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現代文を巡る大学入試と国語の授業の問題

カテゴリ:世の中の事

学校の勉強を通して「社会で求められる力」を鍛えることができる。

僕が常々思っているところですが、そのときにいつも違和感を覚えるのが現代文です。
「現代文が解けても実社会では何も意味はない」という批判は少なくありません。

まず僕の意見を述べると、現代文を通じて実社会でも必要となる力を身に付けることができる、と考えています。
さらに言えば、現代文を解く力がある人は、現代文を無駄な教科と切り捨てることはそれほどありません。

とはいえ、現状の現代文に全面的に賛成するわけではないのです。
まず現代文を取り巻く大学入試と授業の二点を整理しながら、現代文という科目の意義について検討していきます。

現代文の大学入試の限界

大学入試における現代文は採点をする必要がある時点ですでに限界を迎える運命にあります。

文章は人の手を経て解釈されるものです。
複数人が同じ文章の読解に当たる際にはどうしてもずれが生まれます。
(それでも受験者の解答はある程度の範囲に収まってくるわけで、これはこれですごいことです)
採点をする必要上”答え”を用意せねばならないわけですから、ずれを免れることは難しいわけです。

「文章を正しく理解できたかどうか」なのか、「出題者の意図に沿うことができたかどうか」なのか。
どちらの基準で評価されているかどうか、曖昧にならざるを得ません。
ここに点数による評価を免れない現代文の入試の構造的な限界があります。

現代文の授業における課題

先ほど現代文の大学入試の限界を指摘しましたが、一方でその意義についても検討する必要があります。

現代文で問われているのは、読む力と書く力です。
(マーク の場合は読解がメインですが)

読む力の根本は「客観的に読むことができるかどうか」を問うものです。
「客観的」の反対は主観的。つまり、自分勝手な解釈で読むことは許されません。
文章に書いてあることを基に読解する。この態度が問われるわけです。
この客観性はビジネス上でも必要なものです。事実と解釈を分ける力がなければ良い議論はできません。

また、特に難関国立大の現代文は書く力として、300~400字程度の内容を100~120字程度に要約する能力を求めます。
問題の該当箇所を適切に探す力もさることながら、ポイントを外さずに内容を要約できるかどうかは実務能力のベースになるものです。

さて、例に挙げたのは入試で問われる能力についてでした。
しかしながら授業においてこれらの能力が実際に鍛えられているのかは別の問題です。

僕自身、高校の現代文の授業で読解力や記述の力が鍛えられたという実感はありません。
現代文読解において求められる力を体系的に教えてくれたのは参考書だけでした。
なぜ高校の授業では体系的なメソッドに一切触れないのか、不思議に思ったほどです。

ある人は「現代文は唯一大学入試に与しない独自の授業を展開している最後の砦だと思っていた」と話していました。
が、それが事実であるとしても、社会に出てからも求められる力を問うている大学入試を無視する正当性がわかりません。
(授業では根源的な力をより伸ばそうとしている、という ことかもしれませんが、実態は…)

まとめ

大学入試はテキストそのものではなく出題者との対話となるリスクを内包する点、
授業は大学入試が(そして社会が)要請する能力の向上に寄与していない点をそれぞれ指摘しました。

これは一側面に過ぎませんし、この指摘自体に批判が寄せられることもあるかもしれません。
僕自身はまずこの点を意識しつつ、現代文の意義とそのトレーニングの方法について考えたいと思います。

一方で、もっと根源的な、現代文教育自体の意義についても再検討する必要があるでしょう。
最近読んだ「「他者」を発見する国語の授業 」を基にしながら別途まとめていく予定です。

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いじめの構造(内藤朝雄):コミュニティの光と影【書評】(後編)

カテゴリ:読書の記録

前編はこちら

前編ではいじめのメカニズムについて整理しました。
これを踏まえつつ、後編ではいじめをどう排除するかをコミュニティの視点も加えながらまとめていきたいと思います。

学校という場に働く力学

まずは日夜(?)いじめが繰り広げられる日本の学校という環境に注目してみましょう。

日本は、学校が児童生徒の全生活を囲い込んで、いわば頭のてっぺんから爪先まで学校の色に染め上げようとする、学校共同体主義イデオロギーを採用している。
(中略)
若い人たちは、一日中ベタベタと共同生活することを強いられ、心理的な距離を強制的に縮めさせられ、さまざまな「かかわりあい」 を強制的に運命づけられる。これが自動車教習所とは異なる「学校らしさ」である。

※太字は引用者による

いじめの構造―なぜ人が怪物になるのか

学校は我々にとってみれば当たり前の存在ですが、著者はその「学校らしさ」の正体を暴いていきます。
確かに、学校というものは子どもたちを同年代というだけで同じ施設の中で集団生活をせざるを得ない状況にいきなり追い込んでいます。
入学試験や面接などの選抜はありません。当然、生徒も誰と同じ学校に行くかは基本的に選択できません。

いわばランダムに集められた子どもたちが、突如として集団生活を強いられ、「仲良くする」ことを要求されるわけです。
学校内でのあらゆる生活活動は集団化されているため、”自分の運命がいつも「友だち」や「先生」の気分や政治的思惑によって左右される状態をもたらす”と著者は指摘します。

加えて、教員を中心に学校が聖域化しているのも問題です。
実社会では法の下に罰せられるような暴力があっても、司法の手が学校内に入ることを極端に嫌がり、身内だけで処理しようとする学校の体制も、いじめにとっては好都合というわけです。

群生秩序を衰退させる方法

周囲の影響を受けざるを得ない環境では、各自が身を守るために集団の論理が加速され、群生秩序が前面化し、ついには市民社会のジョーシキは通用しなくなる。
逆に言えば、周囲から受ける影響を個人の選択で回避できる状況をつくれば、群生秩序が育まれるリスクは下がる、ということ。

また、前編でも解説しましたが、いじめる側は利害関係に非常に敏感です。
自分たちが明らかな不利益を被ると分かれば、いじめは一旦は治まります。
特に暴力については司法に訴える姿勢を見せることで見事に止みます。

これらを踏まえて、著者は短期的な方策として以下の二点を提案しています。

1<学校の法化>
加害者が生徒である場合も教員である場合も等しく、暴力系のいじめに対しては学校内治外法権(聖域としての無法特権)を廃し、通常の市民社会と同じ基準で、法にゆだねる。そのうえで、加害者のメンバーシップを停止する。

2<学級制度の廃止>
コミュニケーション操作系のいじめに対しては学級制度を廃止する。

いじめの構造―なぜ人が怪物になるのか

は唐突な気もしますが、著者の意図するところは、濃密な小集団の中に人を押し込めることで、いじめが発生する確率が増幅することを危惧したものです。
学級制度を廃止することで、親密な人間関係を選択する可能性を拡大しようというわけですね。

自由な社会と透明な社会

中長期的な政策を検討する上で理想とする社会構想として、「自由な社会」を掲げています。
一方、その対称的な位置にあり、いじめを引き起こすのが「透明な社会」の働きです。

透明な社会では、何がよい生であり、何がよいきずなであるかが、ひとりひとりの幸福追求をとびこえて決めつけられる。「われわれ」にとってのよい生は、すべての人にとってのよい生でなければならない。
(中略)
学校は、制服を着せ、靴下の色や髪の長さまで強制し、運動場で「気をつけ」「前へならえ」をさせたりすることで、生徒を「生徒らしく」しようとする。その生徒の「生徒らしい」隷属のかたちによって、単なる学習サポート・サービスを提供するための組織の敷地に、聖なる「学校らしい」学校が顕現する。なぜ生徒が茶髪にしてはいけないのかというと、それは聖なる「学校らしさ」が壊れるからである。

※太字は引用者による。

いじめの構造―なぜ人が怪物になるのか

透明というと聞こえはよいですね。
が、構成員が各々監視しあうガラス張りの環境下にいる、と想像してみてください。
このような状況では、個人に対する”周囲の目”の影響力は大きなものになります。
そこには個人の自由はなく、ただ集団の論理のみが残るのです。

学校は透明な社会である、と著者は主張し、この透明な社会を打破する必要を説きます。

もっとも重要な方針は、個人に特定の生のスタイルを無理強いせずにはおれないゆがんだ情熱と、利害図式(特に権力図式)が、構造的に一致するチャンスをなくしていくことだ。

いじめの構造―なぜ人が怪物になるのか

 そのための具体的な枠組みとして提示されているのが以下の二点です。

①現在、人々を狭い閉鎖的な空間に囲い込んでいるさまざまな条件を変える。生活圏の規模と流動(可能)性を拡大する。
②公私の区別をはっきりさせ、客観的で普遍的なルールが力を持つようにする。

いじめの構造―なぜ人が怪物になるのか

これが「透明な社会」を廃し、「自由な社会」を築くための基礎の枠組みとなります。

コミュニティとの紐付け

集団の論理を強いる「透明な社会」と、個人の自由が保証される「自由な社会」。
この両者はそれぞれ農村型コミュニティ都市型コミュニティの特徴と一致しています。

端的にいえば、ここで「農村型コミュニティ」とは、”共同体に一体化する(ないし吸収される)個人”ともいうべき関係のあり方を指し、それぞれの個人が、ある種の情緒的(ないし非言語的な)つながりの感覚をベースに、一定の「同質性」ということを前提として、凝集度の強い形で結びつくような関係性を言う。これに対し「都市型コミュニティ」とは”独立した個人と個人のつながり”ともいうべき関係のあり方を指し、個人の独立性が強く、またそのつながりのあり方は共通の規範やルールに基づくもので、言語による部分の比重が大きく、個人間の一定の異質性を前提とするものである。

コミュニティを問いなおす―つながり・都市・日本社会の未来

コミュニティを問いなおす―つながり・都市・日本社会の未来」の著者・広井氏は農村型コミュニティと都市型コミュニティの両立が望ましいと主張します。
いじめの構造―なぜ人が怪物になるのか」では「透明な社会」を排除するべき存在としていますが、都市型コミュニティは個人と個人のつながりをベースにしている以上、関係性構築が個人に依拠するリスクがあります。
「透明な社会」を「自由な社会」で代替する上では、「自由な社会」では実現できないことについても論ずる必要がありそうです。

「透明な社会」は「農村型コミュニティ」と特徴を同じくするとは言いましたが、「透明な社会」の条件についてもう少し細かく見るべきですね。
情緒的・非言語的なつながりは、時には田舎のおっちゃん・おばちゃんとの会話のようにどこか安心感をもたらすものであり、「透明な社会」の負の面はここには見られません。
ここを詳しく区別することで、「農村型コミュニティ」が牙をむく条件を整理することができそうです。

コミュニティの光と影

「コミュニティ」という言葉を最近至るところで耳にしますが、いじめが発生するような「透明な社会」も広義にはコミュニティです。

人が集まるところには、必ず光と影があります。
田舎のコミュニティは都会の生活にはない親密さ、温かさを持ちうる一方で、閉鎖的であり、異物を排除しようとする力が働けば簡単に人を傷つけることができます。
日本でも「津山三十人殺し」という悲惨な事件が起こりました。これも家族、そして農村というコミュニティが牙をむいた結果の悲劇です。

人とのつながりがあることで僕らが生きていられる、というのもまた事実。
コミュニティというものをあらゆる角度から見つめなおすことで、21世紀以降の新しい社会を描くヒントを得られる、そう思います。

今回は「いじめ」という問題が主題でしたが、これは日本に限ったものではありません。
コミュニティが諸条件を満たすことで、人をモンスターに変える力を持つ。
その事実に目を向けることで、人とのよりよいつながりを築くことのできる環境作りにようやく着手できるのではないでしょうか。

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いじめの構造(内藤朝雄):コミュニティの光と影【書評】(前編)

カテゴリ:読書の記録

大津市の中学校でのいじめが騒がれていますね。

個人的には、いじめの問題を「コミュニティ」の働きとして捉えることができないかと考えています。
参考のために、Amazonでも評判の良かった『いじめの構造―なぜ人が怪物になるのか』内藤朝雄著を読んでみました。

「コミュニティ」の問題としていじめを捉えていた僕にとっては当たりの一冊。
全7章ですが、特に後半の5~7章を中心に引用しながら、著者の主張を「コミュニティ」の面から整理してみます。

が、まとめると長くなったので、とりあえず1章~4章をまとめた前編をば。

いじめと秩序

人権派のジャーナリスト青木悦は、地元の中学校で浮浪者襲撃事件について講演した。大人たちが「人を殺したという現実感が希薄になっている」といったことを話しているとき、中学生たちは反感でいっぱいになった。ほとんどの生徒たちは挑発的な表情で、上目づかいににらんでいる。
突然女生徒が立ち上がり「遊んだだけよ」と強く、はっきり言った。まわりの中学生たちもうなずく。

いじめの構造―なぜ人が怪物になるのか

人を殺めてはいけないという普遍的な論理に対し、異常とも言える生徒の反応。
著者はこの異常性を、市民社会を取り巻く普遍的な秩序と、学校社会にはこびる秩序を区別することで説明を試みます。
いじめを引き起こし、人間を怪物にさせる力を持つ秩序を、本書では「群生秩序」としています。

“「いま・ここ」のノリをみんなで共に生きるかたちが、そのまま、畏怖の対象となり、是/非を分かつ規範の準拠店になるタイプの秩序”

これが群生秩序です。
群生秩序が普遍的な秩序よりも優先される ことにより、過剰な暴力や残虐な行為を伴ういじめが引き起こされるのです。

群生秩序が優勢となる有様を、著者は「寄生虫」の例えで説明しています。
群生秩序がはこびる社会が生徒の内面に侵入し、生徒が市民社会の秩序の下に振舞うことを許さず、群れの論理に従わせる。
このようなとらえ方から、著者のスタンスが見え隠れしますね。
いじめは人間自身が深く内面に持ち合わせた残虐性によるものではなく、一定の環境下で群生秩序に毒され、普遍的なルールが一切優先されない状態に陥ることで引き起こされるものであるわけです。
つまり、いじめは人間そのものの問題ではなく、人間を取り巻く環境(と秩序)に左右される、ということです。

なぜいじめるのか

さて、いじめる側は何を求めているのでしょうか。
言い換えれば、何がいじめる側の”メリット”なのでしょうか。

著者はこれは「全能感」という言葉で説明しています。
「むかつく」という不全感を「何でもできる」全能感で埋める。この終わりなきサイクルがいじめの原動力になっています。
また、権力もまた全能感につながります。集団の上位に立ち、群れをコントロールすることで得られる全能感から、群生秩序においてはスクールカーストのような権力の図式がよく登場し増す。

しかしながら、いじめる側も無闇に全能感を得ようとするわけではありません。
自分に不利な状況(これ以上やると警察に捕まる等)と判断した途端、いじめは一旦は止みます。
狡猾に利害計算をしているわけですね。

つまり、いじめる側が全能感を得ようとする行為(暴力、いたずら等)を制限するものがなければ、無限に全能感を得られるわけですから、いじめは際限なく(最悪、相手が死ぬまで)続きます。
また、この利害計算を骨格とし、自分がいじめる側に回り、いじめられる側にならないように振舞うべく、権力が形作られます。

後編に向けて

本当はいっしょにいたくない迫害的な「友だち」や「先生」と終日ベタベタしながら共同生活をおくらなければならないという条件に、さまざまな強制的学校行事が重なる。さらに暴力に対して司直の手が入らぬ無法状態であるということが、(中略)集団心理-利害闘争の政治空間がはびこる好条件を提供している。
逆に、このような観点から群生秩序を衰退させようと計画された制度改革は、若い人々の生活の質(Quolity of Life)を著しく向上させるだろう。

いじめの構造―なぜ人が怪物になるのか

これまでに述べた、「群生秩序」に基づいたいじめを促進するのが現行の学校制度である、と著者は続けます。
第5章~第7章では、学校制度の及ぼす影響を洗い出しつつ、学校制度、そして社会そのもののあるべき姿を描き出します。

重要なのは、「群生秩序」は特定の環境下でもたらされるものであり、その環境を変えればいじめは減らせる、という点です。
これについては後編で「コミュニティ」についても絡めながらまとめていく予定です。

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