Category Archive: 世の中の事

複雑で高度な21世紀への挑戦と一抹の不安

カテゴリ:世の中の事

島に移住して間もなく薦められた本をようやく手に取った。

邦訳の初版は1999年なんだが、
今読んでみても”新しい”見方を提供してくれている。

まだ最後まで読み切っていないが、
数十ページ進めてみてとっさに思い浮かんだことがある。

現代は性悪説から性善説への移行期かもしれない

本書の具体的な内容については別途整理したいが、
率直に言えば、本書の内容を実践することは
これまでの人をコントロールするやり方よりも難しい。
難しいだけより良い成果が出る、ということなのだと思う。

20世紀においてはシンプルでわかりやすく
とっつきやすい直線的なやり方が好まれていた。
しかし、その限界が多方面で21世紀の課題として残っている。

どん詰まり感が支配しつつある時代背景を考えれば、
複雑だが、より人間的だったり、より本質的だったり、
そうした方法に注目が集まるようになるのも無理はない、と思う。

ただ、自覚は必要だ。
水準を複雑で高度なものにすることへの留保が。
新しい正義が誰かを置き去りにするかもしれないことへの留保が。

すでに、気づいた人が気づいていない人を、
しようとしている人がしようとしない人を批判する声が大きくなっている。
対立により摩擦が生じるという覚悟が、きっと必要なんだろう。

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技術を伝えるときは自分を過小評価しない方がいい

カテゴリ:世の中の事

元・同期の記事が話題になっていたので。

エンジニアから非エンジニアに歩み寄る方が捗る

この記事の「エンジニアは知らないことに囲まれる状況に慣れすぎ」が、
知識のある側と乏しい側とのギャップを埋めるヒントがあるように思う。

最初は先輩の言ってることがほとんどわからないですが、メモってググってしてるうちにいつの間にかわかるようになっていきます。エンジニアは手取り足取り教えてもらえることって少なくて、生き抜くためには自分で調べて試行錯誤を繰り返す必要があります。で、いつの間にかその状況が当たり前になって身体に染み付いていくんじゃないかと思うんですよ。実際他の人がどうかはわかりませんが、自分はそんな感じのイメージです。

これはエンジニアとしてはいいことなんですけど、 その感覚を他の人にも求めがちなんじゃないかなぁと感じることがあります。「それは自分でキャッチアップしようよ」とか、「最低限の知識は自分で身につけるべきでしょ」とか、つい思っちゃう。

エンジニアから非エンジニアに歩み寄る方が捗る

自分が通ってきた道は他人でも通れる、とつい考えてしまう傾向はあると思う。

特にエンジニアという専門職を自らの選択で歩もうとしている人は、
きっとわからないことがあっても無理のない範囲での努力で基礎を習得し、
プログラミングを学ぼうとする人が挫折しがちな壁を乗り越えてきたはず。

ところが、向学心があり、より専門性を高めようと考える人ほど、
下ではなく上を見てしまうところがあるのではないか。
自分ができるようになるほど、できないことが見えてきて、
「いやいや、あの人にはまだ遠く及ばないから」とつい謙遜してしまう。
ある程度のレベルに至ってこそ、自分はまだまだだ、と思うのではないか。

ここに、初学者とのギャップが生じる原因があるように思う。
「まだまだな自分でもわかるんだから、きっと誰でもできるはず」
こうした認識が、知識をこれから身に付ける側にはかえって重圧になる。

逆に、苦労して知識を身に付けた人の方が
知識を伝える側になったときに効果的だ、なんて例も少なくない。

自分自身、新卒・研修時代前後の経験と独学によって
プログラミングを身に付けようとしているけれど、
日常の仕事の合間を縫ってやるにはやる気の維持が大変だし、
つまずくことがあるとつい手が止まってそのままになりがちだ。
隣に先達がいないことで、非効率に学習時間を割く羽目にもなる。

そうしたあれこれをクリアし仕事として成り立たせている人を見ていると
尊敬の念を禁じえないし、「やっぱり向いていないのかな」とか
「そこまで好きになれないと続けられないのかな」などと思ってしまう。

こう書いてはみたものの、僕自身高校生に勉強を教える段になると、
知識をもつ側の(ある意味で健全な)謙遜の論理を持ち出してしまう。
日々反省するものの、無意識に根付いたものを解消するのは難しい。

まずは自分の実力をそれなりに評価することから始まる気がする。
それは必ずしも「謙遜」という在り方を損ねるわけではない。
むしろ、正しく自分の位置を認識することのわきまえを持つことが、
周囲との調和を生んでいくような気もしている。

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「コミュ障」の原因と克服の方法を自分でなく他者に求めてみる

カテゴリ:世の中の事

「コミュ障」を「信頼」の問題と捉えてみれば

コミュニケーションに何らかの困難を抱えている人に対して
やや揶揄的に(あるいは自嘲的に)「コミュ障※」というタグが付くようになった。

「コミュ障」の特徴については読者のイメージするところに委ねるが、
こうした状態はより端的にこう言い換えられるのではないか。

コミュニケーションする自分も相手も信頼できていない状態

「コミュニケーション能力がないと思われるのではないか」
「相手は自分に興味を持ってくれないのではないか」

冒頭のツイートに戻ると、「黙る」から「喋る」への移行を通じて、
コミュニケーションする二者への信頼は高まったのかが問題となる。

※「コミュニケーション障害」の略。
ここでは学術用語の射程外にある用法について扱っています。

「自分を変える」は不信から始まる

「黙るコミュ障」、「喋るコミュ障」という表現に注目してみると、
コミュ障の克服のために「自分」を変えようとしているのだと読める。

「面白い話ができる」「相手の興味・関心を引くことができる」
そんな自分になるために「黙る」から「喋る」への移行という試み。

これはコミュニケーションする二者への不信から始まっている。

「黙っている自分は無価値だ」、そんな価値観が見て取れる。
それはつまるところ「自分」への不信だ。

「面白く喋らないと、相手は自分の話なんて聞いてくれない」
ここには「相手」への根本的な不信が存在している。

根っこの部分にネガティブな感情があると辛い。
変化の結果によってポジティブな状態に到達できればよいが、
そうでなかった場合のダメージ、揺り戻しもまた大きくなる。

このやり方はダメとは言わないし、選択肢の一つとは思うが、
万人に推奨する方法としてはリスクが大きいかもしれない。

聞き手を変えてみる

「自分」と「相手」への不信が原因であるとすれば、
逆に信頼してみることから始めるのもありではないか。

もちろん、深く根差した不信を変えるのは難しい。
そこで「信頼できそうな相手を見つける」という方針をとる。
話を聞いてくれそうな他者を探してみるのだ。

そもそも、本来なら家族や友人など
身近な人に話を聞いてもらうことを通じて、
人はコミュニケーション能力なるものを身に付けていくのだと思う。

話を聞いてもらえたという経験がないから、
「自分に問題があるのか」、「相手にとって自分は価値がないのか」、
そんな不安を抱え込んでしまうのだと思う。
聞き手であった他者に原因を求めるとは、そういうことだ。

だから、自分がしたい話を聞いてもらえる相手を見つけてみる。
共通の趣味をもつ人でもいいし、誰にでも優しい人でもいいし、
顔も合わせたことがないWEB上のつながりでもいい。
依存的になると相手に負担がかかるので、とりあえず1回だけでいい。

話すという行為のカギを握るのは聞き手である

僕自身、とあるロールプレイを経て強く実感したのだが、
話すという行為は、聞く人の姿勢や態度に大きく左右される。

話を聞いてもらえる、安心して話したいことを話せる。
そのためには自分でなく聞き手を変えた方が手っ取り早い。

良い聴き手の代表例であるカウンセラーは「聴く」専門家だ。
逆に言えば、カウンセリングに通うクライアントの語りというものは
専門性をもつ聴き手によって成り立つとも言える。

「自分の話には価値がないのではないか」と感じるならば、
それは聞き手がそういう聞き方をしてしまっているに過ぎない。

人間不信、コミュニケーション不信がいきすぎる前に、
自分ではなくコミュニケーションする相手を変えてみる。
話し手に安心感を与えてくれる聞き手を見つけてみる。
(或いは、そういう他者がどこかにいるはずだと考えてみる)

そうして救われる人は、割と多いのではないかと思う。

仮説:「コミュニケーション能力」という嘘

コミュニケーションにおける聞き手の影響力を考えると、
「コミュニケーション能力」が個人に問われているということが、
「コミュ障」というタグ付けが起こる要因であるように思う。

繰り返しになるが、コミュニケーションは相手がいて成り立つ。

相互作用で育まれるものの見た目上の欠如の原因を
個人の責任や努力不足に求めることが果たして適切だろうか。

「コミュニケーション能力」の有無が「障害」と呼ばれるほどに、
ある人にとってその発達がとても困難なものとなっているのは、
そもそもの捉え方が間違っているからではないか。

「コミュニケーション能力の低下」を認めるならば、
それを育む聞き手の不在という社会全体の問題に帰結する。

そもそも「コミュニケーション能力」なるものが
個人の努力以外の影響からも左右されるとすれば、
「コミュニケーション能力」なるものは個人の課題ではなく、
それはむしろ社会的なものとして、或いは社会そのものの”能力”として
再定義されねばならない、という踏み込んだ見方もできる、と思う。

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