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ジョン・デューイの世界観:「学校と社会」第一章から

カテゴリ:読書の記録

最近、日本の教育現場では「課題解決型授業」が流行っている。生徒が地域や、企業、NPO等の抱える課題にたいてい複数人で取り掛かり、解決策を提案あるいは実行する。それはつまり、このプロセスを通じて得られる学びの評価が高まっており、かつ地域や社会の一員として「自分事」化できるという考え方が広まっているということだ。

教科書から学ぶのではなく、「経験から学ぶ」。つまり「経験主義」ということなんだろう、と思って読み始めたのが「学校と社会」だ。前職時代にある人が読み終わったものをとりあえずもらっておいたが、それから4年経ってようやく時期が来たということだろうか。

ジョン・デューイが描く当時の世界

そこで、われわれは社会の進展の主要な様相を検討し、そのうえで学校に眼を転じて、学校がそれに歩調を合わせるための努力においてはたして現になにをなしているかをみることにしよう。

学校と社会 (岩波文庫)

学校と社会の前半第一章~第三章は1899年に行われたデューイの講演をまとめたものである。デューイは、教育のあるべき姿を語るために、当時の社会に起こっている変化に言及する。

まず、第一に思い浮かべられる変化、すべての他の変化をおおいかくし、支配さえする変化は、産業上の変化である―すなわち、科学が応用されて偉大な諸〃の発明が生まれ、その結果、自然の力が大規模に廉価に利用されるようになっていること、また、生産の目的として世界的な市場が発達し、この市場に物貨を供給するための諸〃の大製造中心地が発達し、この市場のあらゆる部分の間に交通および分配の安価で迅速な手段が発達していることである。

学校と社会 (岩波文庫)

上の一文は、100年以上経ったこの21世紀に書かれたものとして読んでも、そんなに違和感がないように思える。

今日ここでこうして顔をあわせているおたがいから一代・二代ないし三代さかのぼれば、家庭が、実際に、産業上のすべての典型的な仕事がそのなかでおこなわれ、またそのまわりに群がっている中心であったような時代がみいだされる。

学校と社会 (岩波文庫)

世代間で社会の有り様、生活の様式が大きく異なるというのも、似通ったものを感じる。「時代の変化が早い」ということは、グローバリゼーションの渦中にいる誰もが共通の認識としてあるということなのだろうか。

とにかく、デューイはこうして産業の急速な変化の中で家庭から子どもの役割としての「有用な仕事」がなくなったことを憂い、一方で「寛容の増大、社会的判断の幅の拡大、人間性にかんする知識の増加」などといった、産業上の変化がもたらした「長所」は歓迎する姿勢を見せる。そうして主だった問いが投げられる。

曰く、これらの長所を保持しながら、同時にまた、生活の他の側面を代表するところの或るものを―すなわち、ひとりひとりの身をもっての責任を要求し、かつ生活の物質的現実との関連において子どもを訓練するところの仕事を、学校の中にとりいれるには、われわれはどうしたらいいであろうか?

学校と社会 (岩波文庫)

こう言うデューイのモチベーションはどこから湧いているのだろうか。

デューイの世界観

われわれの大多数の者が住んでいるこの世界は、各人がそのなかで或る職業と仕事をもち、為すべき或ることをもっている世界である。

学校と社会 (岩波文庫)

何気なく読み飛ばしそうになる一文だが、ふと目に留まった。ここにはデューイが見る世界の一側面が記述されているように思う。僕がこのように共通の認識として断定できるかというと、あまり自信がない。

デューイは続けて、多くの人は労働者として機械の付属物のような扱いに貶められており、それは「社会的ならびに科学的価値にかんして自らの想像力と自らの共感的洞察力を発達させるべき機会をもつことがなかったという事実にもとづく」という。これは”労働者の地位は教育により解決される”というデューイの信念であると僕は受け取っている。正直なところ、デューイの教育に対してここまで重みづけをしていることに驚いた。

もう一文、第一章末から引用したい。

学校が社会の子どものひとりひとりを、このような小社会の一員たりうるところにまでみちびき、訓練し、奉仕の精神をしみこませ、有効な自己指導の諸手段を供するときに、われわれは、価値高い、美しい、そして調和のとれた大社会にたいする最高・最善の保障を得るであろう。

学校と社会 (岩波文庫)

教育/学習のパラダイムの転換という切り口で見ると、「みちびき」、「訓練し」、「しみこませ」、「供する」という表現は後者のニュアンスが幾分か含まれているように思う。あくまで個人の印象でありかつ翻訳上の問題もあると思うけれども、「子ども観」の揺らぎはすでにあったのか、デューイやそれ以前の「新教育」の流れから検討され始めたのかも気になった。

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「G型大学」「L型大学」の個人的な解釈

カテゴリ:世の中の事

最近Twitterを賑わせているこの件。

「L型大学って何!?」文部科学省が大学を職業訓練校化しようとしていたことが発覚し、ネット大炎上 – NAVER まとめ

ネットでは「こんなことが国で議論されているなんて」という驚きと共に
批判的な声が挙がっているが、僕としてはこの提案に違和感はない。
(冨山氏の著書を読んでいたということも大きいと思うが)

僕の解釈を以下に述べる。

「G型大学」と「L型大学」の射程

「G型大学」が想定しているのは、グローバル企業の経営幹部や
技術的なイノベーションをもたらす人材の輩出である。
その担い手になれる若者は同年代の何割か?という話。

すべての大学生がグローバル企業に就職できるわけではない。
しかしながら現在の大学教育は、医歯薬理工等の専門教育を除き
多くが教養や汎用的な能力の要請に終始しており、
それは大企業への就職をモデルコースとしているからだ。

今後グローバル企業はますます知識集約的になり、
求められる人材もよりハイスペックになっていく。
それなのに大学生のほとんどをそこに送り込むスタンスで良いのか?
大学のミッションとして、ローカルな産業の担い手育成を
明確に掲げる方が、労働市場のニーズに応えられるのではないか?

というところから始まったのが「G/L」の区別だと思っている。

「L型大学」のあるべき姿

「G型大学」はハイスペック人材の輩出に特化するものだ。
では「L型大学」は具体的に何を目指せばよいか?

日本のローカル経済は労働集約的な産業が大きな割合を占める。
例えば、教育、医療・福祉、インフラ、小売業などがこれに当たる。

そうした産業は専門的な能力(産業特殊的技能)が求められる。
また、多くは中小企業であり、大企業ほどの社内教育体制を持たない。
したがって汎用的な能力(一般的技能)を身に付ける機会の創出は
そこで働く(働こうとする)個人にある程度委ねざるを得ない。

したがって「L型大学」では大きくはローカル経済の担い手、
具体的には汎用的な能力に加えて専門的なスキルを身に付けており、
かつ自ら能力開発に取り組める人材の輩出が必要となるだろう。

全国規模の経営戦略の構築は「G型人材」の仕事だが、
大きな方針の下で各店舗の運営を担うのは「L型人材」の仕事。
そこには経営学の理論よりも、より実践的な知識が求められる。

また、ローカル経済の射程には個人事業主も含まれる。
個人でカフェを経営するときに必要なのも「L型」人材要件だ。
MBAを取得する必要はないが、実店舗を経営するための諸知識や
接遇など基本的なコミュニケーションのスキルは必要だろう。

こうした人材を育ててほしいというローカル経済側のニーズは
今後ますます膨らむと思われる。

「G型大学」「L型大学」への批判への反論

以上のようなスタンスから、冨山氏への批判の声に対して、
ツッコミを入れておきたいところがいくつかある。

批判1.「実践的な能力」なんてすぐ陳腐化する、意味ない

この批判自体はある意味で的を得ている。
問題は「実践的な能力」の捉え方だと思う。

ある会社や産業に固有の技能というのは時代と共に陳腐化する。
しかし、就職という入り口の時点では(いずれ陳腐化するにせよ)
その数年の間即戦力として求められるスキルであり、
「実践的な能力」はそういう意味で求職者を助けるものだ。

もう一つ、「実践的な能力」の中には恐らく汎用的なものも含まれる。
汎用的な能力(ジェネリック・スキル)とは、
批判的思考、問題解決、コミュニケーションといったものを指す。
こうした力を身に付けるということも「L型大学」の射程に入るだろう。

批判2.大学を職業訓練校化させるべきじゃない

この批判の裏には「職業訓練校」蔑視がふんだんに盛り込まれている。
これだけ職業教育が軽んじられているのは先進諸国の中では珍しい部類だ。

大学が職業訓練校化すると何がまずいのか

教育と雇用の接続は先進諸国共通の課題だ。
そして社会保障分野での研究でも指摘されている通り、
雇用とのつながりは社会全体とのつながりを生み出す大きな役割を果たす。

このblogosの記事は空論のオンパレードで途中で読むのをやめた。
教育はその個人の人生を豊かにするためだけにあるわけではないし、
職業訓練校はその個人の人生を無視するものだ、という見方もひどい。

まとめ:著書を読んでから批判するべし

これだけ批判が上がるのも一部分のみを取り出されてしまったからで、
手っ取り早いのは冨山氏の著書を手に取ってみることだろう。

なぜローカル経済から日本は甦るのか (PHP新書)

また、教育と雇用の接続の課題を知ることも必要と思われる。

この本は専門書だが浅く広く読みやすい仕様になっている。
「G/L」の議論においては、実際に高校生や大学生が
就職する際にどのような困難に直面するのかをまず知るべきだ。
また、「新しい能力観」についても避けて通れないと思う。

多くの人にとっては「寝耳に水」であり、内容も過激だったことが
受け入れがたさにつながっているのだと思う。
一方ですんなりと意図を汲む人もいることは頭に留めた方がいい。
決して突拍子のない提案ではないことはここで強調しておきたい。

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”仕事観”について最近考えていること

カテゴリ:自分事

最近、「仕事観」のずれがもたらす影響について考える機会が増えています。

「寝食を忘れて没頭できる仕事がしたい」「仕事を通じてとにかく成長したい」
「仕事は稼ぎのため、プライベートを第一にしたい」「なるべく楽をしたい」

「仕事観」は人それぞれですし、一体感の高い職場であってもずれがあって当たり前。
それでも自分自身では核となる価値観を手放さないようにしたい。
なるべく、この核となる価値観だけは共有できる人たちと働きたい。

そんなことを思いつつ、最近大きく2つのことについてぼんやり考えています。

1.「仕事」=「価値をつけること」が唯一解なのか?
2.一つの組織の中で多様な「仕事観」を受容することは可能なのか?

「仕事」=「価値をつけること」で取りこぼすものはないのか

糸井 だって、たいがいの仕事というのは「価値をつけること」ですからね。
河野 そのとおりですよね。
糸井 「市場をつくる」のが、仕事ですから。それ以上、何があります?

新装版 ほぼ日の就職論「はたらきたい。」 (ほぼ日ブックス)

仕事を通じて価値を生み出し、その対価としてサラリーを得る。

たぶん多くの人が共感してくれるし、大事にしていることだと思います。
ところが、もし”「仕事」=「価値をつけること」”と考えていない人と仕事をしなければならないとしたら。

大小を問わず「価値をつけること」があらゆる働く人に課されているとして、
「価値をつけること」のどこまでが本人次第なのか、ということは考えてみていいと思います。

マニュアル通り動くだけで価値をつけることができる仕事。
ほとんどの工程を自分で考え、それでも価値がつかないかもしれない仕事。

後者の方が尊ばれるのは稀少な能力だから、というのはよくわかります。

ところがその逆、つまり「自分で考えないこと」、「主体性の欠如」について、
なぜこれだけ「悪」として見なされてしまっているのでしょうか?
(そう思っているのは僕だけ、でしょうか)

実際、僕も自分に「主体的である」ように意識しようとしていますし、
他人の受動的な態度にイラッとさせられることがないとは言えません。

でもそれって、単に相手が僕と違う価値観だから、と言うだけではないか。
相手が間違っている、僕が正しい、と胸を張って言えるのか。
最近そのあたりが引っ掛かっています。

「価値をつける」
その測り方が限定的だから、人の評価も一面的になるのかも。

”多様”の前提にあるもの

(見た目上)「主体性」のない人と働けるかどうか、という疑問の先には
多様な価値観を受容する職場はいかにして可能か」という問いが待っています。

 多くの、特にグローバルな領域で活動する企業・組織が重視し始めている「多様性」。
しかし、僕が就職活動を経ていわゆる「多様性」のカタチとして思い描いたのは
「ある一定の価値観・能力・資質を持っている前提での多様性」でした。

広義には「多様性」とは性別や国籍、宗教だけでなく、
能力、資質、志向、価値観、生まれ育った環境など様々な要素が含まれます。
人材要件が足きりラインとなり、「多様性」の中に入り込めない人がいる。

当然、能力の劣る人が所属することは組織にとって大きなデメリットです。
その中で達成される「多様性」とは何なのか。
それとも、あらゆる人を包摂できる組織こそが「多様」といえるのか。

あるいは「多様性」の名の下に「あのひとは違う」と判断するのが早すぎるのかも。
本当に違うのか、その違いは本当に決定的なもので、折り合わないものなのか。
「違い」を「価値」に転化できない組織の問題ではないのか。

そのような問いを立て、性急になりすぎる自分にブレーキをかけたい。

僕自身の課題:「ジャッジ」

こうしたことを考える自分自身の課題は何か。

学習する組織 現場に変化のタネをまく 」を読んだときに思ったのは、
他人をジャッジしてしまうのが当たり前になっている、ということです。

「いい/悪い」を第一印象ですぐに決めつけてしまう。
その印象を引きずると、その印象を証明するように相手の行動をジャッジしてしまう。
第一印象が悪い人に対しては、その人の悪い行動ばかりが目に入るようになり、
ついつい「ほら、やっぱりだ」と自分の第一印象を証明しようとする心の動きがある。

ジャッジしてしまうと自覚するだけでもある程度コントロール可能になりますが、
そもそも第一印象の時点でジャッジしてしまう癖はなかなか抜けません。

僕自身が「仕事観」について固定的に見ている部分があるというか、
一定の足きりラインを設定しているからなのだと思っています。
しかしそれは「そうできない自分が嫌だから」という理由で
自分を律するために課してきた側面もあるので、簡単に解決できる問題でもない。

そんなことも考えつつ、自分の仕事観をほぐしていくためにも、
寛容であること、多様性を受容するということについて探究していきたいものです。

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