受け手をバカにしないエンターテインメントのために
カテゴリ:自分事 2016/08/29
娯楽の意義を考えたことがなかった
先日、五城目町から、実家の大仙市神宮寺へと帰省したときのこと。実家では意識せずともだらだらと時間を過ごすことになるのだけど、今回はWOWOWでたまたまやっていたミッション・インポッシブルの1と2を観た。元来、映画という娯楽に時間を費やすことにはどちらかというと消極的だった僕は、誰もが知るこのシリーズを、恐らく初めてほぼ通しで視聴したのだった。そして、実家から戻ってきたこの1週間の間に、Amazonプライムで視聴可能なMIシリーズをすべて観終わったのが、ついさっきのことだ。なんというか、率直に面白かった。単に消費者でいられることのありがたさにもたれかかることができて、おかげでハードな週の諸々からリフレッシュできたような気がする。
なんとなく避けてきた王道シリーズを制覇してみようと思ったのは、きっと、6月から受講を始めたオンラインの文章講座の影響だと思う。その講座で提供されているライティングの技術は、これまで僕がブログ等で培ってきたそれとは、似ても似つかぬものだった。不慣れな書き方に当初は悪戦苦闘していたのだけれど、段々とコツをつかめてきている。テニスで例えるなら、一発で勝負を決めようと欲を出せばすぐミスをするが、多少はラリーがつながるようにはなった、という段階だろうか。
その文章講座が目指しているものを一言で表すとすれば、それはきっと「エンターテインメント」、つまり娯楽なのだと思う。一方、僕がブログで日々書く文章は、娯楽性に欠けたものが多い。いや、むしろ、僕という人間の性質がそもそも、これまで娯楽を好んでこなかった。純粋に楽しく面白いだけの小説は、もちろん「面白い」のだけれど、それだけでは物足りないのだった。僕は、その後に自分の中に残るものに重きを置いているのだから。
そして、テレビゲームよりも受動的でかつ純粋な娯楽をスルーしてきたために、僕はエンターテインメントの意義というものを考える機会を逸していたということがわかった。それを気づかせてくれたのは、その文章講座と、MIシリーズだった。
エンターテインメントの難しさ
エンターテインメントの価値について、素晴らしい文章をたまたま見かけたので、引用してみる。
そもそも、エンターテイメントをはじめ、娯楽というものは、受け手が自分自身の価値観を肯定するために存在する。
娯楽とは、そのための手段のようなものだ。作品を通じて私たちは、自身の中にある感情や価値観は正しいのだと認識(肯定)し、自身の価値観や人格を作り手と共有する。
それにより満足や充実感を得る。
「楽しい」とか「面白い」とかいう感覚は、その結果として生まれる副産物みたいなものだ。
エンターテインメントは、自己肯定を深めるものであり、その副産物として「楽しさ」「面白さ」がもたらされる。どれだけfunnyあるいはinterestingであっても、自己肯定につながらないコンテンツはエンターテインメント足り得ない。
そこで、僕は根本的な問題にぶち当たることになった。エンターテインメントとして、純粋に読んでいて楽しめる文章にしようという試みが、自分の中でしっくりこないのだ。書いていて楽しくない。今はスタンスを矯正している途中だから、修行みたいなものだ、楽しくなくてもしょうがない。そんなふうに思いながら、書いていた。
あるとき、知り合いに、「この講座で書いている文章より、普段のブログの方が、僕は好きだな」と言われた。なるほど、確かに、ブログを書いているときのほうが、個人的にワクワクすることが多い。それは、自分の自己顕示欲を満たせるから、というのもあるが、どうもそれだけではないような気がする。もっとシンプルに、書いている文章に自分で納得感があるかないか、という問題がある。
そこではたと気づいたのだった。そうか、読む人を楽しませよう、読む人をまるっと肯定するような文章を書こう、そういう意識が、知らず知らずのうちに、読み手の知識量や理解力を低く低く見積もろうとしていたのではないか、と。言葉を選ばずに言えば、僕は、エンターテインメントを意識するあまり、受け手をバカにしてしまっていたのかもしれない。
ブログは、率直に自分のために書いていた。自分の土俵だからだ。広く一般に読まれなくてもいい、そういうスタンスだったから、自由に書けた。今は、広く読まれる文章を意識して書いている。不慣れなチャレンジを通じて、僕はどこかで大きな誤解の中に迷い込んでしまっていたのではないか。
それは、これまで自分自身がエンターテインメントを敬遠していた理由でもある。思えば、僕が受け手として喜んで享受していたエンターテインメントとは、受け手の知性を信頼するものであったと思う。ブログも、好き勝手に書きながら、わかる人に届いたらいい、くらいのつもりで書いた。それは、書いている自分としては、相手をバカにしなくて済んでいたから、納得感があった。
そもそも自己満足に書いていた文章だから、まずは相手のために、というスタンス変更で時間をくった。しかし、次に、楽しませようということばかりに目がいき、まるで子どもだましのように相手の知性を低く見るようなスタンスをとってしまっていた。
その後の結果は明らかだった。読み手の知性を信頼して書いた文章が、やはり良い評価を得た。
肯定と否定の間
エンターテインメントが自己肯定するためのものというのは、確かにその通りだろう。だけど、否定的な状況まで肯定するのは、倫理に反しているような気がするし、書いている側が楽しくない。大事なのは、コンフォートゾーンとストレッチゾーンのバランスとか、ほどよく想像力や創造性をかきたてるコンテンツをつくりだすことなのかな、と今は思う。人は、変化を拒み、現状を維持したいと思う一方で、自分の成長を願うものだから。
そういう意味で、学びや気づきのある、つまり、ささやかながら変化を起こせるような、そういう文章を書けるようになりたい、と思う。強い変化を求めるコンテンツは、きっと傲慢で、つまりコンテンツ足り得ない。そういうバランス感を身に付けていきたい。