摩擦は避けていく

カテゴリ:自分事

昨年4月から実家の売り酒屋に戻り、ノンアルコールドリンクの販売を本格的に始めた。コロナ禍の追い風もあって「ノンアル流行っているらしいね」というくらいの認知が広がったおかげか、細々と売れている。

「ノンアル」とわざわざ銘打って扱っているところは秋田県内にはほぼないようで、新聞やラジオの取材、新製品の相談、出店依頼、コラボイベントなど、お誘いを受けることが度々ある。今のところの規模ではどうやっても大儲けはできないが、他人のバスに乗せてもらってじわじわと認知度を上げさせてもらっている。

とはいえ、酒販店としてあくまで主力は日本酒であり、ノンアルコールドリンクの売り上げなど比べるべくもない。店舗としてはうまくランディングして定着はしつつあるが、成功したとはとても言えない。

それでも、周りからは「すごいね」「がんばっているね」「忙しいんでしょ?」と言われることがあって、いつも内心気まずさがある。

正直なところ、大して頑張ってはいない。料飲店向けの営業とか、SNSの定期更新とか、イベントやセット商品の企画とか、ビラ配りとか、やった方がいいことをやっていない。

そもそも努力というものが苦手だった。できる限り楽で、それでいて成果が出せることしかやらない。子どもの頃からずっとそうで、RPGのレベル上げやボス戦の攻略を考えるのが苦痛でクリア前に放り出すのはよくあること、大学受験すらも、勉強は確かにしたけれど、そこに必死さはなかった。ほどほど、やれるだけしかやっていない。

努力というものは、はじめはうまくいかないことでも、うまくいくまで試行錯誤を繰り返し、成果を獲得するプロセスだと思っている。僕の場合、「うまくできそうにないな」と思ったら手を付けない。つまり努力が必要な事柄にはそもそも取り組まないということになる。

そもそも負けが嫌いなのだ。「負けず嫌い」は勝つまで頑張ると思うが、僕は「勝ちたい」より「負けたくない」が強いので、負ける恐れのある勝負は避ける。実力を高めるために負けを繰り返すなんて耐えられない。

ついでに、無駄や非効率も大嫌いだ。秋田の学力日本一を支えると言われる「一人勉強ノート」(と当時は呼ばれていた)を提出した記憶がほとんどないのは、わかりきった内容を自宅でわざわざやる必要を感じられなかったからだと思う。

そういうわけで、これまで自分は随分と楽をしてきたという自覚へと結びつく。一方で、努力ができない自分であるというのは根深いコンプレックスにもなる。

技術を磨き、創意工夫を重ね、こだわり抜いた逸品をつくりだす職人の働き。コミュニケーションを絶やさず、決して諦めず、信頼を重ね、合意形成を練り上げていくような働き。

素晴らしい仕事には、努力を伴う働きがつきものだ。僕はそれができない。

何か一つのことに打ち込むことは苦手で、飽きっぽく、諦めやすい。100点を目指すのはしんどく、70点の合格ラインに到達できればよしとする。

とはいえ、それはそれとして、仕事社会では重宝されるのは実感としてある。

強いこだわりがないので、その場にいる誰もやりたがらないこぼれ球を拾い、とりあえずぎりぎり運用に耐えるところまで持っていくというのは得意なムーブの一つ。

これまではそもそもニッチな業界に属していたから、凸凹のはっきりした専門家が多く、広く浅くできる人はあまり多くない。また、努力家が多く、僕のように楽をしたいのは珍しい。足を踏み入れた当時はそこまで考えているつもりはなかったが、振り返ってみると、ポジショニングの良さだけで結果的に仕事ができてしまう状況をうまくつくっていたなと思う。

できるだけ楽をして、見かけ上は機能しているハリボテのような僕の仕事を引き継いだ専門家が、過去の遺物をさっさと壊してより洗練された仕組みを整備するところまでがお約束だ。

ノンアルコールドリンクを始めたのも、ある種の「楽」さを見出したからではないか、と自分のことながら思う。自分自身が飲めないことで一人のユーザーでいられること、ノンアルコールペアリングを提供する店が出始めたこと、「クラフト」の概念がビールやワインからノンアルコールの領域へ派生しつつあったこと、海外でのsober movement、そして周りで着手している人がほとんどいないこと。諸々の条件が整っていたように思えた。

今の状況があるのは努力のおかげではなく、楽を積み重ねた賜物だ。僕より良い働きをする人はごまんといるが、そういう人がまだおらず、摩擦もほとんどなくするっと入れるポジション取りをする。

ノンアルコールドリンクを商売に取り入れるとはいったものの、具体的なビジョンはない。アキモト酒店は日本酒をはじめコンセプトに沿ったラインナップで総力戦をするスタイルなので、ノンアルコールドリンクはその一角を担ってくれればそれでいい。

商品開発をしたい人がいれば、できる限り(楽ができる範囲で)協力はする。でも自分で作る気はあまりない。落としどころを自分で決めることが求められる果てしない商品開発というプロセスは、自分には向いていない。やりたい人がやった方がいい。

人間関係もそう。摩擦を避けるなら、はじめから人と関わらないのが最も都合が良い。自分が楽をできるのが重要であって、なにかのきっかけで仲違いや不和が生じたとしても、努力を要するなら関係改善などせず、その時点で離れる。

いつまでたっても「これは自分の仕事」と胸を張れることはないのだろうけど、人の踏み台になるような働きをしてなんとか生きていけると良いのだけど。

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根に持つ

カテゴリ:自分事

自分というものの社会的な側面、「役割」をはがされた後に残るものなどあるのだろうか。

前回の記事を書いてから少し時間が経ち、改めてその根底となった問いを見つめてみると、ある前提に気づく。

役割をはがしきった後に残る、「本当の自分」なるものの存在。

そもそも、「役割」をはがし切る、というのはどういうことなのだろう。

家族、仕事、友人、恋人、趣味、地縁。普通、人は複数のコミュニティに所属し、それぞれのコミュニティで「役割」を持っている。

「役割」は自分と他者の接点となり、他者はそのインターフェースを通して自分というものを見る。他者がある人のインターフェースの全てと接点を持つということは普通は想定できないから、他者から見る自分には常に見えている部分と見えていない部分があるはずだ。

逆に、他者が「役割」を完全にはがした自分と接点を持つ、ということはありえるだろうか。人と人が接するとき、インターフェースとしての「役割」を介さないコミュニケーションというものが成立することは、あるのだろうか。

「役割」を前提に置いた以上、たとえば仕事仲間から友人へと関係性及び役割が変化・付加されることはあるにせよ、あらゆる役割から解放された関係性というものは、どうしても考えにくい。

そうなると、「役割」が剥がれ切った後に残る自分自身の空虚さに対する恐れというものは、誤った捉え方に基づいていた、と言える。

もしかしたら、単純に、得意な「役割」と苦手な「役割」があり、関係性の変化によって苦手な「役割」を演じる事態になることを恐れているのかもしれない。

その根底には、学校という社会にうまく馴染めなかった、という認識がある、と思う。「ともだち」という関係性は、僕にとって、いつもふわっとして落ち着かないものだった。

休み時間を共に過ごしたり、学校外で一緒に遊んだりしていても、何となく、他人に気を許せない自分がいた。表面上は楽しく過ごせていても、ともにいる時間が長いだけで、深くかかわれている実感がなく、どこかで自分が見限られるという不安もぼんやりと感じていた。

「気を許す」という単語を出してみたけれど、そういえば、僕は「許す」ことを今までしたことがないかもしれない。

プロジェクト学習や就活の自己分析の文脈でよく用いられる人生グラフ(モチベーショングラフ、人生曲線などの呼び方も)というワークがある。

初めてそのワークを体験した時、僕は制限時間の中で小学校を卒業することができなかった。大半の人が、自分のことをテンポよく振り返りながら、現在に至ったキャリアの転機くらいまでは到達できるというのに。

「あ、僕は、根に持つ人間なんだ」

あんなこともあった、こんなこともあった、と、幼稚園や小学校の頃の記憶がずらずら出てくるし、それはだいたい自分にとって都合の悪い記憶だ。人は嫌なことはすぐ忘れるというけれど、そんなことはないと思っていた。

みんな、嫌なことなんて、忘れているか、きっかけでもない限り思い出せないのだろうけれど、僕は少しの努力で思い出すことができる。それは、裏を返せば、過去のネガティブな記憶に僕自身が固執しているということかもしれない。

自分がしでかしたこと。他人にされて嫌な思いをしたこと。その記憶に関わる人たちの誰もきっと覚えていないようなことでも、僕は未だに根に持っている。

一度根に持ってしまうと、それを撤回することができない。そうして、その時点で関係性を終えてしまう。思い返すとそんなことばかりだったし、「よりを戻す」など僕にとっては想像も及ばない領域の行為だ。

根に持つといっても、そこに至るまでの閾値のようなものはある。根に持ったら「許す」ことはできないけれど、「許容する」ことで、根に持つまでには至らない。許容度は、特に仕事をしていく中で、社会に適応し「役割」を果たしていく過程で、後天的に身に付けたものだと思う。

根に持つのは、他人に対してだけではないかもしれない。自分がしでかしたミス、誰かを嫌な気持ちにさせた言動、不注意でさらした恥……。苦い記憶が今もなお残っているのは、過去の自分を未だに許せていないからだろうか。

こういう性格なので、”やらかした”人が未だにその会社や組織、土地に居座り続ける様子は、なかなか腑に落ちないでいた。周りからの目線とか、自分自身の羞恥心と折り合いをどうつけているのだろうか。

ところが、僕には「面の皮が厚い」と思えるような状況でも、周囲はそれなりにいつも通りに接していて、日常は少しの歪みを伴いながらも大きく変わることはあまりない。

他の人は、何らかの落としどころを見つけて許すことができているのだろうか。それとも、許したわけでもなく、それでも関わりを続けていくつもりなのだろうか。

相手に対して許すことができないでいるならば、これまで果たしてきた「役割」に変更を加えざるを得ない、という考えがどこかにある。関わり方が変わること自体が、自分にとっても、相手に対しても、どこか後ろめたい感じがして、できるだけそうした事態を避けたいのかもしれない。

後ろめたさを感じて関わり続けるくらいなら、できるだけ関わらないようにしたい。そういう気持ちがあることは、否定しがたい。

誰かと関わり続けることにこだわりや意志がないのかもしれない。うまく関われないという事態から目を背けたいのかもしれない。

結局、自分にとって都合の良い関係を築きたいだけで、そうした自分の「都合の良さ」にも嫌気が差して、それならばいっそ他人と関わるのは最低限にしたい。

それが一つの本音だろうな、と思う。

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演じるべき役割が見つからないとしたら

カテゴリ:自分事

ユング心理学にペルソナという考え方があるそうだ。ペルソナとは人が外の世界に向かって見せる顔、場面に応じて演じる役割のこと。正しく理解してはいないけれど、「役割」にフォーカスしてこれまでを振り返ってみると、現状を把握する切り口のようなものが見えてきた気がした。

このブログでは報告していなかったけれど、2020年4月から実家に戻っている。それまでは秋田でフリーランスのように複数の仕事を抱え、場面場面で求められる役割を自分なりに使い分け、役割を果たそうとしてきた。

実家に戻った今では、その役割がほぼ一つに集約されつつある。そうして気づいたのは、自分が仕事以外に役割をほとんど持っていない、ということだった。

より正確に表現するならば、仕事以外の場面では、自分がどんな役割を演じればよいか、うまく把握できない、と言えばよいだろうか。それは今に始まったことではなく、たぶん、物心ついた時から、基本的には変わっていないように思う。

学校は、僕にとって、役割をうまく見出せなかった最たる場だった。そのときどきで同級生や先輩・後輩、先生とコミュニケーションをしてきたからには、何らかの役割を見出していたはずだが、その役割を果たすことにしっくり来ていた実感がない。

一方、社会人になってから、仕事という場面では、役割に迷うことも、違和感を感じることも、それほどはなかった。就職活動中から、なんとなくその未来が見えていたのか、「働いたら負け」みたいな感覚はほとんどなかったように思う。

その仕事に対しても、自信を失ったことはあった。それは、今思うと、役割が見いだせない不安ではなく、役割を果たすだけのスペックがなければ役割を失ってしまう、という不安からだった。

その不安は、仕事を通じて、役割をとりあえず果たせているという感触を通じて、少しずつ解消された。もちろん、至らないことはたくさんあったし、周りと比べれば自分の働きなど意味がないように思えることばかりだったけれど、仕事を通じてどんな役割を演じるべきか、どう演じたらよいかは、だいたい把握できていたように思う。

役割を演じられそうな現場、役割がありそうな現場を選んでいた、という面もある。それはそれで、自分なりの強みのようなものかもしれない。仕事を離れる決断をしたときには、そろそろ役割を終えそうな予感を感じ取っていたようにも思う。

ところが。これまで担ってきた役割の諸々から離れ、実家に戻ってきてみると小売業というほとんど未経験の現場で、さらにコロナ禍に出鼻をくじかれてしまったこともあってか、僕は自分の役割を上手く見定められないでいる。

役割が複数あるということは、社会との接点がその分だけあるということ。役割が絞られたことで、これまで接してきた人とのつながりは、過去の仕事の文脈でなく、今の仕事を前提とした関わりに変わっていく。

以前仕事を共にした人から、今度は酒販店として注文を受ける。それはとてもありがたく、ときに恐れ多いとすら思えるけれど、関わりの在り方は多様ではなくなったし、僕自身からも、自分から外へとつながるモチベーションの源泉が、限定的になっていくような印象がそういえばあった。

もちろん、今の役割だからこそ可能な、新しいつながりというのも生まれている。でも、社会とのインターフェースが、それしかない。

実家に戻ったことで、地域社会との接点を家族に任せられるようになったということも、一つの要因ではあるかもしれない。一人暮らしならば、大なり小なり、接点を持たざるを得ない。それが地方であればなおさらだ。

結局、これまでずっと働いてきて、仕事以外での役割はほとんど見い出せず、見出さずとも生きてこれてしまった。もはやほかにどんな役割を演じればよいか検討もつかないし、演じたい役割がそもそもイメージできない。

春先から、実家の仕事とは別に、社会事業分野に自ら首を突っ込み始めたのは、こういう状況があったからかもしれない、と今更ながら思う。首を突っ込めば巻き込まれるのは明らかだったが、それでもわざわざ関わり始めたのは、そこに演じられる役割があることを察知してしまったからだったのだろう。

演じたい役割を選んでいるのか、というと、そうではないのかもしれない。自分が演じられそうな役割があっただけ。あるいは、演じたいとどこかで思っていても、演じ方を見出せそうになければ、自分とは関係がないものと処理してきたのかもしれない。

演じられるかどうかが自分にとっては大事で、それは過去に(主に学校社会で)上手く演じられなかったことと深く関わっているように思えるが、恐らくそのことによって、僕は他人への関心をほとんど持たないようになった。

「あの人と関わりたいか」ではなく、「自分が関われるかどうか」に注意が向いている。誰かではなく、自分に向けたベクトル。知り合いは増えても、友達は一人もいない。

「役割」について考えるにつけ、自分というものからすべての役割がはがされたときに、そこには空洞しかないのかもしれない、というイメージにたどりつく。

自分が仕事という場面ですらも役割を果たせないのではないか、という不安に駆られた大学4年生の頃を思い出す。

インターン先で一人静かに挫折を経験し、ある朝無断欠勤して、そのままバックレようとした矢先、お世話になった人事の方が自宅を訪ねてきた。

「とにかく、どこかでお茶でもしないか」と言われ、貧乏学生には縁のない近所のロイホに場所を移す。そのときの会話はまるで覚えていないけれど、自分が発した言葉だけは記憶にある。

「僕は、鎌倉の大仏みたいな人間なんです」

あんなに立派で大きいのに、中は人が入れてしまうほどの空洞。インターン先に採用された時点から、自分の中身以上に外見が評価されたという感覚が残り、なんとか自分の中身を実のあるものにしなければ、と、道筋も見えないのにもがいていた。その必死さゆえに、小さなミスの積み重ねをきっかけに、簡単に心が折れた。

それから、紆余曲折を経て、中身はともかく、仕事という場面で役割を演じることはできそうだ、という感覚を得て、何とか今に至っている。

でも、結局、中身が伴っていないことには変わりがない。役割をはがされたとき、きっとそこには、どこにも行けない自分がいるのだろう。定年退職した途端に自宅でごろごろするしかなくなったお父さんたちみたいに。

自己評価と周囲の評価にギャップを感じ、実は中身がないことがいつかバレて見放されてしまうのではないかと不安に思う。そういう傾向を「インポスター症候群」と言うのだそう。女性に多いそうだけれど、関連の記事を読むと、それなりに思い当たる節がある。ということは、何らかの克服の手段もありそうではある。

しかし、克服できたとして、どんな変化が待っているのだろう、と思い巡らせど、実のところ、その先がイメージできない。未来が見えない、お先真っ暗というよりも、未来の”像”が描けない。行きたい方向がない。それが現状だ。

もし明日死ぬとしても、やり残したことも、行きたい場所も、会いたい人も、思い浮かばない。かろうじて食べたいものならありそうだけど。

インポスター症候群なのか何なのかわからないけれど、克服したところで、行き場がないことには変わりがないように思う。十数年もかけて、結局、あの鎌倉の大仏に戻ってきてしまった。しばらく、ここで立ち止まることになりそうな気がしている。

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