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アクティブラーニング=コミュニティづくりという仮説

カテゴリ:世の中の事

『学び合い』との出会い

最近、文科省がアクティブラーニングを喧伝している。
直訳すれば「能動的な学習」であり、要は学習の形態として
伝統的なチョーク&トークは受動的であり、
もっと生徒が能動的に取り組めるようにするべきだ、ということ。

具体的な方法は幾らでもある。
先に「伝統的な」という枕詞を付けたが、
「調べ学習」や話し合い活動は少しくらい経験するはずだ。
最近はより抜本的に授業形態を変える手法が増えているらしい。

『学び合い』というのもその一つだ。

実践者に話を聞いてみると、これが面白い。
授業形態の話だったはずが、最終的には「人間観」の議論になる。

端的に言えば、「性善説」か「性悪説」か。

『学び合い』は「性善説」の信念の具現化を試みるものであり、
世に言うアクティブラーニングもきっとそうであるはずだ。

逆に言えば、「人間観」の転換なくして
アクティブラーニングは成功しない、と僕は思っている。
それがアクティブラーニングの最も難しい点だろう。

誰か一人で何とかする時代などではない

ここまで「」について述べてきたが、
別に「」や「政治」の分野でも同様のことが言える。

田舎はもちろん日本全体で見ても
今後確実に人は減っていく。

効率を重視し、分業を推し進めてきた結果、
専門化・資格化した分野から特権化が始まり、
「中央集権」とか「官僚制」なんてものが生まれた。
この説明が正しいかどうかはわからないけど、
言いたいことは「みんなでやらないと回らないんだ」ってこと。

「授業」も「まちづくり」もたった一人が責任を負って
成功裡に導かなければならないなんて時代は終わる。
スーパーな人材なんて幾らもいないのに、
そうした人材が必要な現場は増える一方なのだから。

『学び合い』は教師だけでなく全生徒が
「一人も見捨てない」を合言葉に授業をつくっていく。

なんだ、これこそまちづくりじゃないか。
手法とか授業形態とかそんなんじゃなくて、
結局コミュニティづくりの問題なんだ。

アクティブラーニングを推進する流れは
大学入試改革と連動して今や待ったなしの状況。

過疎に苦しむ離島中山間地域は勿論のこと、
地方都市レベルでも土砂崩れの予兆が出ている。

きっと、問われているのだ。「人間観の転換」を。
今更こんなことに気づいてしまった。まだ遅くないと願いたい。

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