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演劇とコミュニケーション教育の接点を平田オリザ的に理解するためのメモ

カテゴリ:自分事

ひょんなことから、平田オリザの著作を通じて演劇について、さらに演劇ワークショップについて学んでいる。

計4冊ほどの新書を読んだことになるが、なぜ、劇作家である平田オリザが教育という分野でも注目されているのかが、おぼろげながらわかってきた。

ざっくりまとめると

・平田オリザは、コンテクストは一人ひとり異なる、という立場を取る
・お互いの価値観が違う(コンテクストが異なる)から、表現への欲求が生まれる
・演劇はコンテクストの異なる役者や演出家がコンテクストを摺り合わせながらつくるもの
・現代社会においても、コンテクストの摺り合わせがコミュニケーションの基本原則となるはず
・現状、日本ではコンテクストは一人ひとり異なるという前提が共有されていない
・しかし、日本の国内でもみんなが同じコンテクストを共有しているわけではない
・したがって、これからは「お互いに分かり合えない」という前提のもと、コンテクストを摺り合わせるようなコミュニケーションをする力を身に付ける必要がある
・日本の教育ではそういった力を身に付けるような機会に乏しい
・演劇によるコミュニケーション教育は、その意味でこれらの課題に多少なりとも有効であろう

腹落ちさせるためには、演劇ワークショップを実際に体験する必要がありそうだ。

コンテクストという言葉の定義が厄介だが、一旦Wikipediaから例を引っ張ってみたい。

言語学におけるコンテクストとは、メッセージ(例えば1つの文)の意味、メッセージとメッセージの関係、言語が発せられた場所や時代の社会環境、言語伝達に関連するあらゆる知覚を意味し、コミュニケーションの場で使用される言葉や表現を定義付ける背景や状況そのものを指す。例えば日本語で会話をする2者が「ママ」について話をしている時に、その2者の立場、関係性、前後の会話によって「ママ」の意味は異なる。2人が兄弟なのであれば自分達の母親についての話であろうし、クラブホステス同士の会話であれば店の女主人のことを指すであろう。このように相対的に定義が異なる言葉の場合は、コミュニケーションをとる2者の間でその関係性、背景や状況に対する認識が共有・同意されていなければ会話が成立しない。このような、コミュニケーションを成立させる共有情報をコンテクストという。

コンテクスト – Wikipedia

平田オリザがどの著作でも例として取り上げられるものがある。見ず知らずの人に「旅行ですか?」と問いかける演劇のある一部分を演じさせると、うまく出来る人とそうでない人が出てくる、という話だ。大抵、中学生や高校生は、台詞に不自然さが出る。なぜかと言えば、演劇のシーンで想定されるコンテクストを、演じる側が持っていない場合が多いからだ。つまり、イマドキの日本の中高生は、知らない人に「旅行ですか?」と話しかけたことなんてない、ということだ。実際にしたことがなくても演じなければならないのが演劇における役者の仕事なのだが、とはいえ、コンテクストが共有できていない、という事実にまず気づかないと、摺り合わせなどできない。

もしかしたら、摺り合わせの段階で、「日本の一般的な高校生」の役が「旅行ですか?」と見知らぬ人に声をかけるという設定自体がおかしいのかもしれず、どうしても話の筋書きの都合で話しかけねばならぬのなら、より自然な流れを意識する必要があるかもしれない。

コミュニケーションとは、そういう落としどころを見つけるための摺り合わせのプロセスなのだ。この観点からすれば、今日の「アクティブ・ラーニング」なるトピックに対し、演劇ワークショップが持つ力はそう小さくないように思う。

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アクティブラーニングなるものの取り扱いについて

カテゴリ:世の中の事

アクティブラーニングをどのようなものと捉えればいいのだろうか。(一斉講義と対立する意味での)授業手法のことなのか、思想の問題なのか。情報を得れば得るほど、全体像が掴みづらいものになっている。あたかも「地域活性化」のようなバズワードの宿命を辿っているようにもみえる。

一つ言えるのは、アクティブラーニングは手段であり目的ではない、ということなのだろう。アクティブラーニングは、それ自体が万能なものではない。結局は、限られた時間の中で学習者の学習を最大化するという目的を実現するための試みであって、それはもちろん長年の一斉指導の歴史の中でも同様に中心に据えられた目的だったはずだ。だから、アクティブラーニングを一斉指導と対立させる分かりやすさは、一方でアクティブラーニングというものへの誤解を生む温床にもなっている。

しかし、一斉指導が当たり前であり続ける以上は、教員の授業力の担保に限界がある、というのも良く分かる。アクティブラーニングというタグ付けをすることで、試験だけでなく普段の授業から「学生が知識や技能を習得し、能力を身に付けているかどうか」に注意を払うことが促されるかもしれない。それだけでも、学校教育は進化を遂げるはずだ。

もちろん、そんなことを言われる前からきちんと学習者を中心に据えて授業を実践してきた先生方からすれば、ここに何か真新しい議論があるようにも見えないのだろう。アクティブラーニングというものに対しては、だからこれくらいの期待値でよいのかもしれない。何も特別な話ではないのだ。

こんな動画もある。もし興味があれば、全体像を知るのにちょうどよいかもしれない。

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ディープ・アクティブラーニングのメモ:第5章・理解か、暗記か?

カテゴリ:読書の記録

本書は第5章から「第Ⅱ部・様々なフィールドでの試み」に入る。ディープなアクティブラーニングを追究する実践事例や様々な工夫が紹介されている。この章では初等物理学の授業で著者が実際に採用している「ピア・インストラクション」という手法がテーマだ。

ピア・インストラクションとは

ピア・インストラクションは以下のような流れで構成される授業手法である。

1.重要な単一のテーマ・トピック(キーコンセプト)に関する講義
2.概念的課題(コンセプテスト)の提示
3.課題について個人思考
4.課題について近くの学生とディスカッション
5.課題の回答の解説

この1~5は1サイクルが約15分というごく短時間に収まる。それくらいにトピックを絞り、このサイクルを講義時間中に何度か回す。2~4のコンセプテストの結果、学生の理解度が高まっていないと感じたときは5の部分にもう少し時間をかける。学生の理解に沿った柔軟な授業運営が前提になっており、著者はそのために扱うトピックも厳選し、振り返り用の時間をシラバスに組み込んでいるそうだ。

著者の問題意識は、初等物理学の授業が、概念の理解よりも公式の暗記やそれに基づく数理計算に偏っていることにあった。それは、教材の提示のされ方が一方向的で、学生の批判的な思考を養う前提でつくられていないことも大きく関与している。これは(ディープ・)アクティブラーニング導入のモチベーションとほぼ一致するし、何よりこれまで学校教育を受けてきた人の多くが実感するところだと思う。「教授パラダイム」の限界はすでに来ているのかもしれない。

ピア・インストラクションのポイント

この手法のポイントは、第一に良質なコンセプテストを十分に準備すること。数理計算のみでは解決されないような概念的な問題が望ましい。コンセプテストは多肢選択問題として出題される。例えば、以下のようなものだ。

水が縁いっぱいまで入っているバスタブがあるとしよう。その横にそれとまったく同じバスタブがあり、やはり水が縁いっぱいまで入っているが、そちらには戦艦模型が浮かんでいる。どちらのバスタブの方が重いだろうか。
1.最初のバスタブ
2.戦艦模型が浮かんでいるバスタブ
3.どちらも同じ

ディープ・アクティブラーニング

僕も高校のときは物理選択だったし、大学でも力学の授業を少しだけ受けたことがあるが、こういったシンプルな問題が物理の試験で問われた記憶はほとんどない。多肢選択式であっても、だいたいは公式の暗記ができているかの確認だった。この出題方式であれば自分の考えを持った上でそれを他者に説明するということがやりやすいと思う。

もう1つは「リーディング・アサインメント」、つまり事前にテキストやノートを読むよう学生に求めること。いわゆる「予習」だ。これは高校時代に僕もやっていたし、できるならばこの方が学習の効率は上がるはずだ。そういう意味で、「反転学習」まではいかないが、教員と他の生徒がいる「授業」という場の価値を重視したスタンスというふうに捉えることもできるのではないか。

感想

本書を読み進めるたびに、学校教育の「当たり前」として存在していた様々な課題に素朴な疑問を持ち、正面から真摯に取り組む実践者が増えてきているのだなと感じる。学生の成長を目的とすれば、ごくごく自然な方向性なのかもしれない。

また、このピア・インストラクションは第4章の「協同学習」を地でいっていることも分かる。本書の冒頭にあるように、「理論と実践を結び付け」ていく構成が、理解をより深める手がかりとなる。非常に読みごたえがある。引き続き、読み進めていきたい。

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