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今起きていることを見つめる、という作法-子育ての現場から

カテゴリ:自分事

『子育て支援』って一体なんだろう。子どもを育てることにも支援が必要な時代になったのだ。昔は地域で子どもを育てることが当たり前のような社会だったはず。高度成長期以降、核家族化がすすむなか社会にも会社にも家族にもさまざまな変化が見られるようになった。それらが「豊かさの代償」だとすると豊かさの意味を問い質さなければならない、と一時的に熱を帯びた議論が展開された。しかし、物質的欲得から離れられず、結局、議論のみがずっと空に浮いたままの状態で、あたかも答えに辿り着きたくないかのような不誠実さを感じるのはボクだけだろうか。見かけは議論、内実はアポリア(思考停止)、あまりに切ない現実。

子育て X 地域。 | | Lua Pono Communications

「豊かさの代償」と捉えるかどうかは慎重に検討する必要がある、とふと思いました。
「豊かさの代償」という言葉には、「選択可能である」というニュアンスがこめられています。
僕らは自分たちの意思で豊かさを追求し、一方でその代償を甘んじて受け入れることとなった。

しかし、これまでの人類は代償のことをさほど気にかけているようには思えません。
おそらく、今後も。

もしかしたら、僕らはこの未来を選択できたわけではないんじゃないか。
何か大きな流れが、あるいは人類の見えざる意思が、僕らをここまで運んできたのではないだろうか。

情報社会(知識社会)で子育てをしているお母さんたちは当然のごとく情報過多に陥っている。今日お邪魔したNPOでは定期的に独自のアンケート調査をしており、その中でいまのお母さんたちが一番悩んでいるのが、「躾」である。一歳や二歳で躾も何もあったものではないと思うのだが、「脳教育」だの何だのと否が応にもどんどん情報が流れ込んでくる。

子育て X 地域。 | | Lua Pono Communications

情報化社会において、自分に入ってくる情報を制御することはそう簡単ではありません。
むしろ情報過多になる方が”普通”かもしれない、と思えるほどに。

「情報リテラシーを身に付けろ」とよく言うけれど。
個人の問題に帰着しても、実は根本的な問題解決にはならないのではないか。
こんな時代だからこそ、改めて本質が問われているように思います。

僕らはもっと現実を直視する必要があるのかもしれません。
「今の時代、情報過多にならないほうがおかしいよね」と。
前提を踏み外してしまうことは、問題解決においてあってはならないことですから。

彼女たちの情報源は雑誌やネットが主らしい。特にほとんどが携帯で情報収集をしているという。授乳中が唯一ゆっくりとケイタイをみられる時間だそうだ。そんなときこそ子どもの顔をじっくりみてあげて欲しいという現場スタッフの方の感想がとても印象的だった。ベビーカーを押しながらあるいはファストフードのお店で子どもに食事をさせながらケイタイを操作しているお母さんを見かけるが、何かに憑依されているのではないかと思うほど集中している。ちょっと怖い気もするが・・・。

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この文章を読んで、「ん?おかしくない?」と感じた自分に気が付きました。

授乳中が唯一ゆっくりとケイタイをみられる時間だそうだ。そんなときこそ子どもの顔をじっくりみてあげて欲しいという現場スタッフの方の感想がとても印象的だった。

子育てを経験したことのない僕であっても、「現場スタッフの方」の意見は、ごくごく当たり前のことのように思えます。
雑誌やネットで情報収集を行う彼女たちが、なぜそれに気づかないのか。

こんな動画もあります。これ、大学生がつくったんですよ。
大学生が問題意識を持っていることに、なぜ当事者である母親たちは無関心なのでしょうか?

どんな構造がそこにあるのか。
これも「情報リテラシーの欠如」の一言で済ますこともできます。
果たして、それでよいのでしょうか。

港北区のモザイクモール内にスタバがある。平日の昼過ぎに行くと夕方まで席をとることが難しい。その一角は必ずといっていいほどベビーカー数台と数組の親子が占拠している。ママ友同士で仲良く話に華を咲かせている、といった風景なのだが、実は人間関係に悩んでいるお母さんもいるそうだ。笑っているのだが、楽しくはない。疲れる。行きたくない。そんな気持ちでいるのだが、ママ友同士で集まるときには、また、参加しているという。当然ストレスが溜まり子育てに疲れる。虐待に発展するケースも少なくないという。これらの問題の根底にあるのは『孤独』だ。相談する相手がいない、何が正しい情報か分からない。外からみていたのでは分からない現実がここにもある。

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『孤独』におびえる母親たち。
しかし、彼女たちは「ママ友」というコミュニティにおける孤独にだけおびえているのでしょうか。

誰が彼女たちの味方なのでしょうか。

子育てに悩むお母さんはまじめな人が多いという。鬱病を発症する人もまじめで細かいコトにこだわるタイプの人が多い。どちらにも共通してみられる「まじめさ」というのは、執着とつながりその先にある思い通りにしたい、という欲求の裏返しでもある。思い通りにならないからストレスがどんどん溜まる。

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「まじめさ」とは何でしょうか。

「自分で何とかする」という気持ちの表れなのか。
思い通りにならなかった自分の人生の鬱憤を晴らしたいという欲求なのか。
子育てを通して「いい母親」像に近づこうという必死さなのか。

なんとなく、そこには「子ども」自身が対象としてしか存在しない感覚があります。
(あと、父親の存在感も。)

ボクたちは地域社会の中で子どもを育てるとう視点を回復しなければない、というとあまりにも陳腐化されたフレーズにしか聞こえない。しかし、これを本気でやるかどうかが20年後の子どもたちの笑顔につながるのだ。

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そしてこの結びにつながるわけです。

この記事において「」という言葉は冒頭と文末にしか登場していません。
しかし、この記事が捉えてようとしていたのは、まさしく「地域社会」の機能なのです。

母親たちを悩ませているのは、紛れもなく”現代病”です。
僕らは、その発症のメカニズムを丁寧に解き明かしていく必要があるように思います。

そのためにも、今まさに起きていることをきちんと見つめることが必要だ。
この記事を通して、そのようなメッセージを感じてしまった僕がいます。
既存の知識や枠組みを安易に当てはめることは、問題解決にとってさしたる貢献とはならないわけで。

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