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学校内でつくられる人間関係の限界と「対話」の欠如について

カテゴリ:自分事

東北出身の高校生たちの姿を見て

先日、このイベントに「提言アドバイザー」という形で参加してきた。

ビヨンドトゥモロー東北未来リーダーズサミット2014

2泊3日という短い期間ではあるが、この場に集まった高校生たちは
チームの中で自分の個性を率直に出し合い、また受け止め合い、
ゴールを共有したうえで一丸となって課題に立ち向かっていた。

高校生たちの姿は見ていて本当に気持ちの良いものであり、
それは普段から高校生と接している自分にとっても新鮮だった。

そして、ふとこんな疑問が湧いた。

・1、2日の間でなぜこれだけチームとして機能しているのだろうか?
・どういう作用が働けばこのような場が成り立つのか?人?仕組み?

ぐるぐると反芻して導いた結論は、
“学校”の外に出ることができたからじゃないか」ということ。

フツーの高校生がきらきらと輝く場

先に断っておくが、このサミットに参加した高校生は
特別にリーダーシップがある子ばかり集められた、とか、
ディスカッション等の経験を十分にしてきた、というわけではない。

言わばフツーの高校生だ。見た目も、言葉遣いも、振る舞いも。
2:6:2のパレートの法則で言えば「6」に属する子がほとんど、という印象。
(実際、そういう子が意図的にこの場に集められている)

しかし、彼らは素直さやそれに伴う成長欲求を持ち、
チームに貢献する意識が強く、そして前向きな楽観さを持っていた。
普段は出せない自分の個性や前向きな気持ち、
素直さが自然に引き出されている、そういった印象を受けている。

「彼らの良さを引き出したのは何か?」

この問いに対する自分なりの回答をこしらえる過程で、
問いの前提にずれがあるのではないかと感じた。

問うべきはこうかもしれない。

彼らは普段の生活で良さを発揮する場面がないのではないか?

「フツーの高校生活」がもたらす抑圧について

 僕が「フツーの高校生活」に否定的な理由は個人的な経験による。
他ならぬ自分自身が、幼、小、中、高ともやもやを抱え続けていた。

「秋田を出なければ!仙台じゃだめだ!東京にいくんだ!」

そうしてたどり着いた東京での大学生活も、
「フツーの大学生になりたい」という出所の分からない、
しかし確実に僕の大学生活を制限する圧力があった。
まるで環境を責めている言い方だが、もちろん自分自身の内から
「フツーでありたい」という衝動が湧いていたことも認めよう。
そう思わせる何かが被教育時代に一貫してあったのは事実だ。

僕がその得体のしれない抑圧から解放されるためには、
「フツーの大学生活」の外に出ていくしかなかった。
自分が何を望んでいるのか。何に関心を持っているのか。
自分の内側をさらけだすようになってから、社会とのつながりが持てた。

「フツーこうだよね」という共通言語になっていないものを外に出す。
「みんなだいたい同じ」が前提のコミュニティ内ではしづらい行為だ。
お互いの価値観をさらけ出し、受け止め合う「対話」的関係は成立しにくい。

今回のサミットに参加した高校生は、普段のコミュニティを離れた場で、
これまで出せていなかったものを自然と出すことができる。
それによって彼らの良さが引き出されたのだとしたら、
「フツー」であることの抑圧の恐ろしさが見えてくる気がする。

思い、気持ちを素直に言葉にできる場づくりを

このサミットに参加する機会に恵まれ、
自分自身が教育という分野でやりたいことがある、ということが見えた。

それは有り体に言えば「高校生や大学生が自分らしくあれる場づくり」であり、
具体的に言えば「普段とは異なるコミュニティへのアクセスづくり」だ。

学校内の人間関係では「対話」的コミュニケーションは成立しがたい。
あくまで僕の経験則に過ぎないが、納得される方も多いのではないか。

未来のリーダーを育てたい、という強い意志があるわけでもない。
社会の構造的な問題を解決するためのコミットメントも今のところはない。
でも、普通の高校生が、「フツー」であることにとらわれずに済む
安全・安心の場があり、素直に前向きに自分を高めようと思える、
そんな環境づくりは、きっと昔から関心を持ち続けていたこと。

きっと、そんな小さな働きかけがソーシャルチェンジにつながる、
そんなイメージを持ちながら妄想を膨らませておきたい。

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