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2011年から学んだ、2012年の個人的なキーワード

カテゴリ:自分事

あけましておめでとうございます。

2011年は海士町での生活を始めてから一年が経ちました。
ようやく海士町という地でやるべきことが見え始めた今、2012年を迎えるにあたり、さらにその先のこともにらみながら、どのようなキーワードが自分の中にあるのか、ここで改めて言葉にしてみたいと思います。

1.「変数を増やす」

年末、ある人との会話をきっかけに整理されたことがあります。
それは、物事に関わる変数をできるだけ把握しようとすることが最適解を見つけることの助けとなる、ということです。

経済学でも、数理モデルでもそうですが、初歩的な数式は現実には「ありえない」ような単純なモデルから出発しています。
そして、現実に即したモデルを作ろうとすると、変数が増えて数式がどんどん複雑になり、それを解析することはますます困難になります。
しかし、その複雑さの中に飛び込まない限りは、その学問分野を通じて現実的な最適解に近づくことはできません。

「商売をする」とか「物事を動かす」というときに、ステークホルダーをできる限り把握しておかないと、短期的には無視できたとしても、長期的には弊害が生じるかもしれません。
物の売り買いは、単に商品とお金を交換する行為に留まりません。
商品、価格、サービス、コミュニケーション、利便性、売り手と買い手の関係性…。様々な要素が絡みます。

こうなってくると、自分ですべてをコントロールすることは難しくなってきます。
しかし、ここで重要となるのはコントロールできることに集中する、という作法であるように思います。
これは「プランドハプンスタンス理論」にも通ずるものがあります。
不確実なことばかりの世の中で、より確実なこととは、乏しい情報量でそれらしいキャリアプランを立てることよりも、目の前にあるやるべきこと・やりたいことに注力することではないでしょうか。

変数をあえて増やし、不確実で予測不可能な中に身を投入すること。
そこから、21世紀の個人の生き方、社会のあり方が見えてくるように思います。
僕らは、どう頑張ってもその時点での「最適解」を導き出すことしかできないでしょう。
しかし、(というかだからこそ)それを常にimproveすること、今できるベストを尽くすことの意義がますます見直されるのではないでしょうか。

2.「コミュニティ」

個人的に追求している「コミュニティ」というテーマ。

海士町という濃厚な関係性が色濃く残るコミュニティの中で暮らすことで、経験として学ぶことが多くありました。
また、それと平行してさまざまな書籍に目を通すことで、自分自身の興味や問題意識をより掘り下げることができています。

また、このテーマは、やはり多くの人がなんとなくでも考えていることでもあり、いろいろな背景を持った方と話をすることで、驚くほどの気づきを得ることができます。
特に、この年末年始は多くのことを整理することができました。
こちらはまた改めて記事としてまとめたいと思っています。

3.「やりたいこと」より「やるべきこと」

これはjGAPに寄稿させていただいたエッセーにも書きました。

まずは”現場”に行くことが重要
 振り返ると、中途半端な知識やスキルがないことが「運の始まり」でした。「できること」に縛られると「やりたいこと」にこだわってしまい、「やるべきこと」からずれたことをしでかしていたかもしれません。「成功体験に頼るな」「0から考えろ」とよく言いますが、地道に目の前の仕事を積み重ねて漸く「やるべきこと」を見出したことで、その意味を実感した次第です。

 机上の学びもまた必要ですが、本質は現場にあります。「やりたいこと」が現場で求められる「やるべきこと」とは限らないという事実、そして現場の課題に直に触れることの重要性は、東京を離れ、海士町という現場に出なければ実感できなかったでしょう。最近は「社会貢献したい」という人が増えていますが、まずは現場に行ってみるべきです。「やりたいこと」と「やるべきこと」のギャップを見つけたら、そこからが勝負だと思います。

「なぜ、私は新卒で就職したIT企業を1年半で飛び出して、島根県・海士町に移住したのか?!」

「地域活性化」や「社会貢献」の文脈において、本当に意味のあることについて考えることが多いです。
僕が「二足の草鞋」的に関わっていたWE LOVE AKITAの活動も、パートタイムで取り組める限界を意識させられることが多々ありました。

秋田が抱える問題に対する本質的なアプローチを、秋田から遠く離れた首都圏で、仕事の片手間で実践することは非常に難しい。
だからこそ、僕らは自分たちができることをわきまえ、一つ一つ実績を重ねてきました。

一方で、そのような活動で「飯を食う」ことの大変さも実感しています。
海士町のように、行政が受け皿となってプロジェクトベースで島内外から人を集めるということは、秋田ではほとんど行われていません。
どうしたって、手作りで物事を進めていく必要があります。
幸い、秋田には”とんがった”人と人とがつながり、支えあうネットワークが形成されつつあります。 
その中でどのように地域にコミットし、貢献していくのか。
海士町での経験から多くのことを学ぶ一方で、ますます悩みや不安に気づいてしまっているのが現状です。

今年は、海士町での仕事にコミットしながら、「帰り方」を模索する一年になりそうです。

4.当事者性

2011年で読んだ本の中で、「多くの人に読んで欲しい!」と最も強く思ったのが、「困ってるひと」でした。
「ビルマ」に 傾倒し、「難病の当事者」になり、でも「女子」。その「リアル」がここに描かれています。

僕が思ったのは、「当事者」と「そうでない人」の間の隔たりの大きさを認めざるを得ない、ということ。
当事者でない僕は、当事者の気持ちになんかなれないのです。
わかったふうな口を聞く前に、当事者の声に耳を傾け、当事者を取り巻くものたちをできるだけ把握しようとする誠実さを発揮する以外にないのです。

しかし、「こちら」と「あちら」の間に境界線を引こうとする態度も、同時に反省しなければなりません。
「当事者性」の境界は曖昧で、何かの拍子に簡単に飛び越えられてしまうものなのだ、という自覚もまた必要です。
「当事者」は「こちら」に対する「あちら」ではなく、単に「可能性」としての僕らなのです。

日本社会が抱える貧困の問題も、他人事ではありません。
最近ニュースで頻繁に耳にするような悲しい事件は、残虐な誰かの仕業なのではなく、歪んだ社会が膿を出すように、”たまたま”僕ではない誰かが社会から排除されてしまった事態であると考えるべきでしょう。

僕としては、今後もこの意識を持つことが、秋田へ戻ったときの大きな手助けとなるのではないかと思っています。

5.あきたびじ

秋田魁新報の元旦号でも大きく取り上げられていますが、海士町のサザエカレーなどを手がけたデザイナー・梅原真氏による秋田の新しいキャッチコピーが発表されました。

http://common.pref.akita.lg.jp/akitavision/

「あんべいいな 秋田県」
「秋田は冬のほうがいい」

魅力的なキャッチコピーとクリエイティブが完成しました。
あとは、この成果物を僕ら自身が大事に活用することが必要です。

つくりっぱなしにしない。 
自分たちなりにこのコピーを解釈しながら、どのように秋田の魅力をコミュニケートしていけるか。
県民一人ひとりに託されている、そんな、ずっしりとてごたえのあるメッセージになっているように思います。

梅原さんのすごいところは、デザインを単に外部の人とのコミュニケーションだけでなく、内側の人とのコミュニケーションのパイプづくりに活用している点です。
きっと、このコピーを通じて、秋田に関わるたくさんの人が、改めてそれぞれの秋田の魅力に思いをはせるきっかけが生まれるのではないでしょうか。

とにもかくにも、期待大!です。

関連する記事

「コミュニティ 安全と自由の戦場」中編:ペグ・コミュニティをどう捉えるか?

カテゴリ:読書の記録

前編では、資本主義の浸透とグローバル化による社会の変遷と、日本社会でも顕著に見られる「自己責任社会」の到来について本書の内容に沿ってまとめてみました。
それは同時にコミュニティが幻想に成り下がる経緯でもあり、本書の表題として掲げられているコミュニティの要素が薄いじゃないか、という印象をもたれた方もいらっしゃるかもしれません。
実は「安全をもたらすものがコミュニティである」という前提があるからこそ、この議論がコミュニティという切り口のおかげで一貫性を維持できていると思っているのですが、それが伝わらないとすれば僕の文章力不足の問題です。

中編では、前編でも言及された「グローバル化」によって引き起こされる社会やコミュニティの課題について整理します。
この部分に関する著者の論述は迫力があり、示唆に富んだものでした。

現実的に考えて、グローバル化そのものを悪とみなすことは、ナンセンスです。
グローバル化の荒波を乗り切るためには、複雑に絡み合う因子を丁寧に紐解きながら、波に乗るべきところは乗り、負担の特に大きい部分について適切に処置を施すことが必要です。
グローバリゼーションが何をもたらすのかについてできる限り正確に把握するという第一歩を踏み出すために、本書から学ぶことも少なくないと思います。

二つのコミュニティの混同

第5章で、「美的コミュニティ」という言葉が登場します。
これはまた、グローバル社会の到来にしたがって現代社会に出現したものであり、安全と等価であり、自由を代償にして参加することのできる(従来の)コミュニティとは異なる特徴を持っています。

二つのまったく異なる型のコミュニティは、目下流行中の「コミュナリズムの言説」において、あまりにもしばしば一まとめにされ、混同されている。いったん一まとめにされると、二つを引き離していた明らかな矛盾が、哲学的問題として、あるいは洗練された哲学的な議論によって解決できる難局として、誤って伝えられるようになる。つまりは、この矛盾は、現実にある正真正銘の社会的衝突の産物としては描かれなくなるのである。

コミュニティ 安全と自由の戦場

第5章の最後に、著者はこう言い残しています。
この結論を検討するための材料をそろえるために、まずは「美的コミュニティ」が出現した背景を整理します。

人々は次から次へと危険な選択をし(結局のところ、わたしたちはみなリスク社会で暮らしており、そのような世界での生活はリスク生活なのである)、その選択で自分が願う有益な結果が得られるか必ずしも確信がもてずにいる以上、多少の安心材料が不都合であるとは、よもや思わないであろう。

(中略)

このような時代に、さまざまな判断を示して―言葉にされるか、行為を通じて明らかにされる判断によって―人々を安心させることのできる権威は、二つある。いや、二つ残っているだけである。一つは専門家、すなわち「人よりもよく知っている」(その能力の範囲が広いために、素人が調査したり検証したりすることができない)人々の権威である。そしていま一つは、数の権威である(数が多ければ多いほど間違っている可能性は低い、という仮定に基づく)。前者の権威は、リスク社会の脱領域者たちを、「カウンセリング・ブーム」のうってつけの市場にする。後者の権威は、かれらにコミュニティの夢を見させ、夢想のコミュニティに形を与える。
(下線は引用者追加)

コミュニティ 安全と自由の戦場

リスク社会(グローバル社会)到来
→個人が自ら判断しなければならない時代へ
→判断を保証する安心材料が希求される
→「専門家の権威」と「数の権威」だけが頼りとなる

著者の言う二つの権威のうち、「数の権威」が「美的コミュニティ」の形成を助ける形となりました。
「美的コミュニティ」とは、「同じ意見をもち、同じ行動をする人々」の 「同一性のコミュニティ」であり、「個人が選択したアイデンティティにしっかりとした基礎を与えてくれる」ものです。

「美的コミュニティ」の一つの例として、本書では「偶像(アイドル)」が紹介されています。
偶像とは、本書内ではテレビなどメディアに顔を出す”有名人”のことで、数の権威が信頼できる手本とする「大衆がいつも目にする人々」です。

“有名人”は常にゴシップの対象とされ、彼・彼女ら本来の人間性を暴露されるリスクにさらされています。
昨今は低俗な芸能ニュースに辟易した声もちらほら挙がっていますが、実際には彼・彼女らの暗い過去や遍歴-孤独と戦う体験-を求めているのは、視聴者でした。
彼・彼女らが望む・望まざるを問わず暴露される過去の情報は、観客に「安心感」や「帰属感」をもたらします。
リスク社会の中では、個々人は孤独な戦いを強いられます。その孤独を埋めるのは、スポットライトを浴びる人々の孤独です。
孤独を共有しているということが、コミュニティ意識、そして安心感を生み出すのです。

もう一つ、偶像には”都合のよい”性質があります。それは、すぐさま「取って代わられる」という”有名人”の典型的な特徴にあります。
常時変化する社会の中で生きている誰もが、安定や永続がないという不安に苛まれることは避けられません。
そこにおいて”有名人”の移り変わりの激しさは、むしろ常に変化する現代社会を体現しており、その不安定性を肯定するという機能を果たしています。
観客は、きらびやかにステージをにぎわせたと思ったらあっという間にお笑い番組やオリコンチャートから消えていく”有名人”を見て、社会の不安定性を容認し、「そう悪いものでもない」という保証を見出しているのです。

著者は、有名人というペグ(杭)を中心とし、擬似的に/表面的に形成されるという美的コミュニティの特徴を強調して、「ペグ・コミュニティ」という言葉も併せて用いています。
この「ペグ・コミュニティ」は、容易にイメージできるように、現代社会において大量に生産され、消費されています。
周辺環境の変化のスピードにより、常時不安定な立場におかれる個人のアイデンティティがその安定性を保つために。

ペグ・コミュニティの捉え方

これまで述べたとおり、「ペグ・コミュニティ」は「長期の関与、譲ることのできない権利と揺るぎない義務から組み立てられる必要」のある「倫理的なコミュニティ」(=安全と等価なコミュニティ)とは全く性質の異なるものです。
形成されるモチベーションは類似していますが、両者を一緒くたに「コミュニティ」として論じることで、社会構造の変遷を誤って捉えることに留意しなければならない、ということが分かります。

個人的に、この分類から共感や共有といった価値観の再評価に至る経緯を深堀りできるのではないかと思います。
著者の定義に従えば、僕が在京時に参加していた「WE LOVE AKITA」も、同じ価値観を共有した者の集まる「ペグ・コミュニティ」の一つと言えるでしょう。
コミュニティ形成の前提には「長期の関与」などなく、「倫理的なコミュニティ」に分類するにはさすがに気が引けます。

このようなコミュニティは(著者の指摘するとおり)近年になって多数生まれているという事態になっています。
多数生まれているのは、著者の言う”都合の良さ”がその背景にあるからです。
一方、その効力としては、個人のアイデンティティを支えるのみならず、(特にローカルな)地域社会に対して、無視できないインパクトを生むに至るコミュニティも表れています。

「地元愛」や「やりがい」、「社会貢献」に関連するキーワードが大量生産・大量消費されているという状況は僕自身も昔のブログで指摘したとおりであり、「大量生産・大量消費」という言葉を用いていることからも分かるとおり、そこにはネガティブな見方が含まれています。
ところが、単に一時的・表面的な安心感や、数の権威を借りたアイデンティティの表明以上の事態が生じていることも、無視できません。
著者の言う「倫理的なコミュニティ」以外のコミュニティのあり方が、評価の対象となる時代が来ているということかもしれません。

端的な例は、「シェア <共有>からビジネスを生みだす新戦略からビジネスを生みだす新戦略」に読み取ることができるでしょう。
所有から利用へと価値観が移行するにつれ、「自己表現」の手段としてのコミュニティが台頭してきていますが、そこでは経済性のとらえ方が変わり、人と人とのつながりが再評価されるようになってきました。
グローバル社会では人々は関与を避けたがるようになり、リスクを個人で請け負うようになるとは著者の指摘するところですが、一部では(本当にごく一部でしょうが)その関与に注目する人々が増えてきているのです。

ペグ・コミュニティの効力については、今世の中で起きているムーブメントについても加味する必要があるでしょう。

あとがき的な

本当はこれが後編になるはずでしたが、思った以上にペグ・コミュニティへの言及に字数を割いてしまいました。
次回が(おそらく)最後になるかと思います。

関連する記事

「コミュニティ 安全と自由の戦場」前編:自己責任社会の到来

カテゴリ:読書の記録

今年の1月末に購入したものの途中で挫折して放置していた本書。
久々に手にとって見たら、独特の文体は相変わらずなものの、読み応えを感じながら読破できました。

「コミュニティ」という言葉は至るところで耳にしますが、他の多くのものがそうであるように、その背景には「コミュニティ」自身が崩壊しつつある、ということと、「コミュニティ」の効用が求められている、という現代社会の二つの側面が潜んでいます。
本書は、「グローバル化」―資本主義の浸透―と社会の変化を振り返りつつ、現代社会で表面化する幾つかの問題について「コミュニティ」を中心に据えながらその構造にメスを入れる、というような構成になっています。

ここで告白しますが、(恥ずかしながら)僕は再読するまで「グローバル化」が本書のキーワードであることをはっきり認識していませんでした。
そのためもあって、読後、本書に描かれている「グローバル化」とコミュニティの変遷の関係を反芻するにつけ、じわじわと感動が湧き上がってきています。

「コミュニティ」。ぼんやりと、方向性も特に定めずに、自分なりに探究していたテーマ。
僕がこれまでのブログで触れてきた要素が、本書にはちりばめられています。

この記事のまとめ

驚くほど長いので、先にまとめを書いておきます。
ちなみにこれで前編です…。

・コミュニティは、安全と等価であるが、代償として「自由」を支払わなければならない。
・人間は、安全と自由の両立を求めるが、実際にはそれは両立し得ない。

・近代は「個別化」という現象を呼び、人々に自由への欲求を喚起させたが、実際に自由のメリットを享受できるのは限られたエリートたちだった。
・安全なコミュニティが個別化の風潮に解体され、社会的な統制がつかなくなった(と一方的に考えられた)「大衆」は、労働者として監視、管理の元に置かれるようになった。
・権力者が大衆を積極的に監視、管理するコストは増大していった。

・資本主義が一層浸透するにつれ、経営者はダウンサイジングやアウトソーシングを取り入れ始める。変化は激しくなり、不確実性が社会を席巻するようになった。
・社会が確かなものを提供できなくなり、大衆は個々別々に不安と対峙し、自分の身の回りを守るために競争する必要が生じた。
・権利上の機会は一見平等に保障されているものの、結果については格差が一層強化されるようになっている。

コミュニティとは何か

(本書を読んでなお、コミュニティを定義することには気が引けてしまいますが、)著者の立場を端的に示す一文が、終章の冒頭に記されています。

わたしたちはコミュニティがないと、安心して暮らすことができない。

コミュニティ 安全と自由の戦場

コミュニティは「安全」と等価です。そして、無条件で得られるものではありません。

「コミュニティの一員である」という特権には、支払うべき対価がある。コミュニティが夢想にとどまっている限りは、対価は害にならないが、目につくこともない。対価は、自由という通貨で支払われる。この通貨は、「自律性」「自己主張の権利」「自然にふるまう権利」など、種々の表現で呼ぶことができる。どのような選択をするにせよ、得るものもあれば、失うものもある。コミュニティを失うことは、安心を失うことを意味する。コミュニティを得ることは―たまたまそんなことがあればだが―即座に自由を失うことを意味する。

コミュニティ 安全と自由の戦場

「安全」と「自由」を取り巻くこのジレンマは、多くの現代人が抱えているものです。
多くの人は「安全」と「自由」の両立を”夢想”し、努力を重ね、そしてほとんどの場合、それは夢想のままで終わっています。

コミュニティを脅かしたもの―近代主義

コミュニティが「安全」を提供するもの、と認識されるということは、逆に言えばそれが客体化されるような歴史的背景がそこにある、ということでもあります。
人間がコミュニティの当事者でなくなり、コミュニティが求められる対象となる(認識されるものとなる)までの変遷を、著者は近代以前、近代、現代と時間軸に沿ってまとめています。

コミュニティは、家庭内手工業から工場制手工業へ徐々に移行してきた、あるいは貿易が盛んになってきたという時代において危機に直面しました。
「自由」を獲得し、謳歌するためには、直感的に理解できるように、十分な資産が必要となります。
徐々に富を持つ人が現れるようになった結果、条件をクリアできる一部の人たちから、自由への憧れが芽生え始めます。
(もしかしたら、そのモチベーションには「コミュニティからの撤退」も含まれていたかもしれませんね。)
著者は、ジャン=ポール=フィトゥーシとピエール=ロザンヴァロンの研究からの引用を紹介しています。

近代的個人主義は、人々の解放の動因であり、自律性を高め、権利の担い手を作り出すが、同時に不安の増大の要因でもあって、だれもが未来に責任をもち、人生に意味を与えなければならなくなる。人生の意味は、もはや外側の何かがあらかじめ与えてくれはしないのである。

コミュニティ 安全と自由の戦場

この表現は、現代を生きる私たちにも、ストンと腹に落ちてくるものではないでしょうか。
「近代性のトレードマークと言うにふさわしい個別化」という潮流が、安心と自由が取引される土壌を生み出したのです。
こうしてコミュニティの束縛は、資本主義の浸透と、自由への憧れという時代の流れとともに、解放の道を歩むこととなりました。

しかし、先に述べたように、「自由」を獲得したとしても、その効用を最大限享受できるものは、一部の人間です。
そうでない人々―自由という大海で不安に溺れる人―を、フロイトは「大衆」という言葉で表現し、「怠惰で知能が低い」とばっさり切り伏せてしまいます。
こうして大きく二分された勢力にそれぞれ呼応する形で、近代社会は二つの顔を持つことになります。

ピコ・デッラ・ミランドラの仲間たち(※引用者注:著者の用いるレトリックで、富裕者や有力者を指す)にとっては、文明とは「自分を自らの望み通りのものにする」明るく澄んだ呼びかけであり、この自己主張の自由に制限を設けることは、おそらくは文化的秩序のための避けがたい、しかし悲しむべき義務であり、支払う価値のある代価に該当した。「怠惰で情念に支配されている大衆」にとって、文明は何よりもまず、かれらがもっているとされる不健全な傾向を抑制することを意味した。そのような傾向は、もし解放されたならば、規律正しい共同生活を破壊するものとされたのである。近代社会のこの二つの部分に属する人々にとって、提供される自己主張の機会と要求される規律のミックスの割合は、まったく異なっていた。
(※下線は引用者による)

コミュニティ 安全と自由の戦場

「コミュニティ」の慣習や決まりといった「古いルーティン」から解放された怠惰な大衆を、「産業革命」と呼ばれたムーブメントの中で「工場」に引っ張り出して「仕事」に縛り付けるためには、「新しいルーティン」が必要だったのです。
そうして、常に大衆を監視し、管理し、規律を強要する「パノプティコン(一望監視施設)的」な権力が形成されていったのでした。

一言で言えば、大転換の時代は、関与 engagement の時代であった。

コミュニティ 安全と自由の戦場

前世紀的な近代の特徴として、支配者と被支配者は共に依存する関係であったことが挙げられます。
労働者が働かねば、工場主はその富を増大させることができないわけですが、そのための方法として、権力を持つ人々は積極的な「関与」、つまり管理を強める方針をとったのが、産業革命初期の時代でした。

しかし、このパノプティコン型の権力は、コストがかかり、しかも膨れ上がる一方、という欠陥を持っていました。
(部下がきちんと仕事をしているか疑えば疑うほど、マネージャーの時間が管理にばかり費やされてしまうように)

「リキッド・モダニティ」と撤退、そしてエリートの離脱

積極的に被支配者に関与し、規制を強化する、といった状況は昨今ではそこまで見られません。
むしろ、「規制緩和」という言葉の方が、馴染みがあるのではないでしょうか。

今日巷で話題の「規制緩和」を、権力者のだれもが戦略的原則として称賛し、実際に採用している。「規制緩和」は、権力者が「規制」されること―選択の自由を制限されたり、移動の自由を抑制されたりすること―を望まないという理由で、人気がある。しかしまた(おそらく第一義的には)かれらが他者を規制する関心をもうなくしていることが、その理由である。

コミュニティ 安全と自由の戦場

「大いなる関与 engagement」の時代から、「大いなる撤退 disengagement」の時代へ。
キーワードは、 変化、スピード、不関与、フレキシビリティ、ダウンサイジング、アウトソーシング。
ここには富のさらなる拡大の意図と同時に、強固な関与を前提とした「固定的近代」への反省―コストの増大―が見られます。

この時代において、権力者の支配の基盤は、「恒常的な不安定性」にシフトします。

わたしたちはみな不安に襲われる。流動的で予測できない世界、すなわち規制緩和が進み、弾力的で、競争的で、特有の不確実性をもつ世界に、わたしたちはみなすっかり浸っているのだが、それぞれ個々別々に己の不安にさいなまれている。つまりは私的な問題として、個々の失敗の結果や、自身の臨機応変の才あるいは機敏さへ挑みかかるものとして、不安に見舞われるのである
(※下線は引用者による)

コミュニティ 安全と自由の戦場

不安を個人がそれぞれの形で抱えざるを得ないこの社会を、ウルリッヒ・ベックは「リスク社会」と呼び、著者は「リキッド・モダニティ」と表現しました。
その不安に対峙するために、「大衆」と称された人々は自己に投資し、競争し、自分で自分の身の回りの安全を確保するように動かざるを得ません。
ここにおいて権力による積極的な統制は不要となります。

一方、エリートたちの振る舞いはどのように変化したのでしょうか。彼らの言い分はこうです。

他の人々がいまのかれらのようにふるまいさえすれば、かれらのようにならないはずはない、と思っている。

コミュニティ 安全と自由の戦場

経営者や成功者の著書が氾濫し、「自己啓発」が世を謳歌する現代日本をずばり言い当てているような指摘がなされています。
「私はこうやって成功した」という”伝記”は、「だからあなたも成功できる」と鼓舞するかのように囁きかけてきますが、その裏では「つまり、あなたが失敗するのは、あなたのせいだ」という冷ややかな視線を浴びせられるかのように感じる人もいるでしょう。
あたかも「自分たちの背後の跳ね橋を吊り上げておくことに」するかのように。
そして彼らグローバルズは、自らを縛る関与を我慢してまでコミュニティの恩恵を預かる必要は、もはやなくなるのです。

自己啓発がはこびる風潮は、「権利上の個人(de jure)」と「事実上の個人(de fact0)」のギャップが激しい現代だからこそ起きうることです。
成功者が言うように、現代社会はあたかも「誰もが成功できる」状況にあります。
例えば、機会均等という言葉は、この状況を端的に表しています。
しかし、実際問題として、多くの人が成功にありつけるわけではない、という現状も多くの人が実感していることでしょう。
というよりむしろ、資本主義は競争を煽り、限られた成功者が自身の自由を維持するために格差を一層助長したり、再生産するという循環を作り出している、と言っていいかもしれません。

このギャップを、例えば苅谷剛彦は「自己実現アノミー」と呼びました。
キャリア教育の名の下に「社会人基礎力」なるものを身につけ、就職実績を出すことを被教育者に求められていますが、しかし実際にはすべての人間がその要求を叶えられるわけではありません。
社会に要求を突きつけられながら、しかし一方でその要求を実現するためのレールは提供されず、自分で何とかしなければいけないのです。

終わりに―前編を書き上げてみて

特に、「不確実な近代(リキッド・モダニティ)」の記述において、著者は、「自己責任社会」と指摘される日本の現状を的確に表現しているように思えます。
個人的に、「コミュニティ」や「自己責任」という言葉は僕がばらばらにしか考えることのできなかったテーマであり、本書を読んだことで一つの視点を得たことは有益でした。

こうまとめてみると、まるで「当たり前のこと」のようにも思えてしまいますが、僕にとってはだからこそ説明しがたい類のものであったように思います。
「当たり前」のこと、経験的に馴染んでしまったものを客体化し、議論の俎上に載せるというのは、実は大変骨の折れる作業です。

前編では、本書の記述に沿って主に時間軸でコミュニティやそれを取り巻く社会の変遷を追ってみました。
後編では、さらに現代の問題がコミュニティという切り口でいかに語られるかをまとめて行きたいと思います。

※あからさまにおかしいところはぜひご指摘いただけると喜びます。

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