あるものを生かす。これまでも、これからも~「都市をたたむ」という作法~
カテゴリ:自分事 2016/05/18
この本を読み終わった後で、
自分の中に残ったものが2つある。
1つは、「計画」の捉え方について。
この本では、その意味を「内的な力による変化を、整えて捌くもの」と定義して考えていきたい。
変化は、それを生み出すエネルギーがあって起こるものであり、
計画はエネルギーを持った変化があることで初めて意味を持つ。
テスト勉強が計画通り進まないのは計画が悪いからではなく、
計画されただけの量を勉強する気が起こらないところにある。
勉強への意欲が一定量期待できてようやく計画の質を問う段になる。
言われてみればその通りだ。嘘みたいにシンプルな論理。
もう1つは、「スポンジ化」という縮小のあり方に対して。
都市は都合よく縮小しない。そこに住む個々人の意志により、
”大いなる意志”などないことを証明するが如く振る舞う。
高度経済成長期には、たまたま「成長」という単一軸があった。
それが、粗っぽく見れば全体として秩序立てて見えたかもしれない。
それこそ、計画通りに思えるほどの拡大っぷりだったのではないか。
戦後、都市はどのような形であれ成長するしかなかった。
そのエネルギーが生む変化をうまく捌くために都市計画があった。
計画は、あくまでも成長へと向かう変化を前提としていた。
しかし、高度経済成長期への未練というか、
人口減少社会を前提とするOSへの切替の遅さを鑑みると、
この事実が、ある時点でねじ曲がってしまったのではないか、と思える。
つまり、日本人が戦後「内的な力による変化」を計画し、
その計画により成長が生じたのだ、という誤解に。
日本の成長を計画のおかげだと頭のどこかで思う人ならば、
少子高齢化でも計画的に人口は増やせるなんて考えていそうで怖い。
多くのエネルギーが束ねられることで、大きな変化が生じる。
エネルギーの総量が減り、向かう先の統一も図れないのならば、
これからの時代にもう一度変化を求めるのは酷なのだと思う。
「都市をたたむ」では、小さな単位で、
場合に応じて解決策を考えるという提案がなされていた。
それは、都市計画に限らず人口減少社会ならではの方向性のように思う。
ちょうど、とある学校への提案資料に、
これからは一人ひとりがますます大切になる社会だ、と書いた。
まちづくりであっても、教育であっても、
これからは一人ひとりのエネルギーの重要性が相対的に増す。
だから、それぞれの発生源を生かすこと、何か損なうものがあれば
個別に取り除きあるいは和らげることが求められる。
逆に、計画が先行すれば、どこかに無理が生じる。
グローバル人材は確かにこれからの日本に必要かもしれないが、
計画を実現しうるだけのエネルギーが賄えるかどうかは別の話だ。
(「エネルギーが賄えるか」なんて、酷い表現だ…)
「都市をたたむ」との出会いはとてもタイムリーだった。
それに、五城目への移住のタイミングに重なるというのも運が良い。
どうやったらその方向性を実現できるのかを考えていきたい。