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ライターの仕事をした後で考える「文章力」について

カテゴリ:自分事


Spontaneous Entrepreneurship|野生的起業論|ドチャベン2018 秋田県

ライターとしてまともな仕事がどかっと降ってきて、結局7月頭から2カ月間ほどかかりっきりになってしまった。14人分のインタビューに同行し、書き起こして、テーマに沿った記事としてまとめる。これだけかかったのは単なる実力不足だが、非常にいい経験をさせてもらったと思っている。それも、もうそろそろ肩の荷が下りる。

去年、秋田県知事が前面に出た「教育シェア」のときと比べて、反響は控えめに感じている。無理もない。冒頭の文章からして、何が言いたいのかが明確にされていない。「野性的起業論」とは何か、その言葉がなぜ秋田から発せられるのか。多くの人には唐突だったろう。答えが提示されていないから。毎年半歩先を狙っていたのが、今年は一歩先に行ってみた感じなのだと思う。インタビューに基づいた記事も、ひたすらに輪郭めいたものをなぞるという試みに徹している。しかし、東京でのイベントには毎回すごい熱量が持ち込まれているようだ。分かる人には分かるだろう、という目論見は一応達成できている様子。

身近な人からは「面白かった」「文章力あるね」と声をかけてもらっており、ありがたい限り。当然、面白さは書き手でなく取材対象にあり、書き手はコップにあふれんばかりの水をこぼさないように運ぶことしかできない。概ね1時間半ほどのインタビューをまとめるとなると、取捨選択の必要が生じる。その取り上げ方、接続の仕方が腕の見せ所なのだろうと思いつつ、とはいえ書き手としては常に必死な作業だった。

振り返りも兼ねて、「文章力」なるものについて、思いつくことをまとめてみたいと思う。

技術的な側面

文章をしたためることの技術的な側面については、改めて考えさせられることが多かった。今回意識したことをざっと並べてみる。

・一文はできれば短く簡潔に。
・読点を適切に用いる。
・語尾が連続して重複しないようにする。
・接続詞はむやみに使わない。
・同じ単語、表現はなるべく避ける。

このくらいだろうか。一部は技術というより自分の美学と言った方が良いかもしれない。14人分の記事を書くとなると、どうしても記事をまたいで同じような表現に陥ることは避けられない。できるだけ意識はしていたものの、語彙力の限界で重複も幾つかは発生してしまっているとは思う。語彙については、類語を検索するという方法があることを知り、それに多少は助けられたところがある。

文章力に直結する語彙力については、言葉の意味以上に、その言葉の運用の方法やパターンをどれだけ知っているかが問われるのだと気が付いた。煮詰まったときは、文体が好きな作家の小説を滋養強壮剤のように読み返していた。

今回は「紀行文」のような形式で行こう、という方針だったので、編集の自由度がある程度確保されていた。おかげで、冒頭にはだいたい苦労したのだが、そこがまとまると、ある程度道筋が見えてくる。後半、慣れてきたころには、だいたい書き起こしを含めて2人日ほどで書き上げられるペースだったかなと思う。

そういえば、体言止めも割と多用した。ぎりぎり、文章として成立はしているのではないかとは思うが、強引に見えたかどうか。終盤、表現の幅、語彙力の限界で行き詰まり、やや苦しかったのは、筋力が足りない証拠だ。精進あるのみ。

姿勢・態度の側面

最も気を払い、かつ難しさを常に抱えていたのが、編集し記事としてまとめていくときの自分自身の態度についてだったと思う。膨大な書き起こしの中から何を拾い何を拾わないのか。いくつかのパーツをどのようにつなげるのか。話し言葉をどのように書き言葉に変換するのか。右から左に運ぶだけではないプロセスの中で問われるのは、いつも自分自身だった。話し手の意図をしっかりと把握し、一方で書き手としての編集方針の下で、お話しいただいたことやその言葉の奥に秘めたニュアンスを損なわず、捻じ曲げずに、アウトプットとして整える。インタビューやワークショップの経験で培ってきたスタンスが存分に試されるシーンが数多くあった。

「取材」は「材を取る」、すなわち、聞き手側の都合の良い発言を収集する行為である、とは西村佳哲さんの言葉だった。「インタビュー」は「inter-view」の文字通り、「相互の」あるいは「人と人との間の」「view」という行為で成り立つ、とも。これは自分の心のうちに実感と共に大切にしまっているつもりだ。

記事を書くにあたっても、その点は注意したつもりだが、さて、どうだろう。こればかりは本人の”つもり”はどうあれ、周りの評価がないと、どれだけできているものか確認のしようがない。

それでもとらえきれない文章力というもの

技術と態度の問題について振り返ったものの、それだけでは文章力と呼ばれるものを捉えるにはまだ足りないように思う。

まず、センスがないとどうにも書きようがない。美意識と言うべきだろうか。「この文章は良い(美しい/読みやすい/趣のある 等)文章だ」と判断できない限り、自分の文章の良し悪しに責任が持てない。それは文単体についても、文章全体についても言える。もちろん、最終的な判断は読み手に委ねられるのだけれど。自分の文章の最初の読み手として目を通す自分が良し悪しについて意見を持てない限り、上達は叶わないよな、とは思う。書き手としての自分と、読み手としての自分。きっと、後者の目は肥えているはずで、自分で満足しきるものを書くのは難しい。それでも、自分なりに「悪い」と判断した基準があるなら、その合格ラインに到達するまでが上達の道筋になる。「下手だ」という認識ができるかどうかが上達の一歩だと思う。自分なりに合格点は出せても、それに勝る文章は世の中にごまんとあるわけだし。

また、これが一般的に「文章力」と呼ばれるものに含まれるかは分からないが、自分なりの考えや主義主張を持っていることは、少なくとも今回の仕事では欠かせない要素だった。書き起こしの内容から浮かび上がるものは無数にわたるため、その中で何をキャッチするかどうかは、編集の方針もさることながら、自分自身のアンテナの良し悪しに左右される。日々磨いているアンテナでしか勝負ができないし、自分がどういう傾向のアンテナを持っているかを自覚しておかないと、偏りをコントロールできない。僕が書いたからああいう記事になったけど、他の人が書いたならばまた違う部分に注目しただろう。

今回は、インタビューの結果を踏まえて一から記事を書き上げたので、文字起こしをしながら方向性を考えることになる。紀行文形式ゆえに、書き手としての主観も挿入するタイミングがある。その点、自分が考えたことや感じたことを文章に落とし込むということをブログを通してやってきた経験は、多少なりとも生きていると思う。

現時点の実力で僕が振り返られるのは、こんなところだろうか。仕事としてライティングに関わりつづければ、もう少しいろんな要素に気が付けるようになるかもしれない。自分が当たり前にできていることが、世の中では「スキル」としてラベル付けされているかもしれない。とりあえず、今後も何かしら文章を書く仕事をしていきたいな、というのが偽らざる思いだ。なにせ、書くのが好きなので。


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相手の「言語」を話すということ

カテゴリ:自分事


「変化の原理」を読んで印象に残っていたのが「相手の『言語』を話す」という表現だった。ブリーフセラピーの現場では、治療者はクライアントに具体的な指示を出す。しかし、その指示通りに動いてくれるかどうかは、そのクライアントに合わせて指示を出せるかどうかがポイントとなる。

教員が、学級崩壊の如く騒然とした教室で「先生の言うことを聞きなさい!」と大声で指示したところで、子どもたちがその指示に従わなさそうであることは想像に難くない。相手に指示をするということは、そのまま相手が指示通りに動くという結果を生み出すわけではもちろんない。

相手の「言語」を話すということ

相手の「言語」を話すということは、「話し手がどんなふうに世界を見ているのか丸ごと感じ理解しようとする」ためのアプローチの一つだと思う。「話し手を観察する」のではなく、「話し手の目から見える世界を見る」という試み。相手が意識するしないにかかわらず用いる言葉を大切に扱い、相手の話をそのままに受け取り、それを損なわなずに話す、という言い方がよいのかもしれない。

センスもあるのかもしれないが、自らの感受性を、相手の「言語」をきき、きき手の側もそれを用いるということに集中させるという意味では、かなり意識的な働きが強いのだろうと思う。僕自身、インタビューを幾つか実践してみると、出来不出来は置いておいても、そうして意識的にきこうとすれば、驚くほど消耗が激しいことを自覚する。

その意義

どうしてそんなことをわざわざしようとしているのか、を改めて考えてみた。僕が考えているメリットは例えば以下のようなものになる。

・話し手の「言語」を用いることが話し手の納得、「きき手はちゃんときいてくれている」という安心につながる。
・話し手が自分自身の「言語」を自覚し、これまで疑いもせず振り返ることもなかったこれまでの認識について深く考えるきっかけにつながる。
・話し手の言葉をきき手が理解した「つもり」になってしまうことを避け、謙虚な態度で話し手の言葉に耳を傾けることができるようになる。

これらの観点は「ひとのはなしを遮らず促すようにきく」ことを主要な関心としている。しかし、そこからさらに一歩踏み込んで「話し手の抱えている課題や悩み事を解決する」という段階になっても有効であると思っている。例えば、こんなふうに。

・話し手の文脈に無理のない形で介入(冒頭の言葉を用いるならば「指示」)することができる。
・話し手が「課題を解決できていない」状態を責めるのではなく、むしろそうした状態でありながら自分なりに課題に当たろうとする態度に目を向けることで、敬意をもって対応することができるようになる。

特に相談を受けるようなケースでは、相談をする側の方が立場が下になりやすい。そういうとき、敬意をもってきくことの重要性が増してくる。「どうせこんなことで悩んでるんでしょ」といった具合についついパターン化したくなるところをぐっと抑えないといけない。

その背景・人間観

というようなことを考えていると、なんとなく、ある一つの人間観のようなものが見えてきたのだった。単純に書くと、こうなる。

「ある人にとっては、その本人が最大の当事者である」

例えば「悩み事」にフォーカスしてみると、その最大の当事者であるということは、その「悩み事」について最も多くの情報量を有し、最も長い時間をかけて向き合い、最も試行錯誤(あるいは四苦八苦)している、ということ。その本人を差し置いて誰がその人の「悩み事」を解決できるのだろうか、というスタンス。

これは「解決に至れない本人に問題がある」という自己責任論につながる危うさがあるが、そういうつもりはない。相手の「言語」を用いながらコミュニケーションをとることが、相手は自分の認識をよりクリアに自覚する助けになるかもしれない。そうして真の問題が見えてくることで、本人が自らの力で解決できるかもしれない。この可能性を信じる、というニュアンスを強調したい。

人それぞれ世界をどう見ているのかは異なるという前提に立つことではじめて、きき手が自分の理解や考えを押し付けるのではなく、その当事者の言葉に耳を傾けることの意義に目を向けることができるのだと思う。


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「きき方」を意識することで、どんな良いことがあるのかというお話

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「きき方」は調整できるもので、それによってふれられるものが変わってくる。実践を積み上げていく過程で僕の中で少しずつ確信が形成されていっているのだが、さて、なぜ僕はそのようにあえて「きき方」を調整し、その調整の精度をより高めていこうというモチベーションを持っているのかを、改めて自分に問い直してみたのだった。

 

○僕が「きき方」を調整することで、どんな良いことに出会うことができたのか? そしてそれはなぜなのか?

・相手に対する驚き。「ああ、だからそういう考え方に至るのか」とか、「ああ、そういうふうにこの世界を見ているのか」とか、そういう驚き。自分以外の人が生きているということをまざまざと感じられることを改めて感じることができる。もしかしたら「どうせこういう話でしょ」という先回り思考と同じところに話は到達するかもしれないが(ほとんどそういう場面に出会ったことはないが)、それでも「驚きがある」というだけでも、きくことを調整する意味が僕にとってあると思う。

・自分自身の中で起こっているプロセスへの自覚。自分が感じていることがプロセスに影響を及ぼしているのかもしれないということへの自覚。一般的には良くないとされる怒りや不安、焦り、憤りといった感情を持っていたとしても、それを認めないでいるよりも、「こういうふうに感じているんだな」と自覚したほうが、状況はより好ましい方向に転がる、という感覚がある。それはやればやるほど、「そういうものなのだな」と思えてくる類のもの。

・成長実感、あるいは自分が望む方向へ向かっている感覚による喜び。自分にとって必要と考える技術やスタンスが身に付き、しかもそれは世の中にとっても必要であるという確信を持てているので、調整の実践の中でその精度が上がることはそういう意味ではやはり嬉しい。

・ファシリテーションへのつながり。きき手としてはなし手に影響を及ぼしている、という自覚は、場に対して自分の存在が何らかでも影響を及ぼしうるというところへの想像力につながっている。そのような「きく」ことの幅の広がりが、深めていくことへのモチベーションにますますつながっている。

・問題解決に対する新たな視点。問題はそのソリューションの精度の問題以上に、そもそもの問題定義の精度こそまず考えるべきである、という視点を持つことができている(これはアクションラーニングを勉強する中でだけど)。一人ひとり見ている世界が違う、という認識によって、一人ひとり問題の見え方は異なること、お互いの立脚点を机上に出さない限りは延々と争うだけになることが見えてきて、かつ多様な視点がありながらお互いの盲点が明らかになり、真なる問題が見えた瞬間の驚きのある感動があることを知れた。

・(重複するが)自分と他人は異なる人間である、ということを単なる知識としてでないカタチで体現する術を知ることができた。そうすることで相手に対するイライラも「自分の想い通りにならないからイライラするが、しかし他人は自分と同じでないからしょうがない」といった切り替えに多少でもつながるようになっているし、余計な期待はしないようになっているし、逆に期待があるのであれば明示的に伝える必要がある、という意識につながっている。

 

これを踏まえながら、僕が考える「きく」というプロセスについて、参考文献も明らかにしつつ整理できたらいいなあと思う。


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