Category Archive: 世の中の事

勉強へのやる気の出し方:やる気は適切に使って増やす

カテゴリ:世の中の事

「やる気はあったのに…」

今日は勤務先の冬休み開け最初の授業だった。
長期休暇後、生徒に必ず聞くことがある。

「学校の宿題は終わったか?」

案の定、始業式当日にも関わらず未完了の生徒がちらほらいた。
僕が受け持つのは大学進学を希望する高2生。
完了している生徒の多くも始業式前に慌てて仕上げにかかっている。

彼らは不真面目でやる気がないのか?
いや、そうではない。

冬休みに入る前の彼らは「勉強しなきゃ」と語っていたし、
来年から受験生となる自覚をしっかりと持っている。

それでも、冬休みの宿題すら終わらせられないのだ。

やる気は使えば使うだけ増える(※ただし適切な使い方に限る)

それを受けて、彼らにこんな話をした。

やる気は使えば使うだけ増える。
勉強でもノリにのっているときはそんな感覚になるはずだ。
それはやればやっただけ成果が出る手ごたえがあるからだ。

逆に、やっても無駄なことに対して、あるいは適切でない状況下で
やる気を燃やしても、やる気は浪費される一方だ。

終わりが見えない作業を義務感なしでやり続けられるだろうか?
大みそかや正月の雰囲気で勉強できるだろうか?
家族と旅行に出かけているタイミングで勉強したくなるだろうか?
そんな場合でも集中して勉強できるという人の方が珍しい。

冬休み突入時からやる気にあふれ、真面目な君たちは、
きっとクリスマスの誘惑で勉強できなかった自分を嫌悪しただろう。
しかし、それが当たり前なのだ。
そんなところで真面目な自分を保とうとする必要はない。
その罪悪感がやる気を削いでいるのだから。

勉強に不適切な状態でやる気を燃やし続けていれば、
後半になるにつれてやる気が目減りするのは当たり前だ。
休むときには後ろめたさを感じること休め。
その分やれるときに集中的にやる気を発揮しろ。

割と生徒が納得してくれたので、ブログでも紹介することとした。
こんな話でも誰かのためになると良いのだが。

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周囲への感謝の芽生え:give and give再考

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生徒の何気ない変化から

島に暮らし、教育の仕事に携わり始めてから5年目。
毎年高校生を世に送り出すような仕事をしていると、
ふとしたときに生徒の変化に気づくということはどうしてもある。

今年は学科試験でない形で進路実現を目指す生徒が多い。
つまり、志望理由書、面接、小論文、GDなど、
学科試験対策とは異なる指導が必要ということであり、
それらはどうしてもイレギュラーな個別対応になる。

なるべくコンスタントに指導できるように分担してはいるが、
教科指導も通常営業中、レギュラーで対応するのは難しい。

そのため、生徒は大人に諸々の指導を依頼する必要が生じる。
生徒から見れば、自分のために大人の時間を使わせてもらうことになる。
依頼してくる生徒の恐縮した態度を見ても、その認識はやはりあるようだ。

面接指導は、意図せずとも生徒の「ありがとうございました」で締め括られる。
こちらのフィードバックは必死にメモをし、特に指摘のなかった部分でも
自分の中で不安に思っている点は素直に質問してくる。

こうしたひたむきさは、1、2年次の教科指導であまり見られないものだ。

人に頭を下げるということ

生徒は、依頼時に頭を下げる行為を無意識に行っていると思う。
彼らにそう促すものが「受験」であることは言うまでもない。

それまでは「してもらうこと」が当たり前だったのかもしれない。
教科指導の必要性を感じていなかったわけではないはずだ。
勉強の先に自分の将来が接続されていなかったのだろう。

具体的で、そう遠くなく、かつ自分の人生へのインパクトが大きい。
例えばそうしたゴールを自らの責任の内に引き受けるとき、
人は他人に頭を下げることができる。そう考えることもできそうだ。

それは仕事でもあてはまるように思う。
「やらされ仕事」の中で感謝が芽生えるという印象はあまりない。
せいぜい感謝される喜びに触れるに留まるのだろうが、
しかしそこで生じる感謝は、発信者にとっても受信者にとっても
どこか歪なものとして交わされてしまう気がする。

そうではなく、目の前のことに自分の前向きな意志が介在し、
必要性や意義を見出せており、やらないという選択肢がもはやない。
そんな状況下であるとすれば、前進のために逡巡している暇はない。
やらなければならないことを必死で考えるだろうし、
途中で他人を頼る必要があるならば、素直に頭を下げる。
前進させたい主体が自分であるとシンプルに思えるならば、
与えられたものにはごく自然に感謝ができるのではないか。

“give and give” 再考

「感謝」について色々と考えているうちに、
“give and give”もまた、前提として”take”が必要ではないかと気づくに至った。
“give and give”する側になるには、
“take”する側(“give”される側)にまずなっておくべきなのではないか、と。

見返りを求められない好意を受けていたことが、
見返りを求めない”give”を提供する側の素養となる。

また、”give”は”take”のニーズによって成り立つ行為だ。
“take”したい人がいて、それに応じられる人が”give”をする。

与えることの喜びは、与えられる喜びから学ぶことができる。
そんなことを思っている。

“give and give”の精神は多数の”take”から始まるかもしれない

先日、”give and give”について思いついたことを整理してみた。
今回の記事で深められたのは、”give”に先立つ”take”とは何か、だ。

生徒がそうだったように、「頭を下げる」という行為は、
“give”なく”take”を求めることと言える。
どうしても達成したいことがあるから「頭を下げる」のだ。
そして、ここで戻ってくる”give”は見返りを求めるものではない。
だから、周囲への感謝の念が自然と湧いて来る。

こうしたサイクルを繰り返す中で、いつしか器から感謝の念が溢れ、
ごく自然に”give and give”のスタイルに転ずる。

社会起業家と呼ばれる人たちもまた、この軌跡をたどったかもしれない。
そんなイメージが湧いたのだった。

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“give and give”の精神は多数の”take”から始まるかもしれない

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「日々、周囲への感謝を忘れないようにしなさい」

この耳障りの良い言葉には、見落とされているものがあると思う。
ある事象に対して感謝が先行するということはあるのだろうか。

周囲の人や自分が今いる環境に対して感謝するためには、
感謝するだけのものを受け取る必要がやはりある、と思う。

「日々、感謝する」という態度が表出する瞬間とは、
例えるならコップから水が溢れるときにも似ていて、
与えられ続けてきた蓄積が、ある時点から感謝に転移する、
そういう類のものなのではないかというのが最近の仮説だ。

“give”は”take”から始まるかもしれない

ビジネス書なんかでよく言われることに
「”give and take”ではない。”give and give”だ。」という言葉がある。

はじめから見返りを求めてはいけない。
見返りがなくとも与え続けることで初めてリターンが来るのだ。
そんな感じの解釈だったと思う。個人的には割と好きな言葉だ。

「感謝」について色々と考えているうちに、
“give and give”もまた、前提として”take”が必要ではないかと気づくに至った。
“give and give”する側になるには、
“take”する側(“give”される側)にまずなっておくべきなのではないか、と。

見返りを求められない好意を受けていたことが、
見返りを求めない”give”を提供する側の素養となる。

また、”give”は”take”のニーズによって成り立つ行為だ。
“take”したい人がいて、それに応じられる人が”give”をする。

与えることの喜びは、与えられる喜びから学ぶことができる。
そんなことを思っている。

まとめ:海士町・多井地区の事例から

この記事の結びとして一貫性を保てないかもしれないが、
ブログを書いている最中、頭をよぎっていたエピソードがある。
海士町第四次総合振興計画の別冊のコラムで紹介されている話だ。

2008年の夏、海士町の多井という当時わずか15世帯の地区に、
岡山県倉敷市にある福祉系大学の学生が約1か月間滞在した。

福祉を学ぶ彼らのモチベーションは、
地域に暮らし地域の人を助ける、お世話をする、そんなところにあったろう。

彼らは多井の公民館で生活していたが、
公民館には家電はなく、旧式の洗濯機の使い方などわかるはずがない。
食材をもらっても調理方法が分からない。
結局彼らは、当初の想定とは裏腹に地域の人に助けてもらう生活を過ごした。

それがかえって多井の人たちが「ありがとう」と言われる機会になったという話だ。
他人に施す、与えるということが高齢者にとってささやかな生きがい、やりがいとなり、
その機会を提供したのは”give”ではなく”take”の側にある学生だった。

このコラムは「福祉」の意味を問いなおす形で締めくくられる。
“give and give”という言葉の意義は、その先にあるような気がする。

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