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自分のことが分からない人に、他人のことは分からないという話

カテゴリ:自分事

争いは自らが起こす

判断材料は「自分」

僕の職場である公設塾、隠岐國学習センターでは「春季講座」が先週から始まっています。

英語と数学の教材をひたすら進めさせていると、誰もが躓く分野が結構見えてきます。
そのまま放置するわけにもいかないので、教授法を検討するわけです。

で、この検討会が面白い。
教える側の大人が何をするかというと、

問題を解くプロセスを細分化する
普通、どのようにその問題を解いているのか、そのプロセスを振り返ります。
感覚で解いている人にとっては、解き方を言葉にする作業は難しさが伴います。
ああだこうだ言いながら、より一般的に通用する形を模索します。

生徒の間違いのパターンや傾向を把握し、分類する
ブレストっぽく「こんなふうに間違えていた」という情報を出し合い、それをグルーピングしていきます。
そうして「誤解・誤答のメカニズム」を推測していきます。
ここでは間違いの”レベル感”を見極めることも重要です。

適切な教授法を検討する
解き方と間違え方を土台に、どう教えたらいいかを検討します。
例題を参考に実際に問題を解かせる、何度も反復させる、などの方法が良く使われます。

みたいなことをしています。
こういう議論に参加するために必要とされるのは、「自分」を分かっていることに他なりません。

自分がどのように教科書の内容を理解しているか。
自分がその問題を解くに当たって、どのような順序で処理しているのか。

自分自身の解き方すら分からない人に、他人の解き方を考えることはできません。
それは取りもなおさず、プロセスを細分化したり、間違いをパターン分けしたりするための判断材料がないということだからです。

材料として最も身近な「自分」すら活用できていない、ということです。

他人のことを理解できない人たち

他人の気持ちを慮ったり、相手の立場になって考えてみたり。

これができない人たちの特徴とは何か。

自分のことをよくわかっていない

この一点に尽きると感じています。

勉強の内容を適切に教えることができないのは、解法のプロセスや誤答のメカニズムをきちんと把握していないことが主な原因です。
それは自分自身が無意識でやっていることを、相手に説明できるレベルまで言語化する力がない限り、不可能です。

適切なコミュニケーションのためには小手先のテクニックは用を成しません。
自分が伝えたいことを正確に把握することと、相手が伝えようとすることを(自分の都合ではなく)相手の都合の良いように把握することの両方が必要です。

自分が伝えたいことは自分にしか分かりません。
だからこそ自分自身を把握しようとすることが求められます。

相手が伝えたいことを相手の文脈に沿って聴くためには何が必要でしょうか。
自分自身のコミュニケーションを振り返ることが、相手のコミュニケーションを理解するための近道になるはずです。
自分のコミュニケーションのメカニズムすらわからないのに、相手のそれに対して配慮することが、果たしてできるのかと思ってしまいます。

相手の立場に立てない人は、自分自身を客観的に捉える力を鍛える必要があるのかもしれません。

注意すべきは、都合の悪い事実を押し隠そうとする”自己保身”の力学です。

「私がそんなふうに考えるはずはない」 「私は自分のことをよく分かっている」

自分を正確に捉えようとする行為は、ある種の苦痛を伴います。
これは「自分が”他人”として立ち現れる」経験であるといって良いでしょう。
教科教育の分野では、「思っている以上に頭で理解しておらず、感覚で解いていた」という事態に直面するような、ショッキングさ。
しかし、そこに踏み込まなければ自分自身の理解というものはありません。
自分が何を知り、何を知らず、何ができて、何ができていないのか。
そうしてあらわになった自分は、他人を分かるために活用されるに足る信頼性を獲得する、そういうものだと思っています。

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