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夫婦ゲンカで男はなぜ黙るのか-幸せな結婚を科学する

カテゴリ:読書の記録

 タイトルだけ見て、男女の脳の違いがわかるのかなあと思い購入。

原題は「FOR BETTER: The science of a Good Marriage」。
幸せな結婚に関する研究成果を整理して、多くの人がよりよい結婚生活を営めるようなアドバイスに落とし込んでいる本です。
いい意味で期待を裏切られた良書でしたので、ここに紹介したいと思います。

目次は以下のとおり。

はじめに 結婚を科学的に研究する

PART1 より良い結婚生活のために
01章 結婚の現実を知ろう-離婚は少なくなっている
02章 コミットメント(結びつき)の科学-浮気するのは遺伝子のせい?
03章 愛の科学反応-ロマンスは測定できる?
04章 セックスの科学-快適な性生活のための傾向と対策
05章 結婚と健康との関係-免疫力をダウンさせる結婚とは?

PART2 結婚生活に問題が生じたら-軌道修正するために
06章 あなたの結婚を科学する-夫婦関係の健康度を診断しよう
07章 衝突の科学-夫婦げんかのルール
08章 子育ての科学-子供は天使か、悪魔か
09章 家事の科学-雑用をめぐる戦争
10章 結婚の経済学-愛さえあれば・・・・・・大丈夫?

PART3 今日からできること
11章 ジェンダーロール(性別による役割)と主導権争い-対等な結婚というのは幻想か?
12章 結婚生活を長続きさせるためには-あなたの離婚リスクはどれくらい?
13章 良い結婚の科学-健全な結婚のための処方箋

夫婦ゲンカで男はなぜ黙るのか

幸福な結婚の科学

まず、冒頭から一節を引用しましょう。

幸福な結婚をして、良い結婚生活を送る秘訣とは、いったいなんだろう?
なぜ幸福な結婚と失敗に終わる結婚があるのかという謎を、数多くの人びとが何十年もかかって解明しようとしてきた。愛の荒波をうまく乗り切れるか、はたまた難破してしまうのか、それを左右するのはいったいなんなのだろう。一緒にいるときが一番幸せそうな夫婦と、離れているときが一番幸せそうな夫婦がいるのはなぜだろう?ストレスや不和や離婚のリスクから、結婚を守る手段はあるのだろうか?
じつは、こうした質問への答えは、思いもよらないところに見つかる。愛情や人間関係について最高の助言をくれるのは、セラピストやセルフヘルプの専門家ではなく、科学の世界の研究者たちなのだ。

夫婦ゲンカで男はなぜ黙るのか

日本ではともすれば「根性論」になりがちな結婚というものに、アメリカでは科学のメスを入れる取り組みが盛んに行われているそうです。
本書で紹介されている研究結果も基本的にはアメリカ国内が対象ですが、日本人にとっても十分参考にできるものだと思います。

たとえば離婚に関するデータ。
われわれのジョーシキとは異なる(が言われてみれば納得する)研究成果に目がいきます。

三世代の女性の十年後の離婚率
結婚時期  大卒 高卒
1970年代 23% 26%
1980年代 20% 25%
1990年代 16% 19%

1980年代に結婚したカップルの年齢および学歴別の二十年後の離婚率
全体の離婚率…39%
大卒、25歳以上で結婚…19%
大卒、25歳未満で結婚…35%
大学中退、25歳未満で結婚…51%

夫婦ゲンカで男はなぜ黙るのか

これらの統計から離婚率は「結婚年齢や、学歴、結婚した時代」の影響を強く受けていることがわかります。
先進国では晩婚化が進んでますが、結婚自体の成熟度もあがっている、と見ることができそうです。

この傾向について、ラトガーズ大学で結婚について研究しているバーバラ・デフォー・ホワイトヘッドは、「ソウルメイト(魂の友)結婚」と呼んでいます。
ソウルメイト結婚では男女ともに相手に期待するものが多く、「公平さ、協力、個人的かつ感情的な満足にもとづいた関係」を期待します。
それは裏を返せば、期待値が高いだけ大きな労力が求められるということにもなります。
結婚自体のハードルがあがったことで、結婚するカップルは全体として減る。
結婚に対するお互いの期待値の高さに答えるためには人間的な成熟が必要で、若いうちに結婚したカップルは期待に答えられずに離婚しやすくなる。
このデータ一つとっても、昨今の結婚の様相を想像することができます。

以下では特に僕が気になった点に触れていきたいと思います。

事実の解釈の仕方が現在の結婚の指標となる

幸福な結婚をしている人は、昔の話を笑いながらいかにも懐かしそうに話すことが多い-それがたとえ失業経験や貧乏の苦労話だったとしても。ところが、不幸せな夫婦は過去について否定的に語ることが多い。
たとえば妻が、夫と出会ったころに、はじめて彼のむさくるしい部屋を訪ねたときの話をするとしよう。
「あの部屋ときたら、それはひどかったの!靴下やビールの空き缶があちこちに置きっぱなしで。まさに独り者の寝床ね」
あるいは、こんなふうに思い出す妻もいるかもしれない。
「とにかくひどい部屋でした。あの人は、あの頃から本当にだらしのない人だった」
むさくるしい部屋の話をしているのは同じだが、表現はまるで違っている。だが、どちらの妻が幸福な結婚生活を送っているかは明白だ。

夫婦ゲンカで男はなぜ黙るのか

過去を振り返るときに、現在の結婚の幸福度を測ることができる、という話。

「この人!」と決めた相手を否定することは、その決定を下した自分を否定するにもつながります。
認めたくない不満は現在を語る上では表出しにくいものなのかもしれません。
一方、事実としての過去は唯一無二であっても、それをどう捉えるか、解釈の部分は振り返る現在に依拠します。
そこに現在抱えている不満が表出するということは十分にありえるでしょう。

事実をどう解釈するかについては、「代名詞の選択」の話も非常に面白いです。

幸福な夫婦は自分たちの話をするときに、「私たち」と言う。彼らが語る馴れ初めの話は、ふたりに共通する話題ばかりだ。ワシントン大学の研究者たちはこれを「私たち度(ウィーネス、We-ness)」と呼んだ。幸福でない夫婦はそうした一人称複数形の代名詞「私たち」を避けて、「私」や「あなた」ばかりを使う。
「私たち度」の例はたとえばこんな具合だ。
「私たちは山へハイキングに行って、ひどく道に迷ったわね。ふたりともすっかり景色に夢中になっていたから」と妻が言った。
「あれっきりハイキングには行かなかったけど、あれはぼくらの最高の旅だったよ」と夫が答えた。
自分たちを「私たち」と考えない夫婦は平行線をたどるような生活をしていることが多く、互いに結びついていると感じていない。そんな夫婦が同じハイキングの話をしたとしよう。
「あのとき、あなたが地図を忘れたから、何時間もかかってやっと家へたどりついたわ。私はすっかり疲れはてたわ」と妻が言った。
「いずれにしろ、きみはハイキングなんか好きじゃなかっただろ」と夫が言った。

夫婦ゲンカで男はなぜ黙るのか

本書で後述されていますが、「We-ness」はたとえば口論の際にも測る事ができます。
「お前はいつも」「あなたは決して」という言葉には「私たちはカップルである」という意識の薄れが垣間見えます。
結婚したからにはそれぞれの問題は二人の問題であると解釈し、協同して解決を図るのが望ましいはずです。
相手を責めるのは簡単ですが、残念ながらそこに生産性はありません。
こんな会話の端々に、結婚の幸福度がにじみ出てくるわけですね。

子供は幸福な家庭でよりよく育つ

結婚生活を考えるとき、子供の存在は無視できないものです。
むしろ子供が生まれて以降は、家庭において子供こそが主要になると言っていいかもしれません。

「夫婦がふたりきりで過ごす時間は、子供が生まれるとわずか三分の一にな」ると言われている中、夫婦の関係と育児とをどう両立させるべきか、これはなかなか難しい。
しかし、夫婦の時間を犠牲にすることが最良とは限りません。

ゆるぎない幸福度の高い結婚は子供にとって良いものだ。たとえそれが、両親と過ごす時間が少なくなることを意味していても、研究はまた、幸福な結婚をしている両親は、不幸せな夫婦関係に疲れきっている両親よりも教育的効果が高いと示している。
(※太字は引用者による)

夫婦ゲンカで男はなぜ黙るのか

子供のことを第一に考えるなら子供と関わる時間を最大化するという発想は一般的に思えます。
しかし、研究では夫婦生活を良好に保つために、夫婦二人きりで過ごす時間をつくることが、結果的に子供によい影響を与えることを示しているのです。
実際、子供もそれを願っているのです。
エレン・ガリンスキー博士の<子供たちに聞け>と名づけられた研究の結果がそれを物語っています。

ガリンスキー博士は子供たちに「ひとつの願いの質問」を投げかけた。それはこんな質問だった。「もしひとつだけ願い事がかなえられて、お父さんかお母さんの仕事についてなにかを変えることができるとしたら、どんなことを願いますか」というものだった。
親たちの六〇%近くは、わが子がもっと多くの時間を一緒に過ごしたいと願うと信じていた。ところが子供たちは、両親と一緒に過ごすのは大好きだけれど、たった一つの願い事に選んだのは、別のことだった。「子供たちは、両親のストレスが少なくなって疲れませんようにと、願うものなのです」とガリンスキー博士は言う。

夫婦ゲンカで男はなぜ黙るのか

結婚生活を幸福にするのはコミュニケーションの質と量

この本の主題は「結婚をよりよいものとし、一生を添い遂げられる二人になるためには」。
本書を読みながら感じたのは、結局のところ「コミュニケーションの質と量」が良い夫婦関係の秘訣である、ということです。

端的な例として、たとえば夫婦の軋轢の原因となりやすい家事の分担について。

家事労働についての広範囲なリサーチから得られた大まかな教訓は、家事労働で重要なのは、掃除、洗濯、炊事を誰がするかということだけではないということだ。家庭内の労働分配は、夫婦の相対的な力関係と、その結婚が真の意味で夫婦相互の協力のもとで成り立っているかどうかを物語る。家事労働と結婚に関する大多数の研究は、男性がもっと家事や子育てに貢献する必要があると教えている。女性たちは、家庭内でひどく重い責任を負い続けている。男性がもっと貢献するためには、女性は一歩引き、男性が一歩踏み込んで自分なりのやり方で家事をするのを、指導したり文句をつけたりしないでいる必要がある。単純なことのように聞こえるが、これは大きな一歩なのだ。女性が家事全般の監督権を手放すのが難しいのは、家が片付いていないと、夫ではなく自分の家事能力が身内や友人から批判されると信じているからでもある。たしかに、現実はそのとおりなのだ。
(※太字は引用者による)

夫婦ゲンカで男はなぜ黙るのか

監督権を持つ側(多くは女性)が相手の家事のやり方にいちゃもんをつけることで、相手はやる気をなくしますし、喧嘩の原因にもなります。
これは家事の分担を進める上ではむしろマイナスです。
相手のやり方が気に入らなくとも、質さえ保つことができていれば寛容になることが求められるのです。

これはまさに夫婦間のコミュニケーションのあり方を問われている、といえるでしょう。
その根本には「自分がされたら嫌なことを相手にしない」という当たり前の教訓があるように思えます。

さて、本書では研究成果を集約する形で、「七つの戦略」を提示します。
「うまくいっている夫婦が幸福を維持し、夫婦の絆をさらに強くするために活用している」戦略として紹介されています。

第1の戦略 良い出来事を楽しく祝う
第2の戦略 結婚をめぐる「五倍の法則」を利用する
第3の戦略 理想を高く持ちつづけよう
第4の戦略 家族や友人を大切にする
第5の戦略 パートナーに幸せにしてもらおうと期待しない
第6の戦略 とにかくセックスをしてみよう
第7の戦略 ロマンスを再燃させよう

これらは「コミュニケーションの質と量を高めよう」という一言に総括できるでしょう。
お互いが良き伴侶であるために何ができるか、相手のために何ができるか、二人のために何ができるか。
良いコミュニケーションの積み重ねが幸福な結婚を形成するのです。
重要なのは、幸福な結婚は二人で創り上げるものだということ。
「相性」は結果論であって、それを嘆く前に二人でできることは必ずあるはずなのです。

本書が極めて優れているのは、こういったアドバイスがデータや研究によって裏付けられている点にあります。
そのため、「あ、みんなそうなんだ」という安心感を同時に得ることができる構成になっていると感じました。

僕自身はまだ結婚していないのですが、参考にしたいことがたくさんありました。
350ページ超と非常に分厚い本ですが、どのトピックも一般的に関心の高いものになっているので、退屈する暇はありません。
ぜひ一度手にとって読んでみてください。Amazonでは電子書籍版も販売しているようです。

 

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「ヤノマミ」の営みに何を感じるのか

カテゴリ:読書の記録

アマゾンの奥地に住み続け、文明との接点をほぼ持たず、一万年以上独自の営みを続けているヤノマミ族。
彼らに密着し、長期にわたり彼らと生活を共にしながら取材を行ったNHKのディレクターによる一冊。

世界中を埋め尽くしつつある「文明」と真逆に位置する彼らのありのままの姿が、そのまま「問い」として跳ね返ってきます。
僕らの属する「文明」の基礎をなしているもの、僕らが「当たり前」と捉えているもの。
有形無形問わず、僕らが驚くほどの数の人工物に囲まれているという事実を突きつけられたとき、僕らは何を思い、感じるべきなのでしょうか。

「ヤノマミ」とは「人間」という意味

「文明」の影響をほとんど受けていない彼らの風習は、僕たちの「常識」というフィルターを通じて見た場合、共感しづらいものがほとんどです。
僕らの「文明」の中であれば到底理解できず、有無を言わさず重罪を課せられるであろうものも中にはあります。

しかし、読んでいても、不思議と彼らを「野蛮だ」と断定する気にはなりません。
おそらくこれはヤノマミをありのまま理解しようとした誠実な著者の功績によるものでしょう。
著者は「文明」をバックに彼らに迫るのではなく、一人の「人間」としてヤノマミに接触しました。
それは著者自身の身を危険にさらすリスクを伴いましたが、その姿勢が本書のクオリティを高めているように思います。
(まさに「郷に入っては郷に従え」 ですね)

「ヤノマミ」とは彼らの言葉で「人間」という意味。
本書に描かれる営みもまた、同じ「人間」によるものです。
彼らの営みは、「文明」の側に留まる僕らの「常識」に強制的に揺さぶりをかけてきます。

共感、違和感、畏敬の念、これまで築き上げた価値観との矛盾。
あらゆる情感が不規則に立ち現れ、戸惑いはますます大きくなり、その勢いは止むことを知りません。
次第に彼らの「常識」と僕らの「常識」の境界があいまいになり、僕らが正しいと思っていたことの輪郭がぼやけてきます。

読後、僕の内には自分たちの基礎をなすものたちへの疑念だけが残りました。

もしも感想を一言でまとめるとしたら、「圧倒」、これに尽きます。

ノンフィクション好きな方、おすすめです。
話題にもなった本ですので、ぜひ手にとって読んでみてください。きっと、あっという間に読み終わってしまうはずです。

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社会貢献をしたいのか、自分の思い通りにしたいのか、はっきりさせた方がいい

カテゴリ:自分事

「秋田を今よりもっと良いところにしたい」という思いは僕がWE LOVE AKITAに参加したり、海士町に移住したりしたことの根元にあるものです。

で、WE LOVE AKITAのような活動をしていると、「地元想いだね」とか「すごいね」とか、そういう漠然とした「良い」リアクションが返ってくることが多いです。

「良い」リアクションを示してくれる人がいることは有難いことですが、それに甘んじていると痛い目を見そう、ということを薄々感じるようになってきました。
僕が、秋田に帰ってから何をするのか、一向に的を絞れないのも、その懸念があるからです。

「社会貢献したい」でたまに感じる違和感

『社会貢献』を買う人たち

ざっくりと「社会貢献」とカテゴライズされるような事柄に関わりたいと考えている人は最近増えています。
「社会貢献」と一言で言ってもその広がりは本当に多様で、地域活性化やまちづくり、環境保護、貧困撲滅、次世代育成、高齢者福祉、途上国支援、就労支援など、枚挙に暇がありません。
社会全体で見ればまだまだ影響が小さいかもしれませんが、そこには無視できない勢いがあると感じます。
最近では被災地支援活動に関わる人が多いですね。実際、これは評価すべきでしょう。

「社会への貢献は誰にでもできることだよ」というふうに動いているのは歓迎すべき傾向であるのは確かです。
しかしながら、(勢力を拡大しつつあるものの常として)最近は”ノイズ”が混じり始めているのではないか、と不安に思うことも少々。

「何か良さそうな感じ」はするのだけれど、どこの誰がそれを求めているのかがわからない。
話を聞いていても具体的なイメージがわかない。

何度かこの違和感と遭遇することがあったこともあり、ある共通点をそこに見出しました。

それ、あなたがやりたいってだけじゃないの?

要は、「誤魔化しているんじゃないか?」ということです。

「自分はこうしたい」というエゴが原点なのに、「地域の課題だから」「人々が求めていることだから」というすり替えが行われる。
どこか地に足の着かない印象を受けたら、まずここを疑うようにしていますが、結構当てはまっているように思います。

「すり替え」というのは、「問題を創作している」と言い換えると分かりやすいかもしれません。
自分の「何か貢献したい」「こういうことをしたい」という思いに任せて、あたかもその問題が存在するような口ぶりで話す。

ホンネと言葉がずれることで、僕も違和感を覚えているように思います。
本当に誰かが必要としていることであれば具体性が生まれるし、エピソードやストーリーが語られることもあるでしょう。

中身は「こうしたい」だけなのに、社会の課題解決の話として体裁を整える。
個人的に、これは本当に止めて欲しい。
自分のエゴを社会貢献にすり替えるという態度がそもそも僕はキライだし、そうして求められていない「良さげなこと」が世に出ることで余計な不和が起こりえます。
主体の頭の中もすり替わっているので、きっと地域や現場を好き勝手にかき乱していることに気づくこともできません。

その典型例が、キャリア教育なのかなと思います。
地方では都会に比べて子どもたちが触れる職業の幅が狭く、夢を描きにくいため、進路イメージをなかなか具体化できない。
しかも世の中はますます厳しくなっている。子どもたちのために、キャリア教育が必要なのだ。

でも今現場で求められていることは全然違ったりします。
大学進学率が低下しているのは教育費の高騰があるからかもしれません。
学力低下が叫ばれるのは、進路意識や動機付けの減退でもなんでもなく、学級経営や家庭の問題なのかもしれません。

キャリア教育の担い手の不在が学校側の悩みになっている?
それをニーズと捉えるか、現場とお上とのずれと捉えるかで問題は違って見えるでしょう。
学校のホンネは、キャリア教育に圧迫される教科教育の時数が欲しいだけかもしれません。
(今度の改正で授業時数は回復傾向にあるようですが)

キャリア教育で優れた効果を出しているところがあることまでを否定するつもりはありません。
しかし、それが他の場所でキャリア教育をやるべき理由にはなるはずがない。

エゴの何が悪いのか?(いや、悪くない)

こう書いてきましたが、僕自身は「エゴ」からのスタートが悪いと言いたいのではありません。

自分が面白いと思うから。何かいいことがしたいから。

そう思うのは個人の自由ですし、別に「動機が不純だから」などと言うつもりはないです。
不純であるかどうかはどうでもいい。「モテたい」がスタートでも構わない。邪悪な動機でなければエゴ丸出しでも。

自分のやりたいことの範囲でやる分には、一向に構わない。
例えば「秋田魂心会」は何よりもやっている当事者たちが楽しいということを第一としています。
秋田を媒介に、共通する価値観を持つもの同士がつながり、楽しむ。
だからこそコンテンツが面白く、たくさんの人が集まり、活動を継続することができるのです。

ソーシャルデザイン」で紹介されているのも、そんな素直な気持ちからはじまったマイプロジェクトばかりです。
ニーズドリブンなケースでも、当然のように課題の特性やそこに関わる人の声に配慮する姿勢が見られます。

繰り返しになりますが、僕が嫌うのは「すり替え」という行為です。
「エゴ 」だと認めればいいのに、下手に自分のことを正当化しようとする。
自分発進なのに、他人のニーズだと言い張る。
発見された問題ではなく、創作された問題を扱う。

「エゴ」を社会貢献に昇華するためには、「やりたいこと」と実在する問題とを結びつける必要があります。
そのためにはどうしたって現場に出向くことが求められます。
少子高齢化という同じ課題を持つ地域だったとしても、余所で成功したところが我がとこでもニーズとしてあるわけではありません。

僕の立ち位置-開き直り

僕のスタートは「秋田に帰りたい」、ただそれだけでした。
帰るからには秋田に何か貢献したい、そう思いながらも秋田の外で考えることの限界を感じてもいます。

僕は地元から離れた高校に通っていたし、地元のこともよく知らないまま大学進学と同時に上京しました。
今や秋田からさらに遠く海士町にまで来てしまっていて、日々WEBだったり知り合いだったりから漏れてくる情報を目で追うのみです。
こういう状態なので、「やるべきこと」、埋めるべきピースが見つかる予感があまりありません。

「秋田に帰りたい」、ただそれだけで誉めそやされるようなこともある時代。
東京や海士町で学んだこと、めぐり合った人とのつながりもあり、「何かできそう」な感覚をついつい持ちそうになります。

それでも僕はその気持ちにブレーキをかけたい

「何ができるかどうか考えられるほど、自分は地元のことを知らない」

僕はもっと基本的なところで、「地元で家族や友人とともに、幸せな暮らしがしたい」、そう考えていることに気づきました。
ただそれだけのことを、「地元に貢献する」という言い方にしたくない。
海士町に来て、ますますそう思うようになりました。

どこまでも、謙虚に。かつ、率直に。

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