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大学生と社会人の交流を目的とした1泊2日のワークショップの内容について

カテゴリ:自分事

※2017/12/04 2日目のワールド・カフェの構成案を追加
※2018/02/12 OSTもどきは「マグネットテーブル」と呼ぶことを知ったので一部訂正

秋田では珍しいダイアローグに重きを置いた場をつくる

11月のとある土日で、秋田県内大学が主催する1泊2日のワークショップがあった。ざっくりとした目的は、大学生と地域の社会人の交流を図るというもの。学生と社会人はだいたい半々くらい、運営も含めて総勢40名弱。そのうち通しで参加したのが30名弱。会場は秋田市内の宿泊もできる青少年交流施設的なあれ。

当日のプログラム設計からファシリテーションまで、ほとんど任せてもらえるというありがたくもちょっとした勇気のいる機会に恵まれ、なんとか1泊2日を参加者と共に走り切ることができたな、というのが個人的な感想。ほっとした部分と、自分自身の世界観や仮説に対して手ごたえのある反応があった、という部分と。

僕が重視したのは「ダイアローグ(対話)」だ。秋田に戻る前から薄々感じていたが、「まちづくりのアイデアを出そう」といったワークショップはちらほらあるものの、人と人とが普段と異なるかかわりの中で、対話を通じて内省や自己変革を深めていくような場は秋田にはほとんどなかった。

ダイアローグの文化のない秋田でダイアローグに重きを置いた場を設ける。それが立場の異なる人間が集まり交わる時間をできる限り充実させることになるのではないか。そんな仮説を持ちながら迎えた当日だった。

1泊2日の趣旨および内容

質の良いダイアローグは、質の良い関係性から生まれる。2日間を通じて強調したのが「傾聴」だった。この言葉自体や手法にこだわったというより、「ひとのはなしをきく」ということの重要さにフォーカスしてほしい、という意図で、この言葉を再三繰り返すことになった。

また、学生向けの告知チラシには「みんな、どうやってやりたいことを見つけるんですか?」という言葉を載せた。安易とも思いつつ、それが学生共通の興味関心であろうこと、学生よりも長く社会人と共に取り扱う内容として適切であろうことを想定して。

その上で1泊2日で用意したのは以下のプログラムだった(ところどころ休憩をとっている)

[1日目 13:00~21:30]
○テーマ:「傾聴」をベースとした場の中で聞き合い語り合う中で、自分を振り返るとともに、「傾聴」の意義を感じる
(1)主催者あいさつ(全体)
(2)なぜワークショップなのか+グランドルール+2日間で取り扱う傾聴について(全体)
(3)アイスブレイク(全体)
・なんでもバスケット(フルーツバスケットの何でもあり版)
・ピクチャーコミュニケーション(正式名称不明、お題を絵で描いて当てる)
(4)グループ分け&自己紹介(グループ)
(5)グループルールの検討(グループ)
(6)傾聴ワーク+グループルール再検討(グループ)
(7)人生グラフのシェア(グループ)
(8)Open Space Technology(もどき)マグネットテーブル(全体)

[2日目 8:00~12:00]
○テーマ:1日目で得た様々な視点を助けに、理想の未来に近づくための次なる小さな一歩を自分なりに描く。
(1)チェックイン(全体)
(2)ワールド・カフェ(全体)
・テーマ:「みんな、どうやってやりたいこと/在りたい姿を見出すんですか?」
・ラウンド1:自分にとって、「やりたいこと」「在りたい姿」を見出す意義って何だろう?
・ラウンド2:自分にとって、「やりたいこと」「在りたい姿」を見出すために、どんな手立てがしっくりくるのだあろう?
・ラウンド3:自分にどんなチャンスや手助けが訪れたら、「やりたいこと」「在りたい姿」を見出すための”一歩”を踏み出すことになるのだろう?
(3)未来グラフの作成(個人)
(4)未来グラフの共有をしながらチェックアウト(全体)

ワークの数はそこまで多くない。それぞれの内容については当日の投影資料をアップしているので、そちらをご参照頂きたい(導入部や僕以外の運営スタッフの自己紹介のスライドは省いた)。

171125-26ワークショップ当日投影資料 from Yushi Akimoto

1泊2日全体のピークは「人生グラフ」にある。ここまでに安心して自己開示をしあえる関係性をつくりあげた上で、日常生活の中ではなかなか触れないことを人生グラフを通じてシェアし、かつ暖かく受け入れてもらえる、という状況をつくる。それが何よりも、「他者と関わる」ことの意義を実感することにつながると思ったからだ。

その後は「OST(Open Space Technology)マグネットテーブル」と「ワールド・カフェ」を用意していたが、これはポジティブなシナリオであり、「人生グラフ」までに参加者があまり盛り上がらないようだったら、別のワークに差し替える必要があると思っていた(が、今考えれば、その時点で盛り上がっていない=1泊2日全体が失敗となっていただろう)。

なお、2日目のワールド・カフェについては、3ラウンドそれぞれ微妙に異なるテーマで検討する、というチャレンジングな試みをやってみた。ここは僕自身の”欲”が出たところで、この場、この関係性であるならば、ワールド・カフェを有意義な時間とすることができるだろう、と思ったから。具体的には、下記のような構成を検討した(初日の深夜に)。

設計上の工夫や機能したこと、好評だったポイント

プログラムを設計する中で意識としたのは以下の点だ。

・ワークショップや対話型のコミュニケーションに慣れていない参加者が大半を占めることが予想されるため、アイスブレイクや構成的なワークで徐々に慣らしていく。
→スタートから3時間でようやく本題の「人生グラフ」に入る構成に。
・学生と社会人の比率が1対1程度のため、パワーバランスが社会人側に傾かないようにする。
→「傾聴」ワークやグループルール設定で”けん制”。

このような点が機能したのか、「人生グラフ」の時間は非常に深い経験のシェアがなされていたように感じている。正直、想定以上の場になった(自分でも何が起きたのかよく分かっていない)。ある参加者からは、「人生グラフの前にグループルールを考えるのが良かった。あれでみんな、お互いに話をしっかり聞き合おうという雰囲気ができたと思う」という声があった。なるほど。

あとは、「人生グラフ」のメッセージカードは好評だった。僕自身も大好きなひとときなのだが、A6サイズにびっしりとメッセージを書いてくれる人も割と多く、「メッセージカード読んでいたら思わず泣きそうになった」という声も。

「人生グラフ」までのところがうまくいけば、その場に集まる他の人たちへの関心がきっと湧くはずで、そうなれば自ずと話したくなる空気のまま対話の時間に入れる、そう思っていた。実際、学生からは「もっと話したかった」という感想がちらほらあったらしい。確かに、今思うと、もう少し自由におしゃべりする時間や機会を設ければよかったかもしれない。一方で、物足りないまま1泊2日を終えれば、今後も他者と関わろうとする意識に向くだろうし、それはそれでよかったのかなとも思う。

反省点・改善すべき点

逆に、もっとこうした方が良かったな、と思う部分は、挙げればキリがないくらいにある。個人としての反省に焦点を当て、ざっと箇条書きに並べると、

・(個人的には)肝心の「傾聴」ワーク全体のつくりこみが甘く、導入部で全体のコンテキストの中でなぜ僕がその話をしているのかがわかりづらいものになってしまっていた。実際、寝ている人も何人かいた。
・夕食後21時半までワークをするのは負担が大きかった。むしろワークを20時まで伸ばし、そのあとは夕食~自由に交流、という流れの方がよかったかも。
・ワールド・カフェは3ラウンド実施したがやはり時間が足りなかった。また、初日の冒頭から、このテーマを取り扱っていくんだ、ということの強調が足りなかったようにも思う。ワールド・カフェ自体は盛り上がったと思うが、全体の中のつながりが弱かったという印象。
・参加した社会人の社交性に助けられた部分は多い。人選も運営の非常に重要なポイントではあるものの、たとえばワークショップに不慣れな学生のみの場だったらどうなっていたか……。

総じて、事前の準備が甘かった部分が僕の内面に不安として反映され、進行上のリスク(曖昧なしゃべり方、文脈の欠如)につながっていた、ということだと思う。

参考図書

設計や運営に当たり参考にした書籍を以下に並べておく。

この本で紹介されている「プログラムデザインマンダラ」は実に有効なツールだった。しかしそれ以上に、中野先生の世界観に支えられたな、と思う。2、3度読み返した本。

ジュンク堂書店で出会った本。高校生や大学生等の入学時オリエンテーションで行われてきたワークショップの実践が詰まっている。特筆すべきは「原則強制参加のため意欲が低かったり、対人不安を抱えている人がいることを前提とした場づくり」のノウハウが詰まっているところ。学校の授業の中等でグループワークを取り入れたい人は読んどいた方が良いと思う。グループワークをやろうなんて考える人は、グループワークをしたくない人の気持ちがきっとわからないはずだから。

ダイアローグというよりはアイデアだしのノウハウに偏ってはいるが、アイデアソン全体を通した設計や進行のコツが書かれているのがGood。僕が目指した対話型のワークショップとはどういうものかを浮き彫りにする参照点とさせていただいた。

2日目のワールドカフェのテーマは、1日目の様子を踏まえてその夜中に一気に作ったものだった。そのときに参考にしたのが本書だったが、直感を信じて当日もバッグの中に忍び込ませて本当に良かったと思う。ワールド・カフェをやってみたい人はまず読んどけって感じ。

アイスブレイクに使えるゲームがいろいろ紹介されている本。結局この本で書かれているワークは使わなかったが、どのような点に注意すべきかの観点が得られた。(実は)アイスブレイクがあまり好きじゃない僕にはいろいろ参考になった一冊。

最後に

今後も秋田を中心にこうした対話の場をつくっていきたいと考えている。といっても、当然ながら僕一人では”場”にはならない。やってみたいというところにははせ参じたいと思っているので、どうぞお気軽にご連絡を。

また、この長文の記事でも書き切れていない部分は多く、「これってどういうこと?」「具体的にどんなことをしたの?」と気になる方は、お気軽にお問い合わせください(例えばTwitterアカウントはこちら)。

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メンタリングって本当に難しいねという話

カテゴリ:自分事

仕事柄と言うべきか、高校生や大学生のメンタリングの機会を持つことが多い。1対1だったりオンラインだったりグループだったり。僕と彼/彼女たちの間では考え方や価値観から用いる言葉、受け取り方まで異なるので、それこそ何気ないメッセンジャーのやり取りでも気を遣っている自分がいる(油断すると年上であることに甘えてしまいがちというのもある)。

人間は、不思議なもので、できなかったことができるようになった後、できなかったそのときの気持ちや”できなさ”をついつい忘れてしまう(あれだけできない自分が嫌だったのに)。その典型が「なんでこんなこともわからないんだ!」と口に出てしまうあの瞬間だと思うのだけれど、勉強に限らず、それぞれが多様な経験をくぐり抜けて培ってきたコミュニケーションのお作法でも同様のことが起きてしまいがちだなと思う。

相手のレベルに合わせて話す、というとき、なんとなくだけど、「これくらいに下げてやらないと」という意図と同時に、「でもこれくらいならできるかな?」という期待もまた込めてしまう部分があるのかもしれない。僕の基本的な認識として、お互いの所属するコミュニティが異なる場合に、共有できる”当たり前”は結構少ない。しかし、なまじメンタリングという場になると、「メンティーのもつアイデアをブラッシュアップする」とか「メンティー自身を掘り下げる」といった目的は共有できていることにして、メンター側のメンタリングにおけるお作法を遠慮なく出してしまう瞬間が僕にはある。というか、つい先日、そのことを自覚した。

僕が「あれ?」と思ったのは、あるワークショップの一場面だった。

まず、ある1人の高校生のアイデアについて、グループでもっと聞きたいことやより深堀りしたい観点などを付箋に書き出して共有する。その中から話すべきトピックを選び、本人の思いや大切にしたい点がどこなのかを全員が留意しながら、問いを立てたり、意見を述べたり、参考になりそうな事例を紹介したりする。最終的にはそのアイデアの輪郭をより具体的なものとし、アイデアを実現するためのネクストステップを考える、というのが全体の流れだ。この流れ自体は違和感がないし、ごくごく一般的なものと思う。

このアイデアをブラッシュアップするというやり取りにおいて、ずれを感じた。その原因は何だったのだろう、ということを今も振り返っている。

一つの仮説として、僕が前提としていた考え方が間違っていた、または双方に共有されていなかったという可能性が考えられる。

アイデアそれ自体は、いわば氷山の一角で、その根っこにある思いを100%再現しているとは限らない。だから、その場に出されたアイデアを手がかりに、本人がどんなモチベーションで、どんな状況を実現させたいのかを丁寧に掘り下げていくと、自然とアイデアはそぎ落とされていき、本来の目的が浮かび上がる。このプロセスを辿ることで、アイデア=手段が目的化する事態に陥ることなく、目的に応じて適切な手段を選択することができるようになる。

これが、僕がメンタリング中に前提としているものだった(もう1人メンターがいたが、たぶん2人のメンター間ではある程度共有できていた印象)。しかし、その高校生は、アイデアを手段ととらえ、奥底にあるであろう目的を捉えようとするプロセスの中で、言葉に詰まる・語気が強まる・少し早口に話す等の様子が見られた。それが、なんとなく、元のアイデアの形が変わっていくことへのネガティブな反応に映ったのだった。最終的に、アイデアを変えることなく、アイデアを成り立たせるために不足する部分を強化するというところに落ち着いたようだった。僕は、最後まで「なぜ彼がその手段にこだわるのか?」「彼の語るどの部分こそが大事だったのか?」が腑に落ちずにいた。

「アイデアは変わってもいい(大事なものが損なわなければ)」という前提があって初めて、自分のアイデアそのものを保留し、深く掘り下げることができる。今思えば、メンタリング冒頭のタイミングでその前提を確認するべきなんていう発想はなかった。これは次回への反省材料だなと思う。そして、そもそも、その前提はどこから生まれてきたのだろうか。一つは、「その人本来の有り様と、言動が、一致していることで、その人の潜在性が存分に発揮される」みたいな世界観・人間観が背景にありそう。でも、この見方もあらゆる人に共有されているかというと、まったくそうではない。

「僕はこういう考えの元にこういうアプローチをとっています。まずはそのやり方で進めますが、違和感があったら遠慮なく言ってください」

こんな感じだろうか。

 

と、ここまで書いて、ふと、気づいてしまった。僕自身がその高校生のアイデアにそもそも否定的だったことに。それを自分が取り組むこととして掲げること自体には、遠慮なく拍手を送りたい。が、そのアイデア自体は、本当に単なる手段でしかないものだ。実際、そうして先人が実現したものたちの中には見事に形骸化しているものもある。それを知っているから「その手段を選ぶ動機や、手段を通じて実現したいものをクリアにしないといけない」と感じた僕がその場にいた。その第一印象が、「アイデアは変わってもいい、大切にしたいことを掘り下げるべき」というメンタリングの方向性を決定づけていたのかもしれない。

となると、僕自身はどう関わるべきだったのか。正直、年齢にかかわらず、「いやあ、そのアイデアはいけてないでしょ……」と言いたくなるシーンは多い。言いたいところをぐっと飲みこみ、自分自身をなるべくフラットにして、まずは相手の真意を把握しようとなんとか試みる。あるいは話半分で聞き流す。それが今までの対応だったかなと思う。改めて文字にしてみると、それはそれで悪くないのだが、率直に意見を表明してみるのもいいかもしれない。

例えばこんな感じだろうか。

「いきなりごめんね、そのアイデアなんだけど、僕はあまり共感できない。同じことを考えてきた人ってこれまで人人もいて、手段と目的が一致しないまま突き進んで燃え尽きたり、実現した後に結局形骸化したりするパターンもあるみたいだから。結果的に形骸化するようなことは本人にとっても社会にとってももったいないというのが僕の考え。だから、僕はなぜそれをしたいと思い至ったのかをぜひ伺いたい」

 

「その人本来の有り様と、言動が、一致していることで、その人の潜在性が存分に発揮される」

そんな人間観が前提にあると言いながら、自分自身が不一致な状態に意識的でなかったということに気づけて良かった。いつまで経っても精進の道に終わりはない……。

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振り返ってみると、「意味あること」「価値になること」を意識しだしたのは最近のことではない。たぶん、それこそ就職活動のあたりから、「お金になる力がほしい」というのはずっと関心事だった。それ自体は悪いことではないし、自分に投資するような時間の使い方をするようになったことが今につながっているのは間違いない。でも、以前はもっと余裕があった。「好きなように本を読み、興味のあることを追い続ける」ことがゆるく将来につながるだろう、くらいの気持ちだったように思う。

今は近視眼的な反応をしてしまっている。1月ごろから読書が全然できなくなったのもここに起因しているかも。あまり外に出なくなったのは雪のせいもあるが、「すぐに仕事につながるかどうか」という判断基準があったのかもしれない。

結果的に、こういう状態に陥っている。

・すぐ結果が出ること自体そもそも少ないから、短期的なリターンばかりに目がいき動きがにぶる(→結果、リターンも減る)。
・単純に好きなもの、特に理由なくやりたいと思うものに対して鈍感になる(→純粋にやりたいことがわからなくなる)。

動き出すと寝る暇がないほど忙しくなりそうという心配はあるけど、動けなくて結果的にぽつぽつ暇がある方が自分にとっては苦痛かもしれない。別に外に出なくてもいいけど、「あれをしよう、これをしよう」と思いつくことがぽんぽん浮かぶ状態になるといいのかな。

4月に入ってもリセットできていないけれど、GWを挟んで方向転換したい。

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