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「津山三十人殺し 最後の真相」が語るコミュニティの悲劇

カテゴリ:読書の記録

津山三十人殺し 最後の真相」は「八つ墓村」のモデルとなった事件を取り上げた本です。
城繁幸氏のこの記事を読んでからなんとなく気になってはいました。

城氏はこんなことを書いています。

本当の疎外というのは、もともと縁なんて無い無縁社会ではなく、 縁で形成された有縁社会にこそ存在するのだ

ちょうど東京から海士へ戻るときに空港の本屋で見つけたので、飛行機の中で読んでみました。

殺人者の狂気はコミュニティの狂気

たった一夜の間に、一人の若者によって30名以上の死傷者が出た事件は世界でも稀だそう。
しかし、その狂気を生み出したのは、閉鎖的なムラのコミュニティと祖母の存在だった、 というのがこの著者の主張です。

コミュニティに所属するにはなんらかのルールを遵守する必要があります。
コミュニティが閉鎖的であるほど、コミュニティの構成員を守る機能も強化されるが、
その代わり排他性もまた強まり、従ってルールもますます厳しくなるという循環に陥りがちです。

加害者・睦雄は肺病を患い、「ロウガイスジ(※)」の烙印を押されました。
(※肺病患者を出す家を差別するための蔑称)
それに加えて、徴兵検査の結果、お国のために戦うこともできなくなりました。

当時はお国のために戦うことが当然視された時代です。
逆に徴兵を拒んだり、検査から弾かれるという行為は忌み嫌われていました。
つまり、コミュニティの構成員であるためのルールから外れてしまったのです。
彼は、コミュニティから阻害されることとなります。

現代なら「差別だ!」「人類はみな平等だ!」と声を上げる人が出てくるかもしれません。
しかし、70年前の日本の田舎でそんな「キレイゴト」に耳を傾ける人がどれだけいたことか。

コミュニティの構成員の”幸せ”のためには、コミュニティは犠牲者を出すことは厭わないものです。
むしろ「排除」することでコミュニティはコミュニティたりえている、とも言えるのではないでしょうか。
日本の犯罪史上に名を残すこの悲劇は、コミュニティの狂気=「排除」が一因となっていると著者は言います。
僕自身、どうしても睦雄自身の異常性だけに原因があるとは思えませんでした。

さて、ここに現代の若者が夢想する「コミュニティ」の姿は果たしてあるのでしょうか。

コミュニティの狂気は、過去の遺物か

「排除」は現代も残っている、と言われて否定する人はほとんどいないでしょう。

学校や職場でのいじめ。親からのネグレクト。ホームレス。マイノリティ。
大学を卒業し、最初のキャリアとして非正規雇用に就かざるを得ず、
いつまで経っても正社員になれないまま、ワーキングプアを強いられている人。

コミュニティという小さい単位だけでなく、社会や仕組みからも排除される人たちがいます。

秋葉原のホコ天が一時閉鎖されたのも、就活生の自殺が倍増しているのも、
守られている人たちがいるゆえに、そこから排除された人たちがいるという現実の現れのように思えます。

以前、大阪で23才の風俗店勤務の女性が、2人の子どもを自宅に放置し、死亡させた事件がありました。

僕は、同じ構造をこの事件と「津山三十人殺し」とに見ています。

犯罪者の狂気は、社会やコミュニティによる「排除」から生み出されているのではないか。

「津山三十人殺し」に潜む現代の再現性:コミュニティと「親」の存在

コミュニティや社会からの「排除」という構造が現代の犯罪に共通していると見ることで、
「津山三十人殺し」が過去の遺物でないという重要な示唆に目を向けることができます。

もう一つ、この70年前の悲劇には、「家族への憎しみ」が暗い影を落としている、と著者は言います。

両親を早くになくした睦雄と姉の2人は、祖母によって育てられました。
著者は祖母と睦雄との間に血のつながりがないこと、睦雄が宗家の長男であることを指摘し、
祖母が「祖母自身の身を守るために」睦雄を溺愛した、と分析しています。

続いて著者は、宅間守や土浦での無差別殺人事件の加害者に憧れる若者へのインタビューに言及します。
彼らには、溺愛のあまりに干渉し続ける親への愛情の裏にある強烈な憎しみが見られた、と。

津山三十人殺し 最後の真相」で僕が最も共感したのは、この部分。

睦雄のような心は僕らの心のなかにもあって、また僕らの誰もが、睦雄のようになってしまう可能性はあるのだ。

勧善懲悪で済ませるのは、あまりに短絡的な思考と言わざるを得ないでしょう。
犯罪は僕らの誰かが起こしているのであり、その構造を作っているのは僕らなのです。
僕らは常に加害者になりえるし、誰かが犯罪に走ることに僕らは一切加担していないとは断言できないのです。

僕らが生み出したツケを誰かが払っている。
それなのにいつだって僕らはその膿を洗うことだけに必死になっている。

そんな風に思えてなりません。

※本記事は過去のブログから転載しました。

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「世間は狭い」という経験を享受できる人たちのこと

カテゴリ:世の中の事

“What a small world!”

先日、職場の同僚のお知り合いが海士に来島され、夕食を共にする機会がありました。
彼とは初対面だったのですが、よくよく話を聞いてみると、共通の知り合いがいたことが判明。
「世間は狭いな」と思った次第です。

「世間は狭い」という感覚は、海士町に来てからというもの、幾度も経験しています。
これは人と人とのつながり(ネットワーク)の中で、海士町に関心を示す人たち同士の距離が、自覚される以上に近いことを示します。

この「世間は狭い」現象は、誰にでも起こるものなのでしょうか。
必ずしもそうとは言えないだろう、というところからこの記事を書き始めてみます。

「世間は狭い」の構造

直感的に、「世間は狭い」とより多く感じるには、より多くの友人・知人を持てばよいはずです。
小中高大、あるいは会社で知り合った人とすべてFBフレンドになれば、とにかく数は確保できるはずです。

ところが、僕の「世間は狭い」経験の多くは、僕の小中高大のつながりと関係のないところでもたらされたものでした。
「世間は狭い」経験は、僕のこれまでの「所属」(プロフィール)とは無関係に発生してきたのです。

「世間は狭い」経験を僕にもたらしたもの。それは僕自身の「関心」であった、と考えます。
思えば海士町に来たのもこの「関心」(とそれに伴うつながり)の賜物でした。
直接のきっかけをもたらしてくれたのは高校・大学の同級生でしたが、今でも交流を持つ数少ない同級生の一人でもあります。
彼との親交は単なる「級友」の立場でなく、お互いの関心への共感がありました。
履歴書には書けないところでのつながりが、”履歴書の続き”をもたらしてくれたとも言えます。

そして、そのような「関心」はますます僕の世界を狭く(つながりを広く)しています。
海士町に移住するまで会ったこともない人と、共通の知人を見つけることもそう珍しくありません。
これは海士町に魅力を感じるようなある種の人々の「関心」が重なった結果です。

一方、つながりの母数を「所属」に限定した場合、同じ「関心」を持つ人との出会いも限定的なものになります。
ある「関心」を契機にした「世間は狭い」の感動と出会うには、「所属」の境界を越える必要があるのです。

「世間は狭い」の感動は誰のもの?

「関心」によって形成されるコミュニティの構成員はどのような人たちか?
当然ながら、自ら何らかの「関心」を持ち、かつ「関心」を発信できることの2点を満たす必要があります。
そうしてはじめて、「所属」の境界を越えて「関心」をベースにしたコミュニティに属することが可能になります。

自ら「関心」を持つこと。自ら「関心」を発信できること。
この2つの行為はあらゆる人にとって可能なのでしょうか?

「世間は狭い」の感動を得られるかどうかは、個人のつながりの作り方に依ると言えます。

海士に移住するような人たちは、ほとんどの場合何らかの強い「関心」を持っています。
強い「関心」は本人を海士に引き寄せるだけではなく、海士町に「関心」を持ちうる人たちの横のつながりを形成しうるものです。
そうして形成されたネットワークは、ある個人の「関心」に反応して、同じネットワーク内の同種の「関心」を持つ人をつなぎます。

母数が「所属」に限定されたネットワークは、三つの点でこのネットワークに劣ります。
第一に、「関心」の供給源(その「関心」を持つ人」)の数が限られてしまう点。
第二に、ネットワーク形成が「所属」の組織構造に依存してしまう点。
第二に、「関心」の文脈が「所属」内における文脈に限定されがちである点。

個人的な経験を振り返ると、「世間は狭い」の感動は、「同じ都道府県の出身」という程度で喚起されるものではありません。
「え、こんなところでつながりのある人に出会えるなんて!」という、空間に対する意外性。
「え、思った以上に近い距離だったんだ!」という、つながりの距離に対する意外性。
地縁のない海士町では、「世間は狭い」の感動が起こる可能性は確率的には低いはずです。
しかし、一度偶然の出会いがもたらされれば、海士町という場所はこの二つの意外性を満たしやすい環境でもあります。

この海士町という特殊な環境で「関心」をベースにしたつながりを無視するわけにはいきません。
「世間は狭い」という経験から学ぶことができるのは、「これからのつながりのあり方」であるように思います。

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言語化の台頭と日本のコミュニティの変遷

カテゴリ:世の中の事

そもそも僕がこんな話をしだすのは、率直に言って、言語化ができている人と話すのが面白いし、そういう人こそどんな環境でも自分らしく働き、楽しく生活を営んでいる、という印象を持っているからです。

言語化の能力が鍛えられる背景―アイデンティティとコンテクスト | 秋田で幸せな暮らしを考える

「言語化」や「コミュニティ」というキーワードについて把握しようとする僕のモチベーションの源泉は、ほとんどここにあるといっていいです。
「言語化」の能力を持っていること、あるいは「都市型コミュニティ」の中で生きることができること。
これこそが「個人化」が進む21世紀において、幸せな暮らしを送る条件になっているように思います。

仕事、そして生活面における他者(家族や自分が暮らす地域・社会)との関係性の両方を充実させること。
その秘訣を探りたい、というのが、僕の原動力になっています。

農村型コミュニティと都市型コミュニティ

農村型コミュニティと都市型コミュニティという言葉は、例えばアキタ朝大学さんへ寄稿した記事でも紹介しました。
僕が「コミュニティ」というものを考えるときの大きなベースとなっており、広井良典著「コミュニティを問いなおすで出会いました。
(ちなみに、この本はおすすめです。僕も折に触れて読み返しています)

ここで改めて両者の違いについて整理したいと思います。
誤解を生みやすいので先に書いておきますが、この「農村」と「都市」という区別は、それぞれ字面そのものの農村と都市を指すものではありません。
農村(あるいは地方、田舎)では農村型コミュニティが形成され、都市(あるいは都会、東京)では都市型コミュニティが形成されるというわけではない、ということです。

農村型と都市型は形成原理で区別する

この二つのコミュニティを分類する基準となるのは、その形成原理にあります。端的には「個人」のとらえ方に差異があります。
農村型コミュニティは「共同体と同質化・一体化する個人」によって、都市型コミュニティは「独立した個人と個人のつながり」の結果として、それぞれ構成されます。
前者は同心円状にその勢力を拡大することで大きくなり、その暗黙的な同質性が前提としてあります。
一方、後者は個人の異質性を前提としており、明示された一定のルールや規約をベースに、個人と個人の関係性がつくられていきます。

二つのコミュニティの形成原理の違いについてもう少し細かく見ていきましょう。
両者の違いは、コミュニテイからの要求が先に来るか後に来るか、という点に現れるのではないかと僕は考えています。

農村型コミュニティは所属するかどうかが決まるや否やいろいろな条件を満たすように要求します。
例えば海士町は14の地区に分かれておりますが、区費を支払う必要があったり、ぢげ掃除など各種行事に参加しなければならなかったり、地区ごとにルールがあります。
そしてそのルールはIターンも遵守する必要があります。
移住した途端にルールを守る必要が生じ、それを遵守しなければ地区の住民としての立場がなくなります。
海士町に移住するということは、多かれ少なかれ自動的に提示される条件を受け入れる必要があるということです。
「所属したからには条件を飲め」 と迫るのが農村型コミュニティです。

反対に、都市型コミュニティは参加する前に条件の要求が先に来ます。
僕が所属するWE LOVE AKITAは基本的に誰でも参加可能であり、参加を強制するものではありません。
ところが、実際には参加条件があります。
秋田が好きとか、秋田に関する活動に自分も参加したいという動機がなければなりません。
逆に言えば、秋田が嫌いな人は加わらないし、島根が好きな人は島根を応援する活動に参加すればいい。
参加する側からすれば都市型コミュニティは条件に応じて主体的に選択可能であり、その意味では「契約的」と言えます。
「条件を飲むことに同意する(契約書にサインする)なら参加を許可する」と構えているのが都市型コミュニティです。

コミュニティに参加するより先に条件を吟味できるということは、参加条件が明示的であるということです。
一方、農村型コミュニティは暗黙のルールが支配的であると考えられます。

以上のような分類に基づけば、実際にコミュニティの形成される場が農村であるか都市であるかにかかわらず、いずれのコミュニティも形成される可能性があることが分かります。
古くから農村/都市がどのように形成されてきたか、その原理に注目してさまざまなコミュニティを分類しているというわけです。

農村型コミュニティのハイコンテクスト性

さて、農村型コミュニティの同質性を前提とした同心円状に広がる形成原理に今一度注目しつつ、農村型コミュニティにおいて「個人」の発見が阻害されるメカニズムを考えてみたいと思います。

このコミュニティの構成員は暗黙的に同質であることが了解されています。
暗黙的とは、「言わなくても分かる」ということ。同質であるということは、コミュニティ内における知識や経験の共有度が高いということです。
従って、構成員間のコミュニケーションにおいてもその特徴を指摘することができます。

抽象的な表現をとると、このような状況下では会話の中で使われる言葉は「定型化」されます。
言いたいことはコミュニティ内の文脈の中にストックされた”定型文”を活用する形でコミュニケーションは成り立ちます。
つまり、自分の言いたいことは自分で一から構築する必要が無い。当然、表現の自由度・ユニーク性は落ちますね。

このような文脈依存的な文化は「ハイコンテクスト文化」と呼ばれているものと一致する、と考えられます。
(ハイコンテクスト文化については過去記事でも触れておりますので、こちらをご参照ください)

一方、文脈に依存せず、積極的に言語等によってコミュニケーションを交わすような文化は、「ローコンテクスト文化」と呼ばれています。
これは、都市型コミュニティの特徴である、形式化された規則やルールや論理的な言語による表現を重視する傾向と重なります。

農村型コミュニティは、ハイコンテクスト文化の特徴を有しており、一方、都市型コミュニティはローコンテクスト文化であると指摘できる、というのが僕の考えているところです。

ハイコンテクスト文化における「個人」の不在

ハイコンテクスト文化におけるコミュニケーションをもう少し細かく見てみます。

ハイコンテクストな社会においては、コミュニティ内で共有されている”既存の”(あるいは既知の)文脈が支配的な位置を占めます。
文脈によって推測できることで満足するコミュニケーションによる理解があらゆるところで推奨されます。

その結果として、”既存の”文脈で説明できないものは価値を認められないということが起こり得ます。
既存の文脈外にあるものは積極的なコミュニケーションがなされる土台を持たないために、ハイコンテクスト文化において理解される機会を喪失しているのです。
僕は、このコミュニケーションの慣習が、農村型コミュニティの「個人」の発見を大きく阻害している、と考えます。

ハイコンテクスト文化においては「個人」は近似値としての「集団」によって把握されます。
逆にローコンテクスト文化においては「個人」は唯一無二の値として扱われます。
農村型コミュニティは「円周率は3.14とする」で満足してしまいますが、都市型コミュニティは円周率が無限小数である(終わりがない)ことを認めながらも、正確な値を追求するために演算を絶やすことがありません。

ハイコンテクスト文化の”既存”の文脈は、先述したとおり”定型文”的であるという言い方ができるかもしれません。
「AであればB」という認識が予め共有されていることで、はじめてAという”定型文”はコミュニケーションの中に活用されます。
逆に、コミュニティ内でこのような共通の認識が存在しない新しい文脈を導入することは困難を伴う、というわけです。

このように農村型コミュニティにおいては”定型文”的に、限定的な枠組みの中で「個人」を理解することとなるため、「個人」は均質化する傾向にあります。
ここでは、「あなたという人間は何者なのか?」という問いが明示的に発せられることはありません。
「個人」は暗黙的に、コミュニティ内の”既存”の文脈に基づいて相手に理解されるのが普通であって、「私は何者か」を言語によって積極的に説明するシチュエーションに出くわすことは、実はほとんどないのです。

日本は世界的に見ても極めてハイコンテクストな社会であるとされています。
もともと日本語に「Self-Identity」に該当する日本語が存在しなかったという話も、うなずけます。


批判的な書き方になりましたが、ハイコンテクストな社会でなければ出現しなかった文化もあります。俳句や短歌はそのひとつでしょう。
また、「あなたは何者か」を問わない農村型コミュニティは寛容である、と捉えることもできます。

グローバリゼーションが歪ませる農村型コミュニティ

こうしてみることで、農村型コミュニティでは「個人」という概念が希薄であるということの一定の説明が可能になったように思います。
日本語では「自己同一性」と訳される「アイデンティティ(Self-Identity)」という概念について言えば、同質性が前提としてある農村型コミュニティにおいては自己と他者の区別も明確ではなく、他の何者でもない自分を自覚することは困難な作業だったのではないでしょうか。

これを踏まえれば、グローバル社会において進行する「個人化」という社会構造と農村型コミュニティの形成原理との間に齟齬があることが分かります。
そもそも農村型コミュニティにおいては「個人」という概念が希薄なのですから、コミュニティが解体され「個人」という単位がむき出しになった社会の中で、農村型コミュニティの元構成員たちが適切に振舞えるのか、という問題が生じるだろうとは容易に想像できます。

その結果として良く槍玉に挙げられるのが「孤独死」という事象ですが、コミュニティの解体により表面化した”社会の膿”は、より複雑な側面を持っているように思います。
例えば、(学識ある方からの指摘も多いところですが)「秋葉原通り魔事件」もまた、所属するコミュニティを失った一人の男性の悲劇として捉えることができます。
僕が現代社会の構造の歪みを強烈に意識するきっかけとなった「大阪市・2幼児遺棄事件」も、コミュニティの喪失による孤独なシングルマザーという加害者像をイメージさせます。

これまでの農村型コミュニティと「個人化」する社会の齟齬が”歪み”を生じさせている中、そこここで発生している悲しい事件は、社会の傷口である”歪み”から垂れ流されている”膿”のイメージを想起させます。
しかし、上に挙げた二つの事件の加害者は、「個人の倫理観の欠如」や「異常性」ばかりが指摘される結果となりました。
僕らは、「こちら」と「あちら」というように自分たちと加害者を容易に区別するだけで、言うなれば加害者たちを”膿”と見て、それを洗い流すことだけで事なきを得ようとしているのではないでしょうか。
僕らは社会構造の”歪み”の修復に着手することはなく、未だ発見されぬまま放置された”歪み”からは静かに、しかし淡々と”膿”が流れ続けている。
残念ながら、そんな状況のように思えてなりません。

コミュニケーションはどう変わるのか

グローバリゼーションの到来が、社会の「個人化」を推し進める働きをしたと書きました。
この点は既にメディアでも取り上げられており、多くの社会理論でも指摘されているところです。

「個人化」が進んだ結果、”既存”の文脈はますます共有の難しいものになりつつあります。
併せて、シングルペアレント世帯の増加などライフサイクルも多様化し、一人一人をまとめてラベリングし、集団的に理解するという行為がますます成立しにくくなっています。
そのため、最大公約数的なモデルケースをベースにするという発想に基づいた社会的な支援では、個人の抱える問題を処理できなくなり、結局個々人が自らの課題を自ら解決する必要が生じてきます。
この構造は「自己責任」の論調に拍車をかけており、就職できないことも結婚できないことも貧困に陥ることもすべて個人の自己責任として片付けられる傾向があることも見逃せません。

「個人」が強調されたために、お互いを理解できる共通の文脈は失われつつあります。
ここにおいて人と人との間のコミュニケーションを成立させる方法を改めて考えるべきでしょう。

農村型コミュニティが用いていたような共有可能な文脈を新しく創り出すか、「個人化」を徹底的に推進するか。
いずれにせよ、これまで用いられてきた文脈の活用は期待できず、言語等をベースとした積極的なコミュニケーションが求められることが予想されます。

伝えるべきことを一から言葉にすること。
「わたし」と「あなた」の間を隔てる差異を飛び越えるだけの表現力と説得力を持つこと。
これを僕は「言語化」と呼び、 「個人化」の時代において必要なのは「言語化」の能力である、と考えるわけです。

「言語化」とは、「差異とは何か」を暗黙的でない形で(明確に近くできる形で)表現/理解すること。
繰り返しになりますが、「わたし」と「あなた」はすでに明確な差異を持つことは前提とされています。
(実際、「みんなちがって、みんないい」という言葉があるのですから!)
これこそが「個人化」時代のルールであり、「言語化」の能力が求められる背景なのです。

まとめに代えて

ここまで、「言語化」の台頭した経緯を僕なりに整理しました。
長くなりましたが、これまでブログで書いてきた内容をここにまとめられた感があります。

では「言語化」の能力はどうやって鍛えられるのか。
まだ僕の中で課題として残っていますが、「他者」の認識が重要になるだろうという仮説を持っています。
そのあたり、「「他者」を発見する国語の授業 」などを参考にしながらまとめていきたいと思います。

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