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海士町@隠岐の注目すべき取り組み:教育編

カテゴリ:世の中の事

前職の同期から「海士町のことをブログで紹介してよ」とリクエストがあったので。

しがないIターンでしかない僕なんかが偉そうに紹介してよいものかと心配もありますが、
2年半の海士町での暮らしを通じて見知ったことをここに記録したいと思います。

今回は海士町の教育分野の取り組みから。
(「教育」「産業」「まちづくり」の3部構成の予定です)

海士町@隠岐の注目すべき取り組み:産業編はこちら
海士町@隠岐の注目すべき取り組み:まちづくり編

※紙面の都合上、独断と偏見で一部の取り組みのみ紹介させていただいております。
※記事の情報は2013/3/7現在

1.高校魅力化

まず、僕が海士町で関わっているプロジェクトからご紹介しましょう。

海士町には隠岐島前地域(海士町、西ノ島町、知夫村)唯一の高校、「隠岐島前高校」があります。
現在は県立高校ですが、元々は地元の有志がたいへんな苦労をかけて分校を設置したのがはじまりでした。
それだけ地元の人の思いが込められた高校だった、というわけですね。

ところが、近年は少子化の影響で入学者が減り、一時は1学年28名にまで落ち込んでいます。
生徒数減に伴い教員数も削減され、教育環境としても本土の進学校や運動部の強豪校との落差が顕著になってきました。
島根県の規定では入学者数が21名を下回ると統廃合の対象になってしまいます。
地域内の子どもは減少の一途をたどっていますから、統廃合は目と鼻の先でした。

そこで立ち上がったのが「島前高校魅力化プロジェクト」です。

島前高校魅力化プロジェクト

「魅力化」という言葉には、「島前高校を魅力的な教育の場にしよう」という想いが込められています。
「存続させよう!」と声高にさけぶような高校には誰も来たくないですしね。

島内の子どもだけでなく、島外からも進学希望者が集まるくらい素晴らしい教育環境をつくる!

強い危機感から始まったこのプロジェクトは、県の管轄である島前高校と三町村の協力の下、着実に成果を出しています。
全国から進学希望者を募る「島留学制度」を導入し、平成24年度現在、島前高校の全生徒のうち3割強が東京、大阪など島外出身者で占められています。
平成23年度には志願者数が久々に定員をオーバー、平成24年度には僻地の高校では異例のクラス増を達成しました。
また、高校生が地域の魅力を生かした観光プランを競い合う「第一回観光甲子園」で文部科学大臣賞(グランプリ)平成23年度には「キャリア教育推進連携表彰」を受賞など、各方面で評価を得ています。

さらに本プロジェクトを通じて公設民営塾「隠岐國学習センター」が設置されました。
単なる学習塾・予備校とは異なり、高校の教員と定期的に打ち合わせを持つなど島前高校との連携を重視しているのが特徴です。
偏差値だけでなく社会で求められる力を伸ばすことも重視しており、「夢ゼミ」という特徴的な授業も実施しています。

隠岐島前高校の一連の取り組みは注目を集めており、全国からの視察が絶えません。
離島・中山間地域の学校は同様の課題を抱えているケースが多く、「島前高校魅力化プロジェクト」の取り組みは全国のモデルケースになる可能性を秘めているといえます。

2.子ども議会

海士町は町内の小中学校を対象にしたキャリア教育にも非常に熱心に取り組んでいます。
その中でも特徴的なのが「子ども議会」ではないでしょうか。

子ども議会は毎年1回開催され、町の小学生たちが町長はじめ町の重役に対し自分たちが考えたまちづくりのプランを提案していきます。
町長も「実際の議会より真剣になる」と冗談交じりで話すくらいに子どもたちの迫力はすごいもののようです。

実際のところ、子ども議会はそう珍しいものではなく、全国に事例があるようです。
しかし海士町の子ども議会のすごいところは、実際に子どもたちの提案がいくつか実現している点
大人が本気だから、子どもたちも本気で提案できるわけです。ここに海士町の凄みがあるように思います。

※実を言うと僕は傍聴したことがありません…。
町民の注目度が非常に高く、いつも傍聴席が満席になるからです。

3.島まるごと図書館構想

役場の裏手にある中央公民館に入ると、日当たりの良い木造の建築が目に入ります。
平成22年に開館したこの海士町中央図書館を中心に、島内の読書環境の向上を目指すのが「島まるごと図書館構想」です。

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こんな素敵なテラスも

もともと海士町には図書館がなかったそうですね。
さらに、海士町はそう大きくない島とはいえ島内の移動には車が不可欠です。
せっかく新しい図書館を建てたところで、子どもやお年寄りが通いにくいのでは意味がありません。

そこで海士町では、島内の各地区にある公民館や港、福祉施設など島内の所定の場所ならどこでも本を借りられる仕組みを導入しました。
町内の保育園、小中学校、高校の図書スペースと連携した環境整備も進められています。

本の読み聞かせや読書会など図書館を活用したイベントも積極的に開催されています。
僕は本を買って読む派なので図書の貸し出しを利用したことはありませんが、イベントにはたまに足を運んでいます。

中央図書館には海士町や隠岐に関連した資料、海士町の記事が掲載された雑誌など取り揃えられており、無料のカフェコーナーまであります。
無線LANも利用可能で、島外から来た人もうらやましがるほどの充実振りです。

海士町の「人づくり」に対する「本気」

他にも小中学生を対象にしたサバイバルキャンプ「アドベンチャーキャンプ」や一週間にわたる職業体験学習、「子どもダッシュ村」など、海士町では「人づくり」の分野で数多くの実践があります。
人口2300人弱の島でこれだけの実践をしていること自体、他地域から見れば驚異的に写るかもしれません。

「人」は地域の持続発展の核であり、教育は手を抜くことの出来ない分野です。
「まちづくり」や「地域活性化」で有名な海士町ですが、海士町の本当の”強さ”は教育に対する並々ならぬ情熱にこそ現れていると思います。

大人が変われば子どもが変わる。子どもが変われば未来が変わる。

海士町の大人たちは、子どもたちのために、地域の未来のために、今日も本気で「人づくり」に励んでいるのです。
(なんかえらそうな書き方ですいません…!)

※海士町長が書いた書籍もありますので、興味のある方はそちらもぜひ。

関連する記事

社会に通用する勉強の作法と教育の課題

カテゴリ:世の中の事

Twitterの論客、芦田宏直氏のインタビュー記事が面白かったので。

偏差値30、40台の学生を一流のITエンジニアにする教育法 ゆとり教育の被害者を稼げる人材に変えよ!(その1)  | 知の大国アメリカ~ランド研究所から~ | 現代ビジネス [講談社]

多少センセーショナルなタイトルになっていますが、中身はいたってまともです。
僕自身も芦田氏のTwitterや記事から様々なヒントをいただいていますが、少々(?)クセが強いのと、内容の難解さで、咀嚼しきれないところが多々あります。
(一方でどう理解すれば良いのか、相手の意図はどこにあるのかを模索する行為の面白さに気づくこともできましたが)
この記事は芦田氏の実践に触れることができるので、その意図するところにだいぶ近づけるのではないか、と期待しています。

こんな書き方をするとシンパと思われそうですね。
そろそろ、本題に入ります。

学校教育における「偏差値」を巡る問題

冒頭の記事は芦田氏が理事を務めた情報系専門学校の教育実践を紐解くインタビューになっています。
インタビュアーは田村耕太郎氏、 それを受けるのが芦田氏とその下で講師として教育に携わった芦澤氏です。

僕が特に注目したのが、「偏差値」の話題です。
「人間を数字で評価するな!」と批判の的にもなるこの「偏差値」ですが、その意義について、改めて考えさせられます。

芦田氏:「いわゆる低偏差値の学生というのは、家庭、地域、クラスメート、担任の先生といった近親者との比較の中でしか、自分の位置を図ることが出来ない子なわけです。子どもたち、若者たちが大人になる契機の一つは、対面人間関係を超えるときです。高偏差値の学生たちは、全国区の受験勉強でそれを体験します。
クラスで一番を取っても、担任の先生の褒めてもらっても、親を喜ばせても、そんな評価では当てにならないということを実感的に体験するのが受験体験なわけです。低偏差値の学生はその意味では高校を卒業しても“ヒューマン”な基準しかもっていません。高等教育は社会人になる最後の学校な訳ですから、クラスの中に、社会人=職業人としての“偏差値”を持ち込んでやるべきなのです。」

偏差値30、40台の学生を一流のITエンジニアにする教育法 ゆとり教育の被害者を稼げる人材に変えよ!(その1)  | 知の大国アメリカ~ランド研究所から~ | 現代ビジネス [講談社]

自立した個人となる上では、社会と自分との関係をより客観的に大きな視野で捉えることが必要です。
偏差値を「対面人間関係を超える」機会を提供するものと見ることで、偏差値の重要性が浮き上がってきます。

高校生全体で、偏差値を意識しているのはどちらかというと少数派でしょう。
実際、彼らは模試を受けても「偏差値はいくらか」よりも「クラスで何位か」の方がよっぽど気になるみたいです。

進学校であればクラスや校内、県内における順位が、ある程度偏差値(もっと言うとどこの大学に行けるか)を表すことになりそうです。
進学希望者が大多数で、だいたい毎年A大学に20人合格するとなれば、校内で50位には入りたいよね、という具合に。
一定数の生徒がいることで、学年ごとのブレを考慮せずともある程度の精度で自分の位置がわかるわけです。

ところが、進学者がマイノリティである場合はそのブレが生じます。
ある年にたまたま学年TOPが東大に進学したとしても、毎年のように学年TOPが東大にいけることにはなりません。
進学者が少なければ少ないほど、学校内に留まる限りは自分の偏差値が見えないわけです

ここに、低偏差値と高偏差値の格差が見え隠れしていますね。

偏差値の高低を分けるもの-機会は勝者にのみ訪れる

高偏差値であればあるほど(進学校であればあるほど)、偏差値を意識する機会が増えることを見ました。
では、偏差値の高低を形作るものは、いったいなんでしょうか。

芦澤氏:「芦田先生が良く言うことなのですが、できる学生は勉強そのものが自己目的化していますが、できない学生ほど勉強の目標=終わりを欲しがる。ここまでやればもう何もすることはないよ、と言ってやれば、できない学生も勉強し始める。そしてその終わりが社会的な位置付けや給料の大小と結びついていることがわかればもっと勉強し始める。」

※太字は引用者による。

偏差値30、40台の学生を一流のITエンジニアにする教育法 ゆとり教育の被害者を稼げる人材に変えよ!(その1)  | 知の大国アメリカ~ランド研究所から~ | 現代ビジネス [講談社]

できる学生は勉強そのものを自己目的化している
手段でしかないはずの勉強が目的になっているということは、勉強すること自体に意義を見出したり、楽しいと思ったりしている、ということです。
つまり、「オレは○○大学に行く!」というアツイ志を持たずとも、淡々と勉強に取り組むことができるわけです。
勉強が習慣になっているわけですね。

できない学生ほど勉強の目標=終わりを欲しがる
勉強を手段と割り切っているわけですから、最低限の努力で済ませることができてしまった方が嬉しい。
ところが、低偏差値の生徒が集まりやすい非進学校では自分自身がどの大学に行けるかのレベル感を掴むのが難しく、終わりを自分で設定できないわけです。

こうしてみて、ふと思うところがありました。
目標設定を適切にできる高校生はほとんどいないのではないか」と。

前者の場合、勉強の自己目的化の結果として偏差値が高くなり、そのおかげで自分の立ち位置を把握できるということ。
自分の偏差値を把握した上で、それに応じてようやく適切な目標設定に着手するわけです。

後者の場合は目標設定ができていないことはもはや明確です。

逆に言えば、ほとんどの高校生にとって、勉強のモチベーションを保つために「自己目的化」という手段しかないということ、そしてその手段を確保できるのは高偏差値層のみということも読み取れるかもしれません。

少なくともこの記事からは、「対面人間関係を超える」機会は高偏差値の学生にのみ与えられると読み取ることができます。
そして、偏差値を上げるためには「自己目的化」という手段くらいしかない(かもしれない)ということも。

学校教育において考えるべきこと

記事内の専門学校では、生徒が目標を設定できるようなカリキュラムと授業を用意した結果、就職実績が改善されたとあります。
これ、学校教育においても同じようにできないでしょうか。

実際、高校生は現在受けている授業の内容がどのように入試で必要となるのか、いまいち理解できていません。
(ここには「学校で教えることができていない」という問題もあります)
入試科目を意識するのが3年になってから、という生徒も少なくないと思われます。

また、大学にせよ専門にせよ就職にせよ、自分のポジションでどんなところにいけるのか、高校生はピンときていないようです。
進学であればその後のキャリアも含めて、もっと現実的な地図を彼らに提供することも一手かもしれません。
もちろん、現実を見せた後はサポートが必要ですが、「そんな無名の大学に行っても未来はないよ」の一言をぐっと飲み込むよりはいいのではないでしょうか。

生徒に現実を見せるということは、生徒の将来を支える覚悟を伴います。
しかし、そうしなければ適切な目標設定などできるはずがない。
なかなかジレンマのあるところですが、僕自身、もう少し真面目に考える必要を感じました。

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自分がしたい「社会貢献」を思い込みで押し付けないために

カテゴリ:自分事

「キャリア教育って意味あるの?」にどう答えるか

いつも疑問に思うことがあります。

「キャリア教育」の必要性が(特に産業の側から)叫ばれる世の中になってきているのはご存知の通り。
グローバル経済の影響の下、企業による雇用の安定は信頼性を失い、個人の実力がますます問われるようになっています。
こうした背景から、教育の現場がもっと「働く」とか「キャリアを自ら築く」とかそうした方向にシフトしてほしいという声は理解できないものでもありません。

ところが。
僕自身のこれまでを振り返ってみると、「キャリア教育」なんてまともに受けていない、と言うのが率直なところです。
小学校のときは地元のお店にインタビューしに行ったし、中学のときは隣町の獣医さんのところを見学させてもらった記憶があります。
しかし、それらの経験が僕の中に影響を及ぼしたかと言われると、全くといって良いほど意味がなかったと思ってしまいます。

高校時代は学校の先生になるという目的があったので淡々と勉強をしていました。あとは部活。
大学に入ってからは授業もそこそこにこなしつつ、サークル活動に入り浸り、引退してからはすぐさま就職活動にのめりこみました。
結局教員にはならずIT企業に就職を決めたわけですが、この会社もシューカツ生の中ではそれなりに知名度があるところ。

まともな「キャリア教育」を受けていなくても、僕自身はこれまでの短いキャリアについて満足することができています。
そうした自分の経験を振り返った上でもう一度冒頭の問いに戻ってみると、「よく分からない」と言う他ないように思えてくるのです。

それ、単なる思い込みの押し付けじゃないですよね?

「これを誰かに提供したい」というときの、あの不思議なまでの情熱と確信はなんなのだろうかと思うことがあります。
ここにおいて問題なのは、自分が経験していないことであっても、あたかも自身がその恩恵に預かっているような錯覚に陥る場合があるということです。

「自分が高校生のときにこんな授業を受けたかった!」と思うことは個人の自由ですが、それはあくまで想像上の話。
実際のところ、「こんな授業」をきちんと評価しないことには無責任な発想でしかありません。
「私が受けたかった授業は、今の子どもたちにとって必要なことなんだ!」という情熱は単なる「思い込み」と紙一重なのです。

見た目として「なんとなくよさそうなこと」ほど、「思い込み」で留まってしまう危険性があります。
地域活性化や就職活動支援などいろんな人がいろんなことをしている/したいと思っているわけですが、時に「それって本当に意味があるの?」と疑いたくなるようなもの、ありませんか?

「あなたは何がやりたいの?」をいつでもどこでも求められる時代。
「社会に貢献することはいいことだ」という風潮。

こんな中で、「自分がやりたいし、よさそうだし、これやろう!」というちょっと安易で無責任な人が増えているのかな、などと邪推してしまいます。

新しいことを人様に提供する作法を考える

ここで言いたいのはキャリア教育に対する批判ではありません。
何か新しいこと、自分が経験していないことを提供する側が、「自分のやっていることは単なる押し付けではないか」と自己を戒める必要がある、と言いたいのです。

その方法として真っ先に浮かぶのが「デザイン思考」です。

[1] Design Thinking

定義

デザイン思考は、技術的に実現可能なものやビジネス戦略を顧客価値や市場機会へと転換可能なものと、人々の要求とを一致させるために、デザイナの感覚と手法を利用する方法、である。

デザイン思考の系譜 | Design Thinking for Social Innovation

このブログでも度々登場している「デザイン思考」。
僕としては「抽象的なアイデアを具体的かつ効果的に求められる形に着地させる手法」と捉えています。

着目すべきは、デザイン思考の方法ではなく、その意図するものにあります。
デザイン思考のプロセスが生み出すものは、現実的に活用できるモノやシステムのデザインです。
思い込みや押し付けを排除し、意味あるもの、必要とされるものとして、現実との整合性をとっていく。

このような発想に基づけば、他所でやっているものをコピーして我がとこでやろうという事態に陥ることはありません。
「なんとなく良さそうだから」で留まることもありません。

「新しいこと」それ自体が価値を持っているわけではありません。
たくさんのものに溢れる時代に、また新しいものを追加して誰かに利用してもらうということは、思った以上にコストがかかります。
古いものから新しいものへの移行は(たとえ必要性が自明であるとしても)それなりにエネルギーを要するものです。
現実というもの、人間というものの理解したうえで、はじめて意味のあるものを生み出すことが可能となります。

新しいことを誰かにしてもらうということの「責任」について、一層の”配慮”がほしいところです。

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