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ディープ・アクティブラーニングのメモ:コラム「反転授業」

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本書の中に「反転授業」のコラムがあったので、ざっとまとめる。

反転授業とは、学習内容の説明部分を動画講義等の形式で事前学習し、実際の授業はその学習内容の更なる定着や応用の時間に充てるものである。授業時間内に講義をし、その定着のための演習等を授業後に行う普通の授業と「反転」しているのでその名前がついている。

反転授業の主流となる2つのタイプ

反転授業というのは大きく2つのデザインがある、という。

A.完全習得学習型

文字通り、ある教育内容について全員があるレベルに到達することを目標に、反転授業を展開するものである。

1.事前の動画講義による<教える>を通じて学生個々の<わかったつもり>状況を作ること
2.対面授業のグループワークにおいて、その<わかったつもり>を揺さぶること
3.躊躇やとまどいを通じて新たな<わかった>を再構築すること

この3つの条件に注意すれば、完全習得学習型の反転学習によって教員の”個人技”に関わらずアクティブラーニングを導入できるということだ。つまり、授業部分では事前学習の内容の定着を図ることが主となる。

B.高次能力育成型

完全習得学習型は定着を図るのが主だった目的であるが、もう1つのタイプは対面学習においてさらに発展的な活動を行うことを軸としている。演習や調査ケーススタディ、PBL等のアクティブラーニング授業に導入されうるが、対面授業をファシリテートする教員の力量に依存する点が特徴でもあり課題でもある。

ある理工系学部の授業では、講義部分を動画で提供するとともに簡単な確認テストで理解を促す他は、対面授業においてアプリの企画をグループで行うPBLの形式を採っていたそうだ。高度な学習には、必然的に基礎的な知識の定着が必要となる。そういう意味で、この授業をPBL部分だけで成立させるのは難しくなるのだろう。

感想

反転学習をアクティブラーニングの導入の一つの方法として捉えるという視点は新鮮だった。「アクティブ」であることに偏りすぎて知識の定着が図れないという課題はよく耳にするが、その悩みに対して反転学習は確かに一つの解決策となり得るだろう。

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ディープ・アクティブラーニングのメモ:第1章・アクティブラーニング論から見たディープ・アクティブラーニング

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第1章は「ディープ・アクティブラーニング」について「アクティブラーニング」や「(機械学習とは異なる意味における)ディープラーニング」との違いを説明することによって、その必然性を明らかにするものである。

本章におけるアクティブラーニングの定義

一方向的な知識伝達型講義を聴くという(受動的)学習を乗り越える意味での、あらゆる能動的な学習のこと。能動的な学習には、書く・話す・発表するなどの活動への関与と、そこで生じる認知プロセスの外化を伴う。

ディープ・アクティブラーニング

この定義の背景には、教授パラダイムから学習パラダイムへの転換、すなわち「教えるから学ぶへ」のパラダイム転換がある。これにより「一方向的な知識伝達型講義」は「受動的学習」と見なされることとなる。さらに、定義の後半によって「能動的な学習」とは何かが示されている。

つまりアクティブラーニングとは「操作的に定義された用語」であって、「受動的な学習なんてあるのか?」「”能動的に”講義を聴くことも可能では?」という批判はその意味で直感的で的外れなものとなってしまう。この点は僕もまさに”勘違い”していたところだった。

アクティブラーニングの論点の変遷

日本では、1990年代半ば頃より徐々に、アクティブラーニングの実践が見られ始めた。

ディープ・アクティブラーニング

とあるが、具体的にはその移行には2つの構図がある。

構図Aは「受動的→能動的」という段階、つまり「受動的な学習」の否定がその根元であったが、そのために「能動的」の中身はそこまで問われなかった。

「能動的な学習」をより特定しようとする構図Bは、より積極的に、「知識・技能・態度」の育成に真正面から取り組むものである。

アクティブラーニングと呼ばなくとも、学習パラダイムに乗って学生の学習を徹底的に作り、学生を育てようとする授業デザインや教授法を説く多くのものは、この構図Bに従ったものであると考えられる。もはや、この段階になると、学習をアクティブラーニングと呼んで特徴づける必然性は大いに弱くなる。

ディープ・アクティブラーニング

アクティブラーニングの質を高める

本章では、構図Bにもとづくアクティブラーニング型授業の質をさらに高めるための工夫として、ディープ・アクティブラーニング以外に6つの例を紹介している。

(1)授業外学習時間をチェックする
…授業外の学習時間を単に予習、復習、課題に費やすのでなく、積極的に学習内容の理解の質を高めるための「個人的な学習時間・空間」とするよう指導する。

(2)逆向き設計とアセスメント
…学生に求める学習成果→必要なアセスメント→授業の設計→学生に求める学習というように、コースの終点から逆算的に授業計画を立案する。

(3)カリキュラム・ディベロップメント
→一授業・一コースの問題としてでなく、カリキュラム全体として、知識・理解に加えて技能・態度をいかに伸ばすかを設計する。

(4)週複数回授業
→1週間の内に講義と演習の授業をそれぞれ組み込む。

(5)学習環境の整備
→協働学習を前提とし、それを促進するデザインを教室等の学習の場に取り入れる。

(6)反転授業
→授業外の時間で前提知識を学習し、授業内では知識の確認や定着、活用、協働学習などのアクティブラーニングを行う。

「ディープアクティブラーニング」と「ディープラーニング」の違い

「学習のアプローチ」という概念がある。それによれば、学習への深いアプローチと浅いアプローチの大きく2つのタイプがあるという。

深いアプローチは、学習課題に対して「振り返る」「離れた問題に適用する」「仮説を立てる」「原理と関連づける」といった高次の認知機能をふんだんに用いて、課題に取り組むことを特徴とする。それに対して、浅いアプローチは、「記憶する」「認める・名前をあげる」「文章を理解する」「言い換える」「記述する」といった、繰り返しで非反省的な記憶のしかた、形式的な問題解決を特徴とする。

ディープ・アクティブラーニング

ただ、この2つの区別は、取り組み方に違いがあるということを示すものではない。深いアプローチにおいても「記憶する」「文章を理解する」「言い換える」といった学習はおこなわれており、浅いアプローチの方が高次の認知機能を用いた学習のカバレッジが低い、ということが論点になる。

とすれば、授業実践においては、「戦略的なアクティブラーニング型授業」を学習への深いアプローチを用いざるを得ないようなが。たとえ深いアプローチを好んで用いる学生がいたとしても、たとえば他者と議論し、あるいは他者に説明をするといった学習活動を、授業外で学生本人が作り出すのは難しい。つまり、真に深い学習とは、単に「深いアプローチ(=ディープラーニング)」を学習者が取ることだけで実現するものでなく、学習者の能動的な学習活動への関与を積極的にデザインされて成り立つ、ということだ。

感想

本章はあくまで議論の前提を整理するものだったが、まとめの段になってようやく本書が書かれたそもそものモチベーションのようなものがおぼろげながら見えてきた印象がある。カバーにもある通り、これは「大学授業を深化させるために」という前提を持ち、かつ汎用的能力の育成というお題目に対する真摯な検討の延長線上に、このディープ・アクティブラーニングがあるということを、一連のつながりとして見る目が徐々に養われつつある。

後の章で徐々に具体的な方法や事例に触れることで、これからの「アクティブラーニング」の姿を明らかにしてみたい。

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ホームスクーリング大国(?)アメリカのハーディング家の事例

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本書は天才児たちの話ではないし、子育てにやっきになっている両親の話でもない。むしろ、ごくふつうの男女が高校で出会い、やがてすばらしい子どもたちに恵まれるラブストーリーだと言った方がいいだろう。ある面、これは信仰の話であり、信仰に支えられてわたしたち夫婦がどんな子育てをしてきたかを語る話だ。そして別の面から見れば、平均的な知能の子どもたちに夢を持たせ、それぞれの夢を開花させる話でもある。わたしたち家族に生を与え、ホームスクーリングという卓越した制度を作り出してくれた神に感謝したい。わたしたちは、ホームスクーリングがもたらしてくれる幅広い可能性を知ってもらうことで、読者に何かを感じてほしいと心から願っている。

学校に通わず12歳までに6人が大学に入ったハーディング家の子育て

読み終わってから冒頭に戻ると、なるほど、これは確かに本書の要約になっている。

つまり、本書に含まれるのはこういった要素である。

・ホームスクーリングを実践する家族の話であること
・両親ともに何か特別な才能や経歴があるわけではないこと
・信仰心に基づいてホームスクーリングを実践していること
・平均的な知能の子どもたちでも夢を持てるような教育であること

タイトルや冒頭に補足すべきことと言えば、ハーディング家には10人の子どもがいるという点と、その全員を自宅で育てているという点だろうか。

ホームスクーリングについて

日本ではほとんど例のないホームスクーリング。簡単に言えば、学校や塾に通わず、自宅を拠点とし、親等が子どもの学習を管理する教育の形式のこと。

話によると、国内でホームスクーリングを選択しているのは宗教上の都合により学校に「行かせたくない」家庭と、学校に「行けない」子どもを持つ家庭が主流だそうだ。

日本でのイメージとしては、フリースクールの延長上としてホームスクーリング=しんどい子と捉えられがちである。

前向きなオルタナティブとしてのホームスクーリング

一方、ハーディング家のホームスクーリングは、もちろん宗教的な理由も主な理由のひとつではあるが、学校教育への不満や不安も家庭での学習を後押ししている。それは、同時にホームスクーリングのメリットの裏返しである。

公立校でも、そしておおかたの私立校でも、自分のペースで学ぶことは許されない。授業に退屈する生徒が多いのは、教師がクラスの中間レベルの子に合わせて教えなければならないからだ。先に進みたい生徒がいても、その子に合わせて速度を進めることはできないし、遅れている生徒がいても、わかるまでていねいに教えている時間はない。

同じ年齢の子だけを集めて教育をすると、実社会に適応するための社会性はうまく身につかないし、周囲と同じ行動を取らなければ、というプレッシャーも感じやすくなる。この世界は、同年齢の仲間だけで動いているわけではない。

自分の家以上に、安価で質のいい教育を施せる場所はない。ホームスクーリングでは、子どもひとりにつき一年に平均五〇〇ドルしかかからないが、平均的な公立校では生徒ひとりにつき一万ドル近くもの税金が支出され、しかもホームスクーリングほどの結果は出ていない。

学校に通わず12歳までに6人が大学に入ったハーディング家の子育て

まるで、クリステンセン教授が言うところの「破壊的イノベーション」の話そのものだ。

家庭で安価で良い教育ができるのに、より面倒見が悪く、いじめや犯罪に巻き込まれるリスクのある学校にわざわざ通わせる理由はあるのか?

こうはっきり言われると、言葉に詰まりそうになる。

ホームスクーリングへの素朴な疑問とその回答

本書を読む前の時点で僕が疑問に思っていたことが幾つかある。

・具体的にどのように教科の指導がなされているのか
・社会性というものをどう捉え、どう育んでいるのか
・日本でも実践可能なのか

ひとつひとつ、本書を読んだ上での理解をまとめる。

 

・具体的にどのように教科の指導がなされているのか

ざっくりと言えば、子どもたちの個性に合わせて、やる気や関心を保ち楽しく勉強させることが鍵となる。

かっちりと学校のように時間割を決めてしまうと、それをこなすことで精一杯になり、結果もついてこない。興味が湧いてから学ぶ方が楽しいし、より身につく。

また、子どもたちが興味を持ったことを自分なりに探究することも、とても大切にされている。

もう少し細かく見ると、例えば文法の学習はつまらないのでとにかく文章を書かせ添削することで書く力を伸ばす、とか、マスターできたと親が納得するまで教材をきちんと教えるとかテクニックはあるにせよ、基本の考え方が最重要に思える。

 

・社会性というものをどう捉え、どう育んでいるのか

子どもを早期に大学へ行かせられない理由に対する回答を見てみよう。

2「一二歳の子が大人とうまくやっていけるの?」
ホームスクーリング家庭の親ならだれでも知っているが、子どもたちは年齢で分けられた経験がないので、どんな年の子ともいい関係が築ける。

学校に通わず12歳までに6人が大学に入ったハーディング家の子育て

先の引用やこの一文からわかるのは、彼らの言う「社会性」は「社会」を対象にしており、従って「学校社会」を射程に入れていない。

子どもを教育するうえでもっとも大切なのは、道徳的指針を持って育てることだ。よいことと悪いことの違いをわからせ、自分が何を信じ、なぜそう信じるのかを理解させる必要がある。

学校に通わず12歳までに6人が大学に入ったハーディング家の子育て

もちろん、ただ家庭で学習すればよいというものではなさそうだ。ハーディング家は、信仰が「社会性」の基盤となっている。そこで、「一日を家事で始め」ること、「全員で聖書の勉強を」することを日課としている。

また、「心の知能」という言葉も登場する(「EQ」のことだろうか)。

学習は実地で行い、現実の世界がどうなっているかを見せるのが最も効果的だ。現実を学んでこそ、こころの知能が身につく。心の知能とは、みずからの感情を意識して分析し、抑制できる能力のことである。

心の知能は社会性とも密接にかかわっており、わたしたちはこれもまた学問と同じくらい大事だと考えている。社会性とは、たとえばあるグループでいちばん声を上げにくそうな人を察知し、共感してその意見を代弁できることだ。

学校に通わず12歳までに6人が大学に入ったハーディング家の子育て

親が子に対して、実社会での振る舞い方や心構えを繰り返し伝えるというのは、実はあまりないのではないか。ホームスクーリングという形態が可能にするのはまさにこういうところなのかもしれない。

 

・日本でも実践可能なのか

ホームスクーリングで子どもを育てるということは、日本でも十分に可能だ。それが、本書を読み終わった僕の率直な感想だ。よりニュアンスを明確にするならば、日本でもホームスクーリングで「子どもを育てる」こと自体は可能ということ。

課題を挙げるならば、国内での事例は数少なく、かつ知っていたとしてもホームスクーリング=学校に「行けない」という先入観が強いため、親が自ら周囲からの理解を得る必要がある。これは割と大変な作業だ。

もう一つは日本の大学受験だ。現状の大学入試の状況を見る限りでは、家庭内で学習をすることになれば、テキストを進めるだけでなく、大学や試験毎の傾向と対策まで把握する羽目になる、と思う。塾という一大産業が成り立つような専門性を家庭内でどれだけキャッチアップできるのだろうか。AO入試を狙う、さっさと就職する(実社会に出る)、もはや日本の大学には目もくれず海外大学を目指す、など舵を切る方向はいくらでもあり、そちらに流れていくような気もするが(なにせホームスクーリングを選択するような家庭ならば)。

ハーディング家の教育においては「宗教」が社会性の基盤であった。では、日本では何を基盤とすべきか。これも一筋縄ではいかない問題かもしれない。

そして、レールから外れることには不安が伴う。12人に1人の子どもが家庭で学んでいるアメリカでも同様らしい。

ホームスクーリング家庭の親たちは、よそとくらべて足りないものや、わが子が”していない”ことばかりを気にして、無力感にさいなまれやすい。わが家ではむしろ、子どもたちが”している”すばらしいことすべてに目を向ける。

学校に通わず12歳までに6人が大学に入ったハーディング家の子育て

実例がまだまだ少なく難しいとは思うが、実践者が各々の情報発信をしながら横のつながりをつくれると、多少は楽なのかもsしれない。

感想

最近、アクティブラーニングの文脈で「教授パラダイム」と「学習パラダイム」という言葉を知った。前者は「教える→教えられる」の一方向的な知識伝達を想定している一方、後者は、学習者を中心に据えている。世界的な潮流として「教授」から「学習」への価値観の移行が始まっているわけだが、ホームスクーリングは完全に「学習」寄りだ。しかし、「学習者中心」というよりは「家族中心」というべきかもしれない。

もしかしたら、わが家が次々と成果を得ているのは、いわゆる「子ども中心の家庭」だからだと思う人がいるかもしれない。しかし、「子ども中心の家庭」の背景にあるのは、すべてが子どもの生活を中心に回るという考え方だ。(中略)むしろ、「夫婦中心の家庭」にすべきだ。(中略)夫婦の関係が優先されなければ、なにもかもうまくいかなくなってしまう。

学校に通わず12歳までに6人が大学に入ったハーディング家の子育て

文中では割にさらりと書かれているのだけれど、こうした信念の延長線上にホームスクーリングという選択肢があったのではないか。もちろん真偽のほどはわからないが、ホームスクーリングも単なる手段であることを忘れてはいけない、という教訓が含まれているように思う。

最後に、何度も線を引いた一文を紹介したい。

われわれ夫婦は、子育てを偶然に任せるよりは、自分たちの手で行うことを選びたい。

学校に通わず12歳までに6人が大学に入ったハーディング家の子育て

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