由していないという意味で借り物のの言葉にならざるをえない。

読書であっても、それを体験として素直に受け止めること、
あるいは受け取れなかった際の違和感を大事にすること、
そんな些細なところに抽象化の罠を避けるヒントがあるように思う。

世界から受け取る情報をはじめからフィルタリングしている場合じゃない。
そう思いながら、少しずつでも日々の彩りを自ら取り戻していきたいと願う。

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知らないということ、或いはみかん1つ分のずれについて

カテゴリ:自分事

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「みかんがたくさん届いたので、よかったら自由に食べてください」

同僚が差し出した段ボールの中にはたくさんのみかん。

少し考えて、僕は言った。

「…じゃあジャムづくりに挑戦しましょうかね。」

「…いいみかんなので、ジャムにするには勿体ないです…」

みかんは「消費が大変なもの」では必ずしもない

ここまで読んだ方は同僚の発言をもっともだと思うのだろうか。

僕がジャムをつくると発言した理由は単純で、
みかんのように酸味があるものがあまり好きではないから。
ジャムにすれば自分でも美味しく大量に消費できる、という発想だった。

振り返ってみると、ここから同僚との間に2つのずれが生まれたことが分かる。

まず、僕はみかんを「消費するのが大変なもの」と捉えていた。

みかんを好んで食べない僕の元に突然みかん箱が届いたとしたら。
きっと「どうやったら食べきれるのだろうか」と途方に暮れるに違いない。

同僚がみかん箱を差し出したとき、
「これは食べきるのが大変そうだ。消費できるよう手伝うべきかも」
というようなことを無意識に考えたのだと思う。
だから、ジャムづくりを提案したのだ。

しかし、残念ながら(?)同僚はみかん好きだった。

みかんを価値あるものとみなせるかどうかの違い

質の良い果物はそのまま食べるべきという発想がなかったというのもある。

当たり前に考えたらその通りかもしれない。
高級な肉であればきっと素材が活きるように食べるはずだ。

しかし、大量に送られてくるような果物に対して、
それが貴重である、質の良いものだから美味しく食べるべき、
フツーはそういうふうに考える、という認識が欠如していた。

結局は「みかんが好きではない」で済む話なのだが、
そのことによってコミュニケーションのずれが起きるとは思っていなかった。

ずれから何を学ぶのか

ほんの数秒のやり取りにこれだけの文章量を割いたからには、
何かしらの学びや気づきを最後に盛り込まないわけにはいかない。
些細なプライドをもってこの記事を結んでいきたい。

1.価値を見いだせないものから学ぶことは難しい

自分が特に関心を持たないものから価値を見出すのは難しい。
価値がない、琴線に触れないと判断したから関心を持てないのであって、
意識的に注意深くなれない限り、価値を発見する機会には恵まれない。

僕はみかんを食べる”作法”を知らなかった。
関心を持たないということの結果が無知なのかもしれない。
常識がないという自覚はあったが、こんな形で露呈するとは予想外だった。

2.相手がずれに気づいてくれるわけではない

恐らく同僚は、僕がこのような思考過程をたどっていることを知らない。
みかんに対する同僚の捉え方はたぶん一般的だろうし、
したがって彼女が自分の視点の検討を迫られるケースは稀だろう。

僕自身も、「この考え方はフツーとはずれているんだな」と感じたからこそ、
こうした回りくどいプロセスによって捉え方を言語化するに至った、と思う。

 

というわけで、日常に占める「相手に頼る」コミュニケーションの割合は、
思った以上に多い、ということを改めて悟ったのだった。

ここから先、どう改善につなげるかはまた今度の課題としたい。

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