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”とりこ”になる若美メロンは、秋田が誇る珠玉のフルーツ

カテゴリ:自分事

”とりこ”になる秋田のフルーツ

わたしたちが、地元秋田県産の“とりこ”になるほど美味なフルーツと出会い、メルマガを通してご案内をはじめたのは一昨年のこと。現在の一般的な市場流通の仕組みでは、なかなかみなさんの口に入ることがない「完熟」の旬の食べ物。それを生産者さんが自信を持って出せるタイミングでお届けする。「“安心”で本当においしいものを召し上がりたい方に、できるだけ生産者さんのお人柄も近く感じていただけるようにお届けしたい」そう願って模索してきました。

TORIKO Fruits|Vol.1 大渕常夫さんの若美メロン | casane hito tsumugu mono

高校の大先輩・田宮夫妻のユニット、「casane tsumugu」。
お二人の、秋田―北東北に対する深い愛情がにじみ出る文体で紹介された、真心のこもった品々。

秋田県男鹿市(旧若美町)の大渕常夫さんが育てた「若美メロン」もその一つです。

昨年もメルマガでお知らせをいただき、非常に関心を持っていましたが、
今年の夏、とうとう念願の注文。蒸し暑い海士町の夏を潤す果実の到来が待ち遠しかった…。

なお、このメロンは最高の「旬」のタイミングのときのみ出荷されています。
したがって注文できるタイミングも限定的です(2013年分は終了)
気になる方はWEBサイト右側のメールマガジン申し込み欄からメルマガ登録をお願いします

メロンが僕の口に入るまで

僕が注文したのは、アムスメロン(2Lサイズ)4個入り
一人で1度には食べきれないし、せっかくの機会なので、海士町内の何人かで共同購入しました。
 もちろん、仲間たちに秋田の美味を味わってほしかったのもありました(まだ食べていないくせに)。

到着は8/1。常温で届いた4つのメロンは、持ち上げるとずっしりと重い。
その堂々とした風情に、生産者の愛情と誇りすら感じるくらいに(言い過ぎ?)。

「食べごろは8/2ごろ、皮を押して少しやわらかくなったらOK」
「冷やして食べるとよりおいしい」
「熟れすぎたと感じたら、冷凍してミキサーにかけスムージーがおすすめ」
などなど。

メロンに添えられた手書きのメッセージにも、丁寧な配慮が見られます。

共同購入者にもその日のうちにデリバリーし、メッセージの内容もしっかり伝達。
みなさまの笑顔を想像すると、こちらまでにやにやしてしまいます。

が、保存時に痛恨のミスを犯しました。
届いたその日にメロンを冷蔵庫に入れてしまったのです

後で知りましたが、メロンは冷蔵庫での保存はご法度です(常識?)。
低温障害(?)を引き起こし、熟成が止まって、劣化に転じるとのこと。
冷蔵庫の中のメロンは一向に熟す気配がないのでおかしーなと思い、
ネットで調べて慌てて冷蔵庫から出し、常温で保存し直すこと丸1日。
ようやくやわらかくなったメロンを再度冷蔵庫にいれて冷やし、しばし待つ。

「せっかくのメロンがダメになっていないだろうか…」
そんな不安を抱えつつ、丸々としたメロンに包丁を入れます。

ジューシーな果実との出会い、そして感動へ

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一刀両断の後、種を取り除いたの図。

何とも言えない、あまーい香りが漂ってきます。
冷蔵庫保存による品質劣化は杞憂に終わったようですね。

種を取り除くと、中央のくぼみにはたっぷりの果汁が…!

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どうですか、このジューシーさ!
思わずアップで撮りましたが、近づきすぎて伝わらないか…笑

もう待ちきれない、ということでさっさと切り分けます。

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果汁があふれんばかりです。というか、あふれちゃいました。

予想以上のジューシーさ。スプーンで食べるなどと悠長なことはしていられない。
がぶりと食らいつきます。

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甘い!

こんなに率直に己が美味を主張するメロンと出会ったことがありません。
柔らかい果肉が持つメロン独特の甘さと香りが強烈です。いっそ潔い。

そしてあふれ出る果汁!

ほっておくと汁がどんどん皿に流れてしまいます。
行儀が悪いですが、かじっては「じゅじゅじゅ…」と汁を吸う。
これがまたうまい。完熟とはこのことか…!

皮の周辺までやわらかく、さわやかな甘みがあり、最後までおいしくいただけます。
序盤から旨みの洪水に襲われつつ、後半に口中をリセットしたうえで次の一切れに挑む。
これ、いいですねえ。

あまりのおいしさに、1/4個をわずか1分ほどで食べきってしまいました。
ノンストップ・完熟メロン。いやー、んまかった。

”とりこ”になる。

この言葉の意味がよくわかりました。

来年の収穫が今から楽しみです笑
そして、来年こそは常温保存で、完全なる熟成メロンを食したい…!

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秋田魁新報「あしたの国から 人口減社会を生きる」に海士町が紹介されています

カテゴリ:自分事

島根県の沖合約60キロにある隠岐諸島の海士町(あまちょう)。面積33平方キロの半農半漁の島に、全国から年間約千人が視察に訪れる。町独自の取り組みに関心を示す若者が日本中から集まっているためだ。人口減少が進む自治体の担当者が、ヒントを得ようと足を運ぶ。

あしたの国から 人口減社会を生きる:第6部・将来への手掛かり(7) [離島に学ぶ]賄えない人材を募る|さきがけonTheWeb

2013年のさきがけ特集記事「あしたの国から 人口減社会を生きる」。
先日東京支社から記者の方が海士町を訪れ、希少な秋田出身である僕も取材を受けました。

海士町では多くの取材、視察を受け入れていますが、僕自身の取材は初でした。
まとまりのある話がなかなかできなかったのですが、伝えたかったニュアンスがしっかり記事になっていて感動した次第です。

海士町にこれだけ島外から若者が集まるのは、10年以上前から積極的にIターンの受け入れを開始し、
地域に馴染めるようあれこれと面倒をみてくれた町民のみなさまの存在が不可欠だったのは言うまでもありません。

しかし、もうひとつ重要な点として、そういった土台の上に、まず面白い仕事、町に必要な仕事を定義し、
その役割を担える人材を島内外を問わず募集する姿勢があったのではないかと思っています。

仕事が移住に先行することで、移住者は純粋に仕事の魅力と人の魅力にひきつけられます。
移住する際には、必ずしも「永住」の決意は必要ありません(それは往々にして過度の重圧となります)。

実際に住んでみて、本当に気に入ったなら改めて永住を決める。
それはまるであるべき自由恋愛の姿と重なるような、「フェアなあり方」だと思っています。

町は移住を歓迎するが、「永住」は前提としていない。町は島では賄えない人材を募り、移住希望者は島で手掛けたいことを提案する。一定期間住めば奨励金を出したり、家屋を無償譲渡したりする本県一部自治体の定住対策とは異なる。

あしたの国から 人口減社会を生きる:第6部・将来への手掛かり (7)[離島に学ぶ]賄えない人材を募る|さきがけonTheWeb

町長や課長を差し置いて僕の写真が掲載されていて大変恐縮です…笑

※リンク切れの場合は下記リンクをどうぞ。
http://megalodon.jp/2013-0624-1102-26/www.sakigake.jp/p/special/13/ashitanokuni/article6_07.js

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東北 不屈の歴史をひもとく-辺境から歴史を編集する

カテゴリ:読書の記録

2011年3月11日に大震災に見舞われた東北。
その歴史は度重なる天災、人災を乗り越えて積み重ねられてきました。

我々の視線は、無意識のうちに中央からの編集というフィルタを通して東北へと注がれています。
そのことに気づかせてくれるのが本書の見所でもあります。

著者は読売新聞記者の岡本公樹氏。
東北に約8年駐在した著者が有識者の知見を集約し、まとめあげたのが本書です。

結論

本書は第一に読み物として面白いと思います。
新聞記者だけあって文章は読みやすく、学術書の退屈さはありません。

ところが、厳密さでは疑問に残る点があります。
事実が不明な点について、複数の可能性に触れずにひとつの説だけ紹介することが度々あるのがその一因かなと。
もちろん、それが読み物としての面白さを損なうものではありませんが。

また、著者自身が本書の中で「東北」という括りの限界を露呈したのではないかなと思います。
後述するように、「東北」は広いのです。

不屈の東北

東北は過去に幾度となく天災、人災によって危機をかみしめてきた歴史をもつ。征夷大将軍・坂上田村麻呂の征戦以来、中央政府との対決につねに負けてきた「五戦五敗」の歴史という人もいる。だが、歴史はオセロゲームではない。東北は、圧倒的な力の前に倒れても、そのたびに、六度も立ち上がったのだ。業火のなかから不死鳥は蘇る。今回は七度目の蘇りだ。必ず東北は立ち上がることができる。その証拠を歴史で示すのが本書のいちばんの目的だ。

東北─不屈の歴史をひもとく

この「五戦五敗」とは

①蝦夷戦争(三八年戦争、元慶の乱など)
②前九年・後三年の役
③奥州平泉の滅亡
④伊達政宗の豊臣秀吉の服従
⑤幕末の戊辰戦争

の5つの戦いでの敗北を指します。

また、過去には大きな天災があったことが記録に残っています。
貞観十一(869)年五月二六日、東北の太平洋側を襲った貞観地震と津波。
貞観十三(871)年には鳥海山が大噴火、さらに延喜十五(915)年にも十和田大噴火がありました。
慶長十六(1611)年には伊達政宗領である仙台藩(伊達藩)を大津波が襲っています。

それでも東北という地で暮らし続けた人たちの存在が現在の東北をつくっているわけです。
だからこそ、著者はこれからの東北の復興に希望を見出すことができたのでしょう。

たとえば、東北の稲作

東北と言えば一般的には「米どころ」のイメージがあり、地元民もまたそれを誇りに(ときに自虐的に)思っています。
ところが、文献史料や考古資料をたどると、昔からそうだったとは言えない事実が確認されます。

稲作は弥生時代に大陸から伝わりましたが、それは西(九州)からの伝達でありました。
一時期は青森まで伝わった稲作は、当時寒冷だった東北北部には馴染まず、仙台平野・大崎平野で一旦留まります。

そもそも縄文時代においては、東北が最も人口密度が高かったとする説があります。
つまり、東北はもともと資源に恵まれたところであったのが原因と著者は指摘します。

もっとも考えられるのは、(東北に住んでいた)縄文人は十分に豊かで、ハイリスク、ハイリターンな稲作に見向きもしなかったということだ。
稲作は、灌漑、水田などの準備がたいへんな上に、水の管理や害虫の駆除など水田に張りついていないと豊かな恵みをもたらさない。もともと、たくさんのマスやサケが春と秋に東北の川を遡上していた。稲作のように夏場にたいへんな苦労をして準備をしなくても、定期的に年二度の収穫期を迎えることができるのならば、川の利用価値としては漁業の場としてのほうがうんと高かったのだろう。
※括弧内は引用者による

東北─不屈の歴史をひもとく

時がたち奈良時代には気候の温暖化が進み、岩手県の胆沢盆地まで稲作をはじめ農耕が活発化しました。
平安時代に完成した『延喜式』には、全国で最も稲作生産量が多いのは陸奥国(東北の日本海側)だったとあります。

弥生文化の象徴である稲作が定着しなかった北東北は続縄文時代を迎えます。
そこに暮らす人々は北海道の影響を受けつつ、縄文期に引き続き狩猟・採集及びソバなどの農耕を主な生業としていました。
稲作に従事しない以上、中央、つまり大和政権の支配下になかった東北の人たちは「蝦夷」と呼ばれるようになります。
そして大化の改新をきっかけに、阿倍比羅夫の日本海沿岸遠征があり、次第に中央の侵食が始まります。

急激な中央の進出と王化への反発として東北各地で反乱もありました。
蝦夷と王権の激突といえば、阿弓流為と坂上田村麻呂が登場する三八年戦争が有名ですね。

秋田でも、元慶二(878)年に俘囚(調停に服属した蝦夷)たちによる元慶の乱が起こっています。
時は平安時代。温暖化によって北東北でも稲作が広がり、秋田の横手盆地は現在でも有数の稲作生産地です。
元慶の乱ではこの豊かな横手盆地の存在が乱の成否を分けたと著者は言います。

気候の変化(温暖化)によって東北に稲作が定着した、と先に書いています。
ところが、江戸時代にあった三度の大飢饉は東北の気候の厳しさを強調する結果となりました。
天保の大飢饉(1833~1837年)では秋田や山形の米が石巻や気仙沼に運ばれていたことが記録に残っています。
つまり、日本海側と太平洋側では後者の被害のほうが大きかったことが読み取れます。
「ヤマセ」という言葉もありますが、特に気候に左右されやすい東北の太平洋側が稲作に向いていると言うべきか、すぐには断言できないでしょう。

「東北」という括りの限界

稲作の例を見るだけでも、単に東北六県を「東北」と括ることの限界が見えてきます。

『古代の蝦夷と城柵』の紹介記事でも言及しましたが、南東北は比較的早く稲作及び王化が普及しています。
一方、北東北は、北からは北海道の続縄文文化・擦文文化、南からは倭王権の文化が入り込み、双方が入り混じる独特の文化が形成されていました。
また、太平洋側と日本海側では気候の面で稲作への適性が異なります。これは現在でも変わっていません。

東北で起こった歴史上の出来事が、そのまま東北に住む人たちすべてに影響を及ぼしたわけではありません。
その点で本書が提示した「不屈の東北」像には限界があるように感じます。
本書は、「東北」という括りが、我々の、歴史を見つめる目をぼやかしてしまう可能性もまた掘り起こしてしまっているからです。

よくよく考えてみれば、東北というのは中央から見た位置関係でありました。
これは、倭王権がそれに服属しない者を「蝦夷」と名づけたことと共通しているようにも思われます。

そのような状況を自覚しつつ、東北はどう立ち位置をとるべきか。
著者から大きくてまだ少し曖昧なガイドラインが提供されました。
次は、一人一人の「東北」像を描くことがこの本の読者に委ねられているのかもしれません。

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