近況報告:「おこめつ部」と「クリエイティブマーケット」と文章修行

カテゴリ:自分事

近況報告的に、いま取り組んでいることについてまとめる。

秋田県の起業家育成支援事業「おこめつ部」

おこめつ部

「おこめつ部~農耕型スタートアップ・プロジェクト~」は、想いを起点に社会的インパクトを生み出す事業を、お米を育てるように丁寧に時間をかけて支援します。

おこめつ部~農耕型スタートアップ・プロジェクト~

株式会社ウェブインパクトの一員として、秋田県が主催する起業家育成支援事業の事務局をやっている。秋田に起業の文化を根付かせたいという以上に、特に大学生が、秋田に残り自分の想いを遂げるための選択肢を増やしたい、と個人的には思っている。正直、プログラムが素晴らしすぎて、事務局業務を放棄して参加者側に回りたいくらいだ。詳しくはWEBサイトを見ていただきたい。あと、Facebookページにもぜひいいね!を。

合同会社G-experienceのクリエイティブマーケット事業

五城目には540年続く朝市がある。その朝市に子どもが出店しちゃおう、というのが、合同会社G-experienceのクリエイティブマーケット事業。小学生対象のキッズクリエイティブマーケットと、中高生対象のユースクリエイティブマーケットの2つの入口がある。さらに、中高生向けには、「マイプロ」を深めるオンラインのサポートプログラムを用意する予定で準備中。

今月は9月24日(土)と25日(日)の2日間に渡って実施。初日に出店するものを集まった参加者で考えて準備し、2日目に実際に朝市に出店する。近日中にチラシを作成し、学校等に配布予定。

実は、8月に一度トライアルで実施した。そのときは五城目在住の小学生4名+こども園の子が1名。なんと、商品を考えるはずなのに映画をつくることに。子どもたちの自由な発想には驚かされる。結局、商売にはならなかったものの、子どもたちは「自分たちでも映画を撮れるんだ」という手ごたえを感じてくれた模様。その様子は僕が記事として紹介している。

「自分たちで映画が撮れるなんて思ってもなかった」とその男の子は言った

天狼院書店ライティング・ゼミ

絶賛、文章修行中だ。まぐれ当たりで海士町について書いた記事が10万PVを稼いだらしいが、それ以来鳴かず飛ばず。ホームランを狙うとたちまちフォームが崩れるので、コツコツヒットを積み重ねるつもりで、素朴に記事を書いている。先ほどのキッズクリエイティブマーケットの記事も、文章修行の一環だ。

生前の祖母は、僕が生まれる前に起きたある出来事をきっかけに国内でも稀な難病を患ってしまい、それで僕の記憶の中の彼女はほとんど寝たきりの状態だった。うまく言葉を発することができなかったのも病のためで、祖母と何か会話をしたという覚えがあまりない。

罵倒してしまうくらいに誰かを愛したことがありますか

 

 

島根県には、実は有人の離島がある。松江の遥か北、日本海に浮かぶ隠岐諸島がそれだ。その隠岐諸島に位置する海士町(あまちょう)に、僕は5年半ほど住んでいた。そんな僕が言うのもなんだが、この島を訪れるのはあまりオススメしない。きっと、期待を裏切られてしまうからだ。圧倒的に。

島根の離島・海士町にはやっぱり行かない方がいいのかもしれない

 

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受け手をバカにしないエンターテインメントのために

カテゴリ:自分事

娯楽の意義を考えたことがなかった

先日、五城目町から、実家の大仙市神宮寺へと帰省したときのこと。実家では意識せずともだらだらと時間を過ごすことになるのだけど、今回はWOWOWでたまたまやっていたミッション・インポッシブルの1と2を観た。元来、映画という娯楽に時間を費やすことにはどちらかというと消極的だった僕は、誰もが知るこのシリーズを、恐らく初めてほぼ通しで視聴したのだった。そして、実家から戻ってきたこの1週間の間に、Amazonプライムで視聴可能なMIシリーズをすべて観終わったのが、ついさっきのことだ。なんというか、率直に面白かった。単に消費者でいられることのありがたさにもたれかかることができて、おかげでハードな週の諸々からリフレッシュできたような気がする。

なんとなく避けてきた王道シリーズを制覇してみようと思ったのは、きっと、6月から受講を始めたオンラインの文章講座の影響だと思う。その講座で提供されているライティングの技術は、これまで僕がブログ等で培ってきたそれとは、似ても似つかぬものだった。不慣れな書き方に当初は悪戦苦闘していたのだけれど、段々とコツをつかめてきている。テニスで例えるなら、一発で勝負を決めようと欲を出せばすぐミスをするが、多少はラリーがつながるようにはなった、という段階だろうか。

その文章講座が目指しているものを一言で表すとすれば、それはきっと「エンターテインメント」、つまり娯楽なのだと思う。一方、僕がブログで日々書く文章は、娯楽性に欠けたものが多い。いや、むしろ、僕という人間の性質がそもそも、これまで娯楽を好んでこなかった。純粋に楽しく面白いだけの小説は、もちろん「面白い」のだけれど、それだけでは物足りないのだった。僕は、その後に自分の中に残るものに重きを置いているのだから。

そして、テレビゲームよりも受動的でかつ純粋な娯楽をスルーしてきたために、僕はエンターテインメントの意義というものを考える機会を逸していたということがわかった。それを気づかせてくれたのは、その文章講座と、MIシリーズだった。

エンターテインメントの難しさ

エンターテインメントの価値について、素晴らしい文章をたまたま見かけたので、引用してみる。

そもそも、エンターテイメントをはじめ、娯楽というものは、受け手が自分自身の価値観を肯定するために存在する。
娯楽とは、そのための手段のようなものだ。

作品を通じて私たちは、自身の中にある感情や価値観は正しいのだと認識(肯定)し、自身の価値観や人格を作り手と共有する。
それにより満足や充実感を得る。
「楽しい」とか「面白い」とかいう感覚は、その結果として生まれる副産物みたいなものだ。

音楽をはじめ、あらゆる娯楽が存在する理由 MY GREATEST TRACKS

エンターテインメントは、自己肯定を深めるものであり、その副産物として「楽しさ」「面白さ」がもたらされる。どれだけfunnyあるいはinterestingであっても、自己肯定につながらないコンテンツはエンターテインメント足り得ない。

そこで、僕は根本的な問題にぶち当たることになった。エンターテインメントとして、純粋に読んでいて楽しめる文章にしようという試みが、自分の中でしっくりこないのだ。書いていて楽しくない。今はスタンスを矯正している途中だから、修行みたいなものだ、楽しくなくてもしょうがない。そんなふうに思いながら、書いていた。

あるとき、知り合いに、「この講座で書いている文章より、普段のブログの方が、僕は好きだな」と言われた。なるほど、確かに、ブログを書いているときのほうが、個人的にワクワクすることが多い。それは、自分の自己顕示欲を満たせるから、というのもあるが、どうもそれだけではないような気がする。もっとシンプルに、書いている文章に自分で納得感があるかないか、という問題がある。

そこではたと気づいたのだった。そうか、読む人を楽しませよう、読む人をまるっと肯定するような文章を書こう、そういう意識が、知らず知らずのうちに、読み手の知識量や理解力を低く低く見積もろうとしていたのではないか、と。言葉を選ばずに言えば、僕は、エンターテインメントを意識するあまり、受け手をバカにしてしまっていたのかもしれない。

ブログは、率直に自分のために書いていた。自分の土俵だからだ。広く一般に読まれなくてもいい、そういうスタンスだったから、自由に書けた。今は、広く読まれる文章を意識して書いている。不慣れなチャレンジを通じて、僕はどこかで大きな誤解の中に迷い込んでしまっていたのではないか。

それは、これまで自分自身がエンターテインメントを敬遠していた理由でもある。思えば、僕が受け手として喜んで享受していたエンターテインメントとは、受け手の知性を信頼するものであったと思う。ブログも、好き勝手に書きながら、わかる人に届いたらいい、くらいのつもりで書いた。それは、書いている自分としては、相手をバカにしなくて済んでいたから、納得感があった。

そもそも自己満足に書いていた文章だから、まずは相手のために、というスタンス変更で時間をくった。しかし、次に、楽しませようということばかりに目がいき、まるで子どもだましのように相手の知性を低く見るようなスタンスをとってしまっていた。

その後の結果は明らかだった。読み手の知性を信頼して書いた文章が、やはり良い評価を得た。

肯定と否定の間

エンターテインメントが自己肯定するためのものというのは、確かにその通りだろう。だけど、否定的な状況まで肯定するのは、倫理に反しているような気がするし、書いている側が楽しくない。大事なのは、コンフォートゾーンとストレッチゾーンのバランスとか、ほどよく想像力や創造性をかきたてるコンテンツをつくりだすことなのかな、と今は思う。人は、変化を拒み、現状を維持したいと思う一方で、自分の成長を願うものだから。

そういう意味で、学びや気づきのある、つまり、ささやかながら変化を起こせるような、そういう文章を書けるようになりたい、と思う。強い変化を求めるコンテンツは、きっと傲慢で、つまりコンテンツ足り得ない。そういうバランス感を身に付けていきたい。

 

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お盆を前に横手に学生と社会人がたくさん集まった話

カテゴリ:世の中の事

横手・MIRAIでの集合写真

横手には、老若男女が集まり交わる場所がある。

2016年8月11日・山の日。「あらたな学びのスタイルを考えよう」というテーマの下、横手の「石蔵・MIRAI」に30名近い人が集まった。集合写真を見ていただければ、人口減少県・秋田では珍しく10代後半~20代が多いことがわかると思う。

今回は、横手をはじめとした秋田県出身の学生が仙台や東京から帰省するタイミングに合わせ、県内の社会人や高校生と交流できる機会として企画されたそうだ。さらに、学生が対話的なワークショップに触れる経験を得られるような構成になっており、かつ、ワークショップのアウトプットは主催側が参考意見として今後の展開に活用する、という手の込み様である。

決して一般ウケしないテーマでこれだけの人数が集まるのはなぜか。背景には、主催者の求心力はもちろんのこと、オーガナイザーとしての手抜きのない努力があるのだな、と感じた。

第一部:高校生と大学生の声を聴こう

前半は、高校生と大学生が主役。社会人は耳を傾ける側に立つ。グループに分かれ、学生は自己紹介をしながら、普段の生活のスタイルなどを話していく。社会人は彼らの日々考えていることやニーズを受け止め、把握する。

ディスカッションでもなく、アイデアを深めるのでもなく、まずはシェアをすることから。振り返ってみると、初対面どうしが多いというシチュエーションに適した進め方だったと思う。集まった面々のバックグラウンドのばらばら具合がまた面白い。

学生たちの話に耳を傾ける

自己紹介が一通り終わった後は、主催者側が用意した問いに学生、社会人がそれぞれ回答しながら問いを深める形式。個人的には、特に2つ目の「学生は最初の就職先に何を求めているか」という問いに対する、4人の学生の回答が四者四様で、いろいろ考えさせられた。バランスがほしい、メリハリがほしい、あるいは、次々いろんなことにトライし続けたい……。

自分の中の印象を整理してみると、「リスク」が学生たちの一つのキーワードなのかなと思った。入社してから「思ってたんと違う」となるリスク、(成長できるかもしれないが)厳しい環境に自分が耐えられないかもしれないリスク、入社後に自分のやりたいことが変わってしまうリスク……。様々なリスクを勘案した結果、バランスを求める部分があるのではないか。逆に言えば、現在の学生は世界をそれくらい先が見えないものと捉えている(捉えざるを得なくなっている)のかもしれない。

第二部:新しい学びのスタイルを考えよう

第二部は打って変わってアイデア創発を主体としたワークショップ形式。デザイン思考的エッセンスを加えたシナリオ・プランニングの手法を用いながら、一人ひとりのアイデアを集約して、広げて、深める。最後は2020年という未来の新聞の一面記事という形でグループのアウトプットをまとめた。

シナリオ・プランニング的手法

内容についてはここでは触れないが、意外にも学生がすんなりワークに入り、自由に自分の意見を表明していた点は素朴にすごいなと思った。割と大学等で経験する機会があるのだろうか。僕がこうしたワークに初めて取り組んだのは、恐らく就職活動のときだった。今の若い世代は、もっと早い。なかなかうかうかしていられないなと思う。

また、僕より年齢が上の方がワークで縦横無尽な言動をしているのも印象的だった。だいたいこうしたワークは年齢を重ねるごとに受け入れがたいものになるものと勝手に思っていた。しかし、少なくともこのMIRAIに集まる方々は違う。積極的にワークに取り組み、学生ともよく交流されていた。

結果的に、10代から60代まで、老若男女が自然な形で交わり協働するよい場になっていたなと思う。それが、この石蔵・MIRAIの本当のすごいところなのだろう。若い人の割合が多めなのも、発言のし易さにつながっていたかもしれない。

まとめと今後に向けて

今回ファシリテーターとして企画・構成と当日の進行を司っていた細谷さんが、「みんなの輪の中に入って一緒にディスカッションしたかったなあ」とぼやいていた。それくらい、相互にアイデアを生み出し合うような良い場だったということだ。今後、ぜひ、参加した学生たちの中で何人かがファシリテーションや場づくりに興味を持ってくれたら、さらに裾野が広がって面白くなりそうだ。そういう贅沢な希望を言いたくなるくらいに、自由闊達な若者たちと触れられてよかったと思う。

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