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ソーシャルメディアで見られるポジショントーク

カテゴリ:世の中の事

・Twitterでは自分の価値観を発信した方がいい
・ソーシャルメディアで人脈を広げることで、今後転職も有利になる
・ソーシャルメディアが浸透し、より個人が重視される時代になる

Twitterを見ると、こういう言説は幾らでも見ることができます。

注意するべきは、これらが発信者からの「ポジショントーク」ではないか、ということです。

名言じみたツイートが幾らでもRTされる時代(「またかよ」と思うこともしばしば)。
ついつい「うけそうな」発言をしたくなるのが、ソーシャルメディアというものです。

僕がうんざりするのは、発信者が自分の立場を肯定するために、
「これからはシェアの時代だ」なんて言っているときです。

その人が時代を先行したい、と思うのは勝手ですが、
自分の生き方が先進的であることを示すために、こうつぶやくのはどうかと思います。
「こんな生き方は古い。これからはこの生き方だ」

はっきりそう言わなくても、暗にそう思っているんだろうな、と感じる場面、結構多いです。
そういう人ほど「自己責任論」を振りかざすことが多いです。
つまり、「あなたが成功するのも失敗するのもあなたのせい」という立場。

以下は仮説です。
「自己責任論」は恵まれた人間関係の中に育った人の特徴ではないか、そう思っています。

自分も自分の周囲も自らの努力でがつがつと道を作る。
意識の高い人にばかり囲まれれば、それが当たり前になります。

そういう人はえてして「自分は何でもできる。できないのは努力が足りないからだ」と考えがちです。

個人的には「努力ではどうしようもないものがある」と思っています。
鬱病患者に「頑張れ」と言う人はこのご時世ではもうそろそろいないでしょう。

僕の立場からすると、例えば「意識の高い学生」のメッセージには違和感があります。
たぶん、ポジションを確立するために多少力んでいるところがあるんでしょう。
「人それぞれ」、そう認めるだけでも力む必要もなくなるのに。

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リーダー待望論に見る日本の努力主義とその停滞

カテゴリ:世の中の事

僕がTwitterに流したこの記事が、地味にアクセス数を稼いでいました。

何が鍵を握っているかというと、政治のビジョンをしっかりと描きそれを実行に移していくためにリーダーをしっかりと支えるブレイン集団が存在すること、社会が抱える様々な潜在的な問題を早い段階で政治のテーブルに載せ、それに対処するための政策の選択を専門家がきちんと洗い出し、どれが最適かを議論したり、社会を構成する様々な人々の意見を聞きながら実行していくためのプロセスが制度としてしっかり確立していること、そして、そのプロセスが透明性を持っていること、候補者の人気投票ではなく政策議論を中心とした選挙を可能にする選挙制度があること、研究実績も博士号も持たない肩書きだけの「教授」や御用学者ではなく専門知識に長け社会を良くしようというやる気に満ちた学識研究者が歳に関係なく自らの能力を政策決定に反映できること、大学で専門知識を学んだ人がその能力を生かせる行政の職場に就き、エキスパートとしての立場から行政を行ったり政府に対して意見や提案を行えること・・・。スウェーデンの政治や社会を見ていると、以上のような「制度」の確立のほうが特定の個人のリーダーシップの有無よりも非常に重要な鍵を握っているのではないかと思う。

だから「スウェーデンの現在の経済や政治を導いてきた代表的なリーダーは誰ですか?」と尋ねてくださった方々には申し訳ないが、「こんなリーダーがいたから、今のスウェーデンがあるんですよ」と一言で述べて、その人物のリーダー哲学を説明してあげることはできない。私の答えは、上に示したように、一言では言い切れない。スウェーデンで政治に携わったり行政のアドミニストレーションに携わったりする人に求められるのは、心を動かすようなリーダー論や人生哲学ではなく、むしろ組織の中での効率的なマネージメントの能力やコミュニケーションの能力、他人とのグループワークの能力といった「地味」で実務的な能力だ。大学教育の経済・経営などに関する教育課程でもそういった要素が重視されているし、他の学生と一緒に一つの課題をこなすというグループワークは他の教育分野でも一般的だ。

今の日本の政治に欠けるのは果たしてリーダーシップなのか? – スウェーデンの今

「ふがいないリーダーがいるから失敗する。リーダーシップのある優秀な人材であればうまくいく。」という発想。
失敗を個人のせいにするか、失敗を発生させる環境の中に原因を追究するか。

日本は往々にして前者の「自己責任」の論理が優先されるように思います。
全員が同じルールの下に集まり、同じ課題を与えられる学校教育においては、その傾向は顕著です。
「みんなできていることをしない・できないのは怠慢、努力不足の証拠」なのです。

2010年の初夏、大阪で風俗勤務の女性が2人の子どもを家に閉じ込め、死体を遺棄するという事件が起こりました。
あの事件の後のmixiニュースに対する加害者への非難・中傷は見ていられないほどでした。

しかし、加害者ははじめから「殺人者」 になるような特徴を兼ね備えていたのでしょうか。
加害者が置かれた環境が、加害者を殺人者にまで追い込んだのではないか。僕はそう捉えています。

この記事を読みながら、映画「降りてゆく生き方」のプロデューサー、森田さんのTweetを思い出しました。

欠陥品が出ると「本当は完全品を生み出すシステムなのに、偶然欠陥品がエラーとして出てしまった」と思う人が多い。しかしそうではない。真実は、「そのシステムは、欠陥品を生み出すのに最適なシステムである」ということなのだ。less than a minute ago via web Favorite Retweet Reply

 

僕としては、森田さんの立場に賛同します。
根性に頼ることなく、仕組みでなんとかする、という発想は個人でも組織でも適応可能です。

例えば「Lifehack」。
人間の心理や行動、クセに関する最新の研究を踏まえて理に適う方法で習慣化・効率化を実現する。
根性論に染まりきってしまうとなかなかできない発想かもしれません。

なぜ自己責任の論理が強調されるのか

個人的に関心があるのは、どのような影響の下で自己責任の論理が染み付いてしまうのか、という点です。

一つ考えられるとすれば、「平等」の意識が強いこと。
(見た目は)日本社会においては機会の平等が保障されていることが多いので、その中できちんと機会を実らせる人がいれば、 そうでない人は機会を生かせなかった、というレッテルを貼られるのはある意味フツウのことと言えます。

「オレはできたのになぜお前はできない!?」といわれても、正直困ります。
「能力はみんな同じ」という前提が成り立つなら、確かに個人 の怠慢が原因になるかもしれません。
「適性は個人によって異なる」ということをみんなぼんやりとでも認識していると思うんですけど。

過剰な平等主義とその結果としての自己責任論。
構造を変える、システムを変えるという発想を遮っているのは、僕らの中に組み込まれた論理なのかもしれません。

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誰の身にも起こること、と思っていない人が多すぎる

カテゴリ:世の中の事

自分の子どもの死体を遺棄できる心境を思う」という前記事の流れで。

自分の子どもを放置して死亡させた母親に対する、mixiニュースに便乗した日記のバッシングの強さと対照的に、 ちきりんさんとか、dankogai氏とか、きちんと正面からこの事件を見つめている人も多い。
前記事もTwitterで何度かRTしていただき、このブログの半月分のアクセスを一日で達成してしまった。
それだけこの事件で「違和感」を覚え、僕の記事に少しでも共感してくれる人が多かったのだと思う。

個人的に読んで嬉しかったのは、切込隊長BLOGのちょっとした一言だったりする。

個人的には、核家族問題の一種だとも思っているので、祖父祖母も含めた大家族と核家族の中間のような形態がうまくつくれるといいなと。

僕の中学の同級生にも、早々に結婚したり、仕事を辞めてしまっている人もいる。
でも、なんだかんだで、家族と一緒に暮らしているので、それなりに生活できている。
親に万が一のことがあったら、なんて考えると、彼らも途端に不安になるだろうけど。

万が一」 それが自分に降りかかると思っていない人が多い、と思う。
僕が心配性なだけならいいんだろうけど。

・貯蓄もなく、頼れる家族もなく、独身で、二人の子どもを育てる。
・突然、遺伝性の重病にかかり、全く働けず、精神を病んでいた妻が自殺してしまう。

というような状況になったとき、自分が平常を保てるかと言うと、あまり自信がない。
それなりにいいところへ就職できたのに、心を病んでしまった同期も少なくない。
そんな人たちを見て、「自分とは無関係」「自分は大丈夫」なんて思えない。

僕の違和感はここを出発点としている。
自分が自信を持てないことを、他人に対して強く言えるという精神が理解できない。
「育児を放棄するくらいなら子どもを生むな」と、なかなか言えない。(※)

残酷な精神を持ち合わせていたり、倫理観が欠如した人だけの問題。
「世間」はそういう「勧善懲悪」で済まそうと躍起になっているように見えてしまう。
誰か特定の人を犯人に仕立て上げる。
分かりやすい構図で見せるために、犯人探しに終始する。

「もし私が同じ状況に立たされたとしたら」と想像する意欲は失われる。
「誰にでも起こりうること」ではなく、「特別な人の問題」として処理しようとするのにつられて。

それが何の解決になるだろうか。
社会の矛盾から生まれた膿を必死で洗い流すことに一生懸命になっても、 その膿の元となる「病原」の治療は一向に進まない。
「普通の人」たちが、「特別な人」を排除して、社会の健康を守ろうとしている。
そんな構図に見えなくもない。乱暴すぎるかな。

罪は罪として、冷静な判断の元に裁かれるべき、というのに全く反対する気はない。
でも、それで万事解決すると思えるほど、僕は能天気にはなれない。
こんな状況を見ると、社会保障がどうこう言えるような雰囲気じゃないなと思ってしまう。

「自分には万が一のことはありえない」という前提がこの社会のどこかにあるから。
みんな、自分が「普通の人」の範疇に収まり続けると思っているから。

「もしも自分が…」という不安を社会全体で和らげましょう、というのが社会保障だと思う。
「特別な人」のためのものじゃない。 「誰にでも起こりうること」が「たまたま実際に起こってしまった」場合の助け舟。
そういうコンセンサスが取れていないと、社会保障は成り立たないし、「国」なんていらない。 と、思う。

余談。
自己責任って、誰が教えたんだろう。教えられた記憶ないんだけど。 どこにその論理が埋め込まれていたんだろう。学校?

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