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抽象的思考、または知る前に分かろうとする態度について

カテゴリ:自分事

読書という趣味

僕は身の周りの人と比べればよく本を読む人間で、
読む本の種類も、偏りはあれど幅広い、というささやかな自負があった。

「なぜそんなに本を読むのか?」

僕の蔵書にある類の本を普段あまり読まない人、
またはそもそも読書が趣味ではないという人からたまにそう聞かれる。

「本がつながっていく感覚がたまらないから」

例えばそんなふうに答える。
これは実際に僕が今のような選書のスタイルをとりはじめた経緯でもある。

読み終えたときに次の関心や参照すべきテーマが見えてくれば、
あとは引用や参考図書の欄だろうが、誰かのブログだろうが、
その関心やテーマに沿った本との出会いを待てばいい。

興味・関心がホットであれば出会い頭に購入するし、
とりあえずストックしておいて、ふと思い出したときに買う、ということもある。
一度ストックしておいた本に、また別の文脈で再会するのも嬉しい。
そうして時機の熟成を待つという楽しみ方もあったりする。

知識としての記憶、理解としての記憶

たいていの場合、本の内容についての記憶はほとんど残らない。
特に知識として残っているものは断片的で、
サマリーとしてのぼんやりとした理解しか残らないことが多い。

知識として残すためにはもちろんそれなりの作業が必要で、
一冊一冊にそれだけの時間を投入していないのだから、
残っていないのは当然で、それでよいと思っていた。

ところが、ここ数日は自信が持てなくなっている。
理解に偏った読み方をするとわかりやすく都合がよい情報しか残らない。
それは今まで読んできた本の価値を損ねることになりかねず、
自分の中のストックにならない行為ではないか、と。

ブログに書評を残す意義

それでも何らかのインプットの軌跡として、
ブログに書評のようなものを書けるものなら書く努力はしていた。

しかし、自分の書評記事を読み直すと、
いかにその本を自分なりに解釈するかに関心が向いているように思える。

もしかするとその本自体を知識として身の内に収め、
著者の言わんとすることに真摯に向き合っていないという見方もできる。

結局のところ、本のエッセンスを読み解くことにばかり気を取られ、
一語一語、一文一文を軽視しているのかもしれない。

抽象的思考の果てに

つまり、いかに具体の事柄を抽象化するか、にだけ目がいっている。

思えば、小学生の頃から人の話を最後まで聞くということが苦手で、
2割だけ聞いて全体を推測し、サマリーだけ頭に収めるという
雑な授業態度をとっていた自覚はある。それは今でもあまり変わらない。

事物のエッセンスを抽出することには熱心だから、
無関係な事柄の共通性を無理やり見出してつなげる、という芸当は得意だ。
素養としては「アイデア出し」や「デザイン思考」に適性があるはずなのだと思う。

選書の方法も、抽象化の産物である、と思う。
あまり人が手を出さないような書籍も本棚に並んでいるのはそのせいだ。

抽象的思考偏重は、僕の中で限界を迎えつつある。
ストックが蓄積される実感がだんだんと持てなくなり、
出会ったものにはすぐにグルーピングやラベリングをしたがる。
目の前の具体のものから得られる情報量も減っているかもしれない。

世界を新鮮に見る姿勢に欠けるのは、僕自身の責任によるものなのだ。

4. “同じ”にするとは抽象化するということ

 人の”同じ”にしてしまう能力はいわゆる”抽象化”という言葉で表現できる。抽象化とは対象から重要な要素を抜き出して他は無視すること。人は抽象化によって、あらゆる物や現象に対応する言葉を作ってきた。世界に全く同じ物や現象は存在しないが、それら個々の小さな差異を無視する(抽象化)ことによって言葉が生まれる。

鈍感な人は抽象的な思考ができる人 – Floccinaucinihilipilification

まさに僕のことを言っている、そう素直に受け取った。

抽象化の罠から抜け出すために

西村さんが「かかわり方のまなび方」の中で、「風姿花伝」という本に触れている。

この本は明治42年にある大学の教授によって現代語に直され、以来多くの人に読まれるようになった。が、それ以前は秘本で、能のお家元の人たちも若いうちは読むことを許されなかったという話を以前聞いたことがある。歳月を重ね、芸については十分研鑽したと思える頃になって初めて紐解く。そんな書物だったようだ。
秘本とされていた理由は何だろう。経験が十分でないうちに他人が整理した言葉や視点、価値観や要所を得ると、むしろそこで失われてしまうものがあるということ。たとえ内容が本質的で真理を突いていて、きわめて普遍性の高いものであっても、他人の言葉を通じて知ることと、自分の経験を通じて感じ、掴み取ってゆくことの間には大きな隔たりがある。場合によっては、それは損失にもなりかねないということを、あの書物を受け継いでいた人々は重視していたんじゃないか。

かかわり方のまなび方: ワークショップとファシリテーションの現場から

抽象化思考の危うさを感じ始めている今、この文章は胸に刺さる。

実際に体験したことからはテキストの何倍もの情報量を得られる。
もしかしたら洗練された言葉に比べてノイズが多いかもしれない。
だからこそ、プロセスとしての抽象化にリアルな厚みが出てくるし、
抽象化自体の精度が上がるような道程をたどれるとも言えるだろう。

「もやもやした体験」は、語られることで他人と共有され、社会化され、意味がはっきりしてきます。ここでは私は、「体験」という言葉と「経験」という言葉とを区別して使っています。「体験」→「経験」の間に「語る」という作業が入ることによって、語る相手の人と共有されるのです。「体験」は、まだ自分だけのなかに留まっています。それは、誰か他人に語ることによって他人と共有される「経験」になります。他人に語るということは、他人に自分の「体験」をわかってもらえるように語らないといけませんね。そこには、他人に伝わるように、わかるように語ることによって、自分の「体験」を他者と共有し、社会化していくという意味が含まれます。相手にわかるように語られてはじめて「体験」は「経験」になるわけです。

カウンセリングを語る―自己肯定感を育てる作法

高垣氏がいう、「体験」→「経験」の見立てにも通ずるものがある、と思う。
抽象化されたテキストとは、自分の内から言語化された「経験」ではなく、
「体験」を経由していないという意味で借り物のの言葉にならざるをえない。

読書であっても、それを体験として素直に受け止めること、
あるいは受け取れなかった際の違和感を大事にすること、
そんな些細なところに抽象化の罠を避けるヒントがあるように思う。

世界から受け取る情報をはじめからフィルタリングしている場合じゃない。
そう思いながら、少しずつでも日々の彩りを自ら取り戻していきたいと願う。

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現代における「語ること」の意義とコミュニティについて

カテゴリ:自分事

先日、西村佳哲さんのワークショップに参加する機会に恵まれた。
四時間を少し超過したワークは、あっという間に終わった。

僕の内面には、考えるのが面倒なこと、触れたくないことを
ろくに見もせずにさっさと放り込んでおくような倉庫があるらしい。

そのワークショップに参加してからここ数日間、
数年来放置された倉庫の扉を度々開け、中を眺めてみている。

今日は早朝に目が覚めたのだが、
思いがけず倉庫の中に足を踏み入れてしまったようだ。

言葉にならないとても大きな不安感がずっしりと心をとらえ、
わずかな日差しで薄暗い部屋で一人、数秒立ちすくむ。

1日が始まるときには胸にのしかかる重たさは遠のいたけれど、
心には後遺症が残り、浮き沈みはにぶく、凝り固まっている。

普段の何気ないコミュニケーションに対する違和感。
そうして”自然な”状態が何だったのかわからなくなる。

今日一日を通してリハビリしながら徐々に調子を取り戻そうとしているが、
まだ対面でのコミュニケーションがうまくとれないでいる。

そんな一日の終わりに、この記事を書いている。

はなすこと、きくこと、そして「語ること」について

先日のワークショップのテーマは「ひとのはなしをきく」。

が、まず冒頭で扱われたのは「はなす」ことについて。
聞き手がもたらす作用を話す側が体感してみる、というワークだった。

疑似的に体感するためのロールプレイではあったが、
それでも聞き手の態度や聞き方によって、話し手の話す意欲は減衰する。

「きく」の前に「はなす」という構成は、
今日たまたま手に取った本書と似ている。

本書の序盤では特に「語る」ということについて言及されている。

「語ること」の意味について、日常の生活のなかでも、漠然とは感じることがあると思います。「語る」と「しゃべる」とは違いますね。ここで言う「語る」は、自分を語ることです。自分を語ることは、とても意味があることです。

カウンセリングを語る―自己肯定感を育てる作法

語ることは、自分がとらえきれていない「モヤモヤ」の意味をはっきりさせる行為だという。
長くなるが、以下に引用する。

「もやもやした体験」は、語られることで他人と共有され、社会化され、意味がはっきりしてきます。ここでは私は、「体験」という言葉と「経験」という言葉とを区別して使っています。「体験」→「経験」の間に「語る」という作業が入ることによって、語る相手の人と共有されるのです。「体験」は、まだ自分だけのなかに留まっています。それは、誰か他人に語ることによって他人と共有される「経験」になります。他人に語るということは、他人に自分の「体験」をわかってもらえるように語らないといけませんね。そこには、他人に伝わるように、わかるように語ることによって、自分の「体験」を他者と共有し、社会化していくという意味が含まれます。相手にわかるように語られてはじめて「体験」は「経験」になるわけです。

カウンセリングを語る―自己肯定感を育てる作法

この章に目を通すと、著者がいかに「語ること」を重要視しているかが見て取れる。

日常生活では、友だちとか知りあいとか、いろんな人が語りを聞くわけです。自分の体験を他者に語って、それを承認してもらい、理解してもらい、共有してもらうことで、世界のなかに自分の体験を位置づけ意味づけることができるということです。

カウンセリングを語る―自己肯定感を育てる作法

いつから「語ること」は重要だったか

著者の視点はなるほど面白い。
僕自身の不安感も、きっと「体験」に留めていたことの結果としてあるのだろう。

しかし、ふと疑問が浮かぶ。

いつの間に、「語ること」の意味がこれほどまで大きくなったのだろうか?

語らなければ「世界のなかに自分の体験を位置づけ意味づけることができ」ない。

そう捉えうる表現を選んでまで、なぜ著者は確信を持てるのか。
ここには日本社会における「語ること」の位置づけとのギャップがある。

文献を読み漁ったわけではないが、
恐らく日本社会は昔から「語る」ことをそれほどまで重要視していなかったはずだ。
相手を自分とは異なる他者として受容するという発想はいかにも西洋的だし、
逆にそれだけの重要性が明らかにあるならばもっと社会は語ることを求めていたはずだ。

むしろ、「体験」を「経験」にするための方法としての「語り」は、
現代においてようやくその重要性を発揮するに至ったのではないか。
そんな感想を持っている。

農村型/都市型コミュニティと「語り」

これまでこのブログで何度も言及してきた
「農村型コミュニティ」と「都市型コミュニティ」という二者は、
ひょっとするとそれぞれにおける「語り」のあり様で区別できるかもしれない。

この二つのコミュニティを分類する基準となるのは、その形成原理にあります。端的には「個人」のとらえ方に差異があります。農村型コミュニティは「共同体と同質化・一体化する個人」によって、都市型コミュニティは「独立した個人と個人のつながり」の結果として、それぞれ構成されます。前者は同心円状にその勢力を拡大することで大きくなり、その暗黙的な同質性が前提としてあります。一方、後者は個人の異質性を前提としており、明示された一定のルールや規約をベースに、個人と個人の関係性がつくられていきます。

言語化の台頭と日本のコミュニティの変遷 | 秋田で幸せな暮らしを考える

“農村”という言葉には昔からある、というニュアンスが含まれる。
その土地や組織に根差した文化があり、伝統があるのが農村的と言えないだろうか。
だから、今そのコミュニティに属している人たちも歴史の長短の差こそあれ、
そのコミュニティが有する何らかの文化や伝統を引き継いでいるはずだ。

しかし、文化や伝統は一方で急速に衰退している。
加速度的に社会が変化する中で、伝統や文化は世代間のギャップとなり、
後世に残すだけの意義を現代社会において失っているのが一つの理由だ。

「農村型コミュニティ」は同質性を軸に同心円状に広がって形成され、
必ずしも言語化されているとは限らない暗黙知を共有することで成り立つ。
周辺環境の変化のスピードが増すと、共有されていた暗黙知は
言語化されていないがゆえにすぐに陳腐化し、あるいは忘れ去られる。
そうして「農村型コミュニティ」は周辺から静かに崩壊していく。

これまで強調せずとも自明的に共有できた「体験」、あるいは
過去のある時点で社会化された「経験」が「農村型コミュニティ」の核だとしたら。

「語り」をより広義にとらえるとすれば、
「農村型コミュニティ」が変化に耐えて生き残るためには、
言語化されていない「体験」を「語り」によって「経験」とする、
あるいは絶えず「語り」を通して「経験」を再生産していくことが必要ではないか。

つまり、「語ること」は、変化がめまぐるしく、
あらゆる側面からの影響を受けざるを得ない現代社会において台頭する。
しかし、僕たちはいまだに「語ること」を怠っている。

そんなふうに見て取ることはできないか。

「語ること」を恐れない社会へ

昨今注目される「聞き書き」という手法によって、海士町の口承もまた言語化された。
「体験」を「語り」によって「経験」とする行為の意義に気づく人は増えている。

自分を語ってください。そこでは、聴き手に対して自分を語ることによる自分自身の物語の書き換えが行われることになるのです。物語の書き換えとは、これまで生きてきた物語が挫折するような現実に出くわしたときに、その現実をうまく編みこみ、新たな文脈で意味づけることができるような、新しい自分の物語をつくっていくことです。

カウンセリングを語る―自己肯定感を育てる作法

「語り」の範囲を改めて”自分”に戻したとしても構造は大きく変わらない。
社会から個人への要請は刻一刻と変わり、
家族や友人は勿論多種多様なメディアによって個人は日々影響を受ける。
そのために「体験」あるいは「経験」は断片化されやすく、
自分の中に一つの物語を構成しづらくなっている。

これは、伝統的な社会で求められていた行為ではないはずだ。
だからこそ、社会を変化させている僕たち自身が変化に戸惑い、
方法としての「語り」の可能性をようやく見いだせた、そんなところではないか。

さて、みなさんも自分のことを語るとき、「聴き手」によって大きく左右されるという経験があると思います。思い出す内容も、語り方も、「聴き手」の反応をモニターしながら語るわけです。いつの間にか、「聴き手」の共感や承認を得られるように語っていたりするんですね。そういうふうに、自分の物語の語り方を大きく左右する「聴き手」の存在はほんとうに大事です。

カウンセリングを語る―自己肯定感を育てる作法

そして、「語る」ときには「話し手」だけでなく「聴き手」もまた必要となる。
冒頭の西村さんのワークショップの話に戻すと、
プログラムの最後にロジャーズの「三条件」が紹介されていた。
「カウンセリングを語る」から引用して結びとしたい。

①無条件の積極的関心(unconditional positive regard)または受容(acceptance)
②共感的理解(empathic understanding)
③自己一致(congruence)あるいは純粋性(genuiness)

カウンセリングを語る―自己肯定感を育てる作法

※なお、本書の内容については別途記事としてまとめている

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小さな組織の多忙感について

カテゴリ:自分事

手探り・手作りの組織の現場から

海士町は小さな島だが、それでも小さな組織と呼べる集団は幾つかある。
チームの人数規模は最大でも20名を越えないものがほとんどだ。

時代の流れもあって、全体の傾向として各組織は徐々に拡大している。
そしてその多くがIターン(島外出身者)ばかりで構成されている。

そうしたチームの特徴は、「想い先行」であること。
組織づくりやマネジメントの経験者がいるわけでもない。
「スタートアップを立ち上げたことがあります」といった猛者もいない。
大企業でもきっと活躍できるくらいに優秀な人材が揃っているが、
20~30代が多く、結果的に組織作りは手探りで始まる。

恐らく、様々な地域の小さな組織の多くは
こうした課題を共通のものとして抱えてるのではないだろうか。

僕自身は、移住4年目に入ってからようやく(というべきか)
組織運営に関心(とささやかな責任感)を持つようになった。

ゼロからの立ち上げはエキサイティングである一方、悩みも絶えない。
そんな日ごろの悩みとそれにまつわることをだらだらと書いてみたい。

ずばり、「忙しい」

最近忙しそうだね

違う職場の人と、すれ違いざまにそう声をかけ合うことが日常になった。
「最近」が1、2年続いている感じ。

誰もが想いを持ってこの島に来ている。
やりたいことがたくさんあり、責任感もある人ばかりだから、
仕事を一つ一つ完了させても、業務量を増やしてしまう傾向にある。

「忙しい」。これが小さな組織の最大の悩みではないか、と思う。

原因を考えてみると

・規模が小さいから忙しくても人を雇えない
・少人数ゆえに、一人一人の責任と業務範囲が広くなりがち
・組織にバッファがないので、できる人に重い仕事が集中する
→人材育成が進まず、状況が改善されない

と、どれも似通ったような問題。

「忙しさ」を解消する手はあるのか?

ここで一般論的に求められるのは恐らく「マネジメント」であり、
組織として優先順位をつけ、「やらないこと」を明確にするべきなのだと思う。

やることが増えるのは組織として成長しているからだが、
成長は描けても成長痛まで目を向けられていないケースが多いのではないか。

つまり、「やらない」を決めるのは難しい。
ぱっと思いつく一般的な策としては

1.リーダー、マネージャーが優先順位づけする
2.メンバー間コミュニケーションで優先順位づけする

などが挙げられると思うが、

1.リーダー、マネージャーが優先順位づけする
→リーダー自身が忙しい、あるいはその経験に乏しい

2.メンバーのコミュニケーションで優先順位づけする
→丁寧にコミュニケーションをとり続ける時間がない、結論が出せない

といった課題に直面してしまうことがほとんどなのだと思う。
そもそも忙殺されているのだから、時間を確保するのも難しい。
仮に話し合いの時間が取れても、それで改善されなければ次につながらない。

じゃあどうすればいいのか、を今考えているのだが、
もがき始めてみると、幾つかアイデアは出てくる。

・事例を知る

課題の渦中にあるときこそ事例から得られることは増える。
今がまさにそんな状況で、「答え」を外に求めている。
あらゆる小さな組織の通る道だからこそ、先人に学ぶ方が効率も良い。

・仲間をつくる

組織の中に仲間をつくり、問題意識を醸成する。
「忙しさ」が組織全体の問題として共有されれば、
ボトムアップの動きにつながるかもしれない。

また組織外に仲間をつくるのもいい。
相談相手ができればお互いの実践の共有ができるし、
共感してくれる人がいるということ自体が安心材料になる。

・無理やりにでもコミュニケーションの時間をつくる

早朝・深夜あるいは土日祝日問わず、
無理やりにでもみんなで話す場を持つ。

それも一回ぽっきりでなく、全員が納得する、
納得までいかなくても全員が理解し、結論を出すまで時間をかける。

力技だが、それだけコミュニケーションの意義は大きい。
現場でそう感じることは思った以上に多かった。

・無理やりにでも人を育てる

優先順位づけが難しいのであれば、
一時的には目をつぶってでもできる人を増やすしかない。

そもそもできる人材を採用するべきではなかったか、
というツッコミが来そうだが、今回は事後の話にフォーカスしたい。

まとめ:多忙感は組織をゆるやかに締め付ける

一つの課題をクリアした先には次の課題が待っている。
どうあがいても課題がない組織にはならないし、
やることがなくなったらそれは組織の死なのだと思う。

だからこそ 忙しいというのは嬉しい悲鳴なのだが、
「多忙感」が継続すると多くの人は疲弊する。

忙しさを放置していると、新しい機会への挑戦もしづらくなる。
挑戦も慣れの部分はあるが、慣れている人だけが挑戦し続けるのは辛いし、
せっかく挑戦しがいのある新しい仕事を持って帰ってきたのに、
現場では負担感の方が大きいなんてこともありえるだろう。

海士町全体を取り巻いている(ように見える)多忙感は、
これまでの多くの挑戦の賜物である。
だが、持続可能な島の実現を阻む壁はこの先も待ち構えている。

「決断」には「断つ」という文字が含まれている。
そんなに遠くない未来に「決断」を迫られる日が来る。
そんな予感がしている。

(こんなこと書いたら各方面から怒られるかもしれないなと思いつつ)

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