新卒の就職活動に成功する人・失敗する人の唯一の違い

カテゴリ:世の中の事

今日、なんとなく読んでみた「はたらきたい。」に強烈にはまりました。
2008年3月に出版されたみたいですが、リーマンショック以後であっても魅力的な内容だと思います。

なぜか。

僕が就職活動や採用に関わったことを通してなんとなく見えてきたような気がした、
就職活動がうまくいく人といかない人の違い
の見分け方を、あっさりと言葉で言い表されたように感じたからです。

「大切にしてきたことは、何ですか?」

この本は、5つの対談がメインとなっている。
僕の中で特に印象に残ったのは、一つ目と二つ目の対談だった。

一つ目、糸井重里氏と人材紹介会社の河野晴樹氏の対談にて。
河野氏がこう語る

ですから、本当のことを言っちゃうと、新卒の面接をやる場合、「君がさ、これまで大切にしてきたことって何?」という、ものすごく概念的な質問で十分なんですよ。

新装版 ほぼ日の就職論「はたらきたい。」 

糸井氏の返しがまた面白い。

いや、つまり、面接官がそう思ってるんだって知ったとき、「聞いてもらえた!」といううれしさと、「やばい、聞かれた!」というあせりと、どっちかの反応しか、ないですよね。

新装版 ほぼ日の就職論「はたらきたい。」 

これだ!と。 新卒で就職活動に成功する人、失敗する人を分けるのは、きっとこの違いだけなんだ、と。

ここからは僕の考えです。

「大切にしてきたこと」は、モノでもいいし、具体的なことでもいいし、ポリシーでもいい。
そこに、ある種の一貫性のようなものが伴えばいいのかな、と僕は感じています。

「大切にしてきたこと」像をもう少し具体的にすると、以下の要素を含んでいると考えられます。

他人に言えることか

「言える」というのは、「恥ずかしくて言えない」というニュアンスとは異なります。
「人様に伝えて”問題ない”ことか」というくらいの意味です。

たとえば、「毎晩家族にきちんとメールする」ことを大切にしているなんて
他人に言うのは気恥ずかしいけれども、「家族想い」と共感を得られるかもしれない。
だから、これは「言える」。

しかし「いかに自分ではなく、他人のせいにして事を逃れるか」を大切にしてきていると
誰かに伝えたとしても、それを聞いていい反応が返ってくるとはあまり思えません。
何か引っかかりのある、問題のある発言に感じます。

単に、「言い方」が問題となるときもあります。
価値観の話なのだから、絶対的に悪ということはまずありません。
逆に言えば、絶対的に善ということもまたないのです。
どんなにいい話でも、必ず共感を得られるとは限りません。

しかし、それが故に自分の「大切にしてきたこと」を他人に伝えることに抵抗を覚える人がいます。
否定されたり、受け入れられなかったりしたときのことを危惧して。
これは、率直に言って残念なことだと思います。

そう不安がる方へのアドバイスは2パターンかんがえられます。

まずは表現の仕方を変えてみるということ。
相手に伝わるように言葉を選ぶ。別の言葉で言い換えてみる。
自分の大切にしてきたことのいい面、悪い面を整理してみるとよいでしょう。

もう一つは、他人の価値観を受け止めるようにするということ。
別になんでもかんでも肯定しろと言う話ではありません。
あるがまま受け止める。
その発想がないから、他人が自分の価値観を受け止めてくれるイメージも湧かないのかな、と。
そのためには、中立な立場から、いい面、悪い面を抽出する必要があります。

相手の第一印象がよかったら、あえて悪い面に着目する。
逆に印象が悪かったら、あえていい面を見出そうとしてみる。
自分に偏りがあることを自覚し、それでも相手の価値観をまずは整理してみること。
自分が大切にしてきたことも、同じように整理してみるといいのではないでしょうか。

言っていることとこれまでやってきたことが矛盾していないか

言動が一致していないのなら、どうしても「大切さ」を疑ってしまいたくなります。
どちらかといえば、「言葉」よりも、「行動」や「感情」が先立つのではないでしょうか。
その後から「言葉」がついてくる。なんとか説明しようと試みる。そんなイメージです。

これが「一貫性」にもつながってきます。
間違っても「私はワークライフバランスが大切だと…」なんて発言はしないはず。
「大切なこと」を、どこかから借りてきた言葉で ちぐはぐに表現するなんて、大切にしている本人が最も耐えられないはずなのですから。

就活でついついテクニカルな話題に振り回される人も少なくないようです。
「インディペンデントでいられるか」という糸井氏の表現がありますが、
「大切にしてきたもの」があれば、それもきっとたやすい事なんじゃないかと思えてきます。

仕事で大切なこと-「幹事のできる人」-

二つ目の対談は、漫画家のしりあがり寿氏と糸井氏。

しりあがり氏は「うちで重用するのは『幹事のできる人』」と話している。
これがまた深い言葉ですね。

ここからはまた僕の考えですが、『幹事のできる人』の要素はいくらでも挙げられます。
そう、「いくらでも挙げられる」のがポイントになるのです。

・念入りな準備にエネルギーを割ける
・シナリオどおり、タイムスケジュールどおりに進行できる
・周りに助けてもらえる
・他人を動かすことができる
・参加者の”ツボ”がなんとなく分かる
・失敗してもキャラ的に許される
・一人で盛り上げることができる
・他人を生かして盛り上げることができる
・予想外の事態でもきちんとリカバリーできる
などなど。

これらすべての要素を持っている人はいないでしょう。
でも、名幹事はすべからく 自分自身の何らかの特徴を上手に生かしているはずです。

逆に言えば、「幹事をうまくやる」ためのアプローチは一通りではないということ。
様々なアプローチが可能であることにこそ着目すべきではないでしょうか。

仕事のやり方は一通りではありません。適性なんてやってみないとわかりません。
自分で自分の適正が分からなくても、上司や先輩にはきっと見えているはず。
彼らを信じ、彼らに従うことが実は正しい、なんてことも少なくないのではないでしょうか。
やってみたら思った以上に面白かったという経験はきっと誰しもが持っているはず。

就職する前から経験したこともない業種や職種に強い志望を持っている人がいます。
僕からしたら、それはものすごく不思議なことでした。
(大学で情報処理を学んでエンジニアになりたい!というのはもちろん別ですが)

やってみなければわからない。
だから、志望動機なんて考える暇があったら、「大切にしてきたこと」を掘り下げたほうがいい。

そもそも、「志望動機は考えるもの」という考え方が変です。
志望動機は文章化するもので、心の内にすでにあるものなのですから。

というわけで激しくおすすめ

こう自分の意見を書いてしまうと、本書の良さが伝わりづらいかもしれません。
本書の良い点は、対談形式だから、きれいにまとまった言葉があまりないことだな、と。
だから、こうやって僕も自分の言葉で自由に説明したくなってしまうのでしょう。

読んだ人それぞれの琴線に触れてくる言葉がいくつかあるはずで、
それは不思議と書かれた言葉以上のボリュームを帯びて自分の中に入ってきます。

この本を読んで救われる就職活動生も多いのではないでしょうか。

むしろ、この本を読んでもどうとも思わない人ほど行く末が不安です。
(それは、すでにハイパーメリトクラシーでの勝負が決していることを意味する…)

もちろん、この本にだって、答えなんか書いていませんが。

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誰の身にも起こること、と思っていない人が多すぎる

カテゴリ:世の中の事

自分の子どもの死体を遺棄できる心境を思う」という前記事の流れで。

自分の子どもを放置して死亡させた母親に対する、mixiニュースに便乗した日記のバッシングの強さと対照的に、 ちきりんさんとか、dankogai氏とか、きちんと正面からこの事件を見つめている人も多い。
前記事もTwitterで何度かRTしていただき、このブログの半月分のアクセスを一日で達成してしまった。
それだけこの事件で「違和感」を覚え、僕の記事に少しでも共感してくれる人が多かったのだと思う。

個人的に読んで嬉しかったのは、切込隊長BLOGのちょっとした一言だったりする。

個人的には、核家族問題の一種だとも思っているので、祖父祖母も含めた大家族と核家族の中間のような形態がうまくつくれるといいなと。

僕の中学の同級生にも、早々に結婚したり、仕事を辞めてしまっている人もいる。
でも、なんだかんだで、家族と一緒に暮らしているので、それなりに生活できている。
親に万が一のことがあったら、なんて考えると、彼らも途端に不安になるだろうけど。

万が一」 それが自分に降りかかると思っていない人が多い、と思う。
僕が心配性なだけならいいんだろうけど。

・貯蓄もなく、頼れる家族もなく、独身で、二人の子どもを育てる。
・突然、遺伝性の重病にかかり、全く働けず、精神を病んでいた妻が自殺してしまう。

というような状況になったとき、自分が平常を保てるかと言うと、あまり自信がない。
それなりにいいところへ就職できたのに、心を病んでしまった同期も少なくない。
そんな人たちを見て、「自分とは無関係」「自分は大丈夫」なんて思えない。

僕の違和感はここを出発点としている。
自分が自信を持てないことを、他人に対して強く言えるという精神が理解できない。
「育児を放棄するくらいなら子どもを生むな」と、なかなか言えない。(※)

残酷な精神を持ち合わせていたり、倫理観が欠如した人だけの問題。
「世間」はそういう「勧善懲悪」で済まそうと躍起になっているように見えてしまう。
誰か特定の人を犯人に仕立て上げる。
分かりやすい構図で見せるために、犯人探しに終始する。

「もし私が同じ状況に立たされたとしたら」と想像する意欲は失われる。
「誰にでも起こりうること」ではなく、「特別な人の問題」として処理しようとするのにつられて。

それが何の解決になるだろうか。
社会の矛盾から生まれた膿を必死で洗い流すことに一生懸命になっても、 その膿の元となる「病原」の治療は一向に進まない。
「普通の人」たちが、「特別な人」を排除して、社会の健康を守ろうとしている。
そんな構図に見えなくもない。乱暴すぎるかな。

罪は罪として、冷静な判断の元に裁かれるべき、というのに全く反対する気はない。
でも、それで万事解決すると思えるほど、僕は能天気にはなれない。
こんな状況を見ると、社会保障がどうこう言えるような雰囲気じゃないなと思ってしまう。

「自分には万が一のことはありえない」という前提がこの社会のどこかにあるから。
みんな、自分が「普通の人」の範疇に収まり続けると思っているから。

「もしも自分が…」という不安を社会全体で和らげましょう、というのが社会保障だと思う。
「特別な人」のためのものじゃない。 「誰にでも起こりうること」が「たまたま実際に起こってしまった」場合の助け舟。
そういうコンセンサスが取れていないと、社会保障は成り立たないし、「国」なんていらない。 と、思う。

余談。
自己責任って、誰が教えたんだろう。教えられた記憶ないんだけど。 どこにその論理が埋め込まれていたんだろう。学校?

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自分の子どもの死体を遺棄できる心境を思う

カテゴリ:自分事

2幼児死体遺棄:室内に放置 23歳の母親逮捕 大阪

僕はテレビも見ないし新聞も読まないが、会社ではiGoogleをホームにしているので、このニュースはすぐ知ることができた。

第一報は、「腐敗した二児の遺体が発見された」。
まだ、母親は逮捕されていなかった。

嫌な予感がした。
また、世間は母親を殺意ともとれる勢いで非難するだろう。

僕が帰宅する前に、母親は逮捕された。
予想通りの展開だった。

帰宅して、mixiを開いてみた。
案の定、ニュースには大量の日記がくっついている。
深夜0:00付近で1000件近い日記がすでに書かれていた。
大久保コーチの暴行事件のニュースなんて、130件かそこらだ。

でも、この日記の件数が表しているのは、「注目度の高さ」じゃない。
「善悪の分かりやすさ」だ、と僕は思っている。

もっと言うと、「叩きやすさ」だ。
事実上の殺人者である母親を散々叩いても、世間は否定しない。むしろ便乗してくれる。
「命を大切にしろ!」「お前みたいなヤツは母親になるな!」「そうだそうだ!」

生命の尊さを知らず、子どもを見殺しにする、最低な親。
誰が見ても「悪」にしか見えない、ということらしい。
最近はもう少し叩く側のリテラシーも上がり、 「周りはどうして気付けなかった?」 「児童相談所は何回も訪問していたんじゃないのか?」 と、矛先を変えている人もいる。

正直に思ったのは、どうやったらこの事態を止められたのか、僕が何かを口にするには、あまりに情報が少ない、ということだ。
今回に限らず、いつもそう思う。

僕が慎重すぎるからだろうけど、世間の人は慎重さがあまりに欠けているように思える。
想像すればするほど、自分が未だかつて至ったことがない境地を目の当たりにすると思うのだが。

ニュースから分かることを「事実」として、とりあえず並べてみる。

・家族構成は、母親(23)、長女(3)、長男(1年9ヶ月)。母親は、2009年5月に夫と離婚。
・母親は、2010年1月から、風俗店で働き出す。
・母親は、2010年6月下旬より前、まだ生きている二人の子どもを残して友人宅を転々とし、 同月下旬に帰宅して死亡した二人の子どもを発見、すぐに部屋をでる。
・隣人からの異臭や泣き声の苦情が管理会社に相次いでいた。
・虐待を疑う通報が2010年3月30日~5月18日に、計3回あった。児童相談所はその事実を確認できず、子どもの安否も確認しなかった。

子ども二人を抱えながら、風俗店で働くことの心境を、僕はイメージできない。
たぶん、母親は大学を出ていない。離婚する前は、職にもついていなかったかもしれない。
働いて一人で生きていくだけの能力を持ちえていただろうか。

離婚し、子ども二人が手元に残る。
大学を出るか出ないかという年齢で、当時なら2歳の女の子と7ヶ月くらいの男の子を育てる。
僕が、万が一こんな状況になってしまったら、どうするか。
僕は稼がなければならない。これはどうしようもない。
でも、こんなにも小さい子どもを家に置いていくなんてできない。

家族か、もしかしたら友人を頼るかもしれない。
でも、この母親は頼らなかったのかもしれない。
風俗店に勤め始めてから住み始めたマンションだ。隣人に知り合いはいない。

転々とする友人宅はあったのだ。彼女は頼れる人がいたと考えてもいい。
でも、事実はこんな具合だ。頼れなかったのか、頼らなかったのか。
頼り方がわからなかったんじゃないか。
何となく、僕はそう思う。

子どもを養うために、風俗店に勤める。
なぜそうしなければならなかったのだろう。
誰かがそれを止められたんじゃないか。
若いときはいいかもしれない。年をとったら?それでも風俗で働き続けることができる?

親は?母親の両親は何をしていたのか? なぜ一緒に暮らさなかったのか?
まさか、結婚を境に断絶だなんて、分かりやすい展開じゃないよね。

夫は?仕送りはあったのか?
別れてから、子どもの様子を心配したことが一度でもあるのか?
だめだ、ヤンキーの兄ちゃんの顔をつい思い浮かべてしまう。

ああ、今気付いたけど、母親の名字と、子どもの名字が、違うね。

母親は、どうして子どもをほっておこうと、決意したんだろう。
どのような心の動きが、そうさせたんだろう。

彼女に倫理観はあったんだろうか。
生命の尊さが分かっていたのだろうか。
子どもに憎しみがあったのだろうか。
元夫に憎しみがあったのだろうか。
母親自身を産んだ親に、憎しみがあったのだろうか。
自分自身に、憎しみがあったのだろうか。

育児に疲れたのだろうか。
風俗という仕事に疲れたのだろうか。
今の生活そのものに疲れたのだろうか。
将来が見えないことに疲れたのだろうか。

単に、子どもを殺したかったのか?
産んだときから、子どもは邪魔だったのか?

どんな心の闇が、母親の中に住み着いていたのか。
どんな気持ちで、「育児が嫌になった」と言ったんだろう。

このニュースを見ていると、 「女子高生が学校のトイレで出産し、そのまま子どもを流した」 という、それはそれは衝撃的な事件を思い出す。
どういう気持ちで子どもを産んでしまったんだろう。
「処置に困った」 そう彼女は供述し、水を流した。

彼女は命の大切さを知らなかったのか?道徳感が欠落していたのか?
もしかしたら、本当に「困った」のかもしれない。 誰も助けてくれない。誰に言えばいいか分からない。
出産がばれたら親に怒られる。先生に怒られる。友達に見放される…。 と思っていたのかなあ、と、容易に想像できる。

あくまで、想像。話がそれた。

「隣人が悪い」「児童相談所が悪い」 って日記に書いた人は、電車の中で子どもに怒鳴っているお母さんを制止したことがあるのかな。
Twitterやmixiボイスで「ああいう親最悪だよね」って流して終わりにしていないよね。まさかね。

「日本社会のコミュニティが崩壊している」 って言う人もいる。
確かに、母親には”社会資本”が不足している印象は受ける。
でも、よくわからないけど、「23歳でバツイチで子ども二人いて風俗店に勤めている」人を すんなり受け入れてくれるコミュニティが、あるだろうか。

少なくとも、僕の地元では無理だと思う。
「多様性」なんて言葉も知らないし、「世間体社会」だもの。
友人とか、元同級生とか、そういうつながりが前提にないと、 コミュニティに所属しても、「参加」は難しいかもしれない。

そもそも、(結果的に)誰にも頼らず子どもを見捨ててしまうような母親だ。
自分からコミュニティに参加する術を知らないんじゃないか。
社会性が欠如しているかもしれない。空気が読めないかもしれない。
そんな人を歓迎してくれるコミュニティが日本にあります!と、僕は胸を張って言えない。

NPOとか、そういう人たちと出会えれば良かったのかも。
でも、恐らくこの母親みたいに(コミュニケーションを含め)リテラシーが低い人が NPOに頼る、という選択肢を自分で見つけることに懸けるには、可能性が薄い。

そうやって頭を巡らしていると、ついついこう結論付けたくなる。

彼女は「詰んでいた」。

日本社会というゲームの中で、レベル上げが足りないままダンジョンの奥深くへ入ってしまった。

長々と書いたが、結局これは僕の想像だ。
そして、実はこの想像が外れることを最も強く願っているのは、僕だ。

そんな深い悲しみ、深い闇が現実にあるとは、できれば思いたくない。
母親は極悪で、命の大切さも知らず、身勝手な行動に出た。
反省の様子はなく、心の底から飄々としている。
腐敗した子どもの死体を見てなお、友達の家を転々として、 「うちの子どもはもう死んじゃったから気が楽なの、うふふ(笑)」 なんて言って気にも留めず、当たり前に飯を食い、当たり前に接客をする。

そんなディズニーみたいな、勧善懲悪で済む話であれば、まだ、日本は平和だと思う。

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