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女性の労働環境と結婚率・少子化の関係-都道府県別比較で分かること-

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このブログで昔書いた記事に、定期的なアクセスがある。
Googleで「秋田 少子高齢化 原因」と検索するとトップに表示される記事だ。

日本、というか秋田の少子高齢化について考えてみる(2)

一年近く前に書いた記事だが、改めて「少子化」について気になってちょっと調べてみた。

秋田の出生率の低さの不思議

秋田県において問題となっているのは、「出生率」の低さだと思っている。
隣県の山形県や、人口最小の島根県の出生率は、秋田よりも実は高い。
よくよく調べてみると、傾向として日本海側の方が出生率が高い傾向にあるようだ。
秋田も2006年時点では出生率は全国平均を上回っているが、 なぜ秋田は日本海側の他の地域と比べて出生率が低いのだろうか?

今回調べたところ、日本における出生率の低い県と高い都道府県の違いを説明する二つの論文に出会った。
同じキーワードで調べたため、ということもあるだろうが、結論はどちらも似通っている。

(1)都道府県別にみる出生率と女性就業率に関する一考察 坂爪聡子
(2)少子高齢化対策と女性の就業について-都道府県別データから分かること- 宇南山卓

※いずれもリンク先はPDFファイル。

仕事と家庭の両立ができれば少子化は改善される!?

(1)の結論を要旨から引用するとこうだ。

(中略)保育サービスが量的に充実しておらず、かつ女性の労働時間の非常に長い地域では、出生率と女性の就業率はともに低くなる。

(2)の結論も要旨から引用する。

(中略)晩婚化・非婚化は全国的な現象であるが、その傾向は結婚による離職率が高い都道府県ほど強いこと。 (中略)結婚による離職率を説明する要因も明らかにした。最も重要な要因は、保育所の整備状況であり、育児休業制度や3世代同居率は大きな影響を与えていなかった。

このような結論が導かれる根底には、都道府県別で比較したとき、 女性の離職率が高いほど結婚経験率は低い、という負の相関関係があるという事実。
つまり、仕事と家庭、子育てを両立できる都道府県ほど、結婚経験率が高くなる

保育サービスが充実すれば、仕事と家庭の両立はしやすい。
「保育サービスの充実」とは、例えば待機児童数や、潜在的定員率を比較することで測れる。

また、(1)が示すように労働時間の長さも、仕事と家庭の両立の問題に直結する。
(1)の本文の中ではさらにつっこんで、正社員かパートか、といった点も踏まえて検討している。
正社員でも仕事と子育てを両立できるような環境であれば、 結婚による女性の離職率も下がるという説明は非常に納得がいくものだ。

余談だが、「仕事と家庭の両立」が結婚経験率にいい影響を及ぼすようになったのは1980年から1995年にかけてのことだった、というデータが確認されたことだ。
つまり、経済環境の変化、女性の高学歴化等が、結婚経験率に影響を及ぼしているということ。

詳しくは、上記二つの論文を参照されたし。

「秋田の少子化」を考える上での今後の課題

(1)、(2)どちらも山形県や島根県など日本海側の地域の「仕事と家庭の両立」度を例に挙げている。
しかし、秋田はどうもその例にはあがらないらしい。
下記リンク先を見てみると、秋田がその二県に比べて女性の就業率が低いことが分かる。このあたりが問題なのだろうか。

http://www.pref.tottori.lg.jp/secure/107024/00000420062051.pdf ※PDF注意

待機児童数は秋田県は上記二県と比べても特別に悪い、ということもない。
となると、先に上げた論文に沿ってみると比較すべきデータとしては例えば ・女性の就業率 ・女性の正社員比率 ・女性の結婚に伴う離職率(年代別就業率でもいい) ・婚姻率(これは秋田は全国最下位)など。
これらを見てみると、秋田の少子化の構造が見えてくるんじゃないだろうか。 というのはあくまで希望的観測だが…。

Twitterで秋田の婚姻率の低さを話題に出したときには「県民性」「出会いの場がない」との声があった。
それらも社会構造の結果として結婚に対して消極的になっている、という説明ができるのではないか。
僕はそういう目論見でいる。というか、そうでないと希望がなくなる。

「個人の問題」と設定することが、もっとも解決を困難なものにしてしまうと思うからだ。
だからこそ、僕は構造として、マクロに問題を見ることをまずはじめにやりたい。
所詮データや人様の研究結果をなめ回しているだけかもしれないが、 そういう自分の「スタンス」を貫くためにも、直感以外の部分も働かせていきたいと思う。

【110516追記】
関連というほどでもないけれど、こんな記事も書いてます。

都道府県別・「デキちゃった結婚」の割合と県民所得

「計画的な結婚」は所得の高い人にしかできないことになっているのではないか、 「晩婚化」と「デキちゃった結婚」の二極化の裏に所得が絡んでいるのではないか、という観点。

関連する記事

新卒の就職活動に成功する人・失敗する人の唯一の違い

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今日、なんとなく読んでみた「はたらきたい。」に強烈にはまりました。
2008年3月に出版されたみたいですが、リーマンショック以後であっても魅力的な内容だと思います。

なぜか。

僕が就職活動や採用に関わったことを通してなんとなく見えてきたような気がした、
就職活動がうまくいく人といかない人の違い
の見分け方を、あっさりと言葉で言い表されたように感じたからです。

「大切にしてきたことは、何ですか?」

この本は、5つの対談がメインとなっている。
僕の中で特に印象に残ったのは、一つ目と二つ目の対談だった。

一つ目、糸井重里氏と人材紹介会社の河野晴樹氏の対談にて。
河野氏がこう語る

ですから、本当のことを言っちゃうと、新卒の面接をやる場合、「君がさ、これまで大切にしてきたことって何?」という、ものすごく概念的な質問で十分なんですよ。

新装版 ほぼ日の就職論「はたらきたい。」 

糸井氏の返しがまた面白い。

いや、つまり、面接官がそう思ってるんだって知ったとき、「聞いてもらえた!」といううれしさと、「やばい、聞かれた!」というあせりと、どっちかの反応しか、ないですよね。

新装版 ほぼ日の就職論「はたらきたい。」 

これだ!と。 新卒で就職活動に成功する人、失敗する人を分けるのは、きっとこの違いだけなんだ、と。

ここからは僕の考えです。

「大切にしてきたこと」は、モノでもいいし、具体的なことでもいいし、ポリシーでもいい。
そこに、ある種の一貫性のようなものが伴えばいいのかな、と僕は感じています。

「大切にしてきたこと」像をもう少し具体的にすると、以下の要素を含んでいると考えられます。

他人に言えることか

「言える」というのは、「恥ずかしくて言えない」というニュアンスとは異なります。
「人様に伝えて”問題ない”ことか」というくらいの意味です。

たとえば、「毎晩家族にきちんとメールする」ことを大切にしているなんて
他人に言うのは気恥ずかしいけれども、「家族想い」と共感を得られるかもしれない。
だから、これは「言える」。

しかし「いかに自分ではなく、他人のせいにして事を逃れるか」を大切にしてきていると
誰かに伝えたとしても、それを聞いていい反応が返ってくるとはあまり思えません。
何か引っかかりのある、問題のある発言に感じます。

単に、「言い方」が問題となるときもあります。
価値観の話なのだから、絶対的に悪ということはまずありません。
逆に言えば、絶対的に善ということもまたないのです。
どんなにいい話でも、必ず共感を得られるとは限りません。

しかし、それが故に自分の「大切にしてきたこと」を他人に伝えることに抵抗を覚える人がいます。
否定されたり、受け入れられなかったりしたときのことを危惧して。
これは、率直に言って残念なことだと思います。

そう不安がる方へのアドバイスは2パターンかんがえられます。

まずは表現の仕方を変えてみるということ。
相手に伝わるように言葉を選ぶ。別の言葉で言い換えてみる。
自分の大切にしてきたことのいい面、悪い面を整理してみるとよいでしょう。

もう一つは、他人の価値観を受け止めるようにするということ。
別になんでもかんでも肯定しろと言う話ではありません。
あるがまま受け止める。
その発想がないから、他人が自分の価値観を受け止めてくれるイメージも湧かないのかな、と。
そのためには、中立な立場から、いい面、悪い面を抽出する必要があります。

相手の第一印象がよかったら、あえて悪い面に着目する。
逆に印象が悪かったら、あえていい面を見出そうとしてみる。
自分に偏りがあることを自覚し、それでも相手の価値観をまずは整理してみること。
自分が大切にしてきたことも、同じように整理してみるといいのではないでしょうか。

言っていることとこれまでやってきたことが矛盾していないか

言動が一致していないのなら、どうしても「大切さ」を疑ってしまいたくなります。
どちらかといえば、「言葉」よりも、「行動」や「感情」が先立つのではないでしょうか。
その後から「言葉」がついてくる。なんとか説明しようと試みる。そんなイメージです。

これが「一貫性」にもつながってきます。
間違っても「私はワークライフバランスが大切だと…」なんて発言はしないはず。
「大切なこと」を、どこかから借りてきた言葉で ちぐはぐに表現するなんて、大切にしている本人が最も耐えられないはずなのですから。

就活でついついテクニカルな話題に振り回される人も少なくないようです。
「インディペンデントでいられるか」という糸井氏の表現がありますが、
「大切にしてきたもの」があれば、それもきっとたやすい事なんじゃないかと思えてきます。

仕事で大切なこと-「幹事のできる人」-

二つ目の対談は、漫画家のしりあがり寿氏と糸井氏。

しりあがり氏は「うちで重用するのは『幹事のできる人』」と話している。
これがまた深い言葉ですね。

ここからはまた僕の考えですが、『幹事のできる人』の要素はいくらでも挙げられます。
そう、「いくらでも挙げられる」のがポイントになるのです。

・念入りな準備にエネルギーを割ける
・シナリオどおり、タイムスケジュールどおりに進行できる
・周りに助けてもらえる
・他人を動かすことができる
・参加者の”ツボ”がなんとなく分かる
・失敗してもキャラ的に許される
・一人で盛り上げることができる
・他人を生かして盛り上げることができる
・予想外の事態でもきちんとリカバリーできる
などなど。

これらすべての要素を持っている人はいないでしょう。
でも、名幹事はすべからく 自分自身の何らかの特徴を上手に生かしているはずです。

逆に言えば、「幹事をうまくやる」ためのアプローチは一通りではないということ。
様々なアプローチが可能であることにこそ着目すべきではないでしょうか。

仕事のやり方は一通りではありません。適性なんてやってみないとわかりません。
自分で自分の適正が分からなくても、上司や先輩にはきっと見えているはず。
彼らを信じ、彼らに従うことが実は正しい、なんてことも少なくないのではないでしょうか。
やってみたら思った以上に面白かったという経験はきっと誰しもが持っているはず。

就職する前から経験したこともない業種や職種に強い志望を持っている人がいます。
僕からしたら、それはものすごく不思議なことでした。
(大学で情報処理を学んでエンジニアになりたい!というのはもちろん別ですが)

やってみなければわからない。
だから、志望動機なんて考える暇があったら、「大切にしてきたこと」を掘り下げたほうがいい。

そもそも、「志望動機は考えるもの」という考え方が変です。
志望動機は文章化するもので、心の内にすでにあるものなのですから。

というわけで激しくおすすめ

こう自分の意見を書いてしまうと、本書の良さが伝わりづらいかもしれません。
本書の良い点は、対談形式だから、きれいにまとまった言葉があまりないことだな、と。
だから、こうやって僕も自分の言葉で自由に説明したくなってしまうのでしょう。

読んだ人それぞれの琴線に触れてくる言葉がいくつかあるはずで、
それは不思議と書かれた言葉以上のボリュームを帯びて自分の中に入ってきます。

この本を読んで救われる就職活動生も多いのではないでしょうか。

むしろ、この本を読んでもどうとも思わない人ほど行く末が不安です。
(それは、すでにハイパーメリトクラシーでの勝負が決していることを意味する…)

もちろん、この本にだって、答えなんか書いていませんが。

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誰の身にも起こること、と思っていない人が多すぎる

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自分の子どもの死体を遺棄できる心境を思う」という前記事の流れで。

自分の子どもを放置して死亡させた母親に対する、mixiニュースに便乗した日記のバッシングの強さと対照的に、 ちきりんさんとか、dankogai氏とか、きちんと正面からこの事件を見つめている人も多い。
前記事もTwitterで何度かRTしていただき、このブログの半月分のアクセスを一日で達成してしまった。
それだけこの事件で「違和感」を覚え、僕の記事に少しでも共感してくれる人が多かったのだと思う。

個人的に読んで嬉しかったのは、切込隊長BLOGのちょっとした一言だったりする。

個人的には、核家族問題の一種だとも思っているので、祖父祖母も含めた大家族と核家族の中間のような形態がうまくつくれるといいなと。

僕の中学の同級生にも、早々に結婚したり、仕事を辞めてしまっている人もいる。
でも、なんだかんだで、家族と一緒に暮らしているので、それなりに生活できている。
親に万が一のことがあったら、なんて考えると、彼らも途端に不安になるだろうけど。

万が一」 それが自分に降りかかると思っていない人が多い、と思う。
僕が心配性なだけならいいんだろうけど。

・貯蓄もなく、頼れる家族もなく、独身で、二人の子どもを育てる。
・突然、遺伝性の重病にかかり、全く働けず、精神を病んでいた妻が自殺してしまう。

というような状況になったとき、自分が平常を保てるかと言うと、あまり自信がない。
それなりにいいところへ就職できたのに、心を病んでしまった同期も少なくない。
そんな人たちを見て、「自分とは無関係」「自分は大丈夫」なんて思えない。

僕の違和感はここを出発点としている。
自分が自信を持てないことを、他人に対して強く言えるという精神が理解できない。
「育児を放棄するくらいなら子どもを生むな」と、なかなか言えない。(※)

残酷な精神を持ち合わせていたり、倫理観が欠如した人だけの問題。
「世間」はそういう「勧善懲悪」で済まそうと躍起になっているように見えてしまう。
誰か特定の人を犯人に仕立て上げる。
分かりやすい構図で見せるために、犯人探しに終始する。

「もし私が同じ状況に立たされたとしたら」と想像する意欲は失われる。
「誰にでも起こりうること」ではなく、「特別な人の問題」として処理しようとするのにつられて。

それが何の解決になるだろうか。
社会の矛盾から生まれた膿を必死で洗い流すことに一生懸命になっても、 その膿の元となる「病原」の治療は一向に進まない。
「普通の人」たちが、「特別な人」を排除して、社会の健康を守ろうとしている。
そんな構図に見えなくもない。乱暴すぎるかな。

罪は罪として、冷静な判断の元に裁かれるべき、というのに全く反対する気はない。
でも、それで万事解決すると思えるほど、僕は能天気にはなれない。
こんな状況を見ると、社会保障がどうこう言えるような雰囲気じゃないなと思ってしまう。

「自分には万が一のことはありえない」という前提がこの社会のどこかにあるから。
みんな、自分が「普通の人」の範疇に収まり続けると思っているから。

「もしも自分が…」という不安を社会全体で和らげましょう、というのが社会保障だと思う。
「特別な人」のためのものじゃない。 「誰にでも起こりうること」が「たまたま実際に起こってしまった」場合の助け舟。
そういうコンセンサスが取れていないと、社会保障は成り立たないし、「国」なんていらない。 と、思う。

余談。
自己責任って、誰が教えたんだろう。教えられた記憶ないんだけど。 どこにその論理が埋め込まれていたんだろう。学校?

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