Category Archive: 読書の記録

古代の蝦夷と城柵-蝦夷文化の形成をたどる(2)

カテゴリ:読書の記録

1つ目の記事はこちら:蝦夷観念について
3つ目の記事はこちら:古代王権の対蝦夷政策について

蝦夷文化の形成~南北の交流~

蝦夷文化の形成期にあたる三~七世紀には、蝦夷の主要な居住地である東北北部を舞台に、南北両世界の異なる文化が盛んに接触、交流し、この地域に独自の文化が形成されてくる。それこそが蝦夷文化の中核となるものであったと考えられるのである。それは端的にいって、北方世界の続縄文文化を基本としていた人びとが南方世界の倭人文化を摂取しながら自らの生活文化を変革し、新たに創り出した文化であったといってよい。

古代の蝦夷と城柵 (歴史文化ライブラリー)

蝦夷文化の形成の特徴として、南北の文化の交流・融合があります。
南方の倭人文化が東北地方に伝わる以前は、蝦夷の主な居住地である東北北部は続縄文文化の影響下にありました。
ちなみに、弥生文化の主な特徴である稲作については、東北北部で一時的に広まったものの、その時点では定着していません。
当時は北方、つまり北海道から伝わった、狩猟・採集を生業の基本とする続縄文(※1)文化の影響をむしろ強く受けていました。
(なお、東北南部以南では弥生時代から稲作が定着しており、古墳文化への移行もスムーズだったようです)

南北世界の文化が混在する様子を、著者は「土器」と「墓」について注目しつつ解説します。

まず土器について。
三世紀の遺跡である寒川Ⅱ遺跡(秋田県能代市)からすでに弥生時代末期の壺と甕が出土しています。
四世紀代とみられる永福寺山遺跡(岩手県盛岡市)でも、続縄文系の土器にまじって弥生時代終末期の赤穴式や古式土師器の塩釜式と認められる土器が出土しています。
これらのことから、土器については早くから南方文化の影響を受けていたことがうかがえます。
この傾向は五世紀以降さらに顕著になります。
五世紀の森ケ沢遺跡(青森県天間林村)では北大式(※北方の土器)の甕や片口とともに土師器・須恵器が出土しており、両者の比率はほぼ半々となっています。

一方、墓制については土器ほど早くから南方の影響を受けたわけではないようです。
古墳文化の中心的要素である前方後円墳などの高塚古墳について注目してみましょう。
日本海側の海岸部では信濃川下流域の越後平野、同内陸部では米沢・山形盆地、太平洋側では宮城県の大崎平野が高塚古墳の北限と言われています。
これより北では高塚古墳がきわめて例外的にしか存在しないそうです。
このことから、古墳文化の土器は取り入れつつも、従来の土壙墓という墓制を維持していた様子が伺えます。

さらに、擦門(※2)前期に注目してみましょう。
この時期、北海道では伝統的な土壙墓が継続される一方、東北北部では末期古墳と呼ばれる独自の墓制が出現します。
末期古墳は続縄文文化の墓制を基礎としながらも、古墳文化の強い影響を受けて出現したと著者は見ています。
南方文化を取り入れつつ、平安時代に入ってもなお独自の墓制を維持していた東北北部の暮らしが垣間見えます。

退屈な話題ではありますが、要するに東北北部は南北両方の文化が入り混じった地域であった、ということです。
東北北部の蝦夷たちは、南北いずれか一方の文化圏に属するのではなく、両文化の要素を摂取しながら、独自の文化を創り上げていたのです。

ここで重要なのは、両文化の影響を受けていたということは、取りも直さず両文化圏との交流が盛んであったという点です。
たとえば、東北北部の末期古墳から副葬品として和同開珎が出土した例があります。
これについて著者は、「東北北部の蝦夷が律令国家と一定の政治的関係を有していたことを示すもの」と見ています。

続縄文文化、そして擦文文化の主要地であった北海道-北方世界。
弥生文化、そして倭王権の古墳文化の影響下にあった東北南部以南-南方世界。
これらに挟まれ、両方の影響を受けながら独自の文化を形成してきた東北北部-蝦夷の世界。

この構図を頭に入れながら、次回の記事では倭王権の蝦夷政策である城柵や移配について触れていきたいと思います。

※1
続縄文時代(ぞくじょうもんじだい)は、北海道を中心に紀元前3世紀頃から紀元後7世紀(弥生時代から古墳時代)にかけて、擦文文化が現れるまで続いた時代で、続縄文文化に対応する。縄文時代から引き続くものとして山内清男により名づけられ、実際に連続する要素は多い[1]。 南部に恵山文化、中央部に江別文化、その終末期(5 – 6世紀、古墳時代中期から末期)の北大文化など、内部には地域と時代により異なる文化が含まれる。Wikipediaより引用)

※2
擦文時代(さつもんじだい)とは、7世紀ごろから13世紀(飛鳥時代から鎌倉時代後半)にかけて北海道を中心とする地域で擦文文化が栄えた時期である。本州の土師器の影響を受けた擦文式土器を特徴とする。後に土器は衰退し、煮炊きにも鉄器を用いるアイヌ文化にとってかわられた。Wikipediaより引用)

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古代の蝦夷と城柵-蝦夷文化の形成をたどる(1)

カテゴリ:読書の記録

あけましておめでとうございます。
1月も半ばが過ぎましたが、ようやく新年最初のブログに着手しました。
2012年は25冊ほどしか本が読めなかったので、2013年は目標50冊、最低でも40冊は読みます。

さて、今年最初に紹介する本はこちらです。

懲りずに蝦夷本です。
学術的な本なので宮本常一氏の大胆さはありませんが、さすがに手堅い。
本記事では特に気になった点を中心にまとめていきたいと思います。

2つ目の記事はこちら:蝦夷文化の形成について
3つ目の記事はこちら:古代王権の対蝦夷政策について

“蝦夷”という「観念」

「蝦夷(エミシ)」とは、古代東北・北海道の住民がみずからをよんだ呼称ではない。古代国家がその支配領域の辺境にあたる列島の東北方に住む人びとを一括して名づけたよび名である。蝦夷論の根源的問題は、まさにここにあると思われる。

古代の蝦夷と城柵 (歴史文化ライブラリー)

宮本常一も「日本文化の形成」の中で触れていますが、「蝦夷」とは倭王権(大和政権)が名づけた呼称です。
蝦夷研究に用いられる文献資料はすべて倭王権が残したものであり、そこで描かれる蝦夷の実態は蝦夷自身が語ったものではありません。
ここに蝦夷研究の問題があると著者は主張します。

すなわち「蝦夷」という概念それ自体は、王権が自己の側から見て”王化”にしたがわない異質の民であるとみなした人びとを、一定の政治的意図からよんだ呼称なのである。その目的は大きくいって二つあった。一つは、日本の古代王権が僻遠の地の”化外の民”をしたがえた”小帝国”であることを内外にわたってアピールすることである。のちにみるように、古代王権は唐に対してさえそのことを主張したことがあった。もう一つは、蝦夷をことさらに野蛮視、異族視することによって、古代国家によるその支配を正当化しようとしたことである。「蝦夷」概念は、一義的にはこのような政治的意図から古代国家によって構築された政治的イデオロギーであった。

古代の蝦夷と城柵 (歴史文化ライブラリー)

王権がいうところの「蝦夷」とは王権に都合のよい「蝦夷」であって、実態に即しているわけではありません。
実際、蝦夷を極端に野蛮な集団として捉えていることが見て取れる記述が『日本書紀』の中に幾つもあります。

しかしもう一方で、蝦夷は古代王権とたえず接触、交流があり、王権の側からすれば、支配、同化されるべき存在であった。このような王権による支配、征討、あるいは民間レベルでの交流といったかたちでの蝦夷との不断の接触は、いやがうえでも王権や一般の人びとに蝦夷の実像を認識させる契機となった。何よりも、蝦夷の実態の正確な把握なしには、古代国家が彼らを安定的に支配したり、彼らとの戦いを有利に導くことは不可能であった、ということを想起すべきである。こうして蝦夷観は、蝦夷の実態を一定程度反映するものにならざるをえないのである。

古代の蝦夷と城柵 (歴史文化ライブラリー)

かといって王権の側の文献資料がまったくもって実態を反映していないわけではありません。
支配される側の実態を把握することは支配する側の王権にとって不可欠であったからです。
また、この後にも触れますが、蝦夷と古代王朝の接触・交流の事実を伝える史料・資料は多数見つかっています。

「エミシ」という言葉は例えば四七八年に倭王武から南朝宋の皇帝に差し出した上表文に登場しますが、このときは「毛人」という表記でした。
これは、中国の東北地方には全身に毛の生えた人びとの住む「毛民国」があるとされるという『山海経』からの引用であろうと言われています。
この表記を見る限り、エミシは多毛な人たちであったことが見受けられ、蝦夷観が当初から異相性を含んでいたことを示唆します。

その後は「蝦夷」の表記が定着します。
「蝦」はえび。つまりひげの長さを示し、「夷」は王化に従わぬ民を指します。
八世紀以降の史料には「蝦夷」が長鬚もしくは多毛であると考えられていたことを示す記述がほとんど見られなくなりました。
外見でもって蝦夷を異質のものとする観念は途中で消滅してしまったことが伺えます。

『日本書紀』景行紀四十年七月条には蝦夷の習俗として

「男女交り居、父子別無し。冬は穴に宿ね、夏は樔(す)に住む。毛を衣、血を飲み、昆弟相疑ふ」

と書かれています。いかにも野蛮人という記述ですが、漢籍にも類似の表現があるので実録的とはいえません。
また、『日本書紀』延暦二十一年(八〇二)等には蝦夷を「野生獣心」と記しています。

王化にしたがわない蝦夷は、”野生獣心”でなければならないし、彼らが”野生獣心”の異俗の民とみなされるからこそ天皇が主体となっておこなう支配も征討も正当化されるのである。

古代の蝦夷と城柵 (歴史文化ライブラリー)

これこそが王権の「蝦夷」観念であり、政治的イデオロギーの表れといえるでしょう。

次回は蝦夷文化の形成を探る上でかかせない、南北世界の交流についてふれたいと思います。

関連する記事

日本文化の形成(宮本常一著)(2)-蝦夷をつくった国家について

カテゴリ:読書の記録

前回の記事では宮本常一の語る蝦夷論を紹介しました。

この記事では、蝦夷という存在をつくりあげた国家のルーツについて宮本常一の論を追いたいと思います。

稲作をもたらしたものと武力国家をもたらしたもの

つまり私のいってみたかったのは弥生式文化と古墳文化はおなじ大陸からの文化でありながら、その渡来の経路が違っていたのではなかったかということである。そして弥生式文化というのは稲作をもたらしたものではあったが、ほとんど武力をともなわない文化であった。
(中略)
しかし朝鮮半島を経由して来た文化は武力的な要素をたぶんに持ち、武力による国家統一を進めていった。『日本書紀』にあっては、神武天皇以後の歴史は武力統一の歴史であるといってよい。

日本文化の形成 (講談社学術文庫)

著者の結論を先に紹介しました。
僕自身、邪馬台国(=弥生式文化)の誕生から大和政権(=古墳文化)の国家統一までが連続的につながっているという習い方をした記憶はありませんでしたが、著者もその二者のルーツが異なることを主張しています。

先に日本における稲作の起源について整理しましょう。

もともとこの列島の上には稲作は行われていなかった。稲作は大陸から渡来したものであるが、それも華北から朝鮮半島を南下して日本にもたらされたものではなく、中国の沿岸から朝鮮半島の南部を経由して、日本にもたらされたものではないかと見られている。
(中略)
朝鮮北部には今日まで稲作の古い遺跡は発見されていない。

日本文化の形成 (講談社学術文庫)

本筋ではないのでここでは詳細に触れませんが、稲作は朝鮮半島からではなく、中国大陸から沿岸伝いに朝鮮半島を経由し、日本に伝来したようです。
一旦このような形で稲作が伝来すると、農耕によって土地へ定着するようになり、呪術的支配による国家の形成に至りました。
この時代にも青銅器が大陸から輸入されていたようですが、これらは武器でなく銅鐸や鏡など農耕や祭祀の目的で利用されるものが主だったようです。

では稲作をもたらしたのは何者なのか。

著者はこの人たちこそを「倭人」であるとし、そのルーツは揚子江から南の主として海岸地方に居住した「越人」ではないかと指摘します。
「倭」とは『魏志』「倭人伝」の「倭」、「越」とは『呉越同舟』の越ですね。

越とは中国最初の王朝と呼ばれる「夏」の末裔と言われ、体に入墨をし、米と魚を常食とする海洋民と見られますが、『魏志』の「倭人伝」で描かれる「倭人」もまた、同様の特徴を持っていたようです。
また、江南には古くから鵜を用いた漁法があったとみられ、これは日本でも「鵜飼」として現代にまで引き継がれています。
越人はベトナムまで勢力を広げており、「夏」も東南アジアの原住民をルーツにもつと言われています。
東南アジアが日本の米のルーツであるとする説からも、この越人たちの稲作が日本に伝わったと見るのは筋違いとは言えないでしょう。

面白いのが、『魏志』は西暦290年ごろに書かれたと見られていますが、これはちょうど弥生式文化の時代から古墳文化の時代への移り変わりのタイミングであったということです。
その頃の『魏志』に書かれた「倭人」の姿は越人の影響を強く受けているが、逆に華北や朝鮮半島北部の影響が見受けられないということが読み取れるのです。

倭人は中国の南方から海岸沿いに朝鮮半島南部へと至ったとされていますが、彼らはどのようにして日本と朝鮮半島とを行き来していたのでしょうか。
著者は、『後漢書』の「韓伝」に、朝鮮半島の南部に「倭」があったと記されている記述を頼りに、倭人は朝鮮半島南部に自らの植民地を築いたと推測します。
この植民地を拠点に倭人は日本へ渡り、日本の西部にもまた植民地をつくりました。
これが『魏志』「倭人伝」にある「倭国」でありますが、これは「邪馬台国」とは別種のものであることを匂わす記述が『旧唐書』にも見られるとのことです。

大和政権の成立

日本へ朝鮮半島を経由して大陸の文化が流入しはじめるのは、漢という国家が成立し、東北地方を征服し、紀元前一〇八年に満州(中国東北部)東部から朝鮮半島にかけて楽浪・臨屯・玄菟・真番の四郡をおいた頃からであった。そしてその文化は日本に青銅器をもたらしたし、多くの武器をもたらしている。それは二つの意味があったと思う。まず武器を持って日本へわたって来た人びとのあったこと。いまひとつは青銅器を必要とする人たちが国の中にいたことであったと思う。

日本文化の形成 (講談社学術文庫)

日本への稲作伝来から500年ほど経って前漢が成立し、ようやく弥生式とルーツの異なる文化の流入が始まります。
武器の流入は軍隊を伴わないものではなかったはず、と著者は指摘します。実際、文献には大陸から進行されたことを記す記述は見当たらないそうです。
この時代で日本と大陸とを積極的に行き来していたのは先述の倭人であって、日本へ渡るには彼らを頼るのが筋であるが、倭人が大陸側から侵略されたような記述も確認できません。
恐らく引き続き倭人が海洋交通を掌握しており、彼らの船を以って武器が流入したと著者は考えます。

さらに、倭人が半島に拠点を持ち、海の交通権を掌握していたと考える根拠も示されていました。
一一四五年に編纂された『三国史記』には、新羅が倭によって63回も侵攻されている記述があります。
かなり時間が経って編纂されたものですから史料としての価値は怪しいものの、日本から侵攻されたという記述がまざまざと残されているところに著者は注目しています。
海を越えて幾度となく朝鮮半島へ軍を送ったということは、倭人が海洋交通を掌握し、さらに半島に拠点を持っていたことを示唆します。

朝鮮海峡の航海権を倭人が握っていたとしても、半島にも倭人の植民地があることによって、大陸の文化は半島倭人の手によって日本にもたらされたであろうし、時には強力な集団が侵攻という形をとらないで日本へ渡航したと見ていい。そういう力が凝集してやがて日本の武力的な統一をおこない、統一国家を形成していったのではなかろうか。

日本文化の形成 (講談社学術文庫)

倭人のみならず、秦の始皇帝の後裔といられる新羅系秦(はた)氏もまた日本へも多数移動していたことが確認されます。
なお、本書では、この秦氏は日本全国に分布し、焼畑をもたらしたのではないかとされています。
このように、朝鮮半島からは武器のみならず、徐々にではあるが移民が多数入り込んできたようです。
移民は西暦紀元の頃からはじまって一〇世紀の終わり頃まで続いたとされますが、これは弥生式文化の収束する時期とも重なっていますね。

まとめ

というわけで、稲作の伝来と武力の伝来は時期が異なり、前者が弥生式文化に、後者が大和政権の成立に直接的な影響を及ぼしたと考えられるというのが著者の主張です。
大陸からの移民が大和政権のルーツであるという記述は本書にはありませんが、少なくとも前漢成立によって伝来するようになった大陸の文化が、律令国家である大和政権の基盤となっていると考えてよいでしょう。

このような律令国家が、自身の文化に迎合せぬ日本古来の原住民たちを指して「蝦夷」と名づけたということです。

本書はこれ以降、日本の南北の文化形成に言及しつつ、畑作の起源に迫ります。
余力があれば、日本の北方文化と大陸の関係性についてこのブログでも触れたいと思います。

留意点

僕は著者の日本文化形成論が現代においてどれだけ実証されているのかを把握できておりません。
したがって本書にかかわる本ブログ記事の扱いは、読んでいただいた皆様の判断にお任せすることといたします。

個人的には、たとえ内容が現時点で誤りと実証されているとしても、著者の深い教養と鋭い推察は一読の価値があると思っております。

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