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「資本主義から市民主義へ」の読後メモ(後編)

カテゴリ:自分事

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言語・貨幣・法から法人論へ

話題は資本主義と貨幣論から、徐々に法人論へ移行します。

岩井克人氏の法人論は「会社はこれからどうなるのか」で展開されているもの。
それを端的に表現する言葉が、「会社はモノであってヒトであり、ヒトであってモノである」です。

― (中略)株式会社の商品は会社のものであっても株主のものではない。百貨店の株主であっても商品を勝手に持ち出すことはできない。会社は株主に対してモノであるが、それは株券というかたちであらわされる。同時に、会社はヒトでもあって、商品を勝手に持ち出した株主をヒトとして訴えることができる。

資本主義から市民主義へ

面白いのは、実は人間もまた「ヒトであり、モノである」という二重性を持っているという指摘です。

― (中略)会社はこれからどうなるかは、会社の問題だけでなく、国家の問題、人間の問題でもある。人間自体がモノでありヒトであるからです。モノであってヒトであるのは会社だけじゃない。(中略)岩井さんは奴隷制の問題についても少し論じられていますが、当たり前ですが人間だけが人間を奴隷にするわけです。イヌはイヌを奴隷にしない。人間が人間を奴隷にするのは、自分自身を奴隷化できたからです。自分の身体を対象化し、モノを扱うように扱えるようになったからです。それから同じように他人を扱えるようになった。ヒトであってモノであるというのは人間そのもののことであって、人間そのものが法人としてあるとしか言いようがない。この問題は、古代の問題であると同時に現在ただいまの問題でもある。

資本主義から市民主義へ

岩井 人間はヒトとモノという二重性をもっているから、はじめて近代人の定義ができた。フランス革命などでの基本的人権の宣言で、人間は誰にも支配されない自立した主体になったというわけですが、それは人間が自分自身をモノとして完全に所有しているということにほかなりません。

資本主義から市民主義へ

この二重性の起源となるのが、つまり人間が人間になり、法人になったのは、「言語・法・貨幣」という社会的産物です。

岩井 人間とは何かと問われたら、ぼくは、言語を語り、法にしたがい、貨幣を使う動物だと答えます。言語、法、貨幣といった社会的媒介について思考することは、そのまま人間について思考することだと思っているのです。

資本主義から市民主義へ

法によって人間の関係は、力の強弱とは独立した「義務」と「権利」のような抽象的関係になり、
貨幣によって交換は、見知らぬ人であっても、抽象的な意味での人間の間で成立するようになりました。

岩井 人間とは社会的な動物ですが、それは、言語・法・貨幣を媒介として、お互いを抽象的な意味での人間として認め合うことによって社会を形成する動物という意味です。

資本主義から市民主義へ

「法人」という言葉は文字通り法の下の人ですね。
言語・法・貨幣を媒介として人間は抽象性を持ち、法人となるわけです。
ここから、法人論が掘り下げられていきます。

岩井 法人の成立については、ぼくは間主観性、というよりも社会的承認が不可欠であることを強調します。現在のアメリカの主流派経済学の連中や、それに影響を受けた法学者たちは、法人とは単なる契約にすぎないと言っています。でも、たとえばいまAさんとぼくが法人をつくりたいと思って、二人のあいだでどんなに詳細や契約書を書いたとしても、ほかの人間が、Aさんとぼくがつくった団体をAさんやぼくとは独立の主体であると認めてくれなければ、法人としての機能を果たすことができません。ほかの人間と契約を結べないし、独自にモノを所有することもできない。つまり、法人という制度にかんしては、他人による承認、もっと一般的には社会的な承認が絶対に必要なのですね。もちろん、「人の噂も七十五日」ではないけれど、社会的な承認などというのは移ろいやすいので、それを国家が法律化して、制度として安定させたものが、法人です。

資本主義から市民主義へ

法人という概念によって交換と契約の主体は拡大されます。
ヒト(個人)でなくても、経済の担い手になれる。
それが利潤を生むためのシステムである資本主義の要請であるというわけですね。

岩井 法人がなぜ成立したか。これは組織、人間および人間以外の集まりにもかかわるわけです。会社だったら人の集まりですね。それからよく出てくるものに財団法人というのがあります。財団法人というのはよく考えると変なもので、これは何かというと、たとえばお金持ちが財産を寄贈してたとえば美術館をつくる。するとこの美術館は寄付者が所有しているものではないんです。これは寄付されたお金―たとえば銀行口座―を法律上はヒトとして扱うということです。財団とは財産に付随する組織ですけど、端的に言えばお金の集まりをヒトとして扱うということなんです。(中略)美術館が新しい美術品を買うときは、財団法人の名前で買う。たとえば美術品を盗まれて訴える場合にも財団法人の名前で訴える。だからこれはお金がヒトとして振る舞うということなんです。そんなふうに組織やおカネをヒトとして振る舞わせ、モノを所有させることによって、資本主義経済は、交換と契約の範囲をうんと拡大した。それがなければ資本主義はこんなに発達しなかったと思う。

資本主義から市民主義へ

資本主義の権化であるかのような法人というものを掘り下げていくと、
話は徐々に岩井氏の法人論の重要なテーマである「信任論」へと誘導されていきます。

岩井 資本主義とはほんらい、契約社会だと言われているわけですが、その契約関係を拡張すればするほど、必然的に倫理性を要求する信任関係も拡がってくるわけです。

資本主義から市民主義へ

どういうことかと言えば、たとえば法律上の後見人は、後見人になった途端に自己の利益でなく、被後見人の利益を追求しなければならない。
これは個人の利益追求のみを是とするアダム・スミスの考え方と反発せざるをえません。
つまり、被後見人と後見人は信任関係にあると見ることができます。
弁護士とクライアント、医者と患者の関係も、互いに自己利益追求が第一となれば、法的には過失があった場合を除き、勝訴や症状の改善は全く保証されないわけです。
したがって、そこには信任関係が含まれざるを得ない、というのが岩井氏の主張です。

岩井 こうして成立した法人、たとえば株式会社にしても、かならず代表取締役としての経営者が必要となるわけです。ほんらいはヒトじゃないモノである会社をヒトとして振る舞わせるために、その面倒を見る生身の人間が必要とされる。財団の場合には必ず理事がいるわけです。お金の集まりがただ転がっているだけでは何もできない。財団の理事は会社の経営者と同じで、ほんらいはお金の集まりでしかない財団が、ヒトとして美術品を管理し、人として契約を結んだり、人として訴えたり訴えられたりすることを、ただのお金の集まりの代わりにやってあげる、そういう存在なわけです。財団はそういう理事を必要とする。その財団と理事、会社と経営者の関係は必然的に…

 信任関係ですね。

岩井 ええ、信任関係を生み出す。一方が他方を一方的に信頼することによってしか成立しない関係を生み出す。この関係が成立するためには、信頼を受けた側は、自己利益を押さえて行動しなければならない。つまり倫理性を絶対に要請してしまう。こうして資本主義のまさに中核に信任関係、倫理が登場するわけです。

資本主義から市民主義へ

資本主義の論理的帰結として、利益追求のために、信任関係、倫理が求められる。
これは驚きを持って受け止めるべき議論と言えるでしょう。

著者の法人論はこの信任論や株主主権論批判、コア・コンピタンスの強調を絡めつつ、
ポスト産業資本主義における利潤の源泉がヒトである、という議論を提示しているようですが、
詳細は「会社はこれからどうなるのか 」をどうぞご参照ください。

さて、資本主義の中に「倫理」が必然的に求められることの”発見”が、
著者が「市民社会論」へ目を向ける契機になりました。

資本主義にも国家にも還元できない市民社会

岩井 ただ、一歩、社会的責任論に足を踏み入れると、単純な私的所有権の枠組みをちょっとはずれてきます。ぼくの市民社会論は市民社会の定義がまだはっきりしていないんだけど、現在のところとりあえず、市民社会とは資本主義にも還元できなければ国家にも還元できない人間と人間の関係であると定義しています。資本主義的な意味での自己利益を追求する以上の、何か別の目的をもって行動し、国家の一員として当然果たさなければならない責任以上の責任を感じて行動する人間の社会ということです。それが社会的責任だと思います。
(中略)要するに、そのなかではお互いがお互いに対して、資本主義的な自己利益、自己責任という意味での責任にも、国家における法的な義務としての責任にも還元できない責任を考え始める市民社会ですね。

資本主義から市民主義へ

これまで著者が追求してきた資本主義の垣根を飛び越えて、市民社会論へ。
そこには資本主義や政治のシステムの枠外で求められる、社会的責任の議論がありました。

岩井 たとえば市民社会で障害者の権利についての主張が始まる。だが、それが人々の政治的なコンセンサスにまで高まると、法律化されて国家の側に吸収されちゃうし、あるいは社会的な責任を果たすべく、NPOとかで活動してうまくいくと、そのうちに採算がとれ始めて資本主義に吸収されたりします。

資本主義から市民主義へ

こうして持ち上げられた市民社会の在り方は、ややもすると既知のことに思えます。
例えば、「新しい公共」、「行政と民間の協働」のようなキーワードに容易に結び付けられるような。
著者も「うっかりすると、心が優しいだけのいい加減な議論になっちゃう」と漏らしています。

岩井 いずれにせよ、逆説的だけど、国家にしても資本主義にしても、人間がお互いに責任感をもって行動しているような市民社会的な領域の存在を許すだけの余裕がなければ駄目なんです。そして、この領域が増えてくると、たんなる資本主義の単純な私有財産の枠組みにも、国家が定めた法律の枠組みにも入りきらないプラスアルファが、市民だけでなく、会社にも要求されるようになってくる。

資本主義から市民主義へ

 「国家」、「資本主義」、「市民社会」の3つの領域がどのように関係しているのか。
より具体的に言及されている箇所を引用します。

岩井 市民社会とは何かというと、いろいろな定義があります。カント-ヘーゲル的な視点では、この市民社会が国家と同一視されています。これに対して、アダム・スミスやマルクスや他の多くの経済学者にとっては市民社会はブルジョワ社会ですから、資本主義とほぼ同一視されている。つまり、従来、市民社会には二つの規定の仕方があったということです。(中略)つまり、市民社会は国家の側面と資本主義の側面の二つをもっていて、前者には法が、後者には貨幣が対応するわけです。
最近では、国家でもなければ資本主義でもない、第三の社会領域としての市民社会ということがよく言われます。ぼくも、市民社会とは国家にも資本主義にも完全には還元できない第三の領域であると考えています。しかし、同時に、国家と、あるいは資本主義と同列の水準で別の社会が自己完結的に存在しているとも考えていません。市民社会的なものとは、最終的には、法が支配する国家か、貨幣が支配する資本主義を補完するシステムであると思っています。

資本主義から市民主義へ

国家は法に、資本主義は貨幣に対応する。
では市民社会は何に対応するかと言えば、それは言語に他なりません。

岩井 言語は法も貨幣も、それを前提としているという意味では、より根源的であり、とくに人間の倫理的な活動ということではいちばん重要な部分になってくる。それだから、この国家、資本主義、市民社会という図式においては言語が市民社会に対応することになるわけです。

資本主義から市民主義へ

たとえば、国家を補完する市民社会とは、どういう働きなのでしょうか。

岩井 お互いの尊前がお互いに承認され、国家がそれをきちんと保証するということになって、その尊厳の承認が法的な権利というかたちをとる。法律ができれば、たとえば尊厳をもって扱われなかった場合は、権利が侵害されたとして裁判所に訴えることができるようになる。つまり、このような国家による法的権利が確立していない状態において、人間がお互いに尊厳を持った存在として遇し遇されるということをつねに問題にしつづける場が、まさにぼくの言う市民社会なのですね。それがきちんと確定すると法治国家になる。

資本主義から市民主義へ

 これは非常に重要な示唆です。
つまり、法治国家はその外部である市民社会があって初めて法治国家たり得る、ということになります。

法も貨幣もそもそもが自己循環論法によって成り立っている、
つまりなんらの根拠を持たない、デファクト・スタンダードとして存在するために、
その不安定性を補完するような第三の領域が求められるということです。

繰り返しになりますが、例えば貨幣は貨幣であるというだけで貨幣として利用されているのであって、
誰もその貨幣を信用しなくなり、利用しなくなれば、途端に貨幣は実効性を失うという矛盾を抱えています。
法もまた暴走の可能性を秘めている。それはナチス、ヒトラーの例を出すまでもありません。

 

貨幣論から始まった旅は、貨幣と法の不安定性を暴き、法人論に展開され、
それを受けて倫理性の必要があぶりだされる結果となりました。

3.11を受けてますます「市民社会」的領域への関心が高まる中、
「現実的に必要だから必要」と希望にすがるように第三の領域を要請するだけでなく、
岩井克人氏のような論理の積み重ねこそが求められるのではないか、そう思います。

21世紀はまだ始まったばかり。
市民社会をあるべき姿で定着させるためにも、著者の論の後先に今後も注目したいところです。

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「資本主義から市民主義へ」の読後メモ(前編)

カテゴリ:読書の記録

同著者の「ヴェニスの商人の資本論 」を読んでから気になっていた本書。
この年末年始にかけてようやく読破しました。

本書の議論を自分なりに引き受けて論ずる力がないので、
とりあえずの読後メモとして記事を残しておきたいと思います。

本書は岩井克人氏へ三浦雅士氏がインタビューする形式で進められており、
文体としては読みやすく、しかし拡散する話題を追うには幅広い教養が求められる、
という初心者にとって易しいのかどうかよくわからない仕上がりになっています。

僕のように一般教養が欠如している人間にとっては、
わからない知識は一旦保留して読み飛ばし、わかりそうな部分だけ拾っていくのが良さそうです。

「資本主義」の原則と三つの形態

本書はそのタイトル通り、岩井氏が自身の資本主義と貨幣の探究を法人論に展開させ、
ついには市民主義なるものへの言及に着手するまでの経緯を紹介しています。

ではそもそも本書で語られるところの資本主義とは何か。
これは「ヴェニスの商人の資本論」から紹介した方が早いでしょう。

資本の絶えざる自己増殖、それが資本主義の絶対的な目的にほかならない。蓄積のためにはもちろん利潤が必要だ。だが、この利潤は一体どこから生まれてくるのか。(中略)
利潤は資本が二つの価値体系の間の差異を仲介することから創り出される。利潤はすなわち差異から生まれる。
しかしながら、遠隔地貿易の拡大発展は地域間の価格体系の差異を縮め、商業資本そのものの存立基盤を切り崩す。産業資本の規模拡大と、それに伴う過剰労働人口の相対的な減少は、労働力の価値と労働生産物の価値との差異を縮め、産業資本そのものの存立基盤を切り崩す。差異を搾取するとは、すなわち差異そのものを解消することなのである。

ヴェニスの商人の資本論

これを前提にしつつ、資本主義が利潤を生みだす仕組みについて、
本書では「商人資本主義」、「産業資本主義」、「ポスト産業資本主義」という区別をつけています。

「商人資本主義」は「重商主義」と同一視できます。
「地理的に離れた二つの土地の価値体系のあいだの差異性を利潤に転化する経済活動」である遠隔地貿易がその代表です。
コショウがインドとヨーロッパとで価値が異なるからこそ貿易によって利潤を生み出すことができる、というわけです。

「産業資本主義」は国民国家の成立と並行して発生しました。
国民国家の成立とは、(遠隔地貿易のような異なる価値体系を自国―他国間に求めるのでなく)
自国内に共存している異なる価値体系―都市と農村―をベースに自国内で利潤を生み出すシステムの成立に等しい。
農村から都市へと賃金を安くおさえられる労働者が集まれば、それだけ利潤を上げることは容易になります。
日本でいえば高度経済成長期までがこの構造に当てはまります。
いわゆる「金の卵」というやつですね。賃金の安い労働者を雇って経済活動すればそれだけで利潤が上がる。

カール・マルクスは著書『資本論』の中で「生産手段が少数の資本家に集中し、一方で自分の労働力を売るしか生活手段がない多数の労働者が存在する生産様式」として「資本主義」と定義した。

資本主義 – Wikipedia

本書に従えば、カール・マルクスの「資本主義」の定義は「産業資本主義」の範囲でしかない、ということがわかります。

ところが、日本全体が豊かになると、都市と農村の価値体系の差異性が解消されていきます。
利潤を求める資本主義が次に要求したのは、高度情報化とグローバル化でした。
つまり「イノベーション」と呼ばれるような商品やサービスそのものの差異性の追求、
そして賃金の安い労働者を国外に求める流れにつながるわけです。
このような特徴を持つ経済の形態について岩井氏は「ポスト産業資本主義」と呼んでいます。

岩井 (中略)ただ、流れと言っても、これを歴史的発展法則と見なすと間違えます。後戻りもあるし、共存もある。ポスト産業資本主義というのは商人資本主義への意識的な先祖返りと見なすこともできますし、また現代のグローバル化のなかでは、先進資本主義国におけるポスト産業資本主義と途上国における産業資本主義が共存している。その意味で、商人資本主義、産業資本主義、ポスト産業資本主義とは、資本主義の三つの基本的な形態であると理解した方が正しい。

資本主義から市民主義へ

貨幣から読み解く、資本主義が抱える不安定性

岩井 (中略)ぼくの『不均衡動学の理論』の基本テーゼとは、資本主義経済とは本来的に不安定的なシステムであり、それがまがりなりにもなんらかの安定性をもっているのは、そのなかに市場原理にしたがわない制度や機関が存在しているからだということです。アダム・スミスは夜警国家を理想としたけれど、それとは逆に、不均衡動学はそうした固い石のような異物が資本主義には必要だということを主張する。

資本主義から市民主義へ

岩井氏は資本主義経済が不安定であるということを前提に話を進めています。
そのためには岩井氏の「貨幣論」をまず押さえる必要がありそうです。

岩井 僕は、しかし、生産や消費こそ本源的な経済活動であり、金融活動をそのたんなる派生と見なすこのような伝統的な考え方こそ、経済の本質を見損なっていると考えています。なぜならば、実体経済の根源にまさにデリバティブがあるからです。それは、もちろん、「貨幣」のことです。貨幣とはまさに元祖デリバティブつまり「派生物」なんです。貨幣そのものにはなんの実体的な価値もない。それは実体的なモノを買うためのたんなる手段でしかないのです。貨幣をもつことは、実体的なモノを手に入れるための派生的な活動にすぎない。だが、いうまでもなく、その貨幣の存在によって、生産や消費といった実体的な経済活動が可能になっている。貨幣がなければ資本主義経済など存在しえない。その意味で、資本主義経済とはまさにデリバティブによって支えられていることになる。

資本主義から市民主義へ

岩井 (中略)貨幣がない世界であったら、マルセル・モースの描いた贈与論の世界のように、基本的にはお互いに顔の見知った共同体の中だけでしか交換が可能でない。だが、貨幣が存在していれば、それを媒介にして、お互いに顔を知らなくても、性別、年齢、宗教、民族を問わず、いわば抽象的な意味での人間としてお互いに交換が可能となるわけです。

資本主義から市民主義へ

貨幣という物理的実体のないものが、社会的実体を持って資本主義経済を可能としている。

岩井 (中略)貨幣とは、金や銀のかたちをもとうと、紙切れでつくられていようと、それをすべての人が貨幣として使うから貨幣として使われるという自己循環論法によってその価値が支えられているのです。
(※下線部は引用者による)

資本主義から市民主義へ

貨幣の捉え方はアクロバティックで面白いです。
貨幣とは、何の根拠も持たないもの。
単にみな使うから貨幣である、つまりデ・ファクト・スタンダードでしかない。

したがって、貨幣が貨幣でなくなることも当然ありえるはずです。
貨幣の自己循環論法の崩壊と同時に、資本主義は本質的なクライシスを迎えます。
つまり、ハイパーインフレーションです。
貨幣として使われなくなった貨幣で物の売り買い(特に買い)ができなくなる。
そういう根源的なリスクを抱えているのが資本主義というシステムになるわけです。

貨幣自体がデリバティブであること。
貨幣による投資効率の向上によって発展した資本主義が、同時に貨幣の投機的性質も同時に受け入れたこと。
貨幣によって「売り」と「買い」が分離してしまい、「売り手」がいるのに「買い手」がいない恐慌、「買い手」がいるのに「売り手」がいないハイパーインフレーションといった、根源的な不安定性を抱え込んでしまったこと。

こうして、貨幣を通して資本主義の不安定性の存在を垣間見ることができる、というわけです。

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【書評】「里山資本主義」は日本の田舎への最後通告か

カテゴリ:読書の記録

話題の本書。
いまさら読んでみましたが、どことなく後味の悪さがありました。

いや、希望は確かにあって、実際わくわくする話ばかりでした。
しかし我に返ると、本書からはもっと深刻なメッセージが読み取れるのではないかと思ったのです。

「里山資本主義」という名の「資本主義」

まず第一に、「里山資本主義」という言葉。

現在の行き過ぎたマッチョさを批判する「マネー資本主義」のカウンターとしての「里山資本主義」。
しかし、このタームもまた「資本主義」の一形態であるということを忘れてはいけません。

つまり、「マネー資本主義」であろうが「里山資本主義」であろうが、
現代社会の根底にあるのは資本主義だという点においては変わりないということ。

本書を読んだ方なら誰でも気づくことではありますが、
「資本主義」の原理を”正しく”扱う作法を「里山資本主義」と換言していると言っていいでしょう。

「里山資本主義」の神髄

「誰かが『廃棄物をうまくリサイクルしてどうのこうの』と言ったら、いつも叱りあっていた。『廃棄物じゃない、副産物だ』って。全部価値のあるものだって、話し合ったものです。それでも当時はまだ、木くずは副産物だという感覚だったけど、今はさらに進んで、副産物ですらなくて、全部製品なんだと。まるごと木を使おうと。まるごと木を使わないと地域は生き残れないと考えたんです」

里山資本主義 日本経済は「安心の原理」で動く

こういった発想の中に「里山資本主義」の神髄が隠されています。
つまり、「無価値」であったものを「価値」に変えよう、と。
価値基準を更新し、各ステークホルダーの利益となるモデルを作り出そうと。

シンプルに言えば、これぞまさにイノベーションです。
字面にするとわかりきったことに聞こえますが、改めて「イノベーション」の裾野の広さを考えさせられます。
旧来の考え方による「無価値」というレッテルに疑問を持てるか。
一見価値がないと見えても、そこから「市場」に評価されるモノ、小さくても確かな循環を作り出せるモノを生み出せるか。

逆転の発想で捉えれば、役に立たないと思っていたものも宝物となり、何もないと思っていた地域は、宝物があふれる場所となる。

里山資本主義 日本経済は「安心の原理」で動く

その点、地域にはイノベーションの種がごろごろ転がっていると見ることができます。
裏を返せば、「無価値」は放置しておけばいつまでたっても「無価値」のままである、ということでもあるのですが。

岩井克人の言葉を借りるならば、イノベーションとは「差異」を生み出す手法です。
これまでの価値体系とは異なる価値体系を生み出し、その二者間の差異を源泉に「利潤」が生まれる。
「里山資本主義」は資本主義の原理原則に従え、というメッセージに思えてなりません。

「里山資本主義」が突きつける最後通告

今、「資本主義の原理原則に従え」とわざわざ言わなければならない理由は何か。
それは単純に日本のいたるところで資本主義が正しく浸透していなかったからでしょう。
「マネー資本主義」のような単一システムへの過剰な信仰が跋扈しているのですから。

日本の田舎の問題はきちんと資本主義が定着していないことだ。 | makilog

残念ながら日本の多くの田舎は単一システムに盲目的に追従するのみです。
たとえば、価格変動の大きいエネルギー資源にのみ依存しているとか。

そうしてみると、本書は日本に対して平然と最後通告を突きつけている印象があります。
(冒頭で記した「後味の悪さ」はここに起因しているのでしょう)

当然ながらイノベーションは簡単なものではありません。
「これまでと異なる価値体系を構築できなければ、日本の田舎に未来はない」
もし本書の裏主張がここにあるとすれば、実に冷酷と言うべきでしょう。

それでも、「里山資本主義」は希望である

里山資本主義は、経済的な意味合いでも、「地域」が復権しようとする時代の象徴と言ってもいい。大都市につながれ、吸い取られる対象としての「地域」と決別し、地域内で完結できるものは完結させようという運動が、里山資本主義である。

里山資本主義 日本経済は「安心の原理」で動く

そうは言っても「里山資本主義」から学ぶべきことはたくさんあります。
依存から自立へ。「グローバルの一部分」に過ぎなかった田舎から異なる価値体系を持つ「ローカル」な田舎へ。
その道標になりえるのが本書だと考えます。

森林資源の管理と活用の先進地であるオーストリアの取り組みはその一つ。

「(中略)ところが、今日ではエネルギー資源はあまりありませんから、この星にある自然が与えてくれるもので私たちは生活しなければなりません。この思考の大転換こそが真のレボリューション(革命)です。そうした革命に木材産業はうってつけなのです。森林は管理し育てれば無尽蔵にある資源だからです。
その結果、経済は必然的に国家中心から地域中心になっていきます。製材業はたいていファミリー企業です。原料の調達も、せいぜい二〇〇キロ~三〇〇キロ県内でまかなえます。生産には多くの人手がかかります。ようするに、木材は、投資は少なくてすむ一方、地域に多くの雇用が発生する、経済的にもとても優れた資源なのです」

里山資本主義 日本経済は「安心の原理」で動く

これまでの常識で考えれば価値の低かった木材資源を、異なる視点でとらえ直す。
グローバル経済への依存を断ち切り、自立の道を目指す。

本書で紹介されているような事例が少なくない数あることがすでに希望でもあります。
日本の田舎が人口減少という未来から目をそらさず、これまでの常識に囚われないそれぞれの未来を描く。
前例によって狭められた可能性を自ら開き、資本主義社会に参入していく。
その道標はすでに示されました。後はフォローするか否か。それだけです。

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