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「自分のことはよくわかっている」という嘘について

カテゴリ:自分事

秋田にいたころから、僕は常に「変わりたい」と思っていた。
自己否定の日々を、数限りある自己肯定をスパイスに、
少しずつ理想とする在り方に近づこうとしていた。

海士に移住してからもその基本姿勢はあまり変わらないけれど、
一方でこれまで蓄積してきた「自分」というものが顕在化する感覚を持っている。
変化を求める一方で、「これも自分だ」と認められることが増えた。
それは心の安定ももたらしながら、変化への諦めの表れに見える気もしている。
変わらないでいられることへの安心と焦り。

30歳を超えると変われる人と変われない人にはっきり分かれる、という話を聞いたことがある。
後者にはなりたくない、と思った僕は20代前半だった。
数か月で28歳になる今でも、そのときの焦りは忘れられない。

「自分のことは自分が最もわかっている」のか?

「僕はこういう人間だから」
「私は○○しない性格だから」

一見自己を受容する境地に達したかのような言葉だけど、
話者が無自覚にはっきりと断言するような口調になるとき、
僕は反射的に「この人は自分のことなんて全然わかってない」と思ってしまう。
それは僕自身が「変わりたい」と悩み続けていたゆえなのかもしれない。

普段接する高校生は特にそういう態度を取ることが多い。
僕自身も高校時代はきっとそうだったはずで、
誰もが通る道と思いつつ、つい余計な心配をしてしまう。

自分のパーソナリティを自分で決めつけるような姿勢は
内的にも外的にも変化を拒む態度につながると思っている。

それでも自分の良き理解者は自分である

「○○な自分を変えたい」という動機は
裏を返せば固定化された自己イメージを前提にしている。
異化体験の乏しさよりも凝り固まった自分の方に問題があり、
変化を受け入れるオープンな自己であろうとするのが先決なのだが、
そのためには「○○な自分」像を問いなおす作業が発生する。

そういう意味で、自分のことは自分でもよくわからないのだと思う。
そこを出発点に少しずつ物事の受け取り方を変えてみたり、
具体的な言動を修正してみたりを繰り返していくうちに、
一周回って「僕はやっぱりこういう人間なんだ」と自分を受容できる時期が来る。

僕が自己否定の悪循環のループから次のループへ移れたのは
ちょうど大学3年次の就職活動からだった。

思い通りにならない苦しみを常にどこかで感じながら、
「こうありたい」と「これが自分に合っている」の交わる部分を模索し、
小さく実践を積み重ねていくと、ふと視界が開けるときがくる。
「これでいいのだ」という小さな手ごたえが返ってくることが増える。
この繰り返しで少しずつ大きなループを描けるようになるイメージがある。

もしかしたら、理解することとは
理解しないこと、できないこともあるということ、
理解が変化に追い付かないことも含めてのことなのかもしれない。
こうした達観も、ある種の納得と同時にやってきたりする。

自分の経験が一般的なものなのかはわからないが、
高校生と接するときも長い目で見ることと同時に、
彼・彼女らにとって好ましい変化の機会を準備することも
また抜け目なく、怠らないようにしたい、と思う。

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自分の本音が分からない人の5つの特徴

カテゴリ:自分事

自分の本音が分からない(分かろうとしない)人には共通の特徴があるように思えます。思いつくまま、5つの特徴を並べてみました。

1.他人に弱さを見せられない

「自意識過剰」というべきでしょうか、周囲の目に過敏な人は一定数います。かくいう僕も小さい頃からそのケがありますが、少しずつコントロールするように気をつけています。

周囲の目を気にしすぎることの原因はなんでしょうか。一つは、周囲から自己に対して都合の悪いイメージをもたれることへの不安だと思います。

この「都合の悪さ」がポイントです。「自分はこう見られたい」「自分はこう見られたくない」「都合」は必ずしも合理的であるとは限りません。普通、人間は自分で自分を縛っているものです。

「弱さ」とは、なんらかのうしろめたいものを抱えている状態では必ずしもありません。きっと、目をそむけて客観的に捉えることが出来ないこと自体がそのものを「弱さ」にしているのです。

他人から見れば取るに足らないようなことにまで囚われる必要はないと思います。

2.自己イメージに固執している

前項とも関連しますね。

人は誰もが「自分はこういう人間だ」というイメージをもっています。ところが、自分を把握しきっている人はほとんどいないものです。そのイメージに縛られすぎると、自分というものはどんどん狭くなっていきます。自分が現時点で興味・関心を持たないものは「自分ではない」からです。

いつしか好奇心は薄れ、世界観は固定化されてしまいます。イメージの範疇にない自分の側面は無視され、あるいは否定されます。

心身に無理が生じているとき、体や心は自然と助けを求めてメッセージを発するもの。その声にすら耳を傾けられず、「無理」をしていることに気付かないなんてことも起こりうるでしょう。

3.他人の多様な側面を認めることが出来ない

”自分”に固執するように、他人のイメージもまた固定的な見方になってしまう。

人間、誰しも矛盾を抱えているもの。言動に一貫性を保てる人間はそうはいません。また、人と人とは根本的に異なるものであり、違いがあって当然です。最近になって「多様性」という言葉を聞く機会も増えました。

コミュニケーションの相手がいつでも自分にとって都合が良いとは限りません。むしろ、都合が悪い場合の方が実際には多いのではないでしょうか。それを認められないというのは、明らかに他者との関係性において問題があるように思えます。もちろん、自分との関係性においても。

あたかも他人が自分の延長であるかのようにふるまう。他者は他者である、という言ってみれば当たり前の感覚が抜け落ちている。そういう印象を受けます。

4.学校や職場以外の知り合いが少ない

価値観が固定化されると、付き合う人も固定化されてしまう印象があります。人間関係も学校や職場で出会う人に限定される傾向があるのではないでしょうか。

学校や職場以外の人と接点を持つ機会は自らつくるほかありません。交友関係を広げることに意義を見出さないかぎり、わざわざそうすることはないでしょう。

しかし、いつも同じ人と交流していても、新しい風は入りにくいもの。価値観はますます固定化されていくでしょう。

5.ボキャブラリーが貧困

いつも同じメンバーで過ごしていると、相手の知らないことをいちいち説明したり、自分の考えについてなるべく齟齬のないように言葉を選ぶという作業は発生しません。

知らない者同士、つまり共通のボキャブラリーがない者同士の会話では、表現に厳密であることが求められ、その過程でボキャブラリーが鍛えられる、というわけです。

本音を話す、というときにはなおのこと語彙が必要になります。聞こえのいい言葉、どこかで聞いたような言葉に任せられた本音は、抽象度が高く、言っている本人すらも実感を持てないものとなりうるでしょう。

 

この状況を個人がどう乗り越えればよいのか。
(乗り越えなければならないのかという疑問もまたありますが)

少なくとも、現状に変化を起こさない限りには、永遠に現状の打破はできないと思います。

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消費者的態度ではなく生産者的態度をとるために

カテゴリ:自分事

消費者的態度の容易に想像される末路

「受身ではいけない」「主体的に行動しなければならない」

予測不可能で不安定な21世紀を生きるためにとるべき態度というものがある気がしています。

世間的な尺度で自らを評価し、レールに沿った人生を歩むことが個人の幸せを保障するとは限らない。
それを証明してくれたのが20世紀という時代でした。

「こうあるべき」という言説が自らの信念とは異なるところで語られるとき、
それを真に受けるかどうかは本来的に個人に委ねられているはずです。

「みんなそうしているから」
「世間一般的にその方が良いと言われているから」

これらは、自分の人生を決めていく上で何の参考にもならない情報です。
数の論理に負けて、あるいは表面的なコピーに踊らされて、人生を歩んでいく。

ピュアすぎるほどにピュアな消費者的態度をとることの末路は、
少しばかりの想像力を働かせるだけで容易に想像がつくと思うのです。

もちろん、世間的にうまくいっていると評価されるような人生を歩む人もいるでしょう。
しかしそれが本来的な幸せなのか?と自問自答したときの絶望感を想像するだけで、
消費者的態度に潜む恐ろしさを回避したい、と僕は思うわけです。
僕だけではない。ますます多くの人が、「自分の幸せって何なの?」と考え出しています。

それは「フリーエージェント社会の到来」で描かれる社会のあり方と一致します。
ダニエル・ピンクは「テーラーメード」の生き方・働き方を探す人が増えている、と指摘します。

生産者的態度の難しさ

消費者がだめなら生産者。

安易な発想ですが、自分のサイズに合うものがなければ、自分で作るしかない。
そういう覚悟が伴うことで、人は自ずから生産者的に振舞うのではないかと思います。

覚悟

ここに生産者的態度の難しさがあるように思えます。

自らの正解を自らが定義し、つくりだすこと。
正解を選ぶのではなく、選んだ選択肢を正解にすること。

世間の尺度はここでは無用なものです。
自らの価値基準で物事をはかるためには、価値基準自体を自らつくりだす必要があります。
そのためには、自らが何を望むのかを言語化する作業が常に問われることになります。

消費者的態度と生産者的態度を分かつもの

これら二つの態度を隔てるものはいったいなんなのか。

僕の長年の自由研究のテーマであり、いまだ明確な回答が見つけられていません。

一つに「言語化」の能力の”格差”がある、と思います。
「言語化」の能力が求められる社会になりつつあることと、
消費者的態度で本来的な幸せをつかめるとは限らないということとは、パラレルな関係にあるはずです。

もう一つ、消費者的態度と生産者的態度を分かつものとして考えられるものがあります。
それは、「時間的な遅れ(delay)」に由来するものです。

何か新しいことを始めたとき、その成果が得られるまでにはタイムラグがあります。
一方、既存の考え方や手法、具体的なものを取り入れれば、成果はすぐに得られるものです。

既存の携帯電話に代わる新しいモバイル機器を自ら考えるのは非常に骨があります。
しかし、iPhoneを買えばとりあえずはニーズを速やかに満たすことができるかもしれません。

完璧に自分に合ったものは自らつくるしかありません。
一方で、成果が出るまでにはそれなりの時間がかかります。

その時間を待てるかどうか。
時間的遅れを認識し、成果が出るまで研鑽を惜しまずにいられるか。
あるいは、成果が出るまでの、自ら作り上げていくというプロセスを楽しめるかどうか。
そこにポイントがあるように思えます。

代替物がいくらでも流通している世の中で、自ら考えることはますます難しくなっています。
だからこそ、「生産者的態度」のとり方を考える必要がある、そう思っています。

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