カテゴリ:読書の記録
2011/09/28
日本の精神医療は、端的に言って「遅れている」。
本書を読了後、そう思わない人はいないのではないでしょうか。
個人的には、本書の眼差しを「精神医療」の範疇に留まらず、「社会的弱者」として社会から包摂されることなく、隔離されてしまった人たちを多数生み出している日本社会に対する大きなアンチテーゼとして捉えるべきではないかと感じました。
本書のポイント
タイトルどおり、イタリアは一八〇号法によって精神病院の新設を禁止し、予防、治療、リハビリは原則地域精神保健サービスの範疇で行うことを定めました。
この一八〇号は、イタリア精神医療改革の立役者の名前を取り、通称「バザーリア法」と呼ばれています。
本書の主張から先に並べてみます。
1.精神病患者の症状の悪化や慢性化は、精神病院の環境や治療方法によるところが大きい。
精神病院がますます患者の症状を悪化させている、というのがイタリアの精神保健改革者たちが口をそろえるところです。
逆に、地域医療(community medicine)の考え方により患者を社会で生きる一人の人間として捉え、患者が地域の中で生活しながら治療やリハビリを行うことで、患者は自己の病と共存しながら社会生活を営むことができる、ということを、著者は繰り返し主張しています。
ここで重要なのは、「目的」の設定の違いです。
精神病院では「何をしでかすかわからない患者を管理する」ことが重要なテーマでした。
ここには「臭いものには蓋をする」という精神が見え隠れします。
翻って地域医療では、患者を社会的に包摂すること(social inclusion)を重視しています。
彼らは、「困った患者」ではなく、地域医療サービスの「利用者」であり、「生活者」なのです。
生活と医療を切り離す既存の精神病院のあり方とは異なる患者観、精神医療観がそこにあります。
実際、イタリアの精神保健最先端の地では患者が地域内に居住できる住宅や生協などの職場が提供され、地域の中で他の住人と同じように生活を営めるような環境作りがなされています。
精神病院の、まるで収容所のような”管理”体制については、ぜひ本書をお読みになって確かめてみてください。
※もちろん、すべての精神病院がそうである、ということではないはずです。念のため。
2.精神病院よりも地域医療の方がコストが安い。
地域医療のほうがこれまでの精神病院での治療よりも効果が高いだけでなく、コストが安い。
それもあってか、著者はイタリアの精神保健のあり方を絶賛しています。
実際、イタリア精神保健改革の最先端の地・トリエステ県では、精神医療費が1971年から1985年にかけて37%も削減された、と本書に記されています。
3.精神病院から地域医療への移行はそう簡単ではない。
とはいえ、治療効果やコスト削減のメリットを享受するためには、精神病院から地域医療への抜本的な移行が必要です。
著者によって絶賛されているイタリアですが、実際はまだまだ精神病院から脱却できない地域が残っているようです。
アメリカでも、精神病院の撤廃を進める政策がとられましたが、結果としては失敗しました。
なぜか。精神病院は縮小したものの、その次の受け皿となる地域医療サービスの拡充が進まなかったためです。
そのために、患者は精神病院から追い出され、そのままホームレスとなる人が続出しました。
精神病院の縮小と地域医療サービスへの移行はセットで行われる必要があります。
単に精神病院を規制すればよいわけでなく、地域医療サービスの拠点作りや旧来の精神医療従事者を地域医療サービス従事者へのシフトといった大仕事が多数発生することになります。
地域医療サービスは、医療従事者が患者の生活に入り込むことが求められます。投薬や入院による管理によって”楽に”稼ぐ事ができなくなるわけです。
改革は容易、とはとても言えないのが実情なのです。
イタリアにおけるトリエステ県を中心とした壮絶な改革のストーリーに触れたい方は、ぜひ本書を手にとってみて下さい。
4.日本の精神保健事情は遅れに遅れている
筆者が批判するような、精神病院を中心とする管理型の精神医療は、未だに日本のスタンダードのようです。
本書が世に出されたモチベーションも、おそらくそこが根本にあるのでしょう。
本書の巻末に日本における地域医療の事例が幾つか紹介されていますが(「べてるの家」なんかは有名ですね)、公的な対策がなされていないため、まだまだ個別の努力によって成り立っている部分が大きい、という印象を受けます。
「やどかりの里」を設立した谷中輝雄氏(精神科ソーシャルワーカー・現、仙台白百合女子大学教授)は本書の中でこのように語っています。
「やどかりの里は、精神病院から退院したくても引き受けてのない人々を退院させたいという、やむにやまれぬ事情から誕生しました。開始して間もなく、六十人ほどの利用希望者が現れたが、それは病院から出たいという人ではなくて、在宅で入退院を繰り返したり、医療を中断したりした統合失調症の人々でした。あれから二〇年の歳月が流れ、制度が変わって、やどかり周辺はアパートや作業所などもふえ、地域生活支援センターが配置された。やどかりの園域は、人口三万~五万の五つの区域に分けられて、三六五日、二四時間の支援体制もできた。そして、一〇年、二〇年という長期入院者が利用するようにもなった。でも、全国的にみれば、社会で暮らすシステムは全く不十分ですし、病院の患者抱え込みもなくならない。今、やるべきは、公的な二つの政策の遂行でしょう。国は、精神科病院のベッドを一〇年で半分にするための計画を立てて実行する。各市町村は、精神病の人々がそれぞれの市町村の中で暮らせるような社会資源をつくる。日本の精神保健の本当の夜明けは、この公的責任が果たされた時だと思います。」
精神病院を捨てたイタリア 捨てない日本
日本の精神病院、そしてベッド数は世界でも群を抜いて多い、ということも本書には書かれています。
精神病院乱立の構造については、著者の仕事の中で繰り返し指摘されているようですので、ぜひそちらをご覧になってください。
本書の主張は精神医療だけに留まるのか
個人的には、イタリアの精神保健のあり方―患者は生活者であり、精神医療は地域という生活の場をベースに行われるべきだという立場―は、いわゆる”社会的弱者”と呼ばれるような人たちを生み出さない社会の実現に向けて、重要なヒントを投げかけているように思います。
所得格差、ジェンダー、アクセシビリティ、エスニシティ、マイノリティ…。
日本に生まれたからには、ほぼ例外なく何らかの社会(人間集団により構成された単位)の中に属することになります。
その「社会」が、すべての人にとって適応可能なものであることは、ほとんどの場合疑わしいでしょう。
欠陥を持つことが不可避である人間社会において、すべての人が生活を営める状況をつくりだす。
これこそが「福祉」という言葉のベースにあるのではないでしょうか。
そのためには、弱者は保護し、管理し、隔離する=社会から切り離すのではなく、共に地域で生活する=社会の一員として包摂するという観点が非常に重要である、そう考えます。
その観点からも、多くの人にこの本を手にとって貰いたいですね。
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カテゴリ:自分事
2011/07/27
『子育て支援』って一体なんだろう。子どもを育てることにも支援が必要な時代になったのだ。昔は地域で子どもを育てることが当たり前のような社会だったはず。高度成長期以降、核家族化がすすむなか社会にも会社にも家族にもさまざまな変化が見られるようになった。それらが「豊かさの代償」だとすると豊かさの意味を問い質さなければならない、と一時的に熱を帯びた議論が展開された。しかし、物質的欲得から離れられず、結局、議論のみがずっと空に浮いたままの状態で、あたかも答えに辿り着きたくないかのような不誠実さを感じるのはボクだけだろうか。見かけは議論、内実はアポリア(思考停止)、あまりに切ない現実。
子育て X 地域。 | | Lua Pono Communications
「豊かさの代償」と捉えるかどうかは慎重に検討する必要がある、とふと思いました。
「豊かさの代償」という言葉には、「選択可能である」というニュアンスがこめられています。
僕らは自分たちの意思で豊かさを追求し、一方でその代償を甘んじて受け入れることとなった。
しかし、これまでの人類は代償のことをさほど気にかけているようには思えません。
おそらく、今後も。
もしかしたら、僕らはこの未来を選択できたわけではないんじゃないか。
何か大きな流れが、あるいは人類の見えざる意思が、僕らをここまで運んできたのではないだろうか。
情報社会(知識社会)で子育てをしているお母さんたちは当然のごとく情報過多に陥っている。今日お邪魔したNPOでは定期的に独自のアンケート調査をしており、その中でいまのお母さんたちが一番悩んでいるのが、「躾」である。一歳や二歳で躾も何もあったものではないと思うのだが、「脳教育」だの何だのと否が応にもどんどん情報が流れ込んでくる。
子育て X 地域。 | | Lua Pono Communications
情報化社会において、自分に入ってくる情報を制御することはそう簡単ではありません。
むしろ情報過多になる方が”普通”かもしれない、と思えるほどに。
「情報リテラシーを身に付けろ」とよく言うけれど。
個人の問題に帰着しても、実は根本的な問題解決にはならないのではないか。
こんな時代だからこそ、改めて本質が問われているように思います。
僕らはもっと現実を直視する必要があるのかもしれません。
「今の時代、情報過多にならないほうがおかしいよね」と。
前提を踏み外してしまうことは、問題解決においてあってはならないことですから。
彼女たちの情報源は雑誌やネットが主らしい。特にほとんどが携帯で情報収集をしているという。授乳中が唯一ゆっくりとケイタイをみられる時間だそうだ。そんなときこそ子どもの顔をじっくりみてあげて欲しいという現場スタッフの方の感想がとても印象的だった。ベビーカーを押しながらあるいはファストフードのお店で子どもに食事をさせながらケイタイを操作しているお母さんを見かけるが、何かに憑依されているのではないかと思うほど集中している。ちょっと怖い気もするが・・・。
子育て X 地域。 | | Lua Pono Communications
この文章を読んで、「ん?おかしくない?」と感じた自分に気が付きました。
授乳中が唯一ゆっくりとケイタイをみられる時間だそうだ。そんなときこそ子どもの顔をじっくりみてあげて欲しいという現場スタッフの方の感想がとても印象的だった。
子育てを経験したことのない僕であっても、「現場スタッフの方」の意見は、ごくごく当たり前のことのように思えます。
雑誌やネットで情報収集を行う彼女たちが、なぜそれに気づかないのか。
こんな動画もあります。これ、大学生がつくったんですよ。
大学生が問題意識を持っていることに、なぜ当事者である母親たちは無関心なのでしょうか?
どんな構造がそこにあるのか。
これも「情報リテラシーの欠如」の一言で済ますこともできます。
果たして、それでよいのでしょうか。
港北区のモザイクモール内にスタバがある。平日の昼過ぎに行くと夕方まで席をとることが難しい。その一角は必ずといっていいほどベビーカー数台と数組の親子が占拠している。ママ友同士で仲良く話に華を咲かせている、といった風景なのだが、実は人間関係に悩んでいるお母さんもいるそうだ。笑っているのだが、楽しくはない。疲れる。行きたくない。そんな気持ちでいるのだが、ママ友同士で集まるときには、また、参加しているという。当然ストレスが溜まり子育てに疲れる。虐待に発展するケースも少なくないという。これらの問題の根底にあるのは『孤独』だ。相談する相手がいない、何が正しい情報か分からない。外からみていたのでは分からない現実がここにもある。
子育て X 地域。 | | Lua Pono Communications
『孤独』におびえる母親たち。
しかし、彼女たちは「ママ友」というコミュニティにおける孤独にだけおびえているのでしょうか。
誰が彼女たちの味方なのでしょうか。
子育てに悩むお母さんはまじめな人が多いという。鬱病を発症する人もまじめで細かいコトにこだわるタイプの人が多い。どちらにも共通してみられる「まじめさ」というのは、執着とつながりその先にある思い通りにしたい、という欲求の裏返しでもある。思い通りにならないからストレスがどんどん溜まる。
子育て X 地域。 | | Lua Pono Communications
「まじめさ」とは何でしょうか。
「自分で何とかする」という気持ちの表れなのか。
思い通りにならなかった自分の人生の鬱憤を晴らしたいという欲求なのか。
子育てを通して「いい母親」像に近づこうという必死さなのか。
なんとなく、そこには「子ども」自身が対象としてしか存在しない感覚があります。
(あと、父親の存在感も。)
ボクたちは地域社会の中で子どもを育てるとう視点を回復しなければない、というとあまりにも陳腐化されたフレーズにしか聞こえない。しかし、これを本気でやるかどうかが20年後の子どもたちの笑顔につながるのだ。
子育て X 地域。 | | Lua Pono Communications
そしてこの結びにつながるわけです。
この記事において「地域」という言葉は冒頭と文末にしか登場していません。
しかし、この記事が捉えてようとしていたのは、まさしく「地域社会」の機能なのです。
母親たちを悩ませているのは、紛れもなく”現代病”です。
僕らは、その発症のメカニズムを丁寧に解き明かしていく必要があるように思います。
そのためにも、今まさに起きていることをきちんと見つめることが必要だ。
この記事を通して、そのようなメッセージを感じてしまった僕がいます。
既存の知識や枠組みを安易に当てはめることは、問題解決にとってさしたる貢献とはならないわけで。
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カテゴリ:世の中の事
2011/07/05


先日の東京訪問ではこの本のことがちょこちょこ話題に上がりました。
で、昨日の日記でちらりと書いたこと。
コミュニティを変えるなら、外からコミュニティに関わらなきゃいけない。
コミュニティに入り込むということは、 そのコミュニティと運命を共にするつもりがないと。
約4ヶ月ぶりの東京で感じたこと
「コミュニティデザイン」という考え方は、外からコミュニティに関わっているということが前提としてあるはず。
つまり、こう思うのです。そのコミュニティにずっと属している人には「コミュニティデザイン」なんて発想はできないと。
異なるコミュニティがあるから、コミュニティの存在が認識される
アキタ朝大学のHPに掲載いただいた記事にも書きましたが、
「コミュニティを問いなおす―つながり・都市・日本社会の未来
」では以下のようにコミュニティを分類しています。
・生活のコミュニティと生産のコミュニティ(場の役割)
・農村型コミュニティと都市型コミュニティ(形成原理)
・時間コミュニティと空間コミュニティ(志向性)
日本古来の農村をイメージすればわかりますが、ここまで明確に分類できるようになったのは最近のことだと思います。
生活と仕事の場が分かれ、どのコミュニティに所属できるかが選択可能になり、さらにコミュニティが多様化していく。
高度成長期やインターネットの普及など、時代の流れがあり、サンプルが増えたから、分類が可能になったのでしょう。
基本的にはライフステージにあわせて所属するコミュニティが移り変わりすることによって、コミュニティというものの存在がはじめて認識されるはずです。
今までのコミュニティとは異なるコミュニティに属することが否応なしに起こる現代では、コミュニティの存在を意識しない方が難しいと言えるかもしれません(もちろん、人によって意識する・しないはあると思いますが)。
ヨソモノという立場になってはじめて見えるもの
「コミュニティデザイン―人がつながるしくみをつくる
」の著者、山崎亮さんが情熱大陸で印象的なエピソードを語っていました(以下、うろ覚えなので誤解が含まれているかもしれません)。
山崎さんは親御さんが転勤族だったため、多くの転校を経験してきたそう。
転校先でうまくやっていけるかどうかをいつも不安に思う彼は、ごく自然に”誰が「ガキ大将」ポジションなのか”、”どういうグループがあるのか”というふうに、クラスの人間関係を観察するようになったそうです。
山崎さんは転校という「異なるコミュニティへの移行」の経験から、自分が「ヨソモノ=コミュニティの外側の人」であることを自覚した上で、どうやって既存のコミュニティに入り込むかを考え、その結果いわば「人間相関図」を描く力を身に付けた、と僕は捉えました。
「コミュニティに入り込む」という発想は、「ヨソモノ」という立場になってはじめてできること。
学校の同級生というコミュニティは基本的に生年月日によって強制的に形成されるコミュニティであり、その中で自分がコミュニティの外側に位置することを自覚する人はそう多くはないでしょう。
自ら置かれた環境下で身に付けたこの距離感の取り方、コミュニティとのかかわり方こそが、山崎さんのスタンス、そしてコミュニティデザインという考え方の原点になっているのではないでしょうか。
ヨソモノの自覚と都市型コミュニティの形成原理
これ以降は余談というか思い付きです。
単に転校して「名目的に」同級生にはなったものの、どうにも自分が同級生であるという「実感」が得られない。
そのコミュニティが単に所属するもの(条件を満たせば自動的に資格を得るもの)ではなく、参加するもの(自ら参加条件をクリアする必要があるもの)だと気付く。
自分がヨソモノであると自覚することで、コミュニティとコミュニティの間に”違い”を見出す、ということはありそうです。
特に同級生というコミュニティは、その強制参加という形成原理からして、コミュニティの構成員に対して農村的な同質化を求める傾向にあります。
同級生コミュニティのヨソモノであるということは、「みんな一緒」の中で「自分は違う」ということ。
それって、もしかして都市型コミュニティへの参加の第一歩なんじゃないか。
都市型コミュニティは、経歴に関わらず、価値観や目的を共有することで参加条件を満たした異なる個人どうしが集まることで成立しています。
自分は他の人と違うという自覚が、自分自身の他人とは異なる価値観や目的意識の認識につながるのかもしれません。
ちょうど、アイデンティティが「どんな他人を選んでも自分とは異なる」ということを指し示すように。
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