Tag Archive: 地域活性化

【祝・目標達成】秋田発・「トラ男」を応援しましょう

カテゴリ:告知

※2012/08/09追記
おかげさまで「トラ男一家」プロジェクトは目標を達成しました。
ご支援・ご協力ありがとうございました。

トラクター × 男前 = トラ男

農家とあなたがつながる新しいコミュニティ!「トラ男一家」プロジェクト- CAMPFIRE

日本中で農家の後継ぎが年々減少しているというのはみなさんご存知のことと思います。

米どころとして名高い秋田も例外ではなく、米農家すら減る一方。

「きつい」「かっこ悪い」「稼げない」「結婚できない」

家が農家であっても親が子どもに農業を継がせない時代が来ています。

そんな農家の高齢化の著しい秋田の農業に新風を注ぎ込むべく立ち上がったプロジェクトが、「トラ男」なのです。

トラ男×クラウドファウンディング

ソーシャルメディアを活用しながら、生産者と消費者の新しい関係性をつくる。
そんな「トラ男」プロジェクトがクラウドファウンディングサイト「CAMPFIRE」にてパトロン(支援者)を募集しております。
募集期限は8/10 0時まで。それまでに800,000円の資金を集めなければなりません。

農家とあなたがつながる新しいコミュニティ!「トラ男一家」プロジェクト- CAMPFIRE

この記事を書いている8/1現在、183,500円が集まっており、僕を含む25人がパトロンとして名を挙げています。
目標金額まではまだまだパトロンが足りません。

パトロンになれば支援額に応じて秋田の若手農家の手で丹精込めてつくられたお米が届きます。
これがただの寄付とは一味違うところです。

トラ男プロデューサーの武田さんは僕の一つ上の1985年生まれ。
北秋田市(鷹ノ巣)の若手を応援しないわけにはいきませんよね。

みなさま、どうぞよろしくお願いします!

農家とあなたがつながる新しいコミュニティ!「トラ男一家」プロジェクト- CAMPFIRE

↓こちらの本でもトラ男が紹介されています!↓

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地域のアイデンティティを問うことの可能性-地域のこれからを考えるために

カテゴリ:自分事

21世紀に地域の歴史を振り返るということ

先日のエントリーでは地元・神宮寺の歴史について触りの部分をまとめてみました。

そもそものモチベーションは、僕自身が地元のことをろくに知らなかった点にあります。
この世に生を受けてからの18年間を神宮寺で過ごし、それなのに僕が地元について知っているのはほんのわずかばかり。

神宮寺という地にどのように人が集い、自然と関わりながら暮らしをつくりあげ、歴史を積み重ねていったのか。

蓄積された人の営みと時間とを基礎として神宮寺という町は存在しています。
神宮寺という町が今、あの場所に存在するということそれ自体に、長い時間をかけて醸成されてきた意味がある、そう思うのです。

地域を20世紀の指標で評価する限界

一方で、現在の神宮寺を見つめるだけでは地域のアイデンティティに迫りきれないという事情もあります。
今一般的に地域を評価する基準と言うのは、観光地や特産品だったり、何らかの話題性があったり、コンビニがあるとか利便性の問題だったり。
残念ながら、既存の視点では(他の多くの田舎がそうであるように)神宮寺は必ずしも良い評価を得ることはできないでしょう。
地域の歴史もまた評価の対象となりえますが、それは観光客向けに分かりやすくまとめられているなど、表にでているものに限られます。
(僕も、先日のエントリーをまとめながらようやく神宮寺という地域に刻まれた歴史に触れられた感があります)

神宮寺をはじめ、日本の地方・地域を見つめなおす作業を進める際に立ちはだかるのが、この評価基準ではないでしょうか。
経済性を重視することは今にはじまったことではないですが、地域資源の有無といった目に見える指標が支配的になったのは、20世紀に入ってからではないかと感じます。
実際、日本の多くの田舎に住む人たちは「おらほの町には何もない」と嘆いています。
そこに町が存在するということは、それだけで歴史の蓄積の賜物であるはずなのに。

経済合理性の名の下に役割を強いられた20世紀の地方

20世紀、地域はそれまで培ってきたアイデンティティによってではなく、経済的機能のみによって役割分担を強いられてきたと思います。

それによって地方は都市への人材や資源の供給源としての機能が強化されました。
一定期間そのシステムは順調に回っていましたが、現在は限界を迎えつつあり、都市/地方の格差が問題化するようになった、というのが多くの人の共通認識としてあります。

20世紀のシステムの限界を克服し、21世紀以降のあるべき姿を描くことが今まさに要求されていることです。
しかしながら現在中心的な位置を占める「地域活性化」の文脈は、都市/地方の対比から、つまり20世紀になってこしらえられた評価基準から、脱却できずにいるように見受けられます。

歴史の蓄積すらも単純な経済性で評価した20世紀のあり方は、これ以上日本の地方を幸せにする方向へ作用することはないでしょう。
ましてや、その指標を用いてこれからの地域のあり方を考える自体、無理があると言わざるを得ません。

「じゃあ、どうすればあるべき姿を描けるの?」
僕は、事を急ぐ前に、もう少しこの問いに向き合う時間が欲しい。

地域の流れ着いた姿に、そのアイデンティティを問う

先ほど、「現在の神宮寺を見つめるだけでは地域のアイデンティティに迫りきれない」と書きました。
今僕らの目の前にあるものの多くは20世紀(あるいは21世紀初頭)に秩序なく半ば機械的につくられたものであり、評価に値しなかった地方の負の遺産がどうしても鼻につきます。

ネガティブな情報に捉われず、これからの地域のあり方を問うために、どのような可能性があるでしょうか。

一つは、僕が先日のエントリーで示したように、時間とともに醸成された地域のアイデンティティを掘り起こすという作業です。

僕の地元・神宮寺はある日突然町として機能するようになったわけではもちろんありません。
仙北平野への入り口に位置したこと、保呂羽山への通過点となっていたこと、雄物川と玉川の合流地点であること、そこに神宮寺嶽があったこと。
神宮寺が、今あの場所にあるということの必然は、これでもまだ語りつくせないでしょう。

人が根付き、信仰が生まれ、暮らしを営み、町がつくられる。
歴史の堆積に委ねられ形作られたものは、目には見えずとも、町のアイデンティティとして埋め込まれているのではないでしょうか。

ちょうど川の流れによって少しずつ川原の石が丸く削られていくように、町も時間の流れによって”自然に”その土地に合った形を持つようになったとしたら。
積み重ねられた時間を無視してきた20世紀以前の町の歴史を振り返ることで、その土地にぴったりとフィットする、地域のあるべき姿のヒントを見出すことができるのではないでしょうか。

そんなささやかな可能性にわくわくしている、今日この頃です。

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自分がしたい「社会貢献」を思い込みで押し付けないために

カテゴリ:自分事

「キャリア教育って意味あるの?」にどう答えるか

いつも疑問に思うことがあります。

「キャリア教育」の必要性が(特に産業の側から)叫ばれる世の中になってきているのはご存知の通り。
グローバル経済の影響の下、企業による雇用の安定は信頼性を失い、個人の実力がますます問われるようになっています。
こうした背景から、教育の現場がもっと「働く」とか「キャリアを自ら築く」とかそうした方向にシフトしてほしいという声は理解できないものでもありません。

ところが。
僕自身のこれまでを振り返ってみると、「キャリア教育」なんてまともに受けていない、と言うのが率直なところです。
小学校のときは地元のお店にインタビューしに行ったし、中学のときは隣町の獣医さんのところを見学させてもらった記憶があります。
しかし、それらの経験が僕の中に影響を及ぼしたかと言われると、全くといって良いほど意味がなかったと思ってしまいます。

高校時代は学校の先生になるという目的があったので淡々と勉強をしていました。あとは部活。
大学に入ってからは授業もそこそこにこなしつつ、サークル活動に入り浸り、引退してからはすぐさま就職活動にのめりこみました。
結局教員にはならずIT企業に就職を決めたわけですが、この会社もシューカツ生の中ではそれなりに知名度があるところ。

まともな「キャリア教育」を受けていなくても、僕自身はこれまでの短いキャリアについて満足することができています。
そうした自分の経験を振り返った上でもう一度冒頭の問いに戻ってみると、「よく分からない」と言う他ないように思えてくるのです。

それ、単なる思い込みの押し付けじゃないですよね?

「これを誰かに提供したい」というときの、あの不思議なまでの情熱と確信はなんなのだろうかと思うことがあります。
ここにおいて問題なのは、自分が経験していないことであっても、あたかも自身がその恩恵に預かっているような錯覚に陥る場合があるということです。

「自分が高校生のときにこんな授業を受けたかった!」と思うことは個人の自由ですが、それはあくまで想像上の話。
実際のところ、「こんな授業」をきちんと評価しないことには無責任な発想でしかありません。
「私が受けたかった授業は、今の子どもたちにとって必要なことなんだ!」という情熱は単なる「思い込み」と紙一重なのです。

見た目として「なんとなくよさそうなこと」ほど、「思い込み」で留まってしまう危険性があります。
地域活性化や就職活動支援などいろんな人がいろんなことをしている/したいと思っているわけですが、時に「それって本当に意味があるの?」と疑いたくなるようなもの、ありませんか?

「あなたは何がやりたいの?」をいつでもどこでも求められる時代。
「社会に貢献することはいいことだ」という風潮。

こんな中で、「自分がやりたいし、よさそうだし、これやろう!」というちょっと安易で無責任な人が増えているのかな、などと邪推してしまいます。

新しいことを人様に提供する作法を考える

ここで言いたいのはキャリア教育に対する批判ではありません。
何か新しいこと、自分が経験していないことを提供する側が、「自分のやっていることは単なる押し付けではないか」と自己を戒める必要がある、と言いたいのです。

その方法として真っ先に浮かぶのが「デザイン思考」です。

[1] Design Thinking

定義

デザイン思考は、技術的に実現可能なものやビジネス戦略を顧客価値や市場機会へと転換可能なものと、人々の要求とを一致させるために、デザイナの感覚と手法を利用する方法、である。

デザイン思考の系譜 | Design Thinking for Social Innovation

このブログでも度々登場している「デザイン思考」。
僕としては「抽象的なアイデアを具体的かつ効果的に求められる形に着地させる手法」と捉えています。

着目すべきは、デザイン思考の方法ではなく、その意図するものにあります。
デザイン思考のプロセスが生み出すものは、現実的に活用できるモノやシステムのデザインです。
思い込みや押し付けを排除し、意味あるもの、必要とされるものとして、現実との整合性をとっていく。

このような発想に基づけば、他所でやっているものをコピーして我がとこでやろうという事態に陥ることはありません。
「なんとなく良さそうだから」で留まることもありません。

「新しいこと」それ自体が価値を持っているわけではありません。
たくさんのものに溢れる時代に、また新しいものを追加して誰かに利用してもらうということは、思った以上にコストがかかります。
古いものから新しいものへの移行は(たとえ必要性が自明であるとしても)それなりにエネルギーを要するものです。
現実というもの、人間というものの理解したうえで、はじめて意味のあるものを生み出すことが可能となります。

新しいことを誰かにしてもらうということの「責任」について、一層の”配慮”がほしいところです。

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