失われる秋田への眼差し-特集「忘れられた秋田人」

カテゴリ:自分事

アサヒコムの秋田版に「忘れられた秋田人」という特集記事が組まれています。
2012年1月5日から1月13日という新年早々のタイミングでアップされており、震災の翌年に東北に位置する秋田のこれからを見つめなおす意図があったのではないかと思います。

特集のタイトルは今なお慕う者の多い民俗学者・宮本常一の著書「忘れられた日本人」になぞらえたものです。
宮本常一はフィールドワークに数多く出向き、農山漁村のありのままの姿を記録しました。
自ら集落を練り歩き、地域の人と会話を交わす。「日本」に注ぐその暖かな眼差しを現代の日本で再現しようという、記者の意気込みが感じられます。
(個人的にも「忘れられた日本人」は一読をお薦めします。昔の日本の暮らし、そこに生きた人々の姿がありありと目に浮かぶ描写は圧巻です)

特集は全10回組まれています。
この特集で初めて知ったことも多く、とても有意義な記事ばかりです。ぜひお読みください!

忘れられゆくものたちへの眼差し

現代に生きる僕たちは資本主義の恩恵に預かりながら”豊かな”暮らしを享受しつつ、思い出したように失われていく何かに目を向けることがあります。
しかし、失われていく何かは同時にこれまでの資本主義においては評価のしようがなかった代物であるということを自ら示しています。
(自然の摂理と言うべき)資本主義から脱却することが不可能な僕たちは、それらに一瞥をくれるのがやっとだったのです。

なぜ僕たちは古くから伝わるもの、文化と呼ばれる類のものを無視することができないのでしょうか。
そこには何らかの寂しさやノスタルジアが含まれていることは容易に想像できます。
あるいは、一種の罪悪感が目を反らさせないように作用しているのかもしれません。
失われていくものに目を向けたとき、多くの場面で「僕たちはすでに当事者でなかった」と気づかされることがあると思います。
この無力感とも言うべき感覚によって、もはや目を向けること”しか”できないのかもしれません。

失われていくものたちは、資本主義の外部でひっそりと消え去るのみですが、その内部に組み込まれている僕たちにも何らかの喪失感をもたらします。
失われていくものたちは、きっと何らかの形で、僕たちと繋がっていたのでしょう。
しかし、とても悲しいことに、僕たちはその喪失感を以ってはじめて失われていくものたちの存在を強く認識するようになっています。

それでも、目を背けずに

誰しも喪失感を味わいたくはないはずですが、問題は当事者の資格を得るためには多大なるコストを支払う必要があることです。
無力感も習慣化すれば諦めに変わることもあるでしょう。

それでも、失われていく何かへ向ける眼差しを絶やさないことはいつだってできます。
目を背けないことが結果的に何かいいことに結びつくとも限りませんが、向き合うことすら辞めてしまったらそこで可能性が途絶えてしまいます。

グローバリゼーションの進行により、社会は僕たちを短期的な利益に目を向けるように働きかけます。
ここでも、「何かいいこと Something Good」の精神が必要です。

「Do Something Good」
何か具体的に良いことをもたらすかどうかはわかりません。
しかし、可能性を閉ざせばどうあっても良い方向に流れることはありません。

僕たちは、「より良い社会」「あるべき姿」「Something Good」に投資することを文化とすべき時代に生きているように思います。
僕たちは、心のどこかにある喪失感や無力感を無視するかどうかで、21世紀を20世紀の単なる延長するかどうかの岐路に立っているように思います。

利益に直結するかどうかわからなくても、「可能性」に投資する。
21世紀は一人ひとりの姿勢が問われる時代なのではないでしょうか。

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Something Good:不確実な時代におけるソーシャルデザインとは

カテゴリ:読書の記録

 greenz.jpを運営するグリーンズが編集した本書。

知り合いにお借りしたのですが、一気に読み終わることができました。
本書ではgreenz.jpでこれまで紹介されたプロジェクトを中心に、「ソーシャルデザイン」の事例が列挙されています。

ではグリーンズが考える「ソーシャルデザイン」とは何でしょうか?
ひとことで言えば、「社会的な課題の解決と同時に、新たな価値を創出する画期的な仕組みをつくること」です。

ソーシャルデザイン

各種メディアにも取り上げられ注目を集めている秋田の「トラ男」プロジェクトも掲載されています。
ページ数もそう多くないので、ことあるごとにパラパラと眺めるのが良さげな一冊です。

「いいこと」だからといって受け入れられるわけでもない

本書に掲載されているプロジェクトを見ると、「いいこと」であることが一目で分かります。
しかし、各プロジェクトが始まった当時に遡ってみれば、必ずしも周囲からそう見えていたわけではないはずです。

「マイプロジェクト」を続けていく過程で、いろいろな意見を耳にすることがあります。アドバイスと言いながら、凹むようなことしか言ってこない方もいます。
極論、言わせておけばいい、と思います。

(中略)

若い人は誰も寄り付かない街だった寿町が様変わりしたのも、コトラボの岡部さんたちがさまざまなプロジェクトを仕掛け続けたからでした。今や世界中の若いクリエーターたちが噂を聞きつけ、さまざまなかたちで街に新しい風を吹き込んでいます。
そう、変化は必ず起こるのです。

ソーシャルデザイン

社会の制度を変えるわけでもなく、大きな投資があるわけでもなく、必ずしもインパクトのあるプロダクトを流通させるわけでもない。
このような取り組みは「何かいいこと Something Good」ではありますが、どのような変化が起こるかはやってみなければわからないことの方が多いと思います。
やっている側ですら、あらかじめ何らかのゴールイメージを持っていたとしても、それが確実に起こることだと確信できていない場合がほとんどではないでしょうか。
ましてや周囲からしてみれば、「そんなことをなぜわざわざやる必要があるのか」という疑問を持つのは、むしろ当たり前のことのように思います。

短期的な利益にばかり目がいく時代に

「いいこと」への第一印象が悪くなりがちなのは、現代社会が不確実性に満ちていることと関連付けることもできるでしょう。
今や日本の将来はもちろん、1年後に自分がどのような状況に置かれているかすら予測がつかない時代です。
それはなぞるべきロールモデルや(例えば終身雇用のような)集団的な保障が失われたことも一因と考えられます。
(このような流れの中で、自己啓発本が流行し、自分で何とかする「自己責任」論が蔓延しているように感じられます)

不確実な時代には、今すぐには結果が出ない長期的な利益よりも、今すぐに結果を得られる短期的な利益に目が行きがちです。
最近読み始めた宇野重規著「〈私〉時代のデモクラシー」では、この点について様々な論者からの引用を交えつつ議論がなされています。
その一節を以下に紹介します。

このような社会で見失われがちなのは、長期的な視点です。あるいは、いますぐには結果の出ない、未来においてのみ、その意味がわかるような企てといえるかもしれません。ちなみに、現代社会に適応するために必要な行動や生き方の原則を、「ノー・ロングターム(長期思考はだめ)」と表現したのは、アメリカの社会学者リチャード・セネットです(『それでも新資本主義についていくか―アメリカ型経営と個人の衝突』)。

〈私〉時代のデモクラシー

〈私〉時代のデモクラシー」では、昨今盛り上がりを見せるキャリア教育についても「ノー・ロングターム」の様相を観察できるとしています。
確かに、現在のキャリア教育は、長いスパンでキャリアを形成することについて深く考える余裕はなく、「進路指導」の延長として、「出口(進路)さえ決まればいい」というスタンスで行われていることがほとんどです。
また、キャリア教育の一環として「○○力」の育成についても注目を集めているところですが、これも具体的にメリットのある能力を身に付けさせる、という視点が絡んでおり、即効性を求められていることが窺えます。

だからこそ「Do Something Good」

「Something Good」は必ずしも短期的なメリットを生み出すことができるとは限りません。
むしろ、「きっと何か良くなる」「今やらなければ手遅れになる」という「遠い将来のメリットのための投資」としてのニュアンスを多分に含んでいることと思います。

「Something Good」がなぜ求められるのでしょうか。
長期的な視点がなければ、目に見える利益がすぐ現れにくい交流や教育、社会の格差、環境問題などへの投資ができないからです。
この視点こそが、持続可能な社会をつくるために必要なのです。

海士町の「AMAワゴン」という取り組みを見ると、僕は特にその必要性を痛感します。
「AMAワゴン」は一橋大学の学生が海士町に来たのがきっかけで始まった交流事業で、参加者の他に毎回講師がつき、住民との交流や中学校への出前授業などを行います。
このAMAワゴンに参加した講師や参加者をきっかけに移住した人もおり(僕もその一人です)、島外の大人との交流を通じて地元の子どもたちの意識にも無視できない影響が出ているように思います。
海士ファン拡大にも寄与しており、都内での海士のイベント開催時にもAMAワゴン参加者が集まる他、その知り合いもイベントに参加し、ファンの輪がじわじわと広がっているという効果も見られます。

このAMAワゴンは、見た目としては単なる「交流」でしかなく、観光ツアーとしての利益を見込めるものでもありません。
海士ファンが増えるかもしれませんが、しかしそれがどのような利益につながるのかを実施前から明らかにするのは難しいでしょう。

それでも、海士町はこの交流事業に投資することを決断し、これまでに15回実施しました。
まさに「Something Good」の好例と言えるでしょう。

「Do Something Good」のコツ

短期的な利益に偏りがちな社会で長期的な利益を追求することは至難の業です。
この「ソーシャルデザイン」で紹介されている様々なプロジェクトはそのコツを学ぶのに適していると言えます。

本書の事例を踏まえながら、そのコツとなりそうなものをリストにしてみました。

1.継続する

プロジェクトの性質上一度で終わるようなものでない限りは、何よりも継続が第一だと考えます。
WE LOVE AKITAも活動を始めて4年目になりますが、停滞するときもあったものの、ファーマーズマーケットや他団体との連携を通じて、学生が集まりだしたり、率先して企画を生み出す人が参加してくれたり、秋田に帰ったメンバーで動けるようになったりと、どんどん面白くなってきています。
海士町のAMAワゴンも、15回まで続ける気概があったからこそ、メリットを享受できるようになったのだと思います。

具体的に効果のある施策を確実に仕掛けられる実力が重要と思われるかもしれません。
しかしそれを前提にしてしまうことでハードルも上がってしまいますし、そこまでの実力がなくともトライ&エラーを繰り返しながら徐々にインパクトを出すことに成功しているという事実を見逃してしまうことに繋がります。

一度のプロモーションでの話題性を狙うならば話は別かもしれませんが、「Something Good」を狙うのであれば長期的に関わることを前提に、少しずつでもプロジェクトを前進させていくことが重要です。

2.やってて楽しい

本書にも書かれていますが、楽しいということは重要です。
短期的にメリットがなくても、それに関わってる瞬間に「面白い」「楽しい」「またやりたい」と思えることが継続に繋がります。
インセンティブは何も目に見える利益に限りません。「やってて楽しい」は無視できない効果があります。

この点、社会の問題にコミットするNPO組織のような場合、「楽しい」を封殺してストイックに「使命感」や「コミットメント」を重視するケースもあるように思います。
が、これは継続を念頭に置いた場合は割と不利です。十分な「やりがい」があればいいのかもしれませんが。

3.味方を不幸にしない

プロジェクトに直接関わる人も、そのプロジェクトのメリットを享受する側の人も、いずれも不利益を被らない仕組みがベストなのは言うまでもありません。
誰かの”犠牲”や”不幸”の上に成り立つ活動は持続性がなく、どこかが疲弊した時点で運営がストップする可能性があります。
直接プロジェクトの運営に携わらない人たちであっても、きちんと”win”になれるようなデザインが求められるでしょう。

4.なるべく敵は作らない

何らかの形で社会の問題の解決に携わる場合や、競合する既存業者が存在する市場に参入するような場合、そこでの戦い方に気をつけるべきです。
「自分たちは相手より優れている」「あなたがたのここがおかしい、だからこうするべきだ」という態度は望ましくありません。
これは余計に「敵」をつくるリスクがあります。

ステークホルダーの中に自分たちのプロジェクトを妨げる存在がいないに越したことはありません。
「敵」を設定することは自分たちを妨害する障壁をわざわざつくりあげるようなものです。
また、そのような攻撃的な姿勢は、味方になりうる人たちにも悪い印象を与えることにも注意が必要です。

 

本書に溢れる様々なアイデアは、どれも面白く、参考になるものばかりです。
「マイプロジェクト」を何か持ちたいと考えている方、「Something Good」を志向する方、ぜひ手にとって読んでみてください。

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コミュニケーションのパイプを構築するということについて

カテゴリ:自分事

コミュニケーションのパイプ

おそらくマーケティングの分野でたまに使われる言葉だと思います。
僕は梅原真さんの著書ではじめてその言葉を目にしました。
この梅原さんの紹介記事にもコミュニケーションのパイプという言葉が登場していますね。

これは、マーケティングに限らず、二者間のコミュニケーションを観察する場合においても有効な観点だと感じています。

コミュニケーションがうまくいかないとき

コミュニケーションに失敗している場合を振り返ってみるとき、最近は次の二点についてまず注目するようにしています。

・自分の本当に伝えたいことが相手に伝わっているか?相手が本当に伝えたいことを受け止める準備はできているか?
・コミュニケーションの量は十分か?

前者については基礎の基礎のように見受けられますが、「コミュニケーションの失敗」が生じているほとんどのケースで見受けられる事態ではないかと思います。
「ホンネを語る」とは良く言いますが、言うは易し、行なうは難し。
「ホンネを語る」ためには、自分自身がホンネを把握していなければならず、また相手もそのホンネを受け止めてくれるという関係性もまた求められます。

後者については、コミュニケーションのパイプを構築する場合に地道ながら有効な手段と考えています。
技術面や両者の相性に頼らず、地道にコミュニケーションを積み重ねた結果、パイプが構築されることは少なくありません。

あえてコミュニケーションをキャッチボールに例えてみると

そもそもキャッチボールはボールがなければ行うことがありません。それが「伝えたいこと」です。
したがってまずボールを用意する必要がありますし、相手に渡したいものがあるのに、それとは違うボールを用意してもいけません。

キャッチボールは、一人では成立しません。相手がいて成り立ちます。
したがって、取る体制ができている相手がいてくれる必要があります。

投げたいのは、どんなボールでしょうか。速球でしょうか。とにかく距離を飛ばしたいのでしょうか。ワンバウンドさせたいのでしょうか。
もちろん、投げたいボールを投げる能力を自分が持っているか、という問題も出てきます。

そして、相手はそれを取ってくれるのでしょうか。相手の捕球能力は十分でしょうか。
また、どんな悪球でも必死に取ろうとしてくれるほど頑張ってくれるでしょうか。
場合によっては、投げたいボールを相手が取れる範囲内で収めることも必要になってくるかもしれません。

キャッチボール(=コミュニケーション)は、難しい

上の例が示すように、コミュニケーションは様々な要素で成り立っており、逆に言えば、それだけ複雑で難しい、と僕は思っています。
特に、「ホンネを語る」段になると、余計にそのハードルは高くなります。往々にして、相手に求めるものが膨らんでしまうのだから。

「ホンネを語る」が成功するということは、コミュニケーションのパイプづくりがうまくできた、ということだと思います。
自分から出ているパイプと相手から出ているパイプがうまく接続され、伝えたいことが最小限のロスで伝わる状態が理想です。

幸いなことに、このパイプづくりの成否はある二人の間で運命的に決定付けられているものでもありません。
キャッチボールと同様に考えれば、回数をこなすことによってコミュニケーションが成立しやすくなる可能性はあるでしょう。
双方の技術的な問題や相性だけに成否を委ねるのではなく、コミュニケーションの回数をきちんきちんと重ねていくことによってパイプづくりは促進されるのではないでしょうか。

まとめ:コミュニケーションのポイント

まとめると、ポイントは4つです。

1.率直になってみる

ホンネは意図する・しないに関わらず、ついついそこから逃げてしまいがちです。
ホンネからの逃避のメカニズムはだいたい2パターンで、
・ホンネが実は自己を否定する代物だった。
・ホンネを言うと相手をネガティブな心境にさせてしまいそう。
というところから、コミュニケーションの俎上に乗っける上で躊躇しているのではないかと思います。

躊躇している自分を自覚してみることが第一です。
自分が意識的に、あるいは無意識に避けているホンネとは何か。
率直であればあるほどよいでしょう。

これが把握できなければ、コミュニケーションは空振りで終わってしまうでしょう。
把握した上で、実際に伝えるかどうか、あるいはどうやって伝えるかどうかを検討すればよいのです。
案外、率直に言ってしまうことが、最も手っ取り早く、かつロスも少なかったりします。

※良くある勘違いとして、自分や相手を傷つける度合いが強いほどホンネだと思われている節があるように思います。
が、これは全く真実ではありません。

2.相手に伝える技術を磨く

これまた難しいですが、チャレンジしてみる価値はあります。
自分が言いたいことがあるのならば、それをきちんと伝えられることがベストであるはずです。

相手に伝える際に気をつけたいのは、こちらの意図どおりに伝えられるかどうか、という点です。
ホンネをまるっとそのまま相手にぶん投げてみたところで、相手がきちんと受け取れなけらばコミュニケーションはやはり失敗します。

これは相手の捕球能力に依存する面もありますが、伝える側も投げ方を十分に配慮することは可能です。
相手に応じて言葉を選ぶこともできます。また、場合によっては一度に伝えきることは諦め、段階的に伝えることも検討可能です(中継ですね)。

難しい話ではありますが、伝えなければならないことがあり、それを伝えなければならない必要が生じてはじめて、どう伝えるかを必死で考えることになるのではないかと思います。
恋愛なんか、まさにそのシチュエーションそのまんまですよね。
そういう意味で、まず「伝える」ということが前提になっていないと、事は始まりません。

3.どんなボールでも諦めない

これは受け手側の話。
コミュニケーションを成立させたいのならば、こちらが相手のホンネを引き出す準備ができているかどうかもまた重要です。

「準備」と言いましたが、技術的なところはともかく、まずはコミュニケーションを「諦めない」ということが必要です。
言葉一つで分からなければ、分からないと伝える。分かるまで聞く。聞いているよ、と態度で示す。

コミュニケーションのパイプは一方的に構築できるものではありません。
双方向で情報のロスを最低限に抑えたやり取りができてこそ、正しい関係性なのではないかな、と思います。

4.コミュニケーションの量を増やしてみる

1~3はコミュニケーションの質の話。
しかし、「コミュニケーション=質×量」ではないかと思います。積み重ねは結構侮れません。

先述したとおり、コミュニケーションのパイプは、お互いの技術や相性によって、あっという間に6~7割がた構築できてしまうときもあります。
しかし、時にはパイプができていなくても、コミュニケーションを成功させる必要が出てくる相手もいます。
こういう場合はとにかく量で攻める。いつでも自分は相手を尊重しているということを表明する。
折々で挨拶だったり、近況報告だったりを怠らない。どんなところでも相手の陰口を言わない。
相手にかけるコミュニケーションのコストを惜しまないことが、パイプ構築の鍵になります。

特に、田舎で何か事を進めようというときには、このような”マメさ”が無視できないインパクトを持っているように思います。

 

と、ここまで書いておいてなんですが、僕自身もまだコミュニケーションについては反省点が多くあります。
この年初というタイミングで、自戒をこめてこの記事をまとめてみたのでした。

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