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日本人は「自分で何とかする」美談が大好き?

カテゴリ:自分事

なんとなく書きたくなったので、スレタイの通りのひきこもり糞クズニートがボランティアにいった話を書いていこうと思う

ひきこもりのくせに被災地へボランティアにいってきた:ハムスター速報

週末にかけてTwitterやはてブで話題になった記事。
ネタバレすると、ひきこもり生活から一点被災地支援に加わり、活動を通じて温かい人のつながりに触れ、その縁によって新しい仕事を得るにまで至る、というお話。

こう書いてしまうと「よくある美談」に聞こえますが、本人が語っているためか知らないけれど、個人的には感動しました。
やっぱり、こういう話って、心温まるというか、励まされますよね。

日本人って、こういう美談が好きだよね。

そこでふと思ったこと。
テレビでもインターネットでも本でも、こういう話って至るところで好まれるものだよな、と。

「こういう」を一言でまとめると、「自分で何とかする」に尽きるように思います。
「自分の力」というのは、努力とか、その人自身の個性や性格によって引き寄せた人の縁や幸運とか、そういった類のものをひっくるめています。

残念ながら、 単なるラッキーや偶然に僕らは心を動かされることはありません。
せいぜい「こういう人がいるらしいよ」「へー、うらやましい」くらいの、話のネタにしかならないでしょう。

それはたぶん、「美談」がその人に舞い降りた理由を欲しているからではないでしょうか。
そして、その欲求とは詰まるところ、「再現性」=「こうすればできる」という教訓を得たい、という思いに根ざしているのではないでしょうか。

長い余談―Off-JTや職業訓練が軽視される理由

「日本人がOff-JTや職業訓練を、現場経験やOJTよりも軽んじる」わけも、この心理の中に隠されているんじゃないか、ということをはたと思い立ちました。

集合研修や職業訓練、あるいは専門学校の授業で培った経験について、軽視する傾向はいたるところに見られます。
たとえば、このQ&A。

職業訓練校の訓練内容についてはほぼその内容です。
基礎的なことしかできない上に(その上教えている内容が古いこともある)
卒業した訓練生は、それで一人前だと思っているケースが多くかなり厄介な場所だったりします。

スキルアップという意味だけで言うのならば、半年間職業訓練所に通うよりも
半年間派遣として同じ業務に就いたほうが遥かに実力はつきます。
下手に職業訓練所に行き妙な癖や偏った知識をつけるくらいならば
その年齢ならば、未経験とはいえ実践の中で知識を増やした方が長い目で見たほうがプラスにはなるでしょう。

職業訓練の意義(転職希望者) | OKWave

たとえば、「若者はなぜ3年で辞めるのか? 年功序列が奪う日本の未来」の著者、城繁幸氏のこのブログ記事。

というのも、最大の問題は、こんなザル政策でも文句の一つも出ないほどに、そもそも職業訓練のニーズが日本社会に少ないという現実だ。

理由は、日本企業は職務ベースではなく、「新卒・正社員・総合職」といった出自に基づいた身分制なので、そもそも職務というものへのニーズが薄いためだ。 “博士”という最高の訓練を受けた人材でさえ敬遠される国。悲しいけど、それが日本の実情である。

ついでに言えば、こういった失業者のスキルアップというものは、現役正社員との自由競争状態において、はじめて一定の効果を持つ。 江戸時代の農民は勉強しても武士にはなれなかったし、そもそも勉強しようなどとは思わなかったろう。身分制度が崩れる明治維新までは。

職業訓練なんて誰も求めちゃいない – Joe’s Labo

城氏に関しては、職業訓練のニーズの薄さについてその制度的・文化的構造にも言及していますね。
僕は、心理的な側面というか、日本人の性質の理解として、上述の「美談」への関連付けが有効なのではないかと感じました。

「美談」の肝は「条件付き」、つまり「○○すれば」できる、という構造を持っている点にあります。
条件を満足させること、ハードルをクリアすること、それ自体が「美談」を彩っているということかもしれません。
また、条件があることで、(良し悪しは置いておくとして)「できなかったときの言い訳」も容易に準備できます。

翻って、Off-JTや職業訓練は「それを受ければ誰でも」知識や技能を習得できることを目的とします。 
もちろん結局は真面目に受講して内容を習得することは必要ですが、大前提として「誰でも」、つまり条件がない、ということがあるはずです。
それが、見ている側からすれば面白くない(「美談」足りえない)のです。

職業訓練が卑下される構造は、先に引用したQ&Aの回答者の言からも読み取ることができます。
回答者は職業訓練を受けても必ずしも成果が出るわけではないことを指摘し、職業訓練を暗に否定している印象を感じざるを得ません。 
ありとあらゆることに、「美談」の持つ「条件付き」という要素を求めずにはいられないのです。
突っ込んで言えば、成果を出すためには何らかの条件を(各個人が)満たさなければならない、という心理が背景にあるのではないか、ということです。

終わりに

こんなことを書き出したのは、「」という言葉や思想に敏感なことが理由として挙げられると思います。
条件を個人に求めてしまう傾向は根深いもののように感じてしまうのですが、それによって、その問題を生み出しているより大きな構造を捉える視点や、事実ベースで仕組みや枠組みを評価する視点が損なわれてしまっている、というところに、僕の問題意識があります。

日本企業は他の先進国に比べてOJTが圧倒的に多い、という指摘があります(たとえば―自分らしいキャリアのつくり方)。
逆に言えば、他の国では日本よりもOff-JTの効果を認識している、ということではないでしょうか。

軽視された施策は、必然的に改善のための投資も後回しにされがちなため、気づいたときには手遅れ、というパターンは結構ありがちです。
条件を求め、適応できる(=自己責任で何とかできる)人材だけを採用する、という日本の新卒採用の風潮にも一言添えたいところです。

※とはいえ冒頭の話は、本当に良い話だと思いますよ!

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