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改めて、ひとのはなしをきくときに大切になってきそうなこと

カテゴリ:自分事

今日までにざっと7件のインタビューを行ってきたのだけれど、「悪くないぞ」と思える部分もあれば、「ここに難しさがあるのか」と次なる課題に出くわす場面もある。今後もインタビューを重ね、あるいはそうしたささやかな実践で得たものを共有するために、ところどころ振り返りを挟んでおくべきと思い、簡単にまとめてみる。

そもそも僕がインタビューと呼んでいるものについて

そもそもインタビューという言い方をしてはいるけれど、僕の行為は一般的な「インタビュー」とは異なるものと認識している。まず、事前にインタビュイーについての情報を調べきるということはしないし(なにせ学生だから事前の情報がさほどない)、予め用意する質問は冒頭の一つだけ。写真を見せてもらってそこから話を進めるというものだ。今のところはインタビュー当日に「はじめまして」のケースはないが、録音を開始する前にざっと雑談をして、なんとなく(本当になんとなく)温まってきたかなと思ったらインタビューに入る。冒頭に軽い自己紹介を入れてもらうが、そうしたプロフィールに触れるか触れないかも、話の流れに依る。結論めいたものが出る保障もなく、こちらからもなにかまとめにかかるような質問を出すわけでもなく、なんとなく(これも本当になんとなく)「この辺で引き上げるべきかな」というところでインタビューを終える。録音を止め、感想を聞くこともあるが、大抵ここではやり取りのリフレクションになって、「録音止めなきゃよかった」と思うケースも割とある。

インタビューの際に気を付けていること

思いつく順に箇条書きで(気を付けているからといって100%できているわけではない)。

・言葉を言葉の通り受け止める。話し手がその単語を選んだことを尊重する(それに意味があると考える)。話し手の発言を自分の思い込みでなるべく判断しない。反射的に「ああ、こういうことね」となりそうなところをぐっとこらえる。
・話し手の話や言葉のおもむく方へついていく。話をさえぎらない。自分の興味に誘導するように質問しない。
・話し手が発した言葉を大事にする。自分の言葉に置き換えず、話し手の語彙をそのまま使う(内容をより鮮明にするために意識的に変えるときもある)。
・話し手の言葉をそのまま繰り返す。その言葉に込められている意味を反芻し、丁寧に確認する(同じ単語を話し手と聞き手が全く同様の意味で使っているとは限らない)。
・驚きを持って接する。話し手の言葉から”推測”しようとせず、価値観や解釈の仕方を勝手にジャッジしない。
・時折、聞き手として受け取ったものを開示する。これまでの話をどう受け取ったのか、その上でどういうことを改めて聞いてみたいかを伝える(話の流れが落ち着いたと感じるとこうすることが多い。正直、苦し紛れのときも)。このとき、「なんで〇〇なんだろうな、と不思議に思っています」のように、語尾に「?」をつけない場合が多い(当社比)が、これは西村佳哲さんのききかたを真似ている。

ざっとこんなところだろうか。インタビュー中は脳内メモリがほぼフル稼働しているが、その半分近くは「自制」に充てているという認識でいる。つまり、自分のメンタルモデル(思い込みや前提、価値判断)が顔を出しては手放し、を繰り返す工程は、今のところかなり労力をかけている。常にフラットであることで、自然と相手の話を、好奇心と驚きに満ちたものとしてきくことができるように思う。「ああ、どうせこんな話でしょう」と思ってしまうと、ひとのはなしをきくのがつまらなくなる。面白く聞くこと、その人の話の質感もそのままに受け止めることで、話し手の言葉が促されるのではないか、と思いながら、こうしたスタイルをとっている。

改めて、これからの課題や可能性について

こちらも箇条書きで。

・体力的にしんどい。集中力の維持が結構大変。
→まずは慣れるしかないように思う。もうちょっと実践を重ねてから考える。あとはコンディションを整えて臨む。
・2、3のトピックを聞いたところで、ふと、どこかを中心としてその周りをぐるぐると回っている印象が浮かぶときがある。
→特にネガティブな流れになった場合に多い。聞き手も勇気をもってぐっと踏み込まねばならないときがある、という構えをつくっておくべき。とはいえ、いたずらに踏み込むのもいけない。
・自分自身のメンタルモデルをたびたび見つめなおす必要がある
→「こういうときにこう捉えやすい」という自分の思考の癖がわかれば、手放すのが楽になるが、それが自覚できていない範囲では誘導的になってしまっているのではないか、という漠然とした不安がある。もちろん、インタビューはその話し手とその聞き手の二者によって成り立つ行為であり、だからこそその二人の相互作用があって当然とは思いつつ、バランスをとっていく。
・最初の8分くらいは長く感じる。30分過ぎたころで「そろそろかな」と感じつつ、そこから10分くらいで収束する感じがある。
→これは反省というより単なる印象。最初が長い。でもどこかに糸口が見えてくる。それまでは粘り強くついていき、促していくが、そこからは割とすーっと流れるようにインタビューが進行するような気がする。なんとなく収束に向かうときには、これまでの話の断片が回収されたりあるいはされなかったり。この中にはメタ的な振り返りも交ってくる。
・メンタルモデルが強い人へのインタビューは大変、かも。
→「あ、そうか、こんな風に考えていたのか」といった、話し手の発見に立ち会う瞬間というのは素朴にうれしい。けれども、それを受け止められるのはある程度メンタルモデルが相対化できている、あるいは「人はそれぞれ考え方が異なる」というスタンスをあらかじめ持っているから、なのかもしれない。「~ねばならない」という表現や、「ふつうは〇〇ですよね?」みたいな「フツー論法」(と勝手に命名している)が頻発する人たちが、それを受け入れられるかはまだ未開拓な部分。それこそ僕自身も聞き手として慎ましく踏み込んでいかねばならないケースなのかもしれない。

僕なりにもインタビューのプロセスを言語化していきたいなと思っている。そういう意味でも、一回一回が勝負。引き続き「恐れ多くも」と思いながらインタビューを実践していきたい。

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悩み事という趣味の実践

カテゴリ:自分事

※この記事は自分の考えをまとめるために書いたもので、読み物として成立させようとするつもりがないことを先に断っておく。

意図をきちんと理解しようとする力が強いですね、というフィードバックをもらった。そう言った本人は臨床心理学の「家族療法」という分野を専門的に学んでいる大学院生だった。

「人は、意図の反映された問いかけをされると、その意図に引きずられて回答に影響を与えてしまう。それを避けるために意図を隠して質問をすることが多いんです。そういうとき、あなたは私の質問の意図をきちんと確認してから回答するようにする。そういう意識があると感じた」

そのような意味のことを彼女は話してくれた。

でも、それは僕にとって、「力」という類のものではなかった。僕は、人の意図を理解することを苦手としているという自己認識を持っている。より具体的に言えば、人の意図を推し量ろうとする傾向が強いあまり、様々な意図を勝手に類推してしまい、「こういう意図なのか、あるいはああいう意図なのか」と一人で混乱してしまうところがある。

だから、僕にとって、意図の制限されないオープンな問いは回答しづらいケースがある。文脈の中で期待されていることが把握できない場合、どのようなスタンスで回答すればよいかを相手に確認しないと、無用なストレスを抱えることになる。「この状況・相手ならばどのような回答でも受け取ってもらえるのだろう」と思えるのなら別だけれど。

この混乱は、何かその場で即時に判断を要される場合にも起こる。他人の意図を類推するあまり、判断軸がひたすらに増えてしまい、適切な処理ができなくなる。特に即時性の強い電話というコミュニケーションが苦手なのはまさにこのためだ。その場で判断をしなければならないが、電話の向こうの相手の意図や、今周囲にはいないがその判断により影響を受ける人の反応を意識すると、しどろもどろになってしまう。あくまで「僕がある判断をした際に他人がどう思うか」を考える際に起こる問題であり、他の誰の意図も気にする必要がない状況ではあまり起きない(という自己認識を持っている)。


こうした傾向の裏側には、きちんと相手の意図に応えることで自分自身の社会的価値を発揮したい(しなければならない)という考え方があると思う。そもそも記憶の中の自分は小さなころから自己肯定感が低く、無条件の肯定というものを得られている感覚がなかった。だから、折々で価値を発揮しなければ自分の存在意義はない、というような意識がある。ところが、褒められても素直に受け止められないし、しかし褒められないと自分はやはり価値がないのだ、と考えてしまう。それは絶対的に悪いものでもないとは思っていて、こうした強迫観念とも言える考え方があるから、コミュニケーションの取り方や仕事の進め方などを意識的に良いものにしようという気になれた部分もあるとは思う。

この記事で紹介されている「詐欺師症候群」も、かなり思い当たる部分がある。

総合的に見ればもっと良い状態に持っていくことができると思うし、そのための努力もわずかながら積み重ねてきた。褒められたら「ありがとう」と言うようにする、とか、誰にでもできることをたまたま自分がそこにいたからやっているだけ(自分が特別何か能力があるわけではない)と思えたとしても、「たまたま自分がそこにいた」というだけでも価値なのかもしれないと考えるようにする、とか。全面的な変化は今のところ見られないが、まあそれでも徐々には進歩してきたかな、とは思えるようになってきている。

 

思いついた順に書いていってしまうと、こうした変化を妨げる要因として、プライドの高さがある。それは自信の無さの裏返しのようなものだと思っている。あるいは、僕の意見に対して「でも、○○じゃない?」とか「それはそうだけど△△でしょ」と返されたときに怒りにも似た感情がふっと沸き起こる場面が時折あるのだけれど、そういうときにはむきになって反論したり、先に述べた言葉の意義を言い換えながら強調したり、相手の反論を包括するように(自分はそれについても考えていると主張するように)再反論をぶつけたりしてしまう。脊髄反射のようなコミュニケーション。それは後味悪く僕の心の中に残り、自己嫌悪が重なっていく。

そう書きながら、なんでそんなふうなやり取りが起こるのかを考えてみる。どこかに「自分の考えは正しくあらねばならない」という意識があるのかもしれない。僕が話した内容や所属する組織への否定は、僕の存在意義の否定として捉えてしまう。人格の否定と意見の否定は異なる、ということを頭ではわかって(知って)いたとしても。もちろん、否定される全てのケースについて感情的な反応をするわけではない。いや、もちろん感情の揺れ動きはあるのだけれど、自分自身に否があると認識できるケースでは、反論せず相手の指摘を受け止め、あるいは謝罪する、という場合もある。相手がこちらの意図をしっかりと理解してくれた上で、それでもこっちの方が良かったんじゃないの、と言ってくれる場合も、割と受け止められる(ような気がする)。

ここまで来て、僕はどうやらコミュニケーションをする相手に対して、割と高度な対応を要求してしまっているのかもしれない、と思い至る。つまりは「面倒くさい」やつなのだ。ちゃんと敬意を払ってくれ。こちらの話を遮らず聞き、その上で意見をしてくれ。そうでない場合は、「いらっと」する。相手に対する期待値がそもそも高いのかもしれない。逆に言えば、そうした(僕としては)質の高いコミュニケーションをしてくれる相手は、とても貴重だ。幸い、五城目にはそういう人が多いし、そういう人が多いようだという期待が持てたから移住したという経緯もある(海士町への移住を決められたのも同様の理由があると思う)。

秋田に生まれてから過ごした18年間は、「いらっと」することの積み重ねだったという記憶として構成されている。だから、田舎に対していい印象が(今も)あまりない。自分の話を聞いてもらった、という満足感でいっぱいになるような瞬間も、記憶に残っていない。満足感を得ていることを自覚できていないのか、そもそも満足感を得ようとする期待そのものに何かエラーがあるのか。

ひとのはなしをきく、ということは僕自身大切にしたいことの一つで、秋田もそうなったらいいのに、という想いで日々を過ごしている。そこには「ぼくのはなしをきいてほしい」という欲求が見え隠れしているようにも思う。好きなだけしゃべって、それをしっかり受け止めてもらい、満足し、さて、その先に一体何が待っているのだろう。その問いに対する仮説は、ぱっと思いつかない。それによって、満たされない何かを(代替的に?)満たそうとしているような節もありそうだ。そこに悪循環があるように思う。

ここまでどちらかと言えば深く掘り下げるような思考を経てきた。もう一度全体を俯瞰して問い直すならば、「こうした傾向は、逆にどんな状況に置いて有用なものとなるだろう?」という方向が例えばあり得るだろうか。こういう時、他の人の脳みその中身を見たくなる。自分自身が客観的にどのくらいのレベルなのかを知りたい、という気持ちがある。結局、他人と比べないと自分の位置が見えない、ということなのだろうか。それはそれで問題というか悩みとして何か表面化していそうな予感がある。

今日はこの辺で打ち止め。

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シンプルに物量に頼るということ(ワークショップのはなし)

カテゴリ:自分事

この週末はいわゆるワークショップに計3回立ち合い、そのうち2回については企画とファシリテーターを務めた。そこで得られた一つの結論はシンプルなもので、ワークショップにおいては「物量に頼る」べきシーンがある、ということ。

それは、先日東北芸術工科大学で開かれた「東北カイギ」で目の当たりにした、最大で高校生1.5人に対して大人or大学生1人という超充実した2泊3日(のうちの2日目と3日目)を見たことが一つのきっかけとなっている。3日間で高校生たちが変わる。それを実現しているのは、ときに変化への戸惑いや恐れがあったとしても寄り添い続ける人たちの支援だったと思う。

10/24に五城目高校の2年生約100名に対して実施されたワークショップには、明治大学、明星大学、東京学芸大学の学生が関わってくれた。「東北カイギ」とは異なり、高校生たちはみなその場に望んで集まったわけではない。だからこそ、学生たちの存在は、変化を恐れ、平常運転に戻そうとする慣性の渦中にある高校生たちのアンカー(錨)として効果的に機能していた。

もしかしたら、非常に有能なファシリテーターであれば、その場を見事に収めることもできたかもしれない。夜を徹して考え抜かれ入念に準備されたワークがあれば、あるいは学生たちの「物量」に頼らなくても高校生たちの変化を安全に促すことができたかもしれない。しかし、そうした可能性を追及するよりも、シンプルに「物量がモノを言う」という法則に従う方が、よほど賢いように思えてしまったのだ。

もちろん、「量より質」と単純に割り切れるものではない。今回、五城目にはるばる来てくれた学生たちは、一人ひとり「いいやつ」だった。どこに出しても恥ずかしくないような人物が集まり、かつお互いが個性を遺憾なく発揮できているという、稀有なパーティーだったと思う。人に恵まれたことは認めざるを得ない。

それでも、僕は物量にシンプルに頼る可能性に注目したい、と思う。ファシリテーターの役目は、一人で担わなければならないものではない。己の力が及ばぬ可能性があるならば、単に他の人に頼ればいいのだ。予算の兼ね合いはあるだろうが、そこに創意工夫を投下する価値はある。少なくとも、PCの前でうんうん唸りながら当日の資料の準備に膨大な時間をかけるよりも生産性が高い結果になることの方が多いのではないかと思う。

以上を踏まえ、僕が今後ワークショップの企画・運営に携わることになれば、自らのベストを尽くそうとするのはもちろんのことだけれど、素直に自分一人では到達の難しい領域があることを認め、物量作戦が取れないものか頭を巡らしてみる価値はある、という結論に至っている。限られた予算の中でも最寄り駅までは来てくれる大学生を2,3名でも集められれば、それだけアンカーは増える。いきなり実戦に投入するのが難しければ、あらかじめ彼らを育てておくというアイデアもあり得る。事前の仕込みの時間を設けることは、僕自身の経験値にもなるわけで、結果的にワークの質は高まる。労力がかかるということ以外にはいいことしかない。

 

ここまで書いてみて、「そもそも、ワークショップってそんなに価値があるの?」という意地悪な問いが自分の中から出てきた。もちろん、ワークショップは、ただの手段であり、目的ではない。それでも、このワークショップ後進県・秋田においては、もう少しその価値を追及してみる意義はある、と思う。ワークショップの中で重んじられるコミュニケーションの形態を浸透させるだけでも、地域社会に少なからぬインパクトが生まれるのではないか、というのが僕の仮説だ。そういう視点で、もう少し、ワークショップというものを秋田の中で取り扱っていけたらと思う。

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