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グローバルな社会とは何か?-「グローバル人材」要件の前提

カテゴリ:読書の記録

果てることのない「グローバル人材」論議

実は、グローバル化とはハイコンテクストな社会が、ローコンテクストな社会に転換していく過程の一環なのです。国内でさえ、世代や趣味が違うと「話が通じない」関係が増えていますね。そこに、外国から様々な価値観を持った人々が参入してくるわけです。

イマドキの若者であれ、海外出身者であれ、職場や教室にコンテクストを共有していない人が現れると、“空気読め”では通じない。そのとき必要となるのが「教養」です。この教養とは、単なる知識や語学力ではなく、「ハイコンテクストなものをローコンテクストに翻訳する能力」のことです。

グローバルな教養とは「本当は」なにか(與那覇 潤) – 個人 – Yahoo!ニュース

いつから始まったのかももはや定かではない「グローバル人材」論議。
僕も以前書いた記事で部分的に加担していますが、未だ収束する気配がありません。

最近、Twitterを中心に冒頭の記事が評判になっていたようです。
確かに、この記事は「グローバル化」の重要な側面に注目しています。
一方で、「誤読されているのではないか」という一抹の不安を覚えずにいられません。

「グローバルな社会」とは何かという問い

「グローバル人材」なるものが求められているのは、現代が「グローバルな社会」だから

これに異議を唱える方は少ないかと思います。

では「グローバルな社会」とはいったいどのような社会なのか
論議の前提でありながら、この問いへの回答の厚みに物足りなさを感じることが非常に多い。
”そもそも”を共有するステップが抜け落ちていると言えるでしょう。
「グローバル人材」論議の空中戦に終わりが見えないのはここに原因があるのではないでしょうか。

先にこの問いへの見解を述べましょう。
すなわち、グローバリゼーションを引き起こす資本主義は、その論理的帰結としてローカルを必要とします。
したがって「グローバルな社会」とは「マクドナルド化」といった言葉に代表されるような均一的な社会を意味していません。
資本主義が浸透すればするほど、つまり、「グローバルな社会」になればなるほど、「ローカルな社会」の存在感が増すのです。

自己増殖する資本主義というシステム

資本の絶えざる自己増殖、それが資本主義の絶対的な目的にほかならない。蓄積のためにはもちろん利潤が必要だ。だが、この利潤は一体どこから生まれてくるのか。(中略)
利潤は資本が二つの価値体系の間の差異を仲介することから創り出される。利潤はすなわち差異から生まれる。
しかしながら、遠隔地貿易の拡大発展は地域間の価格体系の差異を縮め、商業資本そのものの存立基盤を切り崩す。産業資本の規模拡大と、それに伴う過剰労働人口の相対的な減少は、労働力の価値と労働生産物の価値との差異を縮め、産業資本そのものの存立基盤を切り崩す。差異を搾取するとは、すなわち差異そのものを解消することなのである。

ヴェニスの商人の資本論

資本主義が要請する利潤の源泉となるのは「差異」。
しかし、資本主義に見初められた「差異」は、その瞬間から解消される運命にあります。
「差異」を搾取した後で、資本主義は何を求めるのか。新たな「差異」を見つけ出すしかありません。

そして発見された手法が「革新(Innovation)」、すなわち個別企業の間で「差異」を創出することにほかなりません。
ところが、ご存知のとおり、この「差異」すらも「模倣(Imitation)」を通じて搾取され、解消されていく運命にあります。
利潤を追求する企業はなおも「革新」への絶えざるデッドヒートに身を投じていくのです。

結局、このような革新と模倣、模倣と革新との間の繰り返しの過程を通じて、資本主義社会は、部分的かつ一時的なかたちにせよ、利潤を再生産させ続け、それによって自己を増殖させていくのである。
すなわち、資本主義の「発展」とは、相対的な差異の存在によってしかその絶対的要請である利潤を創出しえないという資本主義に根源的なパラドックスの産物であり、その部分的で一時的でしかありえない解決の、シシフォスの神話にも似た反復の過程にほかならない。

ヴェニスの商人の資本論

「差異」を要する資本主義は、「差異」を解消しながら新たな「差異」を生み出す自己増殖のシステムです。
これをグローバルとローカルの二語を用いて言い換えるならば、こう言えるでしょう。

すなわち、資本主義はローカルなものをグローバルなものに解体しながら、次にはローカルなものをまた生み出す、と。

グローバリゼーションの帰結・・・トランスローカル

グローバル化という言葉を聞いて、どのようなイメージを浮かべるでしょうか。
日本では規制緩和によって大型店舗が全国に拡散し、その結果各地の商店街が消えていきました。
この例のようにグローバル化(及び資本主義)は均質化をもたらすという見方は根強いはずです。
グローバル化がローカル化を伴うという表現は、したがって違和感を伴うものかもしれません。

コカコーラやソニー・コンツェルンは、自分たちの戦略を「グローバルなローカル化」と言い表している。その社長や経営者たちは次のことを強調する。すなわち、グローバル化で重要なのは、世界中に工場を建てることではなく、そのときどきの文化の一部になることである、と。「ローカル主義」とは彼らの信仰告白であって、つまりはグローバル化の実践にともなって意味をもつようになる企業戦略のことである。

グローバル化の社会学―グローバリズムの誤謬 グローバル化への応答

ところが、グローバル化の先鋭を切る巨大企業こそ、グローバル化する社会においてローカル化を重んじる定めにあるのです。

グローバル化とはただ脱ローカル化のことだけを言っているのではなく、再ローカル化を前提としているという見方は、すでに経済的思惑から来ている。(中略)「グローバル」に生産し、そうした生産物を「グローバル」にもたらす企業もまた、そしてそういった企業こそ、ローカルな条件を発展させなければならない。というのも、第一に、そうした企業のグローバルな生産は、ローカルな基盤のうえに成立し維持されるからであり、第二に、グローバルに市場に送り出されるシンボルもまた、ローカルな文化の原料から「作りだされる」必要があるからである。(中略)
「グローバル」とは、それにふさわしく翻訳するなら「多くの場所で同時に」ということであり、したがってトランスローカルということである。

グローバル化の社会学―グローバリズムの誤謬 グローバル化への応答

グローバル化を「マクドナルド化」と表現することは、一面的なものの見方でしかありません。
個々別々のローカルに立脚している現代社会の姿をとらえきれていないからです。
ローカルを解体しつくし、すべてを均質化したローカルなき世界ではなく、ローカルがローカルとして存在しながら、他のローカルと横断的に接続された社会こそが「グローバルな社会」なのです。

しかし、これは「グローバルな社会」がローカルを(それ以前の)ローカル”のまま”保存することを意味しません。
「差異」を食い尽くす資本主義システムが「差異」の源泉であるローカルを放っておくわけがないからです。

ローカルな文化は、もはや世界に対しておのれを閉ざしたそのままの状態で自文化を正当化することはできないし、そのようにして自文化を定義することも刷新することも出来ない。ギデンズ(※)が述べるように、このように早まるあまり、伝統的な手段によって伝統を基礎づけるのではなく(ギデンズはこれを「原理主義的」と呼ぶ)、その代わりに、いったん脱伝統化された伝統をグローバルな文脈において、つまりトランスローカルな交流や対話や紛争において再ローカル化するという強制が出てくる。
ようするに、ローカルな特殊性をグローバルに位置づけ、グローバルな枠組みにおいて摩擦をこうむりながら、このローカルな特殊性を刷新していくときに成功したとき、ローカルなものは非伝統的なかたちで復活する。

(※引用者注:アンソニー・ギデンズのこと)

グローバル化の社会学―グローバリズムの誤謬 グローバル化への応答

グローバリゼーションは新たな準拠枠をあらゆるローカルに容赦なく浸透させます。
ローカルな文脈は、グローバルな文脈において非伝統的なかたちへの変更を避けることはできません。

翻訳者としての「グローバル人材」

ここにおいて、ようやく冒頭の引用記事の本来の意味が明確になりました。
「ローコンテクスト」はグローバルの、「ハイコンテクスト」はローカルのそれぞれの文脈を意味します。
「ハイコンテクストなものをローコンテクストに翻訳する」行為とはまさにグローバリゼーションの必然の過程なのです。
また、記事には書かれていませんが、グローバル-ローカルのやり取りは双方向であるため、「ローコンテクストなものをハイコンテクストに翻訳する」作業も同時並行的に行われていることも見逃せません。

ここまでの議論を通れば、「グローバル人材」の要件が英語だけではないことは一目瞭然です。
搾取され、脱ローカル化されたローカルを新たな「差異」の源泉として復活させられるかどうか。
脱ローカル化-再ローカル化のつなぎ手こそが「グローバル人材」と言えるでしょう。

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言語化の台頭と日本のコミュニティの変遷

カテゴリ:世の中の事

そもそも僕がこんな話をしだすのは、率直に言って、言語化ができている人と話すのが面白いし、そういう人こそどんな環境でも自分らしく働き、楽しく生活を営んでいる、という印象を持っているからです。

言語化の能力が鍛えられる背景―アイデンティティとコンテクスト | 秋田で幸せな暮らしを考える

「言語化」や「コミュニティ」というキーワードについて把握しようとする僕のモチベーションの源泉は、ほとんどここにあるといっていいです。
「言語化」の能力を持っていること、あるいは「都市型コミュニティ」の中で生きることができること。
これこそが「個人化」が進む21世紀において、幸せな暮らしを送る条件になっているように思います。

仕事、そして生活面における他者(家族や自分が暮らす地域・社会)との関係性の両方を充実させること。
その秘訣を探りたい、というのが、僕の原動力になっています。

農村型コミュニティと都市型コミュニティ

農村型コミュニティと都市型コミュニティという言葉は、例えばアキタ朝大学さんへ寄稿した記事でも紹介しました。
僕が「コミュニティ」というものを考えるときの大きなベースとなっており、広井良典著「コミュニティを問いなおすで出会いました。
(ちなみに、この本はおすすめです。僕も折に触れて読み返しています)

ここで改めて両者の違いについて整理したいと思います。
誤解を生みやすいので先に書いておきますが、この「農村」と「都市」という区別は、それぞれ字面そのものの農村と都市を指すものではありません。
農村(あるいは地方、田舎)では農村型コミュニティが形成され、都市(あるいは都会、東京)では都市型コミュニティが形成されるというわけではない、ということです。

農村型と都市型は形成原理で区別する

この二つのコミュニティを分類する基準となるのは、その形成原理にあります。端的には「個人」のとらえ方に差異があります。
農村型コミュニティは「共同体と同質化・一体化する個人」によって、都市型コミュニティは「独立した個人と個人のつながり」の結果として、それぞれ構成されます。
前者は同心円状にその勢力を拡大することで大きくなり、その暗黙的な同質性が前提としてあります。
一方、後者は個人の異質性を前提としており、明示された一定のルールや規約をベースに、個人と個人の関係性がつくられていきます。

二つのコミュニティの形成原理の違いについてもう少し細かく見ていきましょう。
両者の違いは、コミュニテイからの要求が先に来るか後に来るか、という点に現れるのではないかと僕は考えています。

農村型コミュニティは所属するかどうかが決まるや否やいろいろな条件を満たすように要求します。
例えば海士町は14の地区に分かれておりますが、区費を支払う必要があったり、ぢげ掃除など各種行事に参加しなければならなかったり、地区ごとにルールがあります。
そしてそのルールはIターンも遵守する必要があります。
移住した途端にルールを守る必要が生じ、それを遵守しなければ地区の住民としての立場がなくなります。
海士町に移住するということは、多かれ少なかれ自動的に提示される条件を受け入れる必要があるということです。
「所属したからには条件を飲め」 と迫るのが農村型コミュニティです。

反対に、都市型コミュニティは参加する前に条件の要求が先に来ます。
僕が所属するWE LOVE AKITAは基本的に誰でも参加可能であり、参加を強制するものではありません。
ところが、実際には参加条件があります。
秋田が好きとか、秋田に関する活動に自分も参加したいという動機がなければなりません。
逆に言えば、秋田が嫌いな人は加わらないし、島根が好きな人は島根を応援する活動に参加すればいい。
参加する側からすれば都市型コミュニティは条件に応じて主体的に選択可能であり、その意味では「契約的」と言えます。
「条件を飲むことに同意する(契約書にサインする)なら参加を許可する」と構えているのが都市型コミュニティです。

コミュニティに参加するより先に条件を吟味できるということは、参加条件が明示的であるということです。
一方、農村型コミュニティは暗黙のルールが支配的であると考えられます。

以上のような分類に基づけば、実際にコミュニティの形成される場が農村であるか都市であるかにかかわらず、いずれのコミュニティも形成される可能性があることが分かります。
古くから農村/都市がどのように形成されてきたか、その原理に注目してさまざまなコミュニティを分類しているというわけです。

農村型コミュニティのハイコンテクスト性

さて、農村型コミュニティの同質性を前提とした同心円状に広がる形成原理に今一度注目しつつ、農村型コミュニティにおいて「個人」の発見が阻害されるメカニズムを考えてみたいと思います。

このコミュニティの構成員は暗黙的に同質であることが了解されています。
暗黙的とは、「言わなくても分かる」ということ。同質であるということは、コミュニティ内における知識や経験の共有度が高いということです。
従って、構成員間のコミュニケーションにおいてもその特徴を指摘することができます。

抽象的な表現をとると、このような状況下では会話の中で使われる言葉は「定型化」されます。
言いたいことはコミュニティ内の文脈の中にストックされた”定型文”を活用する形でコミュニケーションは成り立ちます。
つまり、自分の言いたいことは自分で一から構築する必要が無い。当然、表現の自由度・ユニーク性は落ちますね。

このような文脈依存的な文化は「ハイコンテクスト文化」と呼ばれているものと一致する、と考えられます。
(ハイコンテクスト文化については過去記事でも触れておりますので、こちらをご参照ください)

一方、文脈に依存せず、積極的に言語等によってコミュニケーションを交わすような文化は、「ローコンテクスト文化」と呼ばれています。
これは、都市型コミュニティの特徴である、形式化された規則やルールや論理的な言語による表現を重視する傾向と重なります。

農村型コミュニティは、ハイコンテクスト文化の特徴を有しており、一方、都市型コミュニティはローコンテクスト文化であると指摘できる、というのが僕の考えているところです。

ハイコンテクスト文化における「個人」の不在

ハイコンテクスト文化におけるコミュニケーションをもう少し細かく見てみます。

ハイコンテクストな社会においては、コミュニティ内で共有されている”既存の”(あるいは既知の)文脈が支配的な位置を占めます。
文脈によって推測できることで満足するコミュニケーションによる理解があらゆるところで推奨されます。

その結果として、”既存の”文脈で説明できないものは価値を認められないということが起こり得ます。
既存の文脈外にあるものは積極的なコミュニケーションがなされる土台を持たないために、ハイコンテクスト文化において理解される機会を喪失しているのです。
僕は、このコミュニケーションの慣習が、農村型コミュニティの「個人」の発見を大きく阻害している、と考えます。

ハイコンテクスト文化においては「個人」は近似値としての「集団」によって把握されます。
逆にローコンテクスト文化においては「個人」は唯一無二の値として扱われます。
農村型コミュニティは「円周率は3.14とする」で満足してしまいますが、都市型コミュニティは円周率が無限小数である(終わりがない)ことを認めながらも、正確な値を追求するために演算を絶やすことがありません。

ハイコンテクスト文化の”既存”の文脈は、先述したとおり”定型文”的であるという言い方ができるかもしれません。
「AであればB」という認識が予め共有されていることで、はじめてAという”定型文”はコミュニケーションの中に活用されます。
逆に、コミュニティ内でこのような共通の認識が存在しない新しい文脈を導入することは困難を伴う、というわけです。

このように農村型コミュニティにおいては”定型文”的に、限定的な枠組みの中で「個人」を理解することとなるため、「個人」は均質化する傾向にあります。
ここでは、「あなたという人間は何者なのか?」という問いが明示的に発せられることはありません。
「個人」は暗黙的に、コミュニティ内の”既存”の文脈に基づいて相手に理解されるのが普通であって、「私は何者か」を言語によって積極的に説明するシチュエーションに出くわすことは、実はほとんどないのです。

日本は世界的に見ても極めてハイコンテクストな社会であるとされています。
もともと日本語に「Self-Identity」に該当する日本語が存在しなかったという話も、うなずけます。


批判的な書き方になりましたが、ハイコンテクストな社会でなければ出現しなかった文化もあります。俳句や短歌はそのひとつでしょう。
また、「あなたは何者か」を問わない農村型コミュニティは寛容である、と捉えることもできます。

グローバリゼーションが歪ませる農村型コミュニティ

こうしてみることで、農村型コミュニティでは「個人」という概念が希薄であるということの一定の説明が可能になったように思います。
日本語では「自己同一性」と訳される「アイデンティティ(Self-Identity)」という概念について言えば、同質性が前提としてある農村型コミュニティにおいては自己と他者の区別も明確ではなく、他の何者でもない自分を自覚することは困難な作業だったのではないでしょうか。

これを踏まえれば、グローバル社会において進行する「個人化」という社会構造と農村型コミュニティの形成原理との間に齟齬があることが分かります。
そもそも農村型コミュニティにおいては「個人」という概念が希薄なのですから、コミュニティが解体され「個人」という単位がむき出しになった社会の中で、農村型コミュニティの元構成員たちが適切に振舞えるのか、という問題が生じるだろうとは容易に想像できます。

その結果として良く槍玉に挙げられるのが「孤独死」という事象ですが、コミュニティの解体により表面化した”社会の膿”は、より複雑な側面を持っているように思います。
例えば、(学識ある方からの指摘も多いところですが)「秋葉原通り魔事件」もまた、所属するコミュニティを失った一人の男性の悲劇として捉えることができます。
僕が現代社会の構造の歪みを強烈に意識するきっかけとなった「大阪市・2幼児遺棄事件」も、コミュニティの喪失による孤独なシングルマザーという加害者像をイメージさせます。

これまでの農村型コミュニティと「個人化」する社会の齟齬が”歪み”を生じさせている中、そこここで発生している悲しい事件は、社会の傷口である”歪み”から垂れ流されている”膿”のイメージを想起させます。
しかし、上に挙げた二つの事件の加害者は、「個人の倫理観の欠如」や「異常性」ばかりが指摘される結果となりました。
僕らは、「こちら」と「あちら」というように自分たちと加害者を容易に区別するだけで、言うなれば加害者たちを”膿”と見て、それを洗い流すことだけで事なきを得ようとしているのではないでしょうか。
僕らは社会構造の”歪み”の修復に着手することはなく、未だ発見されぬまま放置された”歪み”からは静かに、しかし淡々と”膿”が流れ続けている。
残念ながら、そんな状況のように思えてなりません。

コミュニケーションはどう変わるのか

グローバリゼーションの到来が、社会の「個人化」を推し進める働きをしたと書きました。
この点は既にメディアでも取り上げられており、多くの社会理論でも指摘されているところです。

「個人化」が進んだ結果、”既存”の文脈はますます共有の難しいものになりつつあります。
併せて、シングルペアレント世帯の増加などライフサイクルも多様化し、一人一人をまとめてラベリングし、集団的に理解するという行為がますます成立しにくくなっています。
そのため、最大公約数的なモデルケースをベースにするという発想に基づいた社会的な支援では、個人の抱える問題を処理できなくなり、結局個々人が自らの課題を自ら解決する必要が生じてきます。
この構造は「自己責任」の論調に拍車をかけており、就職できないことも結婚できないことも貧困に陥ることもすべて個人の自己責任として片付けられる傾向があることも見逃せません。

「個人」が強調されたために、お互いを理解できる共通の文脈は失われつつあります。
ここにおいて人と人との間のコミュニケーションを成立させる方法を改めて考えるべきでしょう。

農村型コミュニティが用いていたような共有可能な文脈を新しく創り出すか、「個人化」を徹底的に推進するか。
いずれにせよ、これまで用いられてきた文脈の活用は期待できず、言語等をベースとした積極的なコミュニケーションが求められることが予想されます。

伝えるべきことを一から言葉にすること。
「わたし」と「あなた」の間を隔てる差異を飛び越えるだけの表現力と説得力を持つこと。
これを僕は「言語化」と呼び、 「個人化」の時代において必要なのは「言語化」の能力である、と考えるわけです。

「言語化」とは、「差異とは何か」を暗黙的でない形で(明確に近くできる形で)表現/理解すること。
繰り返しになりますが、「わたし」と「あなた」はすでに明確な差異を持つことは前提とされています。
(実際、「みんなちがって、みんないい」という言葉があるのですから!)
これこそが「個人化」時代のルールであり、「言語化」の能力が求められる背景なのです。

まとめに代えて

ここまで、「言語化」の台頭した経緯を僕なりに整理しました。
長くなりましたが、これまでブログで書いてきた内容をここにまとめられた感があります。

では「言語化」の能力はどうやって鍛えられるのか。
まだ僕の中で課題として残っていますが、「他者」の認識が重要になるだろうという仮説を持っています。
そのあたり、「「他者」を発見する国語の授業 」などを参考にしながらまとめていきたいと思います。

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グローバル人材の要件-大企業ではなく日本社会が求めるモノ

カテゴリ:世の中の事

Facebookにポストしたら、意外とリアクションが良かったので。

Twitterでグローバル人材の定義の奥行きのなさを嘆く声があって、なるほどなあと思った。

社会が望んでいる「グローバル」とは、戦うフィールドの広さではなく、守るべき対象の範囲の広さなのだと思う。

世界で戦っても、それが会社のため、自分の生活のためなのであれば、20世紀の延長でしかない。

隣人のため、地元のため、地域のため、日本のため。背負うものが大きくなる方が、よっぽど大変なんだよね。でも、それこそが今、世の中に、21世紀に必要なこと。

大企業に求められる「グローバル人材」なんていらない

激しく同意。 RT @: グローバル化。日本から外に出ていく、田舎から都会に出ていく事だけが外向きで、若者が故郷に留まったり戻ってくることを内向きなんていう人がいるが、自分の田舎が廃れて行くのをほっぽっといてグローバルな感覚なんて安っぽすぎる。
@muneo_yamazaki
山崎宗雄

このつぶやきを見て、すぐさまとあるブログ記事を思い出したのでした。

子守さんが今朝の新聞記事から、ユニクロの柳井会長兼社長の「グローバル人材論」を選んだので、それについてコメントする。
柳井のグローバル人材定義はこうだ。
「私の定義は簡単です。日本でやっている仕事が、世界中どこでもできる人。少子化で日本は市場としての魅力が薄れ、企業は世界で競争しないと成長できなくなった。必要なのは、その国の文化や思考を理解して、相手と本音で話せる力です。」
ビジネス言語は世界中どこでも英語である。「これからのビジネスで英語が話せないのは、車を運転するのに免許がないのと一緒」。
だから、優秀だが英語だけは苦手という学生は「いらない」と断言する。
「そんなに甘くないよ。10年後の日本の立場を考えると国内でしか通用しない人材は生き残れない。(・・・)日本の学生もアジアの学生と競争しているのだと思わないと」
「3-5年で本部社員の半分は外国人にする。英語なしでは会議もできなくなる」

『百年目』のトリクルダウン (内田樹の研究室)

内田樹氏のブログに、ユニクロの柳井会長兼社長のコメントが引用されています。
ユニクロといえば、いまや日本を代表するグローバル企業。
なるほど、今の企業が求めるグローバル人材のエッセンスが見え隠れしていますね。

しかし、同じ記事で内田樹氏はこのグローバル人材要件に対して難を示しています。

私は読んで厭な気分になった。

(中略)

この理屈は収益だけを考える一企業の経営者としては合理的な発言である。
だが、ここには「国民経済」という観点はほとんどそっくり抜け落ちている。
国民経済というのは、日本列島から出られない、日本語しか話せない、日本固有のローカルな文化の中でしか生きている気がしない圧倒的マジョリティを「どうやって食わせるか」というリアルな課題に愚直に答えることである。
端的には、この列島に生きる人たちの「完全雇用」をめざすことである。
老人も子供も、病人も健常者も、能力の高い人間も低い人間も、全員が「食える」ようなシステムを設計することである。
「世界中どこでも働き、生きていける日本人」という柳井氏の示す「グローバル人材」の条件が意味するのは、「雇用について、『こっち』に面倒をかけない人間になれ」ということである。
雇用について、行政や企業に支援を求めるような人間になるな、ということである。
そんな面倒な人間は「いらない」ということである。
そのような人間を雇用して、教育し、育ててゆく「コスト」はその分だけ企業の収益率を下げるからである。

※太字は引用者による。

『百年目』のトリクルダウン (内田樹の研究室)

国民が、日本社会がエリートに期待しているのは、内田樹氏のいうところの「国民経済」なのです。
しかし、そのエリートが押し寄せる大企業には「国民経済」の観点が抜け落ちています。

自由化を進め、競争を促進し、競争に勝つものに資源を集中させ、それ以外の部分に再分配するという「トリクルダウン」という発想は、資本主義の100年間が示したように、現実としてはほとんど機能しませんでした。
この競争の時代の結果残るのは、逃げ切りを図り肥大化したグローバル企業と、搾取され疲弊した人々でしょう。
企業が求めるグローバル人材育成に注力したところで、それが日本社会にとって効果的な投資なのかどうか、疑問を抱かずにはいられません。

「グローバル人材」の要件を再検討する

大企業が世界で闘うのは、なんのためでしょうか。
飽和しつつある日本の消費市場に依存していては、企業の持続的な成長、引いては企業の存続の可能性が狭まるからです。
ほとんどの場合、グローバル企業は自分たちのために海外の市場に手を伸ばしているのです。

世の中はグローバル化していますが、これは21世紀のあるべき姿というよりは、20世紀の資本主義の当然の帰結と言えます。
あれだけ反省の声が絶えない20世紀の延長線上で闘うことで、「国民経済」は改善されるのでしょうか。

ユニクロの柳井会長が掲げる「グローバル人材」の要件は、限界を露呈した資本主義の生み出した概念に過ぎません。
この20世紀型の要件を満たす人材は、「国民経済」に寄与することなく、相変わらず格差を野放しにし、疲弊する人々を減らすどころか増やす方向へ事を進めていくように思えてなりません。
21世紀に生きる僕らが本当に求めている人材要件とは何かを考える必要があります。

ヒントは、前述の「国民経済」という観点にあります。
そのエッセンスは、
>老人も子供も、病人も健常者も、能力の高い人間も低い人間も、全員が「食える」ようなシステムを設計すること
という点にあります。

これは国レベルで言えば、社会保障の枠組みの話、再分配の議論です。
自治体単位になると、公共サービスや制度設計の問題になるでしょう。
これを個人レベルで考えると、どうなるでしょうか。その先に、あるべきグローバル人材の姿が見えてくるように思います。

「国民経済」を実現する人材像とは

一面的な見方をすれば、「国民経済」を追求し、実現に結びつける人材とは、他の国民が「食える」ようなくらい稼げる人材のことです。
この解釈では経済性のみに注目がいくので、もう少し柔軟な見方が必要でしょう。

21世紀のグローバル人材がもたらすべき効果について具体的に検討する前に、まず概念的なところから。
冒頭にあるように、僕としては「グローバル」とは闘うフィールドでなく、守ろうとする対象の範囲と捉えています。
守るべきものが自分や組織だけであった20世紀の資本主義を反省すれば、そう考えるのが僕にとっては自然なことでした。

資本主義の進展と共に生じる予測不可能なリスクを、個人が自分自身や家族といった単位を守ることで対応する社会こそがグローバル社会の結果だったとは、ジグムント・バウマンも指摘するところでした。
一層の個人化が進む流れを認めるその一方で、それに抗するように、徐々にではありますが「コミュニティ」というものが確実に見直されてきています。
個人の「自由」が拡大した結果、「安全」が失われた時代において、個人や家族を超えた「コミュニティ」という単位によって「安全」を取り戻そうという動きは、日本各地で起こっています。

これらを踏まえたうえで、これからのグローバル人材に求められる「グローバル」性とは何か?
僕は、”国境を超える”という元々の意味からもう少し踏み込んで、個人や家族といった単位―ローカル―の対比としてのグローバルというとらえ方をするべきだと考えています(ちょっと無理矢理?)。
守るべき対象を、知人、隣人、地域、国…というローカルな単位の枠組みを超えるように設定する。
これが21世紀型で求められるグローバル人材の条件の基本的な考え方となるのではないでしょうか。

これまで:「どこで闘うのか」 ⇒ これから:「何のために闘うのか

生産性を向上させるためには、闘うフィールドが重要になります。
しかし、生産性向上は「国民経済」をむしろ脅かす雇用のシュリンクを招くことも忘れてはいけないでしょう。
生産性の追求は一定程度必要とは思いますが、常に守るべきもののことを念頭に置かなければなりません。

守るべき対象(=ステークホルダー)は少ない方が楽なのは当たり前です。そっちの方が生産性は上がります。
一方、個人や組織というローカルな単位を超えて守るべき範囲を拡大させるのは非常に難しい。
ビジネスモデルの構築にしても、検討すべき変数が増えるわけですから、一筋縄ではいけません。
この困難にあえてチャレンジする人材が、日本中で(そしておそらくは世界中で)求められているはずです。

概念的な話題に終始してしまいました。
21世紀における「仕事」とか「働く」という価値観の変化する予兆を感じながら、今後徐々にこの議論を深めることができたらと思っています。

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