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社会に通用する勉強の作法と教育の課題

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Twitterの論客、芦田宏直氏のインタビュー記事が面白かったので。

偏差値30、40台の学生を一流のITエンジニアにする教育法 ゆとり教育の被害者を稼げる人材に変えよ!(その1)  | 知の大国アメリカ~ランド研究所から~ | 現代ビジネス [講談社]

多少センセーショナルなタイトルになっていますが、中身はいたってまともです。
僕自身も芦田氏のTwitterや記事から様々なヒントをいただいていますが、少々(?)クセが強いのと、内容の難解さで、咀嚼しきれないところが多々あります。
(一方でどう理解すれば良いのか、相手の意図はどこにあるのかを模索する行為の面白さに気づくこともできましたが)
この記事は芦田氏の実践に触れることができるので、その意図するところにだいぶ近づけるのではないか、と期待しています。

こんな書き方をするとシンパと思われそうですね。
そろそろ、本題に入ります。

学校教育における「偏差値」を巡る問題

冒頭の記事は芦田氏が理事を務めた情報系専門学校の教育実践を紐解くインタビューになっています。
インタビュアーは田村耕太郎氏、 それを受けるのが芦田氏とその下で講師として教育に携わった芦澤氏です。

僕が特に注目したのが、「偏差値」の話題です。
「人間を数字で評価するな!」と批判の的にもなるこの「偏差値」ですが、その意義について、改めて考えさせられます。

芦田氏:「いわゆる低偏差値の学生というのは、家庭、地域、クラスメート、担任の先生といった近親者との比較の中でしか、自分の位置を図ることが出来ない子なわけです。子どもたち、若者たちが大人になる契機の一つは、対面人間関係を超えるときです。高偏差値の学生たちは、全国区の受験勉強でそれを体験します。
クラスで一番を取っても、担任の先生の褒めてもらっても、親を喜ばせても、そんな評価では当てにならないということを実感的に体験するのが受験体験なわけです。低偏差値の学生はその意味では高校を卒業しても“ヒューマン”な基準しかもっていません。高等教育は社会人になる最後の学校な訳ですから、クラスの中に、社会人=職業人としての“偏差値”を持ち込んでやるべきなのです。」

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自立した個人となる上では、社会と自分との関係をより客観的に大きな視野で捉えることが必要です。
偏差値を「対面人間関係を超える」機会を提供するものと見ることで、偏差値の重要性が浮き上がってきます。

高校生全体で、偏差値を意識しているのはどちらかというと少数派でしょう。
実際、彼らは模試を受けても「偏差値はいくらか」よりも「クラスで何位か」の方がよっぽど気になるみたいです。

進学校であればクラスや校内、県内における順位が、ある程度偏差値(もっと言うとどこの大学に行けるか)を表すことになりそうです。
進学希望者が大多数で、だいたい毎年A大学に20人合格するとなれば、校内で50位には入りたいよね、という具合に。
一定数の生徒がいることで、学年ごとのブレを考慮せずともある程度の精度で自分の位置がわかるわけです。

ところが、進学者がマイノリティである場合はそのブレが生じます。
ある年にたまたま学年TOPが東大に進学したとしても、毎年のように学年TOPが東大にいけることにはなりません。
進学者が少なければ少ないほど、学校内に留まる限りは自分の偏差値が見えないわけです

ここに、低偏差値と高偏差値の格差が見え隠れしていますね。

偏差値の高低を分けるもの-機会は勝者にのみ訪れる

高偏差値であればあるほど(進学校であればあるほど)、偏差値を意識する機会が増えることを見ました。
では、偏差値の高低を形作るものは、いったいなんでしょうか。

芦澤氏:「芦田先生が良く言うことなのですが、できる学生は勉強そのものが自己目的化していますが、できない学生ほど勉強の目標=終わりを欲しがる。ここまでやればもう何もすることはないよ、と言ってやれば、できない学生も勉強し始める。そしてその終わりが社会的な位置付けや給料の大小と結びついていることがわかればもっと勉強し始める。」

※太字は引用者による。

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できる学生は勉強そのものを自己目的化している
手段でしかないはずの勉強が目的になっているということは、勉強すること自体に意義を見出したり、楽しいと思ったりしている、ということです。
つまり、「オレは○○大学に行く!」というアツイ志を持たずとも、淡々と勉強に取り組むことができるわけです。
勉強が習慣になっているわけですね。

できない学生ほど勉強の目標=終わりを欲しがる
勉強を手段と割り切っているわけですから、最低限の努力で済ませることができてしまった方が嬉しい。
ところが、低偏差値の生徒が集まりやすい非進学校では自分自身がどの大学に行けるかのレベル感を掴むのが難しく、終わりを自分で設定できないわけです。

こうしてみて、ふと思うところがありました。
目標設定を適切にできる高校生はほとんどいないのではないか」と。

前者の場合、勉強の自己目的化の結果として偏差値が高くなり、そのおかげで自分の立ち位置を把握できるということ。
自分の偏差値を把握した上で、それに応じてようやく適切な目標設定に着手するわけです。

後者の場合は目標設定ができていないことはもはや明確です。

逆に言えば、ほとんどの高校生にとって、勉強のモチベーションを保つために「自己目的化」という手段しかないということ、そしてその手段を確保できるのは高偏差値層のみということも読み取れるかもしれません。

少なくともこの記事からは、「対面人間関係を超える」機会は高偏差値の学生にのみ与えられると読み取ることができます。
そして、偏差値を上げるためには「自己目的化」という手段くらいしかない(かもしれない)ということも。

学校教育において考えるべきこと

記事内の専門学校では、生徒が目標を設定できるようなカリキュラムと授業を用意した結果、就職実績が改善されたとあります。
これ、学校教育においても同じようにできないでしょうか。

実際、高校生は現在受けている授業の内容がどのように入試で必要となるのか、いまいち理解できていません。
(ここには「学校で教えることができていない」という問題もあります)
入試科目を意識するのが3年になってから、という生徒も少なくないと思われます。

また、大学にせよ専門にせよ就職にせよ、自分のポジションでどんなところにいけるのか、高校生はピンときていないようです。
進学であればその後のキャリアも含めて、もっと現実的な地図を彼らに提供することも一手かもしれません。
もちろん、現実を見せた後はサポートが必要ですが、「そんな無名の大学に行っても未来はないよ」の一言をぐっと飲み込むよりはいいのではないでしょうか。

生徒に現実を見せるということは、生徒の将来を支える覚悟を伴います。
しかし、そうしなければ適切な目標設定などできるはずがない。
なかなかジレンマのあるところですが、僕自身、もう少し真面目に考える必要を感じました。

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若いというだけで評価されていることに気づかないといけない

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WE LOVE AKITAとしてよく活動に参加していたころのこと。

「秋田」に関わる人の中で、僕は比較的若い層にあたるようです。
(最近は活動的な学生が増えてきたので、そうでもなくなりましたね)
そうすると、「若者が秋田のためにがんばっている」と地元紙に紹介していただいたり、県の方から声をかけてもらったり、「がんばってね」と応援してもらったりと、ポジティブなレスポンスが集まりやすかったように思います。

一方で、僕自身は「周囲の反応が少し良すぎる」と感じています。
これまで僕がしてきたことなんて、「思いがあれば誰にでもできること」だからです。

この「思いがあれば」が曲者で、正直なところ、思いがある人自体が希少価値と思われている(し、実際その傾向がある)節があります。
しかも「頑張っている若い人」もレアものです。「秋田のために頑張っている若者」はそれだけで評価されてしまう原因がここにあります。

枕詞に気づかないと、後で痛い目に会う

高校生や大学生が故郷への思いを語ったり、将来の夢を表現したりすると、たいていは「いい」反応がかえってきます。

「すごいね」「よく考えているね」

これに気をよくしてはいけません。

「(高校生の割に)すごいね」「(大学生にしては)よく考えているね」

こう枕詞がついていることに自覚的でないと、社会に出てから(或いは一定の時期を過ぎると)痛い目を見ることになります。

「で、考えているだけで何もしていないんでしょ?」「そんなの、社会で通用しないよ」

今までずっと誉めそやされてきたのに、突然カウンターパンチを喰らうかもしれません。
これは特に「プレゼンがうまい」人によく見られる傾向であるように思います。

見た目で評価されるのは若いうちだけ

中身(実)がなくても見栄えや”聞こえ”がよければそれだけで評価されるのが若者です。
若いうちに周囲から称賛されるとその評価に固執してしまうことがあります。
そうすると「何を言えば周囲は褒めてくれるだろうか」と、次第に周囲の目ばかり気にすることになるわけです。

すばらしい夢を持っていることよりも、その実現に向けて具体的な一歩を歩んでいることの方が本質的であるはずです。
しかしながら、立派な夢を語るだけで若者を誉めそやしてしまう風潮が日本にはあります。
(若者に社会を変えて欲しいと願う、無責任な期待感が蔓延しているからかもしれません)

見た目で評価されるのは、残念ながら若いうちだけです。
周囲の視線ばかり気にしていると、メッキ塗りに必死になるあまり、中身が一向に進歩しないなんてこともありえます。

口だけにならないよう手を動かさないといけない、というのがここ数年僕がずっと思っていることでもあります。

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橋下徹・大阪市長が義務教育段階での「留年」を検討する是非について

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大阪市の橋下徹市長は22日、小中学生が目標の学力水準に達しない場合、進級を認めず留年させることを検討するよう市教委に要請したことを明らかにした。

 同日開かれる市教育委員との意見交換会で協力を求める。義務教育課程での留年は法的には可能だが、実際の運用はほとんどない。

 市役所で報道陣の質問に答えた。橋下市長は、教育評論家の尾木直樹氏が学力の底上げ策として、小中学校での留年を提案していることに賛同する考えを示し、「学んだかどうかに関係なく進級させることで、かえって子どもたちに害を与えてしまっている。理解できない子にはわかるまで教えるのが本来の教育だ」と述べた。

 義務教育での留年は、現行法でも学校長の判断で可能だが、学校現場からは「子どもへの精神的影響も大きい」との声がある。

橋下市長、小中学生の留年検討…尾木直樹氏提案 : 政治 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

何かと話題を巻き起こす橋本市長ですが、今回の要請も物議をかもしそうです。

直感的には、記事にもあるとおり「子どもへの精神的な影響」が大きな課題であることは明白であり、受け入れがたいものです。
しかし、この提案自体が何の突拍子もないものではないこともまた、認めなければなりません。

橋下市長が県教委に検討を要請した背景には、日本の教育が抱える複雑な問題が潜んでいます。

僕の意見:「留年」は解決策として不適切である。

結論から言うと、「留年」を検討するに至る問題意識についてはほぼ同意です。
しかし、その問題意識に対し、「留年」というソリューションは適切とは言えないでしょう。

問題は「学んだかどうかをきちんと担保する仕組み」(=「結果の平等」)になっていないことにあります。
 この仕組みは現行の教育制度に「留年」をくっつけるだけでは実現できないと思われます。

落ちこぼれを量産する日本の教育制度

そもそも、なぜこんな話が出てきたのか。
日本の教科教育のカリキュラムと、その学習到達度の評価手法に、その原因があります。

日本の教科教育のカリキュラムは学んだことを段階的に発展させていくようならせん状を描きます。
従って、前段階の知識が不足していることが原因でつまずいてしまうことが珍しくありません
小、中、高と年を重ねるごとに、勉強から脱落していく子どもは増えていく構造になっているのです。

これを「教育七五三」と呼ぶこともあるそうです。
高校で七割、中学で五割、小学校で三割が落ちこぼれ、ということを指摘する人もいるということです。

ここには学習到達度の評価手法である「学力テスト」の問題があります。
ご存知の通り、生徒のその時々の学習内容の理解度を評価するために、学校では主にペーパーテストを実施しています。
しかし、これも誰もが実感しているとおり、この「学力テスト」は理解度の担保としては不十分です。
つまり、テストの点数が悪くても(=授業が理解できていなくても)、テストが終われば、授業は次のページに進んでしまう、ということです。

残念ながら、テストで合格点を取れるまで反復して学習する機会を授業の中で確保することが前提とはなっていません。
学習理解度を測るためのテストは、生徒の学習理解度を担保するという重要な役割を担っていないのです。

テストが良かろうが悪かろうが、授業は進みます。
小さな”穴”は、後々になってようやく影響を及ぼすことになります。
そのときには、すでに手遅れになっていることがほとんどです。
こうして、落ちこぼれが次々と生み出されていくのです。

橋下市長はこの現状を憂い、教育評論家の尾木氏の提案に賛同しました。

「学んだかどうかに関係なく進級させることで、かえって子どもたちに害を与えてしまっている。理解できない子にはわかるまで教えるのが本来の教育だ」

記事中の橋下市長の言葉です。
問題意識としては特におかしいところはありません。単に、そのソリューションに課題があるだけなのです。

学習内容の理解を担保するために(1)

先ほどの言葉にもあるとおり、「理解できない子にはわかるまで教えるのが本来の教育」なのです。
したがって、現状を改善するには、学習内容の理解を担保するための評価の方法や仕組みづくりが必要となります。

経営学の名著「イノベーションのジレンマ―技術革新が巨大企業を滅ぼすとき」の著者・クリステンセン氏による一冊。
クリステンセン氏は、学力の評価方法である「テスト」が学力の担保になっていないことを指摘しています。

と同時に、学習内容の定着を担保している事例として、TOYOTAのラインのトレーニングプログラムが紹介されています。
TOYOTAでは整備士のトレーニングを行う際に、ラインの工程を段階ごとに区切って指導します。
被訓練者はその段階をマスターしなければ次の段階のトレーニングに移ることができないようになっています。
その結果、各工程の習熟が担保され、結果的に工程上のミスも発生しにくいそうです。

曰く、現在の学校の教育は「時間は一定、成果はまちまち」。
しかし、本来の教育は「時間はまちまち、成果は一定」でなければならない、というのがクリステンセン氏の主張です。
「一人ひとりに合った教育」を語るならば、ますますパラダイムの転換が求められるわけです。

学習内容の理解を担保するために(2)

教育国で知られるフィンランドでは義務教育段階での「留年」が当たり前にあるそうです。
低学力層への学校の支援も手厚く、落ちこぼれをつくらない、問題を先送りしないというコンセンサスがあります。
(参考URL:http://www.nichibun.net/case/ict/34/05.php

またデンマークでは、就学前の児童に対し、基礎的な能力が充分身についていないと判断される場合には、進学を一年据え置くことがあります。
年齢で明確に区切るのは一見すると平等のように見えますが、就学前で能力差が明確にある場合、それを放置したまま義務教育に子どもをつっこむことには確かにリスクがあります。

注目すべきは、学習内容の理解が不十分であったり、当然身に付けるべき能力が備わっていない場合は先に進ませない、という判断が実際に行われているという点です。
「留年」も「時間はまちまち、成果は一定」の精神の下に運用されていると考えることができます。 
一年の遅れを不安視して問題を先送りするという態度が、結果的に落ちこぼれを量産していることを思えば、「留年」は確かに選択肢の一つとなりえるのです。

「留年」の是非―「時間はまちまち、成果は一定」は実現されるのか

理解するスピードに差はあれど、どの子も平等に学習内容を理解し、次のステップに進むための能力が身についている状態を目指す。
これが「時間はまちまち、成果は一定」であり、それの意味するところは「結果の平等」です。
一方、日本の教育制度は「時間は一定、成果はまちまち」、つまり「機会の平等」に留まっています。

先ほど見たとおり、「留年」は「結果の平等」を実現するための一つの手段となりえることが分かります。
しかし、だからといってすぐさま日本も「留年」を義務教育で導入するべきだ、という結論に至るのは早計と言うべきかもしれません。

何よりも、北欧の国々では「留年」が日本と比べてそれほどネガティブではない、という大きな違いがあります。
これは「結果の平等」の重要性を国民が広く認識しているという前提があるからです。

日本では「留年」は非常にネガティブに捉えられているのが現状です。
記事内でも学校関係者の子どもの精神的な影響を危惧する声が紹介されていますね。
現行法でも義務教育の「留年」が可能であるとは個人的には驚きですが、実際に運用された例はほぼありません。
これだけ見ても、「留年」の導入に対して強い抵抗があることが容易に想像されます。

また、「留年」は事後的な対処であることも見逃せません。
落ちこぼれをつくらないことを優先するならば、「留年」に至る前に充分な個別対応が必要なはずです。
「留年」のみが導入されたとしても、現行の教育内容に変更がなければ意味がありません。

どの程度を留年にするかは定かではありませんが、最下位層がその対象となるとしても、問題が解消されるわけではありません。
最下位層は詰まるところ、理解に非常に時間がかかる生徒のことです。
最下位層の生徒に対して手厚い指導ができない限り、とりあえず進級させて問題を先送りすることと本質的には変わりません。

「留年」の導入は早計。その前にできることはたくさんある。

現行の教育制度の課題を放置したままで「留年」を導入するのは早計です。
「留年」を検討する前に、落ちこぼれを未然に防ぐための施策を講じるべきです。

まずは教員が生徒に指導をする時間をもっと拡充するべきではないでしょうか。
そのためには教科書のボリュームをそのままに授業時数を増やすというのはありかもしれません。
教員一人当たりの生徒数を少なくすることも有効な手段と考えられます。
また、学生などボランティアの指導スタッフを活用する手もないことはありません。

授業内で学習内容を反復する仕組みづくりも検討していいと思います。
現状では、授業の中だけで学習内容の定着を図るのは難しくなっています。
そのために宿題や自習が期待されるわけですが、理解できない生徒は自分で疑問を解消する方法がそもそもわかっていません。
生徒の自学に頼るだけではなく、教員が生徒の理解を積極的に促せる機会を設けることが問題の解消に繋がるはずです。

「留年」についても、義務教育ではなく、就学以前の段階で実施することも検討すべきではないでしょうか。
最近は就学前の段階で集中力がなかったり、人の話を聴けなかったり、数字やひらがながわからない子どもが増えているそうです。
このような子どもを機械的に義務教育に送ったところで、授業についていけないという事態は大いにあり得ます。

さらには、授業態度に問題があったり、理解力が極端に低い子どもの場合、心身の事情、あるいは家庭の影響が原因にあることにも目を向けるべきです。
北欧では各校にスクールソーシャルワーカーが置かれ、必要があれば家庭の問題に介入したり、医療の専門家と連携を取って子どもたちの心身の問題に対処します。

どれも一朝一夕で実現できることではありません。
しかし、重要なのは問題解決のための本質的なアプローチをとることにあります。

「留年」の導入がどのように展開するか定かではありませんが、「留年」をとってつけただけでは効果は見込めず、むしろ悪影響を及ぼすリスクすらあると思います。
今後の動向から目が離せませんね。

※2012/04/02追記

2012年03月20日のとある関西のローカル番組にて「学年別ではなく習熟度別にするべきだ」と発言があったようです。
これは教育制度の根本を問う内容ですが、「留年」導入よりも橋下市長の意図がはっきり出ているように思います。

学校教育の大きな問題は”落ちこぼれ”を救い出せない構造にあると思います。
習熟度別にすることで現在よりも”落ちこぼれ”が生まれにくい学校教育への実現に近づけるかもしれません。
もちろん、これは教育制度の根幹を揺るがす事態であり、慎重な検討が必要ですが。

http://www.j-cast.com/2012/03/21126152.html

※2012/06/14追記

留年制度は効率的で効果的か? 畠山勝太(SYNODOS JOURNAL) – BLOGOS(ブロゴス)

こちらの記事は2012年3月に書かれたものですが、専門家ならではの視点で、留年制度のコストとリターンを分析しています。
教育畑でこのような議論をする人は僕も含めてほとんどいないので、非常に参考になりますね。

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