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勉強にやる気が出ない生徒の特徴-目標の不在の手前

カテゴリ:自分事

「目標の不在」という事象について

高校生の学習指導をしていると、どうにもやる気のない生徒というのがいます。

2年生にもなると勉強も難しくなり、入試も近づいて、だいたいは1年時より火がつくものです(これは島の話。僕の母校では2年時に「中だるみ」という別の課題がありました…)。

一方、さっぱり火がつかない生徒も何人かいます。共通点を探ってみると、「目標がない」の一言に尽きます。いえ、彼らも目標として「大学に行く」ということは明言しています。わざわざ進学校を、あるいは普通科の進学コースを選ぶ、ということはしているわけです。

ところが、彼らの行動には主体性がない。もう少し厳密に言えば、結果に対する責任を取るという態度が見られない。「それなりの大学に行くためにはそれなりの勉強が必要だ。」推薦・AOも含めて、これは誰もが納得できる当然のテーゼ。しかし、ある種の生徒にとっては、「勉強」がほとんど「他人事」なのです。

「目標」は本当に必要なのか?

「じゃあ目標を持つようにすればいいじゃないか」

それはその通りかもしれませんが、結論を出すにはまだ早い。「目標の不在」が「主体性のなさ」につながる構造を見出すべきでないでしょうか。よくよく考えてみれば、「目標」がはっきりせずとも、淡々と勉学に勤しむ生徒もいます。僕は秋田県内でも進学校と呼ばれる高校に進みました。多くの高校生がそうであるように、明確な目標を持たない同級生は少なくなかったと思います。それでも、進度が速く、かつ難度の高い授業に多くはついていっていました。予習、復習、宿題をこなす。これは能力の高さだけでは片付けられません。

環境の無視できない影響

進学校とそうでない高校の生徒の違いはなんでしょうか。能力以外に注目してみると、「環境」の違いに目がいきます。具体的に言えば、”スタンダード”が異なるのです。

進学校に入学したからには、全員が大学進学するのは当たり前。「○○大学なんぞ入学できて当然、△△大学をまず目標とすべし。」卒業生の進学実績が、”スタンダード”をさらに引き上げます。

一方、進学しない同級生がいないような高校の場合、「全員が大学へ行く」ことを”スタンダード”にすることができません。学力や進学への意欲に応じて異なる”スタンダード”が割り当てられ、共通の”スタンダード”は進学校のそれと比べれば下がります。「おれは進学しないから」「彼は進学しないから」生徒も教員も「進学しない」を理由に”スタンダード”を引き下げることを容認しあう。

”スタンダード”が引き下げられることで、個々の生徒の姿勢もそれに引きずられます。「環境」に打ち勝てる人間なんてほとんどいません。高校生ならばなおさら。そうして「能力」の差に加えて、「環境」の差が最終的に進学実績の差につながる。そのような構図が見えてきました。

「目標」の本来的な意義

「目標」は個人の内発的なもの、”スタンダード”は「環境」(集団)の影響を強く受けるもの。

個人が「環境」に打ち勝つのは困難である、と述べました。しかし、それでこそ「目標」の存在価値がある、と言えます。「環境」の誘惑を断つために、「目標」によって自らの”スタンダード”を引き上げる。「環境」の強大さに比べれば頼りないものですが、「目標」の効果はここにしかない、のかもしれません。

まとめ:「勉強にやる気が出ない生徒の特徴」

話が少しそれました。

勉強に精が出ないのは、端的に言えば「”スタンダード”が低い」ということです。目標を持たなくても良い「環境」に身をおくことができるなら勉強するのが当たり前になります。今目の前にある勉強をがんばるという点に主眼を置くなら、重要なのは”スタンダード”です。

というようなことを仮説としつつ、「環境」への働きかけを考えている次第です。

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「主体的」な行動をつくりだす唯一のポイント-《他者》

カテゴリ:自分事

主体性、あるいは主体的であることが求められる時代。

しかし、言葉だけが独り歩きしている感を受けることも少なくありません。
たとえば、「それは積極性と何が違うの?」と突っ込みを入れたくなるような。

教育の現場においても、主体性を意識しない日はありません。
悪名高い「ゆとり教育」も、その一つの目的は「生徒の主体性の獲得」にありました。
ところが、「ゆとり」という言葉はむしろ主体性の欠いている若者をイメージさせます。

「ゆとり」の矛盾は、「主体性とは何か」というそもそもが議論されていないために生じています。
「他者」を発見する国語の授業」にそのヒントを求めてみたいと思います。

※そもそも論になるため、長文です。

で、主体性って何よ?

そもそも「主体的である」状態はどうやってつくられるのでしょうか。

真に「主体的」とは、人間の新しいよみがえりの過程において、きびしく自己批判・自己変革する主体のあり方のことであろう。(略)
それを可能にするのが、自己相対化の目である。私は、そのような目を獲得するためにもっとも重要かつ有効な働きをするのが、他者理解の行為だと考えている。
では、他者理解とは何か。それは他者の文脈に沿って、自己の視座を転換し、そこに展開する論理を正確に受け止めたり、イメージを豊かに思いえがいたりすることによって、成り立つものである。(略)
主体とは、ア=プリオリに存在するものではなく、他者とのかかわりの中で、常に生成・変革するものである。
(以上、田近洵一『言語行動主体の形成』より引用)

このように、「主体」とは、他者との関わりにおいてはじめて存立可能なものであり、したがって「主体性」もまた「他者性」との関わりにおいてはじめて確保しうるものと考えるべきであろう。

「他者」を発見する国語の授業

「主体」とは「他者理解」、つまり「他者」を「私」の理解の仕方、慣習ではなく、「他者」その人の様式で以って「他者」を理解しようとすることの繰り返しで形成されるものです。
「他者」とは「私」によって”都合よく”理解されるものではなく、むしろ「私」とは備わっている文脈が全く異なるものを指します。
ここでは単なる「会話の相手」と「他者」が用語として区別されていることに注意が必要です。

「主体性」は「他者性」によって形作られるものである。では「主体性」とはどのようなあり方を指すのでしょうか。

自然発生性そのものは、まだ対象変革の主体成立を約束するものではないのであって、状況によって強いられる絶望、その絶望を生み出す世界と自分との関連を根底的に対象化する認識は、その端初の形態としてはその状況の直接的制約の外にあるもの、そうした直接性に対して一定の距離設定が可能な視点に成立する。(略)自然発生性そのものは、どんな段階にあろうと、階級的主体性を成立させる意識性ではない。それは依然として主観性にとどまる。
(以上、梅本克己「主体性の問題」『岩波講座哲学Ⅲ 人間の哲学』より引用)

つまり、「主体性」とは、世界と自分との間に形作られる状況を、「一定の距離設定」をして「対象化」する「意識」に支えられている。これに対し、「自然発生」的で状況との距離設定がなされない「直接性」のもとでは、行為は「主観的」なものにとどまる、というわけである。

「他者」を発見する国語の授業

この「主体性」/「主観性」の定義に従えば、「積極性」と「主体性」が必ずしもイコールでないことがわかります。
たとえば「だめなものはだめ」と言い張るような人たち。これでは「一定の距離設定」がうまくいっているとは言えません。
「やらざるをえないからやる」という「自然発生的」な行為もまた「主観的」な行為の範疇になります。

「一定の距離設定」のもとに状況を「対象化」する「意識」と「主体性」はどう関係するのでしょうか。

それは具体的には、社会学者の大澤真幸が指摘する「二重の水準」における「選択」を可能にする意識と同質のものであろうと思われる。氏によれば、ある行為が「主体的」だと感じられるのは、次のような場合であると言う。すなわち、ある行為を遂行しようとする場合、まず「何のために」という価値や目的のレベルにおいて「選択」が行われ、次いでその実現のための具体的な手段・方法のレベルにおいて「選択」が行われる。そしてこの「二重の水準」における「選択」がその行為者個人に帰せられるというような場合、その行為は「主体的」だと見なされる。簡単に言えば、目的と手段の「選択」が行為者主体の判断に基づく場合、それは「主体的」な行為と見なされる、というのである。
これを先の梅本の論と重ね合わせるならば、状況と「一定の距離」をとって、それを「対象化」しえたとき、主体は「意識的」に目的と手段とを「選択」することが可能になる。そういう状態を「主体的」と呼称し、もし、状況との距離がとれず「直接的」である場合、主体には「意識的」な「選択」は不可能で、そういう状態を「主観的」と呼ぶ。

「他者」を発見する国語の授業

「主体的」とはある主体が「意識的」に目的と手段とを「選択」できている状態を指します。
つまり、主体的な行為者の前には、目的と手段のニ領域において常に選択肢(オルタナティブ)があるということです。
盲目的に「脱原発」「反原発」を主張する方々はこの意味において「主観的」であり、彼らには見えていないものがあるのです。

すなわち、ある主体が「主体的」にある行為を「選択」するということは、「他者」が選んだかもしれない「別の選択肢」が可能性として「意識」されていなければならない。

「他者」を発見する国語の授業

ここにおいて「主体性」と「他者性」の関わりが露になります。
“「他者」が選んだかもしれない「別の選択肢」”を「意識」するためには、先に引用した「他者理解」の行為が不可欠だということです。

よくよく考えてみると、これは当たり前の話です。
世界が「私」の中で閉じている限りは、行為の際に「別の選択肢」を考慮することは実現しえません。
「私」の外側にある異質なものを認識できない「主体」が、「他者」のとりうる「選択」を想像できるわけがないからです。

主体的に行動するために:「他者」と関わろう

さて、これまでの話を整理すると、

・「主体的」な行為とは、目的と手段の両方の「選択」が行為者主体である場合を指す
・目的と手段を「選択」するためには、自身が置かれた状況と「一定の距離設定」をする必要がある
・状況と「距離設定」ができるためには、「他者」が選んだかもしれない「別の選択肢」が「意識」されなければならない
・「他者」による「別の選択肢」を「意識」するためには、他者との関わりが不可欠である

ということになります。

したがって、「主体性」を獲得するためには「他者」との関わりの中で自己を相対化する「目」を養うことが第一です。
それには「他者」とは何か、単なる会話の相手とはどう異なるのかを整理する必要があります。

柄谷は、ウィトゲンシュタイン後期の「言語ゲーム」論とクリプキによるウィトゲンシュタインの読みに触発されながら、「他者」についてこう論じている。
「《他者》とは、言語ゲーム(規則)を異にする者のこと」である。あるいは、他者とは「共同体」を異にする者と言うこともできる。この共同体という言葉を「共同性」と見なせば、「共同体は、いたるところに、多種多様になり、《他者》もまたいたるところに出現する」ことになる。一方、「私」をベースにして想定しうるような存在は「他者」ではない。それは「自己の『自己移入』であり『自我の変様態』なのであって、他者性を持っていない」。そしてこの他者性と向かい合うとき、「共同の規則なるものの危うさが露出する」。そういう「他者との対話だけが、対話と呼ばれるべきである」。

「他者」を発見する国語の授業

「他者性」とは、「私」が属している何らかのルールや規則に基づいて理解しようとしても理解できない(排除される)ものだと言うことができます。

高校生と接していると、彼らの友人関係は非常に固定的であることに気づかされます。
これは例え話ですが、高校でいじられキャラが定着している生徒は、同じ友人たちと関わっている限り、どこに行ってもいじられキャラです。
どうも、彼らの中では「A君=いじられキャラ」、あるいは「○○するやつはいじられるべきだ」という”ルール”が暗黙の了解になっているようです。
このルールに縛られた「共同体」の中では、「A君=いじられキャラ」以外の図式は基本的に無視される運命にあります。
そのため、友人たちの前でA君が何をしても、彼はいじられる対象として理解され、彼の異質な(意外性のある)キャラクターに注目が集まることはありません。
この意外性との遭遇こそが、《他者》との出会いであるのに。

受け手を「他者」と考えるとき、そこでは、「私」とは異質な受け手の知識や欲求、あるいは彼が生を営む文脈などを様々に推し量ることを避けて通れなくなる。したがってまた「対話」ということにおいても、その形ではなく、中身こそが問われるようになるはずである。このように「他者」という認識は、私たちに言葉の使用をより自覚的な行為へと高める効果をもたらす。

「他者」を発見する国語の授業

《他者》を認識できないのは、固定的なものの見方に捉われているからです。
もっと言えば、「私」に縛られている、と言うべきでしょうか。
あらゆる他人を(そして自分までをも)「私」の知りうる言語ルールだけで理解しようとする限り、《他者》との出会いが訪れることはありません。
「私」が理解できないものにこそ《他者》が潜む。
これを認めない限り、「主体的」にはなれないのです。

本書ではさらに、《他者》という存在の価値の射程を「創造性」にまで広げて議論しています。
「私」の「主体性」を生成・変容させる《他者》、これを認識することの重要性は無視できるものではないでしょう。

まとめ

「主体性」の獲得に求められるのは、「私」の中に収まる限りでなく、むしろ「私」の範疇を超えていく必要があることをここまで述べてきました。

「主体的」に行為していくためには?

この答えは、ただ一つ。《他者》-「私」の中のルールが排除しようとする者-を意識すること。
自らの枠組みでは捉えようのないものに目を向け、《他者》の文脈に沿って理解しようとする姿勢が求められるのです。

したがって「主体性」はある時点で完成するものでなく、「他者理解」の積み重ねで蓄積され、あるいは大きく変容させられうるものと言えます。
それは計画性とは無縁で、ときには「私」の意志に反する場合すらありえます。
《他者》との出会いの体験がどう自分をつくりあげていくのか。
私たちは、その終わりなき過程を楽しむべきなのかもしれません。

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基準が「私」なのか「みんな」なのかの絶望的な違いとデザイン思考

カテゴリ:自分事

精神論or自己啓発論っぽいタイトルですが。

物事の判断や評価の基準に「みんな」とか「一般的に」といった物差しを持ってくる人と、「私が決めたから」「自分はこう思うから」と言える人。
この両者の間には、なにか絶望的なまでの違いを感じることが多いです。

“絶望的な” という表現は、両者の優劣ではなく、一方からもう一方へ移ることのできる可能性に対するものです。
なぜそのような違いが生まれるのか、そのメカニズムからしてよく分かりません。
しかし、確実にその区別は存在しているように思います。

判断基準をみんなに託すことについて

判断や評価の基準を自分でなく他の何かに託すことの最大の弊害は「納得感を得られない」ということです。
「みんな」の基準は、自分が本当に求めていることとずれているからです。

至極当たり前のことを言いました。
統計的に就職活動生の志望に関するトレンドを把握することは可能ですが、当然ながら実際の志望は一人ひとり異なります。
これは卑近な例ですが、要は「みんな」の基準は一人ひとりの基準と比べれば抽象度が高い、ということになります。

世の中に流布され共有される価値観というものは、抽象化されてしまっています。
全体的な傾向を把握することはできるかもしれませんが、一人ひとりの人間の具体性に迫ることは難しいのが実状です。
「みんな」や「世間」は、自分をある程度代弁してくれるのかもしれませんが、しかしそれらは同時に個々人の性質をある程度無視しているのです。

アイデンティティは自己同一性と訳されますが、言い換えると「任意に二人を選べば、その二人は必ず異なる」ということ。
極論を言えば、一人ひとりの課題は個別具体的なアプローチでしか解決を見出せないのです。
しかし、それではあまりに効率が悪いため、 今では集団からある程度共通の性質を抽出し、抽象化された「問題」を解決するのが一般的なアプローチとなっているでしょう。
文字にすればこれはものすごく当たり前のことだと分かるのですが、あらゆる場面で見過ごされているのが事実です。

「みんな」や「世間」の基準で判断し、評価することには限界があるということは、ほんの少し考えれば分かることです。
しかし、実際にはそれらに頼る人が少なからず存在するように感じています。
(もちろん、100%自分の基準を採用している人もいないでしょう。したがって両者のブレンド具合の問題となります)

「ほんの少し考えれば分かる」はずなのに、できる限り自分の基準で選ぶということができない。
このメカニズムが、よく分からないのです。

デザイン思考との関連について

関連があるとすれば、それはデザイン思考の分野です。
デザインのプロセスにおいては、抽象性と具体性を行き来することが求められます。

発想法―創造性開発のために」という本で「KJ法」が紹介されています。
「KJ法」は、フィールドワークから収集された事象の中に関連性を見出し、グルーピングし、図解し、文章化する作業を経て、具体性から抽象性を引き出します。
ひらめきを計画的に生み出す デザイン思考の仕事術」でも紹介されており、現在でもワークショップなどで活用されています。

この手法で肝心なのは、個別具体的な事象から抽象的な「まとめ」を引き出す過程では既存の知識体系やフレームワークを持ち込んではならない、という点です。
求められるのは、常に目の前に並べられた数々の事象の中に埋め込まれている関係性や構造を見出すことなのです。

調査等で明らかになったさまざまな要素のあいだの関係性を見つけて構造化する作業を行なう際に自分たち自身でそこに隠れた関係性を発見することができず、結局、どこかから既存の枠組みをもってきて、その枠の中に要素を位置づけてしまう。つまり、要素間の関係性を眺めながらこれまでの文脈にない構造=ルールを見出すことができず、既存の枠組み=ルールのなかで解決しようとしてしまう。それではルールのなかでうまくやることはできてもルール自体を新しく作るようなイノベーションはできない。

切開~抽象化する思考スタイルの欠如:DESIGN IT! w/LOVE

既存のものを適用するのではなく、「見出す」という観点が重要である。
これは、判断基準を「みんな」に託すことの危険性にもつながる議論ではないでしょうか。

「実践より理論」ということに対するアンチテーゼとして、プロトタイピング等で「理論より実践」にいくぶん回帰した方向性をみせるデザイン思考のポジションも日本では理解されません。それはあくまで「実践より理論」とうことによって可能になったデザインするという行為が、ほんのすこしだけ「理論もいいけど実践もね」という側にシフトしたのであって、まずは抽象化による理論化が身に付いていない日本においては、そのまま受け入れられるものではないということが認識されていない。

切開~抽象化する思考スタイルの欠如:DESIGN IT! w/LOVE

もしかしたら、既存の知識体系や「みんな」の基準に頼ってしまうのは、「抽象化による理論化が身に付いていない」ためにそうせざるを得ない、という背景があるのかもしれません。

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