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「いい大学に入ったのに、勿体ない」の誤り

カテゴリ:世の中の事

「いい大学に入ったのに…」

高校・大学の同期である友人が実家の農業を継ぐことを決めたとき、多くの人はネガティブな反応を示したそうです。

いい大学に入ったのに、農業なんて勿体無い

確かに、僕と彼の通う大学の卒業生は名の知れた大手企業に就職する人が大多数です。
そういった企業に入り定年まで勤め上げた方が生涯年収としては稼げると考えるのがむしろ普通の感覚と言えます。
比較対象が(国全体としては)斜陽産業である農業なのですから、なおさら。

しかしながら、それに反してリスクの高いベンチャー企業に就職したり、定職に就かずフリーになったり、起業したり、田舎暮らしをはじめたり。収入にはそこまでこだわらず、自分のやりたいことをやる。
特に社会人になってからそういう知り合いが増えました。絶対数は少ないですが、意外と出会うものですね、こういう人たち。

海士町に集まるIターンの方々も、ざっくりまとめるとこういうカテゴリに属していると思います。
よくメディアでも取り上げられますが、Iターンの方の学歴を見ると大卒がほとんどで、難関大出身者も少なくありません。
Iターン者の前職を見ても、有名企業出身者が珍しくありません。

Iターンした側からすると、自分の学歴や職歴に対して特段こだわりはないというのが実際のところです。
僕も新卒で働いていたころと比べて現在の年収は半分ですが、今の仕事にはとても満足しています。

新卒でマッキンゼーに入社したのに、退職してお笑い芸人になった女性もいますね。
東大→エリートコンサルタント→お笑い芸人の道を選んだ石井てる美とは? – NAVER まとめ

端から見ると「勿体無い」のに、当の本人はさほど気にしていない。
なぜこのようなことが起こるのでしょうか。

高学歴であることの意義

一般的に、学歴に比例して生涯年収は決まると考えられています。実際、統計をとるとそうなるようです。
高学歴であるからには高賃金の仕事に従事するべきだ、という”ジョーシキ”はここから導き出されるわけです。

高学歴であることは単に高賃金の仕事に対するアクセスのよさを示すものであって、「べきだ」まで言ってしまうのは固定観念といえるでしょう。
高賃金にありつくチャンスをものにするかどうかは個人の能力うんぬんの前に自由の問題である、ということがまずひとつ。

そして最も重要なのが、高学歴者の方が多くの選択肢を持っているという点です。
多くの選択肢を持っているのに農業を選ぶ、これを勿体無いと言う前に立ち止まってみましょう。
高賃金にありつける機会に恵まれていることは、選ぶ本人も認識しているところではないでしょうか。
それにもかかわらず、大企業ではなく農業を選ぶ。つまり、それだけの理由があるということになります。

さまざまな比較対象がある中で農業を選ぶということは、本人にとって目先の高賃金よりも農業が魅力的だからに他なりません。
乏しい選択肢の中からしょうがなく(消去法で)就職するのとはわけが違います。

ここに高学歴の意義があります。
選択の自由があり、かつ選択肢が多い状況となれば、それだけよい選択ができるチャンスがあるというわけです。
実際によい選択ができるか(自分が一生懸命になれる道を選べるか)は個人に委ねられますが、高学歴とはそれだけのメリットがあるということです。

下から上がるよりも、上から下りるほうが見えやすい

「学歴」の話に絞ってしまいましたが、何にせよ下から上がるよりも、上から下りる方が視野は広くなります。
選択肢に余裕がなければどうしても自分の意思よりも世の中一般の理屈を優先しがちになります。
自分の納得する選択をするためには、ある程度心の余裕があったほうがいい、というそれだけの話です。

逆に、冒頭の友人が大学進学をしていなかったら。
思うに、彼は農業を選ばなかったかもしれません。選べなかったというべきでしょうか。

いい大学に入ったのに、農業なんて勿体無い

これは大間違いで、実際のところはこう言い換えるべきなのです。

いい大学に入ったからこそ、農業を自ら選ぶことができた

と。いい大学に入って自分の可能性を広げたからこそ選べる”贅沢”な道を彼は歩んでいるのです。

その幸運は偶然ではないんです!

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プランドハプンスタンス理論の基本-正解を選ぼうとするな

カテゴリ:世の中の事

「選んだ選択肢を正解にする」

高校2年の終わりに某S予備校主催の勉強合宿に参加したときに聞いたのがこの言葉。

正解を選ぼうとするな。選んだ選択肢を正解にするんだ。

一語一語正確に覚えていませんが、趣旨はだいたいこんな感じ。
英語講師の大島先生の言葉です。
(高校時代の教員の名前もうっかり忘れてしまうほどなのに、大島先生の名前は覚えているんですよね)

大島先生はこの話を結婚に例えていました。

“理想の伴侶を選び出すなんて土台無理。むしろ選んだ相手を理想の伴侶に仕立て上げる方が合理的である。”

この言葉は今でもはっきり覚えています。講義の内容はすっかり忘れてしまったのに。
そして、僕は大学生活や就職活動など分かれ道に立ったときにはいつもこの”格言”に立ち返っていました。
もちろん、東京での仕事を辞めて、海士町に来るときも。

あるとき、「その幸運は偶然ではないんです!」という本を読んで、気づきました。
「この”格言”は、まさにプランドハプンスタンス理論そのものじゃないか」と。

プランドハプンスタンス理論(Planned Happenstance Theory: 計画的偶発性理論)が提唱されたのは1999年。
提唱者であるクランボルツ教授らは数百人に及ぶ成功したビジネスパーソンへの調査の結果、その内の8割が「いまある自分のキャリアは予期せぬ偶然に因るものだ」と答えるという驚きの結果を得ました。
そこから導き出されたのがこの理論です。

プランドハプンスタンス理論とは

プランド・ハップンスタンス理論は以下の3つの骨子から構成されます。
【1】個人のキャリアは、予期しない偶然の出来事によってその8割が形成される
【2】その偶然の出来事を、当人の主体性や努力によって最大限に活用し、キャリアを歩む力に発展させることができる
【3】偶然の出来事をただ待つのではなく、それを意図的に生み出すように積極的に行動したり、自分の周りに起きていることに心を研ぎ澄ませることで自らのキャリアを創造する機会を増やすことができる

Educate.co.jp | プランド・ハップンスタンス理論

先述したとおり、プランドハプンスタンス理論は「キャリアは偶然に左右されて形成される」ということを前提とします。
したがって、偶然を機会に転換できるかどうか機会となりえる偶然を自分の手元に引き寄せられるかどうか、が鍵となります。

ここでは中長期的な計画の必要性は問われていません。
仕事や学習の目標が不要というわけではありませんが、クランボルツ教授は逆算方式について無駄どころかかえって有害ですらある、と指摘しています(詳しくは後述)。
ゴールを一心に見据えるその目には、偶然は「機会の原石」どころか「単なる障害」になりえるからです。
しかし、偶然に左右されるキャリア形成において偶然を見逃すことほどの損失はありません

では、偶然をキャリア形成に活かすには日頃どのような態度をとればよいのでしょうか。

【1】好奇心 : 新しい学びの機会を模索せよ
【2】持続性 : 失敗に負けずに努力し続けよ
【3】柔軟性 : 姿勢や状況を変えよ
【4】楽観性 : 新しい機会は必ずやってきて、それを自分のものにすることができると考えよ
【5】冒険心 : 結果がどうなるか見えない場合でも行動を起こせ

この5要素が求められるスキルになります。
いずれも最近のビジネス書で注目されているものばかりであり、その重要性は言うまでもありません。

その幸運は偶然ではないんです!」で僕が注目したのは、「【5】冒険心」の話。
つまるところ「リスクをテイクしろ」という提言ですが、あえて危険の中に身を投じろと言っているわけではないことに注意が必要です。

むしろクランボルツ教授は「いきなり大きなリスクを取るな」と主張します。
新しいチャレンジは小さく始め、いい手応えがあれば足場を固めた上で大きく踏み出せば良いのです。

今の仕事とは畑違いのマーケティングに携わりたいと思ったとき、いきなり今の仕事を辞めるのは得策ではありません。
マーケティングの業務経験がないのであれば、「隣の芝生が青く見えた」だけかもしれない。
やはり「こんなはずじゃなかった!」と後悔する回数はなるべく減らしたいものです。

決断を急ぐ前に、お金や時間を投じなくてもできることはいくつもあります
例えば関連書を読んだり、勉強会に参加したり、実際にその仕事をしている人に話を聞いたり…。

そうして「やっぱりマーケティングが面白い!」と実感できたら、具体的に動き出せばいいでしょう。
うまくいけば、勉強会などで知り合った人脈に頼って転職先の候補を見つけることだってできます。
ちょっと足を踏み出すことで、新しい出会いが思わぬ契機をもたらしてくれる可能性があるのです。

本書では「フツーの人たち」のエピソードがふんだんに紹介されているのも好印象です。
「偶然の機会」は誰にでも訪れうるという事実を、より身近に感じることができるでしょう。
小さな次の一歩を踏み出すヒントを得ることができるかもしれません。

キャリア教育の大きな問題

さて、ここで現行のキャリア教育の問題に触れつつ、既存のキャリア感の課題に触れてみます。

小中高で行われているのは、今の自分の興味・関心から将来やりたいことを考え、それを実現するためにどのような進路をとればいいかを計画させるものが主流です。
まずはゴールを設定させ、そのゴールまでの道のりを逆算で考えさせるわけですね。

この逆算方式には限界があることがお分かりでしょうか。
まず、キャリアを考える子ども自身は、働くということ、そしてキャリアを形成するということについて実体験を持たず、知識もほとんどありません。
最近では職業体験の取り組みが盛んですが、これはあくまで体験であり、労働の対価として報酬を得る経験にはほど遠いわけです。
乏しい情報をやりくりして導き出された答えは、本当に自分のやりたいことを正確に反映しているものになるでしょうか
ゴールを決めるためには往々にして「自己分析」の手法が用いられますが、果たして子どもに適切な「自己分析」ができるのかも疑問が残ります。

さらに、将来が予測不可能な時代になっていることもまた課題となります。
世界はグローバル化のあらゆる現象の影響下に置かれつつあります。
僕自身の話をすれば、大学4年次の9月、リーマンショックが起こりました。
おかげで3年次に就職活動で足を運んだ不動産金融系の企業の多くが倒産の憂き目にあっています。
そんなこと、僕が就職活動をしていた頃にどうして予想することができたでしょう。

子どもたちがなりたいと思っている仕事は、10年後にはもうなくなっているかもしれません
10年後にはなくなるかもしれない仕事や働き方をゴールに据えさせることは本当に正しいことなのでしょうか。

ゴールを描いたところで、実現のための手段が十分に提供されるわけではない、という点も指摘せずにはいられません。
キャリア教育では子どもに「こうなりたい」を膨らませるよう求めるというのは前述のとおりです。
しかし、ゴールの実現に必要な手段に目を向けると、日本の学校教育で提供されるのは教科教育が主流です。
具体的な手段(技術・スキル)を得るためには、大学や専門学校に入らない限り支援できないわけです。
(職業訓練など具体的なスキルを伸ばす機会が与えられることがどれだけあるでしょうか?)
「自分らしさの追求や自己実現という欲求は強化されるのに、それを達成する手段が与えられない状態を、社会学者はアノミーと呼んでいるが、自己実現をめぐっても、まさに自己実現アノミーと呼べる状態が生じている。」とは苅谷剛彦氏の言。
職業高校でエンジニアとしてのキャリアを思い描きながら、実際に工学を学びゴールに近づく、というアプローチは、普通科が圧倒的多数(かつ職業教育軽視)の日本ではむしろ稀です。
※詳しくは本田由紀著「教育の職業的意義―若者、学校、社会をつなぐ」をご参照のこと。

こうして見ると、現行のキャリア教育―逆算方式には改善すべき点が多数あることに気づかされます。
自分のやりたいことを見つけることなんて、大人でも大変なのに…と思う方は少なくないはず。
それを大人よりも職業経験の乏しい子どもにさせているわけです。

また逆算方式は大学生の就職活動の際にも主流になっている点も危惧するべきでしょう。
就職活動中に考えたキャリアプランと、社会人5年目で考えるキャリアプランとでは、どちらの精度が高いかは明白でしょう
逆算方式で打ち立てたゴールを達成することがその時々のベストであるとは限らないのです。

限界を迎えつつある既存の理論からどのように方向転換すれば良いか。
その答えの一つとなるのが、プランドハプンスタンス理論というわけです。

プランドハプンスタンス理論の課題ともうひとつのキャリア理論

とはいえプランドハプンスタンス理論は「ビジネス書」的要素が強く、個人の努力に任される部分が多いのが難点です。
「キャリア形成の80%は偶然」という観点は非常に重要ですが、ともすれば自己啓発の論調を感じます。

このプランドハプンスタンス理論を取り込みつつ、異なるキャリア理論を提唱しているのが金井壽宏教授です。
彼の提唱する「キャリア・トランジション・モデル」は、「ヤング・ミドル・シニア」とそれぞれのライフコースごとにキャリアの性質や課題を整理し、一貫したキャリア・デザインについて論じています。
「トランジション」とは「移行」であり、あるキャリア段階から次のキャリア段階へ移る「節目」に彼は注目します。 
以前に書評記事を書きましたので、詳細はこちらをご参照ください

改めて、「正解を選ぼうとしない」

偶然に左右される世界では正解を選ぼうとする態度がかえって望ましくない結果をもたらすものです。
就職活動でいえば、入社前(どの会社に入るか)よりも、入社後(内定先で充実した仕事ができるかどうか)の方がよっぽど大事なわけです。

今この瞬間にベストを尽くすことこそが、将来の可能性を拡げてくれるもっとも有効な手段だと僕は思います。
どれだけ一生懸命将来のことを考えたとしても、今目の前にある仕事で結果を出し、スキルを積み、人間関係を深め、可能性を広げていくことを怠っては意味がありません。

僕自身就職活動を経て思うことは、その瞬間瞬間を充実させてきた人たちの方が魅力的である、ということです。
正解を選ぼうとするあまり周囲の目ばかりを気にするようになり、世間的な評価基準(そんなものがあればの話ですが)に基づいてできる限り良さそうなところへと流れていくだけになってしまうのがもっとも怖いのはご存知のとおり。
その態度には主体性など存在しえず、目の前を横切る偶然を機会と捉える目も当然欠如しています。

正解を選ぼうとするな。選んだ選択肢を正解にするんだ。

こんな時代だからこそ、この言葉は金言たりえるのです。
改めて大島先生に感謝しつつ、一生この言葉とともに生きていきたいと思っています。

色々と書きましたが、プランドハプンスタンス理論は21世紀の教養として
誰もが認識するべき多くの示唆を含んでいるものです。

プランドハプンスタンス理論を一度学んでみたい方は、
まずは提唱者であるクランボルツ教授の著書↓を手に取ってみてください。

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「生活保障-排除しない社会へ」に見る、これからの日本のヒント

カテゴリ:読書の記録

一年以上前に購入したものの、なんとなく消化不良のままだった本書。
最近改めて読み直してみたので、ここにまとめてみたいと思います。

生活保障=雇用+社会保障

まずはじめに、「生活保障」とは「生活保護」とイコールではありません。
著者の宮本太郎氏は、生活保障を「雇用」と「社会保障」の組合せの上に成立するものとしています。

本書の中では、雇用をロープ、社会保障をセーフティネットとして綱渡りのように例えていましたね。
基本的にはみなロープをたどって先を行くわけですが、時にはロープが切れたり、誤って落ちてしまうこともありえます。
そんなときは、(もう一度ロープに戻るためにも)セーフティネットに一旦受け止めてもらう必要がある、というわけですね。

これだけだと何のことかあまりよく分からないかもですね。
概念的なところを理解するために、このたとえを用いて各国の生活保障を表現すると次のようになるかなと。

・日本:「一本のロープで全部まかなえばいいじゃん!

日本の雇用慣行として、一つの企業にずっと雇われる終身雇用がベースとしてあります。
また、その対象となるのは基本的に男性で、女性は被扶養者として家族ごと男性の収入に支えられるモデルとなっていました。
つまり、「しっかりしたロープを一本用意すれば家族も含めてみんなゴールまで行けるでしょ?」という発想だったわけです。

ところが、ご存知の通り「しっかりしたロープ」自体が稀有になりつつあります。
ロープが突然切れたり、もともとロープの長さが決まっていたり、渡り切るには細すぎたり。
そんなロープが増えると当然ながらアクシデントでロープから落ちる人も出てくるわけです。

しかしながら、これまでの日本の発想においてはロープから落ちる(あるいは降りる)人のことは想定していません。
(つまり以前からシングルマザーの存在は日本の制度設計の構想外だったわけです)
当然ですよね。しっかりしたロープを張っていれば大丈夫と思っていたわけですから。

・スウェーデン:「古いロープはすぐ切れるから、新しいロープをどんどん張ってこうぜ。

対してスウェーデンはどうなっているかというと、スウェーデンは雇用保護法制が強い。
つまり、簡単には辞めさせられない仕組みになっていますが、一方で労組は個別の労使関係を保護するよりも積極的労働市場政策の下で雇用を流動化させながら完全雇用の実現を目指しています。

この考え方のベースになっているのは「就労原則」という言葉。
スウェーデンでは「皆が働くべき」という価値観が非常に強い。
じゃあどうやってその思想を実現しているかというと、「ハイロードアプローチ」という戦略がその答えです。
つまり、生産性の低い斜陽産業を守ることで雇用を保護するのでなく、失業者も高付加価値産業にどんどんシフトさせ、同時に労働市場外で職業訓練等スキルアップの機会を用意するわけです。

古いロープを修繕するのではなく、新しいロープをどんどん張っていく。
そして新しいロープをみなが掴めるようにセーフティネットのトランポリン(失業者を労働者に戻す)機能を強化する。
日本とはずいぶん異なるアプローチであることがお分かりかと思います。

ところが、高付加価値産業はそもそも雇用収容性が低い(たくさんの人を雇う必要がない)。
それによって徐々に新しいロープにありつけない失業者が増えてきているという問題も出てきています。

デンマーク:「とにかくみんなロープを渡ろうぜ。たとえロープから落ちたとしても何とかするぜ。

デンマークといえば「フレキシキュリティ」という言葉で知られるとおり、労働市場の柔軟性を担保しつつ社会保障を組み合わせた体制によって失業の抑制を試みています。
デンマークは同じ北欧であるスウェーデンと異なり、雇用保護法制は弱い。
その分労働市場が柔軟であり、かつ積極的労働市場政策に基づいて職業訓練プログラムが多数用意され、しかも長期にわたる失業手当がある。
デンマークの労働市場は辞めやすい(し辞めさせやすい)、流動的な環境になっています。
そのため、転職率も非常に高い(年間に労働者の3分の1が転職)。日本とは世界が違う感じがしますね。

スウェーデンと異なるのは、労働力を生産性の高い部門へ誘導していないこと。
労働力の動向は市場に委ねられているのです。

セーフティネット(失業手当と職業訓練)の充実によってロープから落ちることが怖くないという状態を作れれば、確かにロープを渡る恐怖は和らぐでしょう。
雇用のみでなく、社会保障も含めて生活の保障を図るので高負担・高福祉型の社会にならざるを得ませんが、中小企業の多いデンマークにおいては雇用に頼ることの限界が早くから認識されていたのかもしれません。

 

このような比較の仕方ではどうしても日本が見劣りしてしまいますね。
著者も、これまでの日本の「殻の保障(雇用自体を保障)」から北欧型の「翼の保障(労働市場の流動化を前提に新しい雇用への道を切り開く)」への転換を主張しています。

重要なのは、雇用だけで生活を保障することの限界が指摘されている点です。
社会全体でセーフティネットの充実を図らなければ、失業者どころか、被雇用者すらも安心して働くことができない社会がじわじわと到来していることを認識するべきでしょう。

新しい生活保障の4つの観点

 本書の第4章にて、著者は新しい生活保障には以下の4つの視点が必要だと述べています。

柔軟性
男性が稼ぐという従来の日本型雇用は限界を迎えています。
家族構成を見ても核家族化が進み、ひとり親世帯数も昔の比ではありません。
ライフスタイルが多様化する中、一通りのレールを用意するのではなく、各自の状況に柔軟に対応した制度が求められます。

就労を軸とした社会参加の拡大
ここが著者の面白いところで、人は雇用によって「生きる糧」を得るだけでは生きていけない。
他の人とつながり、承認される「生きる場」 もまた必要である、という立場をとっています。
当然ながら、働くことを通じて人は社会参加を果たすことができます。
そのためにも働けない人をサポートする職業訓練や職業紹介、さらには保育サービスなどといった制度の充実が求められます。
また、仕事の人間関係だけで閉じないためにも、地域の自治活動やNPO,ボランティア活動への参加を促す方向も意識するべきでしょう。
実際、このような考え方はソーシャル・インクルージョン(社会的包摂)と呼ばれ、ヨーロッパでは広く注目されています。

補完的保障
雇用の二極化が進み、すべての人が仕事を通じて大きな見返り(つまり、所得)を期待することが難しくなっています。
その問題は例えば日本においても「ワーキングプア」という形で露呈しています。
最低賃金の引き上げや均等待遇の徹底は当然のことながら、勤労所得以外にも公的な保障を組み合わせることで生活を維持できる状況をつくるが求められるでしょう。

合意可能性
生活保障は広く国民の合意を得られるものでなければなりません。
というのは非常に当たり前のことに聞こえますが、個人化・流動化が進み、人々が個別具体的な課題を抱えている昨今においては、大多数による合意形成は非常に難しくなっています
実際、「格差」問題が叫ばれる中でも、日本の社会保障改革は一向に進まず、むしろ社会保障の引き下げを望む声も大きくなっています。
これは、「格差」の問題が我が事でない人たちが大多数を占めているからです。
(おいおいは自分たちの問題になりうることには気づかずに)

このような状況では政治もポピュリズムに陥りやすくなります。
公務員は日本人の共通の敵としやすく、そのため国家公務員の給与が引き下げられました。
それによって一体誰がハッピーになるのか、浮いたお金でどうするかはさほど問題でなく、敵を引き摺り下ろすことが第一というわけです。

こんな状況で合意形成は非常に難しい。だからこそ合意可能性が問題に挙がるわけです。
そのためにも公正で透明度の高い制度設計が求められるでしょう。

アクティベーションという考え方

 上記4条件を満たすものとして、本書では「アクティベーション」という考え方が紹介されています。

社会保障の目的として、人々の就労や社会参加を実現し継続させることを前面に掲げ、また、就労および積極的な求職活動を、社会保障給付の条件としていこうとする発想である。スウェーデン型生活保障や、イギリス労働党が掲げた「第三の道」がこの議論の系譜に属する。

※太字は引用者による

生活保障 排除しない社会へ (岩波新書)

「就労及び積極的な求職活動を、社会保障給付の条件としていこうとする」とはどういうことでしょうか。
具体的には、失業者に対して無条件にではなく、職業訓練を受けることを条件として失業給付による所得保障がなされる、といった具合です。

アクティベーションは、人々がその生涯でさまざまなタイミングで働き始めたり退職したりすることを前提に、就労と社会参加の支援をする。その限りで柔軟な、つまり多様なライフスタイルに対応した生活保障である。また、就労を軸とした参加の拡大については、これこそがアクティベーションの目的であり、職業訓練や教育などに政策の重点が置かれる。
(中略)
さらにアクティベーションは、就労を奨励するために、労働市場の見返りを高める所得保障改革も重視する。たとえば、スウェーデンの社会保険給付が現行所得に強く比例するかたちになっているのはその一例で、所得比例給付は就労意欲を高め た。
(中略)
さらにアクティベーションは、合意可能性の高い生活保障であると言える。なぜならば、「ただ乗り」の可能性があるベーシックインカム型の生活保障に賛同しない人々も、「自助の公助」という観点から就労を支援することには支持をよせるからである。

生活保障 排除しない社会へ (岩波新書)

著者はアクティベーションについて4条件に照らし合わせてこのような評価をしています。
では、雇用と社会保障をより密接に連携させた「生活保障」のモデルを見てみましょう。
本書では雇用と直接関わる政策領域に限定し、機能別に4領域にまとめています。

Ⅰ.参加支援…生涯教育、高等教育、職業訓練、保育サービスなど
Ⅱ.働く見返り強化…最低賃金制度、均等待遇、給付付き税額控除など
Ⅲ.持続可能な雇用創出…新産業分野・「第6次産業」、公共事業改革など
Ⅳ.雇用労働の時間短縮・一次休職…ワークシェアリング、ワークライフバランスなど

さらにこのⅠ.参加支援については労働市場のライフステージが、教育、家族、失業、体とこころのよわまり・退職の4つのライフステージとそれぞれ接続され、状況に応じて行き来できるべき、と著者は主張します。

実際のところ、日本の現状は労働市場から他のライフステージに移るのが一方通行になっています。
教育過程が終われば就職するのが当たり前で、卒業後スキルアップのために大学に入り直すにも基本的に本人の努力次第です。
女性の場合は結婚・出産によって労働市場から一旦外れると、ブランクを経て正社員として戻るのは難しい。

この提案にこそ日本の構造的欠陥が見え隠れしています。
日本の雇用と社会保障の課題は、個人化・流動化する現代と既存の社会構造との歪みがもたらしたものです。
成長ではなく、目まぐるしい変化を前提にした「生活保障」を考えるためには、これまでの常識を一新しなければなりません。
「アクティベーション」はそのための手がかりとなるはずです。

まとめ

日本の労働市場は硬直化しており、結婚や出産、あるいは病気などで仕事から一旦離れてしまうと、その後もう一度仕事に就くということが難しくなっている。
日本社会自体も個人化・流動化が進み、これまでの男性稼ぎ主モデルの成立条件が整わず、さらにはそのモデルに当てはまらないひとり親世帯の貧困率はOECD諸国の中でも高い。
様々なライフスタイルに対応するためには、労働市場を流動化し、辞めやすく、かつ再就職しやすい環境整備が求められる。
そのためにも「辞めても安心」な法制度が必要で、失業給付や職業訓練などがそれに当たる。

同時に、今現在働いている人自身の所得もまた保障される必要がある。
ワーキングプアの問題は企業努力のみならず、均等待遇や最低賃金向上といった法制度によるアプローチも必要だ。

今働く人たちはそれなりの見返りを保障され、「辞めても安心」で、働く意思のある人にはきちんと手を差し伸べる。
当たり前のことなのかもしれませんが、それができていないのが今の日本です。
個人でも、企業でも、自治体でも、労組でも、国でも、どんな単位でも良い。
できることをそれぞれが探していかなければならない時代がすでに到来していることを改めて感じた次第です。

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