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秋田で「きき方」を考えるワークショップのトライアルをしてみて

カテゴリ:自分事

日本列島を寒波が襲っていた頃、秋田市で「ひとのはなしを促すきき方を考えるワークショップ」と題した機会を設けた。13時開始、18時終了という長丁場にも関わらず、学生を中心に9名が参加してくれた。

内容はタイトルどおりで、普段あまり意識することのない「」についてとことん扱うもので、内容の6割程は「よいきき方とは何だろう」という問いについて、「推奨されないきき方」から考える時間に割かれた。僕が過去にした約10分間のインタビュー(WSでの使用了承済み)の録音をみんなに聞いてもらう、という試みも。

そうやって一度アウトプットしてみると、改めて自分がどんな「きき方」をしているのかを考えるきっかけになる。自分に対して「僕は、具体的にどのようにきいているのか? きくことについてどのような前提や認識を持っているのか?」、「僕が「きき方」を調整することで、どんな良いことに出会うことができたのか? そしてそれはなぜなのか?」という二つの問いを投げかけてみた。

出てきた回答は、重複もあるものの、ここで全部紹介してみることにする。もちろん「こうしようとしている」ということと「こうできている」ということの間にはどうしようもないギャップがあり、僕自身も言動不一致な部分があることは否めない。

いずれの回答もかなりのボリュームになったので、この記事では「僕は、具体的にどのようにきいているのか? きくことについてどのような前提や認識を持っているのか?」の問いへの回答のみ記載する。

 

○僕は、具体的にどのようにきいているのか? そうしたきき方からはどのような前提や認識が垣間見えるのか?

・緊張感を持って聞いている。「相手が『きいてもらえた』『普段言えないことが言えた』『自分がこんなふうに思っているってはじめて言葉にできた』と言ってくれるくらいにうまくはなしをきくことができるだろうか?」と。それは不安でもあり、意気込みでもある。話が進まないとき、うまくいっていないと感じる時ほど不安は強まる。そうでないときは不安も意気込みも波立たない(し、その方が望ましい状態とは思っている)。この不安はかなり強いもので(性分もあると思うが)、ここにきき方のクオリティに影響を与えるメンタルの部分のほとんどが左右されているかもしれない。

・相手がはなす言葉の用法やニュアンスに注意を向けている。知的に理解しながら、自分の常識を疑い、相手の常識を疑う。一見、当たり前のこととして了承していい内容にも、「この人は何らかの理由や意図をもって、あるいは周囲の環境の影響によってたまたまそのような考え方を身に付けたはずである」ということと同時に、「それは絶対的に正しいものではないし、一つの事実に対してほかの解釈は原則としてありえる」というスタンスをもってきく。そうすることで、内容を抽象化せず、その人個人の具体性を伴った内容として受け取ることができる、と考えている。

・相手のはなしを確認するために問う。こちらからの判断や意見を提供したいという気持ちを保留し、相手が使う言葉の真意やニュアンスを確認するように、その言葉を反射させる。きいていて、違和感を覚える言葉、どういう意味で使用しているのかを確認したくなった言葉を取り上げる。「ああ、きっと、こういうことなんだろうな」という推測を働かせないと埋められない文脈のギャップがある場合は、きき手の勝手な理解で推測するのでなく、できるかぎり相手の理解と言葉にもとづいて説明がなされるようにする。論理的な整合性はなくてもよいが、言葉から言葉へのギャップがあることで自分の推測が及んでしまうことを許容しない。

・自分の中に浮かぶイメージや感覚を大事にする。そうしたイメージはどうしたってきき手である自分が持っている材料を幾分かでも用いないとつくりえないものであり(なぜなら自分は相手ではないから)、それがゆえにそのイメージが相手の言わんとしていることと完全に一致することはない、ということはわきまえつつ、しかしそのイメージは相手がはなし自分がきくというその場だからこそ生じたものである、ということには強く信頼を置いてよい、というふうに考えている。だから、「僕はこのように感じました」「このようにとらえています」と相手に伝えることにはそう消極的にならなくてもよいというスタンスをとっているし、実際にそう伝えるシーンもある(そこに余計な意図がなければ破たんすることはあまりない)。

・自分が陥っている状況に気付くようにする。「うまくきこうと力んでいる」、「相手のはなしに実はあまり興味がもてていない」、「ついつい自分の常識にしたがって相手の話を理解・判断してしまっている」といった具合に。具体的にどうやって気づいているのか(あるいはどれくらい気付けず見過ごしているか)はわからないが、少なくとも「自分はそういう思考の癖を持っている」ということを反省的に自覚していれば、「あ、またこのパターンか」と気付きやすくなるようだ。自分にとって認めたくないもの(認めると不都合があるもの)はなかなか認められないが、自分がすでに認めているものなら「あ、これか」となる、ということもあるかもしれない。

・つまり、CPUの使い方は大きく次の2領域に分かれている。
(1)相手のはなしを目線や声色、体の動かし方、言葉の一語一句までもらさずきこうとするCPU。
(2)CPUプロセス自体をメタ的に観察し、自分の中でイメージとして感じていること、いつの間にかついつい意識してしまうことに注意を向けるCPU。

・自分の目で相手を「観察」するのではなく、相手の目で世界を見るように聞く。しかし、それは新たな形の「観察」の一つの形式という印象も自分の中にあり、究極的にはいずれも同じことをやっているのかもしれない、という感覚がある。そこには「自分」だから見えた相手の世界、という視点が抜けている。客観的に(自分の主観性やユニークネスを排除して)相手の主観に入ろうとしている、そんなイメージ。したがって、もしかしたら相手自身への興味というよりは、「深まることできける話全般」に対する興味が強いのかもしれない。

・問題解決をしようとしない(したくなる気持ちの保留を試みる)。問題解決がありえるとすれば、それは本人がその”問題”なるものをより正確に把握したときにはじめて実現できるもので、かつ正確に把握した時点で8割解決されている、というのが今の認識。それを前提にしながら、そのようなきき方をすることで、結果的に解決される、と考えれば、問題解決したくなる気持ちを無理なく昇華させられるのかもしれない。

・つまり、その状況の中にいる本人(相手)以上に、相手自身のことを考えている人はおらず、問題や関心について多く触れている人はいない、という視点に立ってはなしを聞く。それは素朴なリスペクトを生み、そうした姿勢に立つことで、意見が言いたくなる気持ちが湧いてくるのを結果的におさえているようにも思う。

・類型化やパターン化、それによる先読みをほぼ自動的にしてしまう自分に自覚的になりながらきく。性分としてパターンにあてはめてきいてしまう以上、それはそれとしてひとつの理解につながるかもしれないと思いつつ、それを手放すこともまた試みる。もしかしたら、パターン化という形で(たとえ浅くても)「理解ができた」と思うから、意見を言いたくなるのかもしれない。ピンからキリまで理解しきれることなんてなかなかありえないはずなのに。

・相手がもたらしてくれる情報量は膨大なものであり、自分がそれをすべて受け取るのは容易ではないという前提に立つ。できる限り取りこぼしがないためには、自分がキャッチできる情報(つまり自分自身のメンタルモデルに合致する情報や既存の興味に近い情報)に留まらない範囲をカバーしないといけないが、そのためにはまず「自分は多くのことを取りこぼしている」とか「自分はキャッチしたものを無意識のうちにジャッジし、必要な情報とそうでないものとにわけている」ということをまず自覚しないといけない。

 

「僕が「きき方」を調整することで、どんな良いことに出会うことができたのか? そしてそれはなぜなのか?」への回答については、また後ほど。

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