Tag Archive: 人口減少

「人口減少」は現象か、問題か

カテゴリ:世の中の事

日本が抱える「人口減少」を取り巻くあれこれでもやもやすることが多い。その理由を考えてみた。

「人口減少」は、グローバリゼーションとグローバリズムを区別するように、その周縁にある言説もまた区別しなければならないのではないか。前者は現象、後者は”ism”(主義、学説)である。「人口減少」の言説の多くは、それを単なる現象と捉えることに満足せず、解決されなければならない問題であることを前提として語ろうとする。こうした言説は、地方に呪いのように浸透している。

“ism”としての「人口減少」は、現象を解決すべき問題に据え置き、かつイシューを抽象化・単純化する。と同時にその問題の最中にいる人(それはあらゆる人になってしまうのだが)の言動に、一定の方向付けを迫る。そういう作用がある。年末年始で話題になった某地方紙の記事(特集)は、まさにその端的な例と言ってよい。「人口減少」があらゆる人の生活に大小さまざまな影響を与えるということと、それ自体が”問題”であり解決されなければならないものであるということは、区別されねばならない。これは、”「人口減少」が一切のネガティブな影響を及ぼさない”という主張ではない。グローバリゼーションという現象が論理的帰結としても事実としても都市化/過疎化や物理的距離の圧縮をもたらすように、「人口減少」も、人手不足や後継者不足、社会保障の負担増といった状況をもたらすことは否定し得ない。ここで主張されるのは、「人口減少」下でそうした状況が生み出されるとしても、「人口減少」そのものが問題であるという言説は言説でしかない、という見方である。

ソトコト2017年12月号では、台湾で古い建物や昔からの街並みを生かしたまちづくりのプレイヤーとその様々な取り組みが紹介されている。彼らの志や「文化をつくる」「自分たちが楽しめることをやる」というスタンスは素直に共感できるものであるが、その内容としても、仮にこれらが日本国内の事例として紹介されたならば、ほぼ違和感なく受け止めることができるだろう。ただ一点、「人口減少」の文脈がそこに組み込まれていない、ということを除いて。

視点を変えてみると、(ソトコトの紙面上においては)台湾でのこうしたムーブメントは、「人口減少」の文脈にとらわれていない、と読むこともできる。記事中で紹介される台湾国内の様々な施策や組織は、結果として、「人口減少」が表面化する社会(たとえば日本)においてもぜひとも実現されるべき事例となっている。それならば、「人口減少」がもたらす様々な状況に対する施策は、「人口減少」を問題視する文脈を必ずしも必要としないとも考えられないだろうか。

「人口減少」は、「地方創生」という号令の下で急速に”問題”として浸透した。都市部への集中が進み、「人口減少」にあえぐ地方に手を差し伸べ、国を挙げて「人口減少」に立ち向かうのが「地方創生」というシナリオであった。しかし、台湾の事例は、「人口減少」という文脈を待たずして、「地方創生」で奨励されるような事例が生まれつつある。

ここで個人としての結論を述べるならば、「人口減少」は単なる現象である。もちろん、この現代日本において、特に地方でそうした背景がありありと横たわっていることは了解せざるを得ない。そうだとしても、いや、だからこそ、「人口減少」”ism”に囚われず、(台湾の事例がそうであったように)目の前にある個別具体の問題を解決しようとする個人や組織の小さな取り組みに希望を見出すべきではないか、と思う。

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「やりたいこと原理主義」と地域の限界

カテゴリ:自分事

「やりたいことをやればいいじゃん」

秋田に帰ってからよく耳にするし、自分自身口にすることの増えた言葉の一つだ。親や友人、先生、地域から受ける期待というものは確かにあるし、周りを見渡した時に自分だけ違う道を進むというのはいかにも怖い。しかも、その道が安全だとは限らない。それでも、「やりたいことをやればいいじゃん」というのが僕としてはなんとなく善なることのように思えてしまっている。

もちろん、そう考えない人もいる。それはそれでロジックとしても十分に理解できるし、安易に否定するべきものでもない。幸せのカタチは一人ひとり異なる。このブログのタイトルは「秋田で幸せな暮らしを考える」としているが、理想的な単一のモデルがあるのではなく、それぞれが自分なりの幸せを追い求めることがあるべき姿なのだろう。秋田に戻ってきてから、あるいは海士町での経験を経て、ぼんやりとそうしたイメージが見えてきた。

それでも。

僕自身はやっぱり「やりたいことをやる」というのが一番いいことだ、とどうやら思っているらしい。あるいは「ありたいようにある」というのがより適切な表現かもしれない。いずれにせよ、僕自身のポジショニングが変わるタイミングがすぐに訪れるような気配はない。そう考えない人もいるということは念頭に置きながら、結果的にポジショントークをしてしまうケースはこれからも出てくるだろう。

「やりたいこと原理主義」。人口減少が急速に進む秋田において、教育が目指すべき方向は、こっちにある、と思っている。まず第一に、そっちの方が楽しいだろう、ということ。もう一つは、これから地方が直面する「生産性」という課題に対するソリューションとして。そう考えるのは、”一人ひとりがありたいようにあり、やりたいことに打ち込んでいる瞬間こそが、最もその個人のエネルギー量を最大化できる”という個人的な考えが前提としてあるから。といっても、そんなに複雑な話ではない。ドライな考え方だけれど、労働人口が減少するのはわかっていながらそれなりの生産性を保ち、経済を回すために、先進国の中で労働生産性の低い日本においては、一人ひとりの生産性を高めるというのが有効な手段だと思うからだ。

現行の日本の教育制度では、残念ながら最大公約数しか掬えない、という印象がある。秋田は確かに学力日本一という結果を残しており、特にいわゆる「落ちこぼれ」をきちんと拾っている、という点はきちんと評価されるべきだと思っている。しかし、それはあくまである定められた枠組みの中に子どもたちをしっかりと押し込めるための教育でしかなくて、取りこぼしがぽつぽつと出ている。端的には不登校や発達障害、あるいは低偏差値の子どもたちだ。たぶん、その取りこぼしも、全国レベルで見れば非常に少ないのだろうとは思う。が、秋田はこれから人口減少の最前線に突入する。現行の教育制度での取りこぼしを「致し方ないもの」として目をつぶり続けることが果たしてできるのだろうか。

偏差値という物差しによって「優秀」とみなされた子どもたちであっても、彼/彼女ら一人ひとりの生産性が最大化される保証は、この学校教育ではたぶん無理だ。むしろいさぎよく諦めてしまった方がいいのだろうけど、学校教育はそのつもりもなさそうで、なんとなく、行き詰った感がある。高校生100人がいれば、大学に入り正社員になり3年間働き続ける、という人間は1/3ほどだ、という調査もある。そのストレートを前提として”キャリア教育”が実践されているとしたら、限界が来るのは当然と言えば当然なのだけど。

僕は別に秋田の学力日本一を批判しているわけではない。「学力日本一になってどうするの?」という疑問が浮かんでしまうところに、批判的にならざるを得ないというだけだ。五城目町は、移住者が入り始めた時期から一部の人間の裏テーマとして「世界一子どもが育つまち」という方向性を打ち出している。「世界一」を掲げた途端に、偏差値という物差しの意味が瓦解する。世界の教育はより多様であるからだ。そして、そこに、自由と責任が生まれる。あらゆる可能性を手段として検討することができるが、きちんと「子どもが育つ」というところにコミットが必要だ。量的な評価の可否は別にしても。

正直、今の秋田を見ていると、ちょっと息苦しさを感じる部分がある。地域の大人たちから子どもたちに向けた期待が否応なく高まっているのだ。自分たちの世代がどんどん都会を目指したせいで人口減少が進んだというのに。そうした大人たちからのメッセージの多くが、子どもたちの視点を欠いているのだから、なかなか困ったものだ。結局、それは教育の課題と紐づいているように思う。「子どもも一人の人間である」という前提が欠如している、という点で。

「一人ひとりを大切にする」と書くと、なにをそんな当たり前のことを、と思われてしまうかもしれない。でも、それが仮に当たり前だとして、「いやいや、全然一人ひとりを大切にできてないですよね?」というのが僕の見ている景色だ(これは別に秋田に限ったことじゃないことは書き加えておく)。はっきり言って、「やりたいことをやる」を実現するのは難しいし、僕自身の中にもノウハウがあるわけではない(他人よりは経験があるのかもしれないけれど)。それでも、この方向が僕の目指すべき道なのだろうな、とはぼんやりとした確信がある。

一方、それを受け止める地域の側も変わっていく必要がある。その地域で「やりたいこと」が実現しそうにないから、その地域から若者たちが出ていってしまうのだと思う。居場所と役割と出番があるから、その地域にいよう、という意思が生まれる。他の誰でもなく、「あなた」にこの地域にいてほしい、というメッセージがあるから、地域の一員としての自覚を持つことができる。

やりたいことをどれだけやれるか、その範囲がそのまま「地域の限界」なのではないか。先日の矢島高校でのフォーラムに参加したときに、思わず口をついた言葉だ。我ながら過激なことを言ってしまったと思うが、ぽろっと出てしまったのはまさにそれが本音であったからだ。自分たちの世代が見捨てて来た地域を次の世代に見放されたくないのであれば、自ずと考えるべきことが見えてくる、と思う。話は、それからだ。

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「都市をたたむ」―これからのまちを見る眼鏡を手に入れる

カテゴリ:読書の記録

人口減少社会における都市計画のあり方を提言する本書。

「都市」という用語が当てられている通り、そもそも農村部、山間部についてほとんど言及はないが、今日の都市の成り立ちと、都市の中で進行する現象についてロジカルに説明がされており、理論武装にもってこい、と思う。

「都市をたたむ」という表現が指すもの

まずは本のタイトルでもある「都市をたたむ」という言い回しについて。

英訳は「shut down = 店をたたむ」ではなく、「fold up = 紙をたたむ、風呂敷をたたむ」である。つまり、この言葉にはいずれ「開く」かもしれないというニュアンスを含めている。日本全体で見ると人口は減少するが、空間内には一律に減少せず、特定の住み心地のいい都市に人口が集中する可能性もあるし、都市の内部でも人口の過疎と集中が発生する可能性がある。つまり、一方向的ではなく、一度は間引いて農地に戻すけれども、将来的に再び都市として使う可能性がある場所は存在する。

都市をたたむ 人口減少時代をデザインする都市計画

本書では「計画」を「内的な力による変化を、整えて捌くもの」と定義している。

計画は、社会を動かしている様々な力を整えて捌くことによって、不都合な状態や危険な状態を乗り越え、望ましい方向に社会をドライブしていく役割を持つ。

(中略)

つまり、都市計画が捌く「力」は、都市を使う人たちが内的に持っている空間的な望み―広い家に住みたいとか、快適に通勤したいとか、立派な建物で仕事をしたいとか、遊ぶ場所が欲しいとか―こういった望みである。(中略)個人の「望み」は、人口流入の動きで加速され、それらの合計は大きな力を持つことになる。この大きな力を受け止め、その力の流れを整えて、適切な空間をつくる方向に捌くこと、これが都市計画の役割である。

都市をたたむ 人口減少時代をデザインする都市計画

これまでの人口増社会はこんこんと湧き出る大量の水を捌く必要があった。しかし、これからはどんどん減っていく水をどう整えて捌くかが求められる時代。したがって、都市計画もこれまでと明らかに違うことをしなければならない、と筆者は指摘する。

この定義に立つと、地方への人口流入を必死に考える最近の「地方創生」の方向性にも疑問符が付く。川の流れに逆らうどころの話ではない。水量がそもそも減り続けているのが現状だ。この当たり前の事実を念頭に置けるかどうかで、計画の実効性が大きく変わる。

人口減少社会の都市の姿と「コンパクトシティ」の限界

では、この人口減少期に都市はどのように縮小しているのか。

本書では、その前にまず都市の戦後の発展を振り返っている。それは「スプロール(虫食い)」という言葉で表現されており、農地改革により土地が細分化されていった結果、個々人による分散した土地利用の意向を計画が捌ききれず、土地利用の混在が連なりながら拡大したのが日本の都市だという。

こうして元々の状態に比べるとかなり細分化された土地は、引き続き土地利用者の個々の意志やライフステージに応じて姿を変えていく。

ある住宅地で、ある家は既に数年前から空き家になっているのに、その隣では、その同じ大きさの家を取り壊してさらに3分割したような小さな住宅が売られていたりする。つまり、縮小と拡大という全く異なる減少が隣り合わせで起きることになる。

都市をたたむ 人口減少時代をデザインする都市計画

都市は周縁からじわじわと縮小していく素振りを見せるわけではない。大きさは変わらず、しかし見えないところでぽつぽつと小さな穴が不規則に出現する。この現象を筆者は「スポンジ化」と名付けている。

「スポンジ化」を前提とすると、「コンパクトシティ」という構想は揺らぐ。都市は周縁から中心に向かって一様に縮小するのではなく、都市の中心部も外縁部も全体としてランダムに空間変化を起こすのだから、中心の集約化、高密化を実現するには、結局、人の移動を伴わざるを得ない。しかし、実際問題として1軒1軒動かすコストを行政が負担できるだろうか。

「コンパクトシティ」という提案が魅力を失うとしたら、ますます「スポンジ化」する都市をどう再編成すればよいのだろうか。

成長が止まり空間に余裕が生まれる時代の都市計画

これまでの都市計画は「中心×ゾーニングモデル」と位置づけられるが、各々成長する商業、工業、農業、住宅が都市の中で対立しないことを目指しそのために都市空間をゾーンに分けたものだった。

これからは、成長が鈍化し、空間に余裕ができるため、その対立を回避するためにゾーンを区切る必要性は下がる。そこで提案されるのが「全体×レイヤーモデル」だ。

中心×ゾーニングモデルから全体×レイヤーモデルへの大きな変化は、都市拡大期の都市計画が行っていた、大きなゾーン、巨大な青い鳥、大きな開発の組み合わせに寄る粗っぽい制御ではなく、スポンジ化によって小さな単位でしか動かない空間に対して、そこに顕在化している複数のレイヤーの可能性を読み取り、それを組み合わせながら空間のデザインを丁寧に組み立てていく、というスタイルへの変化である。

都市をたたむ 人口減少時代をデザインする都市計画

「用途純化」とは逆に、小さな空間単位で様々な用途を混在させる。都市施設及び都市開発事業を小規模化させる。それがこれからのマスタープランとなる。「スポンジ化」が生み出す小さな穴は、小さく埋めるしかないのだ。

そこで描けるのは、せいぜい「スポンジの穴があいたら、このあたりにこういう機能が欲しい」という、大きな領域に対する「欲しいものリスト」のようなものではないか。

都市をたたむ 人口減少時代をデザインする都市計画

読書の振り返り

改めてブログにまとめてみると、非常に分かりやすくロジカルに記述されている印象を持つ。それは、本書後半に紹介された事例のおかげもあると思う。

高度経済成長期と人口減少期の都市計画が同じであるはずがない、というのはあまり深く考えなくてもわかることなのだけれど、本書を読んでようやくそれが当たり前のこととして意識できた。

一連の主張を批判的に読む力量はまだ持ち合わせていないが、ひとまずは都市を「たたむ」という視座と、「スポンジ化」というフレームを持ってまちを見るようにしたい。

これは都市に限ったことではなく、これまでの常識を客観視し、これからのあり方を考える上で広範囲に応用可能な気がしている。それについてはまた次の記事にまとめてみたい。

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