Category Archive: 自分事

「わかってもらえない」と思ったら負け

カテゴリ:自分事

年度末あたりからストレスフルな日々が続いていた。

細かな仕事を多く抱えながら不慣れな業務に当たり、
しかし誰からも現状を把握してもらえていない状況で、
「よくわからないけど忙しそう」と見られているのを感じていた。

余裕がなくなると仕事の振られ方一つでイライラしてしまう。
イライラが募ると、尊重されていない、と思うようになる。
「それくらい当前だろ」という言葉や態度に過敏になる。

そして、ある日、不満を思わずぶつけてしまった。

わかったことは、
このイライラを昇華させるのは周囲でなく自分だ、ということ。

自分だけがしんどいわけではなかった。
誰もが忙しく、心を亡くしている。
結局、誰かが誰かのために配慮することからしか事態は動かない。
そして、その配慮を他人に期待するからその先が進まない。

周囲を許すことが自分を許すことにつながる。
逆に言えば、周囲に求めすぎるからストレスがたまる。

「わかってもらえない」「もっとわかってほしい」

そう感じるときほど、自分の欲求から離れて、
周囲の状況をよく見た方がいい、そう思った。

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徒労感のない仕事や暮らしと循環のある営みについて

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「省エネ」

やっても意味がないこと。終わりが見えないこと。
手ごたえがないこと。フィードバックがないこと。

仕事でも日々の暮らしでも、徒労感こそが最大のストレスではないか。
意義を確実に感じながら努力の先にあるものを見据えられているのなら、
その途上での障害や人間関係の軋轢によるストレスは
かなりの程度はやりくりできる、そんな風に考えるようになった。

「省エネ」という言葉がある。
これを「徒労感のないようにエネルギーを使うこと」と訳すと、
それは僕が実現したい働き方や暮らしとぴったり重なる。

「無駄がない」との微妙な違い

「徒労感がない」を「無駄がない」と言い換えると、
僕の意図がうまく伝わらないような気がしている。
理由のひとつとして、僕を含めた多くの人にとって、
あることが本当に無駄かどうかを判断する難しさがある。

無駄という判断は何らかの価値基準によってなされる。
しかし、或るものの価値とは常に一側面を切り取って評価されるにすぎない。
誰かにとって全面的に意義のないものなど本当にあるのだろうか。

「無駄」と思っていたことが無駄ではなかったというケースは多い。
「生産性」の大義によって職場から非効率として排除された仕組みが
実は社内コミュニケーションの量を担保していた、といった例は枚挙に暇がない。

「徒労感のない」という耳慣れない言葉をわざわざ使うのはそういう理由だ。
「徒労感」の有無は主観的な判断で構わないし、むしろそうでなければならない。
仕事や暮らしの中で、その人がどう感じ、どういう景色を見ているのか。
そこにフォーカスすることなしにこの話を進めることはできない。

自分と周囲をうまくかみ合わせること

自分はこうありたいという価値観があり、
一方で仕事や周囲との人間関係の中で求められる役割がある。

周囲からの要請に応えることを優先しすぎると、
自分らしさを維持する余地が損なわれる恐れがある。

自分らしさの実現ばかり追い求めると、
職場や友人関係に軋轢が生じるかもしれない。

周囲との関係性の質を高めたところで、
目の前の仕事や暮らしが自分のありたい方向とずれていれば
本来欲するところが結局満たされないままとなる。

ありたいようにある、ということと
周囲との関係性を良好に保つ、ということと、
自分と仕事や暮らしの方向性を一致させる、ということの両立。

自分の在り方を損なわないようにしながらも、
自分だけでなく周囲との関係性のかみ合わせをチューニングする。
そうした日々の小さな働きかけの積み重ねがとても大切になる。

本来求めているものを知るということ

結局、自分が求めていることと、
他人や環境が求めていることを知るということに尽きる。

単純な話だ。
「ショートケーキが食べたい」というリクエストは、
そこにショートケーキがないときには当然満たされない。

それでもショートケーキにこだわるのなら自分で探しに出るしかない。
その環境には自分のリクエストを満たしてくれるものがないのだから。

一方、自分のリクエストを因数分解するというやり方もある。
単に甘いものが食べたいということなのか、生クリームこそが要求なのか。
リクエストの抽象度が上がればそれを満たす具体策はより多様になる。
その環境の中で自分のリクエストを満たす方法を探すというわけだ。
ブリコラージュ」的な作法とも言える。

もちろん、このやり方には限界がある。
リクエストをどうこうしたところで、環境が応じてくれる余地がなければ、
やはりその環境を離れるということを考えるタイミングなのだろう。
実際、多くの人がこうした形で人生の転機を迎えているような気がする。

ここまでの話の主語は「自分」だったが、
同じ環境にいる「他人」を主語にした場合も考える必要がある。
自分の要望を叶えることばかり注力してはいられない。
他人の要望も叶える、もっと言えば自分と他人が両立・併存できるように
お互いのリクエストを解体し、かみあわせていく働きかけが重要となる。

環境を変えることで解決することは少なくないが、
最終的にはその環境の中でどうやりくりするかが問われる。
ブリコラージュ的発想がなければどこにいても満たされることはない。

エネルギーのロスを減らすというアプローチ

自分と周囲とのかみあわせが良くなり、
お互いがやり取りするエネルギーのロスが最小の状態。
それが「徒労感のない」ということだと思っている。

ここには「困難や壁を突破する」という価値観はない。
摩擦を恐れずに真正面から課題にぶつかり解決していく、
そうした考え方もまたありえると思うが、僕にはぴんと来ない。

力んでばかりいると自分の感覚がにぶくなる。
それよりも感覚を研ぎ澄ませて楽にいられるようにしたい。
リラックスした方が自分らしさの輪郭を捉えることがより容易になる。

工夫を凝らし、自然な形で事を運ぶということにこだわる。
それは純粋な意味での生産性の向上ともつながるように思う。

具体的には、日々のコミュニケーションをほんの少しでも
意識的に変えていく、ということになるのだと思う。

「仕事なんだからやらなきゃいけないものはやらなきゃいけない」

真っ当な正論を振りかざすのは楽ではある。
が、「かみ合わせをよくする」という発想とは程遠い。
もっと言えば暴力的で、相手のことを考慮に入れる気がない。

頼みたい仕事が頼まれる相手にとってどんなメリットがあるのか、
ちょっと立ち止まって考えてみる。
それだけで、相手へ投げかける言葉が変わってくるはずだし、
そうしてほんの少しでも工夫を入れ込む方がきっと楽しい。

お互いがお互いを損ねないように工夫し合う関係。
それが結局、持続可能ということなのではないかと思っている。

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数学の記述力を上げるために:場合の数と確率を用いて

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※本記事は勤務先の隠岐國学習センターにて、
場合の数と確率を用いた数学の記述力向上を目的とした授業の際に
生徒に指示・伝達する内容をまとめたものである。

「場合の数と確率」を苦手とする原因は読解力不足と記述力不足にある

○よくある課題
小問集合のように単一の問題として出題されると解けるが、
大問形式になると(1)から完答できない。

○原因
(1)問題の読解力がない(設定を理解できない)
(2)数学の答案を記述する力が不足している

○背景
「場合の数と確率」分野で最も重要なのは「考え方」である。
この分野は、特に模試において設定を丁寧におさえることが必要であり、
そのため計算式に至るまでの記述量(=どのように考えたか)が必然的に多くなる。
多くの生徒は数学を、公式等を用いて計算し、答えを示すものと見なしているが、
上述の通り具体的な計算よりも考え方に重きが置かれる分野のため、
計算はできるのに状況の理解と立式の根拠が不足し、結果、得点に至らない。

「場合の数と確率」を用いた読解力・記述力の向上の方法

○指導の方針
・教材:例題+演習問題の構成のもの(「チャート式数学」等)

○進め方
(0)「場合の数と確率」分野の例題の問題、図及び模範解答を1字1句漏らさずにノート等に写す
(1)演習問題を解く。具体的な答案作成に入る前に図やイメージを書く。
(2)(1)の図・イメージ及び例題の模範解答を元に答案を作成する。
(3)1問解く毎に丸付けをする。指導者から添削を受けるか、または同級生と互いの答案を丸付けし合う。
(4)一通り解き終わったら、例題を見ずに解答するチェックテストを行う。
※(0)は省略可

○ねらい
・図、イメージに落とし込む→読解力向上
・模範解答をまねる→記述力向上(答案の型の定着)
・記述を添削する→記述力向上(答案作成に必要な観点への気づき)

○留意事項
・図、イメージには手加減しない。サボらない。
→例えば大小2個のサイコロを振るような設定であれば、36パターンをすべて記述する。
樹形図も書けるだけ書いておく。袋から玉を取り出すならまずは絵を描いてみる。
特に「場合の数」問題はパターンを書き切ればそれだけで答えが求められるものが多い。
答えを見つけるプロセスをどのように答案として表現するか、それが記述力である。
まずは設定を確認し、その上で立式から答案作成に持ち込むことが肝要である。

・記述は模範解答をそっくり真似る。
→記述力不足の原因の一つとして、解答の”型”を体得していないという問題がある。
チャート式等の網羅系参考書は、例題から模範解答を学んでこそ価値を発揮する。

・記述は不足するより過剰な方が良い。
→過剰に記述した答案と解答用紙を見比べてはじめて、何が答案に必要/不要かがわかる。
また、計算式を書いただけの答案では、自分の考え方をトレースすることができない。
とにかく記述しまくった答案は、模範解答との差異という形で多くの学びを提供してくれる。
「ここまで書く必要があるのか?」と疑問に思う暇があったらとにかく答案に盛り込むべきだ。
要不要は答え合わせの時点で判断すればよい。

・丸付けはまとめてやらず、一問解き終わるごとにする(小問毎でもよい)
→学習効率の向上は、フィードバックループをいかに早く回すかにかかっている。
自信がない問題ほど速やかに答案と模範解答とを見比べ、違いを認識し、
その違いを次の問題の答案作成に生かす。そのループは細かいほど良い。
あとでまとめてやると、多くの無駄な間違いが発生し、かつ解き直しに手間がかかる。
余計な復習を最小限にするためにも、「これ以降は解ける」という感覚をつかむまで
細かく丸付けをし、自分の「考え方」を微調整するのが望ましい。

・丸付けは式や答えだけでなく日本語の使い方にも注意する。
→自分の答案と模範解答の記述の違いこそが「考え方」を改める良いきっかけとなる。
式は「考え方=記述」の結果にすぎず、答えは式の計算の結果に過ぎない。
繰り返しになるが、「場合の数と確率」分野で最も重要なのは「考え方」である。

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