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古代の蝦夷と城柵-蝦夷文化の形成をたどる(1)

カテゴリ:読書の記録

あけましておめでとうございます。
1月も半ばが過ぎましたが、ようやく新年最初のブログに着手しました。
2012年は25冊ほどしか本が読めなかったので、2013年は目標50冊、最低でも40冊は読みます。

さて、今年最初に紹介する本はこちらです。

懲りずに蝦夷本です。
学術的な本なので宮本常一氏の大胆さはありませんが、さすがに手堅い。
本記事では特に気になった点を中心にまとめていきたいと思います。

2つ目の記事はこちら:蝦夷文化の形成について
3つ目の記事はこちら:古代王権の対蝦夷政策について

“蝦夷”という「観念」

「蝦夷(エミシ)」とは、古代東北・北海道の住民がみずからをよんだ呼称ではない。古代国家がその支配領域の辺境にあたる列島の東北方に住む人びとを一括して名づけたよび名である。蝦夷論の根源的問題は、まさにここにあると思われる。

古代の蝦夷と城柵 (歴史文化ライブラリー)

宮本常一も「日本文化の形成」の中で触れていますが、「蝦夷」とは倭王権(大和政権)が名づけた呼称です。
蝦夷研究に用いられる文献資料はすべて倭王権が残したものであり、そこで描かれる蝦夷の実態は蝦夷自身が語ったものではありません。
ここに蝦夷研究の問題があると著者は主張します。

すなわち「蝦夷」という概念それ自体は、王権が自己の側から見て”王化”にしたがわない異質の民であるとみなした人びとを、一定の政治的意図からよんだ呼称なのである。その目的は大きくいって二つあった。一つは、日本の古代王権が僻遠の地の”化外の民”をしたがえた”小帝国”であることを内外にわたってアピールすることである。のちにみるように、古代王権は唐に対してさえそのことを主張したことがあった。もう一つは、蝦夷をことさらに野蛮視、異族視することによって、古代国家によるその支配を正当化しようとしたことである。「蝦夷」概念は、一義的にはこのような政治的意図から古代国家によって構築された政治的イデオロギーであった。

古代の蝦夷と城柵 (歴史文化ライブラリー)

王権がいうところの「蝦夷」とは王権に都合のよい「蝦夷」であって、実態に即しているわけではありません。
実際、蝦夷を極端に野蛮な集団として捉えていることが見て取れる記述が『日本書紀』の中に幾つもあります。

しかしもう一方で、蝦夷は古代王権とたえず接触、交流があり、王権の側からすれば、支配、同化されるべき存在であった。このような王権による支配、征討、あるいは民間レベルでの交流といったかたちでの蝦夷との不断の接触は、いやがうえでも王権や一般の人びとに蝦夷の実像を認識させる契機となった。何よりも、蝦夷の実態の正確な把握なしには、古代国家が彼らを安定的に支配したり、彼らとの戦いを有利に導くことは不可能であった、ということを想起すべきである。こうして蝦夷観は、蝦夷の実態を一定程度反映するものにならざるをえないのである。

古代の蝦夷と城柵 (歴史文化ライブラリー)

かといって王権の側の文献資料がまったくもって実態を反映していないわけではありません。
支配される側の実態を把握することは支配する側の王権にとって不可欠であったからです。
また、この後にも触れますが、蝦夷と古代王朝の接触・交流の事実を伝える史料・資料は多数見つかっています。

「エミシ」という言葉は例えば四七八年に倭王武から南朝宋の皇帝に差し出した上表文に登場しますが、このときは「毛人」という表記でした。
これは、中国の東北地方には全身に毛の生えた人びとの住む「毛民国」があるとされるという『山海経』からの引用であろうと言われています。
この表記を見る限り、エミシは多毛な人たちであったことが見受けられ、蝦夷観が当初から異相性を含んでいたことを示唆します。

その後は「蝦夷」の表記が定着します。
「蝦」はえび。つまりひげの長さを示し、「夷」は王化に従わぬ民を指します。
八世紀以降の史料には「蝦夷」が長鬚もしくは多毛であると考えられていたことを示す記述がほとんど見られなくなりました。
外見でもって蝦夷を異質のものとする観念は途中で消滅してしまったことが伺えます。

『日本書紀』景行紀四十年七月条には蝦夷の習俗として

「男女交り居、父子別無し。冬は穴に宿ね、夏は樔(す)に住む。毛を衣、血を飲み、昆弟相疑ふ」

と書かれています。いかにも野蛮人という記述ですが、漢籍にも類似の表現があるので実録的とはいえません。
また、『日本書紀』延暦二十一年(八〇二)等には蝦夷を「野生獣心」と記しています。

王化にしたがわない蝦夷は、”野生獣心”でなければならないし、彼らが”野生獣心”の異俗の民とみなされるからこそ天皇が主体となっておこなう支配も征討も正当化されるのである。

古代の蝦夷と城柵 (歴史文化ライブラリー)

これこそが王権の「蝦夷」観念であり、政治的イデオロギーの表れといえるでしょう。

次回は蝦夷文化の形成を探る上でかかせない、南北世界の交流についてふれたいと思います。

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日本文化の形成(宮本常一著)(2)-蝦夷をつくった国家について

カテゴリ:読書の記録

前回の記事では宮本常一の語る蝦夷論を紹介しました。

この記事では、蝦夷という存在をつくりあげた国家のルーツについて宮本常一の論を追いたいと思います。

稲作をもたらしたものと武力国家をもたらしたもの

つまり私のいってみたかったのは弥生式文化と古墳文化はおなじ大陸からの文化でありながら、その渡来の経路が違っていたのではなかったかということである。そして弥生式文化というのは稲作をもたらしたものではあったが、ほとんど武力をともなわない文化であった。
(中略)
しかし朝鮮半島を経由して来た文化は武力的な要素をたぶんに持ち、武力による国家統一を進めていった。『日本書紀』にあっては、神武天皇以後の歴史は武力統一の歴史であるといってよい。

日本文化の形成 (講談社学術文庫)

著者の結論を先に紹介しました。
僕自身、邪馬台国(=弥生式文化)の誕生から大和政権(=古墳文化)の国家統一までが連続的につながっているという習い方をした記憶はありませんでしたが、著者もその二者のルーツが異なることを主張しています。

先に日本における稲作の起源について整理しましょう。

もともとこの列島の上には稲作は行われていなかった。稲作は大陸から渡来したものであるが、それも華北から朝鮮半島を南下して日本にもたらされたものではなく、中国の沿岸から朝鮮半島の南部を経由して、日本にもたらされたものではないかと見られている。
(中略)
朝鮮北部には今日まで稲作の古い遺跡は発見されていない。

日本文化の形成 (講談社学術文庫)

本筋ではないのでここでは詳細に触れませんが、稲作は朝鮮半島からではなく、中国大陸から沿岸伝いに朝鮮半島を経由し、日本に伝来したようです。
一旦このような形で稲作が伝来すると、農耕によって土地へ定着するようになり、呪術的支配による国家の形成に至りました。
この時代にも青銅器が大陸から輸入されていたようですが、これらは武器でなく銅鐸や鏡など農耕や祭祀の目的で利用されるものが主だったようです。

では稲作をもたらしたのは何者なのか。

著者はこの人たちこそを「倭人」であるとし、そのルーツは揚子江から南の主として海岸地方に居住した「越人」ではないかと指摘します。
「倭」とは『魏志』「倭人伝」の「倭」、「越」とは『呉越同舟』の越ですね。

越とは中国最初の王朝と呼ばれる「夏」の末裔と言われ、体に入墨をし、米と魚を常食とする海洋民と見られますが、『魏志』の「倭人伝」で描かれる「倭人」もまた、同様の特徴を持っていたようです。
また、江南には古くから鵜を用いた漁法があったとみられ、これは日本でも「鵜飼」として現代にまで引き継がれています。
越人はベトナムまで勢力を広げており、「夏」も東南アジアの原住民をルーツにもつと言われています。
東南アジアが日本の米のルーツであるとする説からも、この越人たちの稲作が日本に伝わったと見るのは筋違いとは言えないでしょう。

面白いのが、『魏志』は西暦290年ごろに書かれたと見られていますが、これはちょうど弥生式文化の時代から古墳文化の時代への移り変わりのタイミングであったということです。
その頃の『魏志』に書かれた「倭人」の姿は越人の影響を強く受けているが、逆に華北や朝鮮半島北部の影響が見受けられないということが読み取れるのです。

倭人は中国の南方から海岸沿いに朝鮮半島南部へと至ったとされていますが、彼らはどのようにして日本と朝鮮半島とを行き来していたのでしょうか。
著者は、『後漢書』の「韓伝」に、朝鮮半島の南部に「倭」があったと記されている記述を頼りに、倭人は朝鮮半島南部に自らの植民地を築いたと推測します。
この植民地を拠点に倭人は日本へ渡り、日本の西部にもまた植民地をつくりました。
これが『魏志』「倭人伝」にある「倭国」でありますが、これは「邪馬台国」とは別種のものであることを匂わす記述が『旧唐書』にも見られるとのことです。

大和政権の成立

日本へ朝鮮半島を経由して大陸の文化が流入しはじめるのは、漢という国家が成立し、東北地方を征服し、紀元前一〇八年に満州(中国東北部)東部から朝鮮半島にかけて楽浪・臨屯・玄菟・真番の四郡をおいた頃からであった。そしてその文化は日本に青銅器をもたらしたし、多くの武器をもたらしている。それは二つの意味があったと思う。まず武器を持って日本へわたって来た人びとのあったこと。いまひとつは青銅器を必要とする人たちが国の中にいたことであったと思う。

日本文化の形成 (講談社学術文庫)

日本への稲作伝来から500年ほど経って前漢が成立し、ようやく弥生式とルーツの異なる文化の流入が始まります。
武器の流入は軍隊を伴わないものではなかったはず、と著者は指摘します。実際、文献には大陸から進行されたことを記す記述は見当たらないそうです。
この時代で日本と大陸とを積極的に行き来していたのは先述の倭人であって、日本へ渡るには彼らを頼るのが筋であるが、倭人が大陸側から侵略されたような記述も確認できません。
恐らく引き続き倭人が海洋交通を掌握しており、彼らの船を以って武器が流入したと著者は考えます。

さらに、倭人が半島に拠点を持ち、海の交通権を掌握していたと考える根拠も示されていました。
一一四五年に編纂された『三国史記』には、新羅が倭によって63回も侵攻されている記述があります。
かなり時間が経って編纂されたものですから史料としての価値は怪しいものの、日本から侵攻されたという記述がまざまざと残されているところに著者は注目しています。
海を越えて幾度となく朝鮮半島へ軍を送ったということは、倭人が海洋交通を掌握し、さらに半島に拠点を持っていたことを示唆します。

朝鮮海峡の航海権を倭人が握っていたとしても、半島にも倭人の植民地があることによって、大陸の文化は半島倭人の手によって日本にもたらされたであろうし、時には強力な集団が侵攻という形をとらないで日本へ渡航したと見ていい。そういう力が凝集してやがて日本の武力的な統一をおこない、統一国家を形成していったのではなかろうか。

日本文化の形成 (講談社学術文庫)

倭人のみならず、秦の始皇帝の後裔といられる新羅系秦(はた)氏もまた日本へも多数移動していたことが確認されます。
なお、本書では、この秦氏は日本全国に分布し、焼畑をもたらしたのではないかとされています。
このように、朝鮮半島からは武器のみならず、徐々にではあるが移民が多数入り込んできたようです。
移民は西暦紀元の頃からはじまって一〇世紀の終わり頃まで続いたとされますが、これは弥生式文化の収束する時期とも重なっていますね。

まとめ

というわけで、稲作の伝来と武力の伝来は時期が異なり、前者が弥生式文化に、後者が大和政権の成立に直接的な影響を及ぼしたと考えられるというのが著者の主張です。
大陸からの移民が大和政権のルーツであるという記述は本書にはありませんが、少なくとも前漢成立によって伝来するようになった大陸の文化が、律令国家である大和政権の基盤となっていると考えてよいでしょう。

このような律令国家が、自身の文化に迎合せぬ日本古来の原住民たちを指して「蝦夷」と名づけたということです。

本書はこれ以降、日本の南北の文化形成に言及しつつ、畑作の起源に迫ります。
余力があれば、日本の北方文化と大陸の関係性についてこのブログでも触れたいと思います。

留意点

僕は著者の日本文化形成論が現代においてどれだけ実証されているのかを把握できておりません。
したがって本書にかかわる本ブログ記事の扱いは、読んでいただいた皆様の判断にお任せすることといたします。

個人的には、たとえ内容が現時点で誤りと実証されているとしても、著者の深い教養と鋭い推察は一読の価値があると思っております。

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日本文化の形成(宮本常一著)(1)-蝦夷について

カテゴリ:読書の記録

東北学 忘れられた東北 」を読み、「蝦夷」に関心を持ち始めて早2年。
宮本常一の遺稿である本書の冒頭でも、「蝦夷」が語られていました。

膨大な知識とフィールドワークによって積み重ねられた知見が織り成す独自の論考。
発想の豊かさ、自由度に驚かされるばかりです。

エミシという言葉

冒頭。

エビスという言葉がある。夷の字を書くことが多いが、蝦夷とも書いた。そして、古くはエミシとよぶことが多かったようで、蘇我蝦夷という人の名はソガノエミシとよんでいる。蘇我蝦夷は蘇我氏の氏長で大和の飛鳥のあたりにいて大きな勢力を持ち、紀元六四五年に中大兄皇子、中臣鎌足らに攻められて、その邸で自殺しているが、それまで大和地方で最も大きい勢力を持っていた。その人がどうして蝦夷と名乗っていたのであろうか。

日本文化の形成

日本史の教科書に蝦夷が初めて登場するのは恐らく坂上田村麻呂の件でしょう。
中央国家から見れば、制圧され、支配されるべき存在であった「蝦夷」という言葉を以って、蘇我入鹿の父であるほどの人物がなぜ蝦夷と名乗ったのか。

蝦夷は毛人とも書き、いずれも高貴な身分の者が名乗る例があります。
著者は、この毛人という字面から、冒頭の素朴な疑問の答えとして「毛が深かったためではないか」と言っています。
しかしながら、「毛が深い」という認識は「毛が薄い」人との接触、そして比較によってはじめて自覚されるものです。

そういうところへ、朝鮮半島を経由して多くの人々が渡来し、国土統一の上に大きな役割を果たした。朝鮮半島を経由して来た人びとはもともと貧毛の人が多かった。貧毛の人たちからすれば多毛な人はたくましく見えるであろう。毛人と書き、エミシと名乗る人たちの心の中にはそうしたたくましさへのあこがれもあったはずである。そしてその人たちは外から渡来してきた人たちではなく、もともとそこに古くから住んでいた人たちであった。

日本文化の形成

古来から日本に住んでいた人たちは毛深く、大陸から来た人たちは貧毛であった。

著者は、毛深い原住民は「狩猟や漁撈」をその主な生活手段としていたと書いています。
その点で、縄文文化時代においては、北海道・東北は西南日本と比較して食料が豊富であり、人口密度も高く、文化的に優れていたと推測しています。

エミシとは誰か、そして、誰でないのか

ところが、大和の地に国家が成立するにつれて、原住民は異端視されることとなりました。
七二〇年に完成した日本書紀には、「東夷の中に、蝦夷是れ尤だ強し。」と始まって、東国から東北にかけ、身体能力が高く、農耕に従わず、狩猟に従事する人びとが存在し、いかに野蛮であるかが描かれています。

といっても、これに留まらず、蝦夷は東北に限らず西南日本にもいたようであることが指摘されています。
その根拠を著者は「古事記」や「日本書紀」に求めます。

登場するのは、あの「恵比寿様」です。

(中略)このコトシロヌシを、後世の人はエビス神としてまつっている。とくにこれをまつっているのは、古くは漁民仲間が多い。そして漁民たちは日本の沿岸に多数住みすいており、漁民もまたエビスであった。

日本文化の形成

コトシロヌシはもともと出雲の地にいたのが高天原から下ってきた二人の神に国をゆずったという「日本書紀」の記述や、狩猟民から神としてまつられていたことから、エビスは狩猟を生業とする日本古来の原住民を指すのではないか。
地理的な問題で日本列島を統一した大和の国家と接触する機会に乏しい東北の原住民たちは、国家からはいつまでたっても「エビス」のままであって、いつしか「エビス」は未開を意味することとなった。

そう著者は指摘しています。

また、「日本書紀」「風土記」では、土蜘蛛や海人(あま)と呼ばれた人々が描かれており、彼らは関東以西にあって漁撈や狩猟を生業とするものたちでした。
彼らもまた縄文文化の伝統を受け継ぐものではないかと指摘しています。

以上のように、蝦夷とはもともと縄文期から日本にいた人たちであって、統一国家が形成されてなおその文化の影響を受けず、縄文期以来の文化を継続させていた人たちのことであるというのが著者の主張するところでありました。
関東以西にいた土蜘蛛や海人たちは徐々に大陸文化を取り込んだ統一国家に支配され、彼らの生活は大きく変わったものと思われます。
一方、北海道・東北にいた蝦夷たちは、西南日本で形成された統一国家との地理的な関係性の結果によって、つまり原住民とは異なる文化を持つ人たちの繁栄によってはじめて異端視されることとなったのです。

 

では、縄文期から住んでいた毛深い人を野蛮であると書きたてた国家のルーツとはなんなのでしょうか。

これについては次の記事でまとめたいと思います。

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