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信頼を得るために「分からない」と伝えることの効果

カテゴリ:自分事

先週は島の高校の試験期間だったので、授業をお休みして生徒の自習を見ていました。
彼らを見ていると、「この子はひとりで自習させても安心だな」「あの子はほっとくと不安だな」という区別が表れます。

まず、「集中力」がその分かれ目です。
大人が見ていなくてもすぐに私語をし始めたり携帯をいじったりすることなく、淡々と勉強できる。
やはりそういう子は安心して見ていられます。

最近、それだけが安心をもたらしているわけではないことを感じました。
 「どうしてもわからないときに投げ出さず質問できるか」。
確かに、自習を見る上で、分かっていない割に質問してこない生徒は注意深く見るようになります。
自分で先生のところへ質問しにくる生徒は割と放置していてもいいかな、と思えてしまいます。

「分からない」と言ってくれた方が安心する

相手の安心や信頼を引き出すことを考えるときには、「私は分かっています」ということが相手に伝わればよいような感じがします。
逆に、「分かりません」と伝えると、「こいつは大丈夫か?」と怪しまれてしまうようにすら思えます。

ところが、実際に仕事を誰かに頼む立場になると話は少し変わります。
特に仕事を頼む相手の理解度がよく分からない場合、相手がどこまでできて、どこまでできないかを把握することが非常に重要になります。
「ここまでは分かるがここからが分からない」と言ってくれる人が相手なら、分かるところまでは任せ、それ以降は少し手厚く指示をすればよいわけです。
「AとBなら95%AでOKだろうけど、重要なポイントなので念のため確認する」という人も有難いものです。
仕事の依頼者や属する組織の優先順位に則らなければならない場合、肝心なところは判断を仰ぐ人の方が安心できるのはまあ当然です。

逆に信頼構築がまだできていない相手が「私はわかっています」という態度をとるのはなかなか危険なことです。
“分かっている”人は他人に質問したり確認したりしません。”分かっていない”と思われることを恐れるからでしょうか。
確かに何度も同じ質問をするのも困り者ですが、一度指示しただけで何でも完璧にこなせる人なんてなかなかいません。
質問しない・確認しない新人は非常に恐ろしいですね。こちらからわざわざ確認しにいく羽目になるでしょう。

僕としては、前者の方が確実に依頼者の望む仕事をしてくれるだろうと思えます。

分かっているからこそ分からないと言うべき

ここで重要なのは、質問したり確認したりするためには、実は分かっていることが必要だということです。
高校生でも、この分野はさっぱり分からないという子は的確な質問をしてくることはほとんどありません。
そもそも自分がつまずいているところがわかっていないからです。

「私は分かっています」という態度を取る人は、実際7,8割くらいはちゃんと分かっていることが多い。
残り1割での失敗のために信頼を損なってしまっているという残念な事態が大部分ではないでしょうか。

信頼を得るためには、まずは上司や組織の優先順位を押さえる。これは最低限です。
その上で今の仕事で絶対に外してはいけないポイントを把握し、そこはきちんと確認をする。
これだけで「お、こいつは大事なところがわかっているじゃないか」と思われるわけです。

これを常に意識できていると、仕事を頼まれた時点で的確に質問をすることもできるようになります。
すると「ここまでは分かるが、ここからは不安だ」と伝えることができます。デキる人の質問ですね。
高校生でこれくらいの質問ができると、相当頼もしく感じます。

まとめると、良質な質問(確認)が信頼を得るための要点になるということです。
わかっているからこそ質問する。確認する。そうしてポイントを落とさない。

普段接する高校生たちにも、質問の仕方をもう少し意識させて行きたいものです。

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子どもの携帯電話利用を巡る問題-道具を使いこなすということ

カテゴリ:世の中の事

 制服や制帽のように学校が指定する携帯電話「制携帯」を平成22年度から導入している須磨学園中学・高校(神戸市須磨区)で24日、中学生徒会が制携帯の意識調査についての発表を行った。

 制携帯は、学校が携帯電話の正しい使い方を教えようと、平成22年4月に導入。生徒は毎日、学校が指定した携帯電話を持ってこなければならない。

制服ならぬ「制携帯」? 「規則厳しい」不満も、導入校で意識調査 – MSN産経west

小中高生の携帯電話利用を巡る問題については話題が尽きることはありませんね。

今の時代、子どもに「携帯を使うな!」と迫るのは現実的な策とは言えません。
冒頭の記事のように、「携帯を正しく使う」という視点がますます求められることでしょう。

携帯電話が子どもたちにもたらすもの

高校生を見ていると、大人から見て好ましくない携帯電話の利用方法につい目がいってしまいます。
以下では、勉強に関する影響に限って少し具体的な話をしてみます。

好ましくないといえば、勉強中であっても片時も携帯電話から目を離さないというのは特に気になりますね。
「勉強に集中する」ということを考えれば、携帯電話の電源を切ったり、振動もしないサイレントモードに切り替えてしまったりと、携帯に集中力を奪われない方法は幾つか思い浮かぶものです。
大学入試の時期に差し掛かり、ゲーム機を棚の奥深くに仕舞い込んだという人も少なくないことでしょう。

ところが、そのような状況に対してこれといった手立てを打つ高校生はそう多くありません。
「テストやばいやばい」と言いながら、「ぶーっ」と携帯がなればペンを置いてメールやLINEの返信を始めるわけです。

大人でもFacebookやTwitterを常時開きっぱなしにしてマルチタスクで仕事をしている人がいます。
実を言うと僕もそのタイプですが、本当に 集中したいときは編集したいアプリケーション以外はすべて閉じるということで割とはかどります。
つまり、「ライフハック」の類ですね。高校生はこれを知らないか、あるいは知っていても実行に移さないというわけです。

なぜか。僕の印象として、その理由はざっとこんな感じです。

物事の優先順位を整理・操作できない。
効率、効果を挙げることに関心がない。

これ、ビジネスマンにとっては非常に重要な能力であるわけですが、大人でもなかなか実践は難しい。
「大人でも難しいことを、高校生ができるのか?」という話です。
能力に劣る高校生にとっては、処理すべきこと(=携帯)が一つ増えるだけで大問題になるわけです。

使いこなせない携帯が子どもの手に渡ることで、携帯におぼれてしまう。
それが引いてはネット上でのトラブルや極度の依存につながるようにも思えます。

道具を使いこなすということ-手段と目的の話

携帯におぼれる高校生に欠けているのは、道具を使いこなすという姿勢です。
自分の目的を達成するために、手段として携帯電話を用いることができる生徒は、そう多くありません。
たいてい、手段である携帯電話が目的化してしまっているわけです。

この問題のとりあえずの対策は大きく2種類あります。

勉強は工夫することで効率化できると認識させる。

高偏差値大学に入学するような人にとっては非常に当たり前のことのように思えますが、多くの高校生にとってはそうではないようです。
自分の働きかけで学習環境がよくなる、という発想がそもそもなさそうなんですね。
「ライフハック」とは言わないまでも、勉強に集中する工夫や効率的な学習方法を伝えると、結構高校生の食いつきが良いです。
知識やテクニックばかりに寄るのも問題ですが、自分なりに工夫しながら学習環境を改善することを習慣化できるように促すことで、社会に出てからも役立つ力を伸ばせると思います。

勉強を「目的」に据えさせる。

たいていの生徒は優先順位付けが下手くそです。
内的な問題なので困難が伴いますが、自ら計画を立てたり、反省をしたりしない生徒には、外から意識させることをしなければ、いつまでたっても目的をベースにすることはできません。

道具を使いこなすためには、道具は使い方次第で毒にも薬にも化けること、道具は目的達成のための手段でしかないことをまずもって認識する必要があります。
一旦目的が定まれば、それに応じてどの道具をどう使かが決まるわけです。

目的が定まらなければ優先順位も場当たり的になり、ただただ目の前のことに対処するだけに終始しがちです。
しかし大学入試を見据えると、目的をベースに長期的な視野にたって、勉強を継続的に積み重ねることが必要になります。
勉強中に携帯電話ばかりに気が散るような生徒は、受験期になって突如として焦りだすことでしょう。
その前に大人が声をかけることで改善できる状況があるのではないでしょうか。

 

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社会に通用する勉強の作法と教育の課題

カテゴリ:世の中の事

Twitterの論客、芦田宏直氏のインタビュー記事が面白かったので。

偏差値30、40台の学生を一流のITエンジニアにする教育法 ゆとり教育の被害者を稼げる人材に変えよ!(その1)  | 知の大国アメリカ~ランド研究所から~ | 現代ビジネス [講談社]

多少センセーショナルなタイトルになっていますが、中身はいたってまともです。
僕自身も芦田氏のTwitterや記事から様々なヒントをいただいていますが、少々(?)クセが強いのと、内容の難解さで、咀嚼しきれないところが多々あります。
(一方でどう理解すれば良いのか、相手の意図はどこにあるのかを模索する行為の面白さに気づくこともできましたが)
この記事は芦田氏の実践に触れることができるので、その意図するところにだいぶ近づけるのではないか、と期待しています。

こんな書き方をするとシンパと思われそうですね。
そろそろ、本題に入ります。

学校教育における「偏差値」を巡る問題

冒頭の記事は芦田氏が理事を務めた情報系専門学校の教育実践を紐解くインタビューになっています。
インタビュアーは田村耕太郎氏、 それを受けるのが芦田氏とその下で講師として教育に携わった芦澤氏です。

僕が特に注目したのが、「偏差値」の話題です。
「人間を数字で評価するな!」と批判の的にもなるこの「偏差値」ですが、その意義について、改めて考えさせられます。

芦田氏:「いわゆる低偏差値の学生というのは、家庭、地域、クラスメート、担任の先生といった近親者との比較の中でしか、自分の位置を図ることが出来ない子なわけです。子どもたち、若者たちが大人になる契機の一つは、対面人間関係を超えるときです。高偏差値の学生たちは、全国区の受験勉強でそれを体験します。
クラスで一番を取っても、担任の先生の褒めてもらっても、親を喜ばせても、そんな評価では当てにならないということを実感的に体験するのが受験体験なわけです。低偏差値の学生はその意味では高校を卒業しても“ヒューマン”な基準しかもっていません。高等教育は社会人になる最後の学校な訳ですから、クラスの中に、社会人=職業人としての“偏差値”を持ち込んでやるべきなのです。」

偏差値30、40台の学生を一流のITエンジニアにする教育法 ゆとり教育の被害者を稼げる人材に変えよ!(その1)  | 知の大国アメリカ~ランド研究所から~ | 現代ビジネス [講談社]

自立した個人となる上では、社会と自分との関係をより客観的に大きな視野で捉えることが必要です。
偏差値を「対面人間関係を超える」機会を提供するものと見ることで、偏差値の重要性が浮き上がってきます。

高校生全体で、偏差値を意識しているのはどちらかというと少数派でしょう。
実際、彼らは模試を受けても「偏差値はいくらか」よりも「クラスで何位か」の方がよっぽど気になるみたいです。

進学校であればクラスや校内、県内における順位が、ある程度偏差値(もっと言うとどこの大学に行けるか)を表すことになりそうです。
進学希望者が大多数で、だいたい毎年A大学に20人合格するとなれば、校内で50位には入りたいよね、という具合に。
一定数の生徒がいることで、学年ごとのブレを考慮せずともある程度の精度で自分の位置がわかるわけです。

ところが、進学者がマイノリティである場合はそのブレが生じます。
ある年にたまたま学年TOPが東大に進学したとしても、毎年のように学年TOPが東大にいけることにはなりません。
進学者が少なければ少ないほど、学校内に留まる限りは自分の偏差値が見えないわけです

ここに、低偏差値と高偏差値の格差が見え隠れしていますね。

偏差値の高低を分けるもの-機会は勝者にのみ訪れる

高偏差値であればあるほど(進学校であればあるほど)、偏差値を意識する機会が増えることを見ました。
では、偏差値の高低を形作るものは、いったいなんでしょうか。

芦澤氏:「芦田先生が良く言うことなのですが、できる学生は勉強そのものが自己目的化していますが、できない学生ほど勉強の目標=終わりを欲しがる。ここまでやればもう何もすることはないよ、と言ってやれば、できない学生も勉強し始める。そしてその終わりが社会的な位置付けや給料の大小と結びついていることがわかればもっと勉強し始める。」

※太字は引用者による。

偏差値30、40台の学生を一流のITエンジニアにする教育法 ゆとり教育の被害者を稼げる人材に変えよ!(その1)  | 知の大国アメリカ~ランド研究所から~ | 現代ビジネス [講談社]

できる学生は勉強そのものを自己目的化している
手段でしかないはずの勉強が目的になっているということは、勉強すること自体に意義を見出したり、楽しいと思ったりしている、ということです。
つまり、「オレは○○大学に行く!」というアツイ志を持たずとも、淡々と勉強に取り組むことができるわけです。
勉強が習慣になっているわけですね。

できない学生ほど勉強の目標=終わりを欲しがる
勉強を手段と割り切っているわけですから、最低限の努力で済ませることができてしまった方が嬉しい。
ところが、低偏差値の生徒が集まりやすい非進学校では自分自身がどの大学に行けるかのレベル感を掴むのが難しく、終わりを自分で設定できないわけです。

こうしてみて、ふと思うところがありました。
目標設定を適切にできる高校生はほとんどいないのではないか」と。

前者の場合、勉強の自己目的化の結果として偏差値が高くなり、そのおかげで自分の立ち位置を把握できるということ。
自分の偏差値を把握した上で、それに応じてようやく適切な目標設定に着手するわけです。

後者の場合は目標設定ができていないことはもはや明確です。

逆に言えば、ほとんどの高校生にとって、勉強のモチベーションを保つために「自己目的化」という手段しかないということ、そしてその手段を確保できるのは高偏差値層のみということも読み取れるかもしれません。

少なくともこの記事からは、「対面人間関係を超える」機会は高偏差値の学生にのみ与えられると読み取ることができます。
そして、偏差値を上げるためには「自己目的化」という手段くらいしかない(かもしれない)ということも。

学校教育において考えるべきこと

記事内の専門学校では、生徒が目標を設定できるようなカリキュラムと授業を用意した結果、就職実績が改善されたとあります。
これ、学校教育においても同じようにできないでしょうか。

実際、高校生は現在受けている授業の内容がどのように入試で必要となるのか、いまいち理解できていません。
(ここには「学校で教えることができていない」という問題もあります)
入試科目を意識するのが3年になってから、という生徒も少なくないと思われます。

また、大学にせよ専門にせよ就職にせよ、自分のポジションでどんなところにいけるのか、高校生はピンときていないようです。
進学であればその後のキャリアも含めて、もっと現実的な地図を彼らに提供することも一手かもしれません。
もちろん、現実を見せた後はサポートが必要ですが、「そんな無名の大学に行っても未来はないよ」の一言をぐっと飲み込むよりはいいのではないでしょうか。

生徒に現実を見せるということは、生徒の将来を支える覚悟を伴います。
しかし、そうしなければ適切な目標設定などできるはずがない。
なかなかジレンマのあるところですが、僕自身、もう少し真面目に考える必要を感じました。

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