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「田舎に仕事がない」のホントとウソ、マルチワークの現実的可能性

カテゴリ:世の中の事

田舎に仕事はあるし、ない

五城目町に移住してだいたい1年半くらい。新参者のくせに、今や五城目に移住してわくわく働く人を募集するような仕事もしている。移住に関心がある人との接点が増えるにつれ、具体的な質問を受けることが多くなった。

定番の質問は、もちろん、「ぶっちゃけ、田舎って仕事あるんですか?」。

僕の結論としては「あるにはあるし、ないと言えばない」の一言に尽きる。僕自身、フリーランスに文字通り片足を突っ込んでいると、安定的な収入の目途が立っているわけではないので、「仕事はあります!」と偉そうに言うことはできない。一方で、なんとか収入を確保することはできているという言い方もできる。僕のように「教育」や「移住」といったニッチな(お金になりにくい)守備範囲であっても「仕事がないことはない」。

以上はフリーという立場からだが、「求人・雇用」という観点で見ても、同様のことが言える。今、日本のいろんなところで起きているのが、低賃金・単純作業の仕事の担い手不足(例えば工場の組み立てとか)。つまり、仕事はあるのに、人がいない。さらに、田舎で不足しているのが、専門的なスキルを持っている人だ。例えば、僕の身近な例としては、デザイン周りやシステム周りで求人を出しているがいい人が見つからないという声をちらほらと聞く(僕自身も自社の採用がなかなか進まず困っている)。「あるにはある」のだが、ミスマッチが起きているらしい。たぶん、県内で仕事を求めている多くの人が、「そこまでの専門性はないがそこそこ待遇のいいホワイトカラー職」を探しているのではないかと思う(本当かどうかはわからない)。

フルタイム正社員の仕事は市街地を離れれば離れるほど減る印象があるが、まったくないわけではない。この記事を書いている今この瞬間に五城目町内のフルタイム求人をハローワークで調べてみたが、「医療、福祉」「小売」「農林業」「建設業」が主で、人気のありそうな一般事務みたいな仕事はあんまりなさそう。

以上をまとめると、「田舎の仕事のリアルなところ」はこんな感じだろうか。

みんなにとって魅力的な仕事(求人)は少ない(あるいは人を選ぶ)が、選ばなければ一応はある

当たり前といえば当たり前の結論になってしまった。そして僕の場合は、まさに「選びたい」と思ってしまったがために、フリーランス的な働き方に向かざるを得なかったということになる。

求人の有無=仕事の有無か?

一方、「求人がないことは、その土地でその職種のニーズが少ないことと必ずしもイコールではない」ということも、もしかしたら言えるのではないか、と思う。別に会社経営に詳しいわけでもない僕が説明するのも気が引けるが、企業が人を雇うというのは大変にコストがかかる。田舎の中小企業が一人フルタイムで雇うというのは大きな決断だ。そして、業種の違いはあるにせよ、多かれ少なかれ法人を維持・発展させるために必要な業務というのが発生する。それは営業だったり、事務だったり、経理だったり、いろんな職種として切り分けられる。

フリーランスという立場になって気づいたことは、「ピンポイントでこの業務ができる人手が欲しい(がフルタイムで雇う余裕はない)」というニーズがあるからこそ企業は外注するのであり、そこにフリーランスの活躍の場があるという、これまた当たり前のことだった。「販促のチラシをつくってほしい」「POSレジの導入を0からサポートしてほしい」「硬直化した企業風土を立て直したい」みたいなニーズは、必ずしも継続的にあるわけではなく、その都度のものだから、外出しする。このニーズに人を雇うという対応をするのは「販促ツールのデザイン性を高めることが企業戦略である」みたいな判断があるからだと思う多分(もちろん資金的余裕も)。

僕がフリーランスとして仕事を請けているのはまさにこういったニーズがあるからであって、大抵は単発だったりプロジェクトベースだったりする。例えば僕が秋田に来てからの仕事は、WEBサイトのライティング作業、ワークショップの企画運営、講演やイベントでのゲスト出演、県からの委託事業などなど。

先に挙げたニーズの例は単発っぽい感じだが、「経理専門のスタッフを雇うほどではないが、創業者が毎月手を取られている」とか「長期的な視野でマーケティングを担う人材にかかわってほしい」みたいなニーズも僕の周囲で実際ある。こうしたニーズを業務量に換算した場合、中小企業だと週1~2に収まるくらいになってしまう。結果、フルタイムで雇うということにはもちろんならない。パートタイムでやってくれる人が見つかればいいが、なかなか短時間だけ働きたい高度技能人材というのは乏しい(出産と共に仕事を辞めた後子育てがひと段落した女性とかならあり得るかも)。

田舎にある「求人にならないニーズ」を集めると

こうしたニーズに対応するのは、一つはいわゆるITによる仕組化、自動化の導入。これもなかなか田舎で広がらないソリューションの一つ。なぜなら専門家が少ないし、規模が小さすぎると専門家に頼む余力がないから。

もう一つ、考えられる手立てがある。そして、それは、田舎で自分のやりたい仕事や専門性を生かした仕事をするために実験する価値のある可能性と思っている。これが記事タイトルにも持ってきた「マルチワーク」。複数の企業をまたいで業務を請け負う。週1の業務が5件あればフルタイムの仕事、という考え方。あるいは、春~秋は農作業をし、冬は酒蔵で仕込みをする、みたいな季節労働の組み合わせもあり得るだろう。前者はどちらかと言えばフリーランスの業務委託契約や士業の仕事の仕方に近く、後者は「百姓」という言葉の原義に近い(農業法人のように、繁閑の差がある仕事は当たり前にあるわけで)。

今年度、僕も企画運営にかかわっている「五城目ナリワイクリエイティブ」という移住者募集の枠組み。これは、五城目という町で(そして、きっと全国のいろんなところで)当たり前のように行われている、小さなニーズと一人ひとりができることを掛け合わせた「仕事づくり」に触れてみることで、田舎で暮らし働くことの少し違った可能性を感じてもらいたい(なんなら移住してくれてもいいんだよ)、というものだ。

「求人にならないニーズ」をハローワークやリクナビのようにネット上で検索して探し求めるというのは多分難しい。求人になりきらない分、ニーズが顕在化しているわけではなく(諦めて現状を受け入れているケースも)、フルタイムで抱え込んで育てるということもできないため、誰でもウェルカムとはしづらい。一言でいうと、「いい人がいたら……」という感じ。むしろ、巡り合わせや人の縁によって、「じゃあうちの仕事手伝う?」となるパターンの方が(五城目の場合は)多いような気がする。まさに、「掛け合わせ」の妙であり、既存の求人という”枠”を用意することも、それにすっぽりと収まってくれる人を募集するということもなかなか難しいのではというのが肌感覚。

五城目ナリワイクリエイティブ」の枠組みで、10月20日~22日に現地ツアーを実施する。このタイミングでは、具体的な求人を紹介するというよりは、とにかく現地を周りながら人と出会い、ニーズを探り、自分のやりたいことやできることを発信し、「掛け合わせ」の妙にたどりつけるかどうかにトライしてみたい、と思っている。単に、そっちの方が、何か面白い仕事ができそうだから、という理由。

幸い、兼業や副業が注目を集めているところなので、時流に乗りつつ、時流の先取りをするような感じで、この五城目で自分自身がまずは実験台になるところから始めてみたいと思っている。

しかしこの本が日本で出版されたのが2002年とか、恐ろしいな……。

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「G型大学」「L型大学」の個人的な解釈

カテゴリ:世の中の事

最近Twitterを賑わせているこの件。

「L型大学って何!?」文部科学省が大学を職業訓練校化しようとしていたことが発覚し、ネット大炎上 – NAVER まとめ

ネットでは「こんなことが国で議論されているなんて」という驚きと共に
批判的な声が挙がっているが、僕としてはこの提案に違和感はない。
(冨山氏の著書を読んでいたということも大きいと思うが)

僕の解釈を以下に述べる。

「G型大学」と「L型大学」の射程

「G型大学」が想定しているのは、グローバル企業の経営幹部や
技術的なイノベーションをもたらす人材の輩出である。
その担い手になれる若者は同年代の何割か?という話。

すべての大学生がグローバル企業に就職できるわけではない。
しかしながら現在の大学教育は、医歯薬理工等の専門教育を除き
多くが教養や汎用的な能力の要請に終始しており、
それは大企業への就職をモデルコースとしているからだ。

今後グローバル企業はますます知識集約的になり、
求められる人材もよりハイスペックになっていく。
それなのに大学生のほとんどをそこに送り込むスタンスで良いのか?
大学のミッションとして、ローカルな産業の担い手育成を
明確に掲げる方が、労働市場のニーズに応えられるのではないか?

というところから始まったのが「G/L」の区別だと思っている。

「L型大学」のあるべき姿

「G型大学」はハイスペック人材の輩出に特化するものだ。
では「L型大学」は具体的に何を目指せばよいか?

日本のローカル経済は労働集約的な産業が大きな割合を占める。
例えば、教育、医療・福祉、インフラ、小売業などがこれに当たる。

そうした産業は専門的な能力(産業特殊的技能)が求められる。
また、多くは中小企業であり、大企業ほどの社内教育体制を持たない。
したがって汎用的な能力(一般的技能)を身に付ける機会の創出は
そこで働く(働こうとする)個人にある程度委ねざるを得ない。

したがって「L型大学」では大きくはローカル経済の担い手、
具体的には汎用的な能力に加えて専門的なスキルを身に付けており、
かつ自ら能力開発に取り組める人材の輩出が必要となるだろう。

全国規模の経営戦略の構築は「G型人材」の仕事だが、
大きな方針の下で各店舗の運営を担うのは「L型人材」の仕事。
そこには経営学の理論よりも、より実践的な知識が求められる。

また、ローカル経済の射程には個人事業主も含まれる。
個人でカフェを経営するときに必要なのも「L型」人材要件だ。
MBAを取得する必要はないが、実店舗を経営するための諸知識や
接遇など基本的なコミュニケーションのスキルは必要だろう。

こうした人材を育ててほしいというローカル経済側のニーズは
今後ますます膨らむと思われる。

「G型大学」「L型大学」への批判への反論

以上のようなスタンスから、冨山氏への批判の声に対して、
ツッコミを入れておきたいところがいくつかある。

批判1.「実践的な能力」なんてすぐ陳腐化する、意味ない

この批判自体はある意味で的を得ている。
問題は「実践的な能力」の捉え方だと思う。

ある会社や産業に固有の技能というのは時代と共に陳腐化する。
しかし、就職という入り口の時点では(いずれ陳腐化するにせよ)
その数年の間即戦力として求められるスキルであり、
「実践的な能力」はそういう意味で求職者を助けるものだ。

もう一つ、「実践的な能力」の中には恐らく汎用的なものも含まれる。
汎用的な能力(ジェネリック・スキル)とは、
批判的思考、問題解決、コミュニケーションといったものを指す。
こうした力を身に付けるということも「L型大学」の射程に入るだろう。

批判2.大学を職業訓練校化させるべきじゃない

この批判の裏には「職業訓練校」蔑視がふんだんに盛り込まれている。
これだけ職業教育が軽んじられているのは先進諸国の中では珍しい部類だ。

大学が職業訓練校化すると何がまずいのか

教育と雇用の接続は先進諸国共通の課題だ。
そして社会保障分野での研究でも指摘されている通り、
雇用とのつながりは社会全体とのつながりを生み出す大きな役割を果たす。

このblogosの記事は空論のオンパレードで途中で読むのをやめた。
教育はその個人の人生を豊かにするためだけにあるわけではないし、
職業訓練校はその個人の人生を無視するものだ、という見方もひどい。

まとめ:著書を読んでから批判するべし

これだけ批判が上がるのも一部分のみを取り出されてしまったからで、
手っ取り早いのは冨山氏の著書を手に取ってみることだろう。

なぜローカル経済から日本は甦るのか (PHP新書)

また、教育と雇用の接続の課題を知ることも必要と思われる。

この本は専門書だが浅く広く読みやすい仕様になっている。
「G/L」の議論においては、実際に高校生や大学生が
就職する際にどのような困難に直面するのかをまず知るべきだ。
また、「新しい能力観」についても避けて通れないと思う。

多くの人にとっては「寝耳に水」であり、内容も過激だったことが
受け入れがたさにつながっているのだと思う。
一方ですんなりと意図を汲む人もいることは頭に留めた方がいい。
決して突拍子のない提案ではないことはここで強調しておきたい。

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城繁幸氏の本当の敵と日本型コミュニティ

カテゴリ:世の中の事

先日、山口県の山間で悲惨な事件が起こりました。
それについて、人事コンサルタントの城繁幸氏が記事をアップしています。

無縁社会のリスクが孤独死だとすれば、“有縁社会”のリスクはこうした人間関係のトラブルと言えるだろう。

周南市連続殺人事件の背景について出身者はこう見る: J-CAST会社ウォッチ

城氏と言えば「若者はなぜ3年で辞めるのか? 年功序列が奪う日本の未来」で有名です。
人事コンサルタントがなぜ周南市殺人事件を取り上げているのか?と思う方もいるかもしれません。
実は、城氏は以前にも「有縁社会」のリスクについて述べています。

昨年に引き続き、NHK特集の『無縁社会』が話題となっている。
“無縁”の先にあるものが何なのか知っておくべきだと思うので、個人的には見て
おいて損は無い番組だと思うのだが、メディアの一部に「皆で有縁を取り戻そう」
的な回帰色が出ているのが気になる。
基本的に無縁とは我々が選んだものであり、時計の針を戻すことは不可能だ。

有縁社会も楽じゃない 書評『津山三十人殺し 最後の真相』 – Joe’s Labo

僕が「津山三十人殺し 最後の真相」を手に取ったのはこの記事がきっかけでした。
「コミュニティ」に注がれる眼差しが羨望で埋め尽くされていることへの違和感を覚えていたので。

本当の疎外というのは、もともと縁なんて無い無縁社会ではなく、縁で形成された
有縁社会にこそ存在するのだ。

確かに縁は無いかもしれないが、その気になったら好き勝手に縁を作れる現代社会の
方が、出口の無いムラ社会よりかはなんぼかマシであるというのが、同じ中国山地の
山間で育った僕の感想だ。

有縁社会も楽じゃない 書評『津山三十人殺し 最後の真相』 – Joe’s Labo

ここからは個人的に思うところ。

城氏の「敵」は、機能不全に陥りつつある日本の雇用慣行である、というのが一般的な見方。

しかし、実際のところ、城氏はもっと根深いところにまでその視線を注いでいるのではないか、と感じます。
日本の雇用慣行の源泉でもある、日本独自のコミュニティのあり方。
それは田舎を生きやすくも生き辛い場所にしているもの、あるいは「空気」と呼ばれるもの。

ときに息苦しさを伴う日本の濃密な人間関係をこそ破壊したい。
城氏にはそのような野望があるように思えてなりません。

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