カテゴリ:世の中の事
2017/06/26
昨日、Code for Akitaのキックオフイベントに参加してきました。
オープンデータ活用しようぜ! というお題目はぼんやりと分かったつもり。でも、「じゃあ具体的にこの秋田においてどういう場面で活用できるのだろう?」ということもイメージできない状態での参加。会場である秋田市役所に向かう直前は「まあ、仕事の一環だから」というくらいのモチベーションだったというのが正直なところですが、とりあえず行くだけ行ってみたのでした。
しかし、結論から言えば、あの場にいれて良かったなあと思っています。備忘録がてら、ここに(あくまで僕が)何をお土産に持ち帰ったのかを書いてみようと思います。
何のためのオープンデータ?
一言で言うならば、「オープンデータの活用」というのは目的ではなく手段であるという視点を得られたのが、当日の大きな収穫でした。では、その目的とは何か? 僕は、「日本社会のOSのアップデート」ということなのかな、と受け取っています。
僕が住んでいる五城目町では、みんなが好き勝手に町というフィールドで遊ぶように仕事したり、企てたり、仕掛けたりしています。そこには行政の明確な「計画」がありません。トップダウンの強いリーダーもいませんし、スローガンとかあったっけ? というレベル。あえて言えば、(一部の人たちで)「世界一子どもが育つまち」というゆるいテーマ設定があるくらい(「世界一子どもが育つまちをつくろう!」でもないところからしてゆるい)。
人口減少とか少子高齢化ってとりあえず「課題だ」って言われがちなんですよね。ところが、五城目に住んでみると、単なる「現象」でしかないよね、という認識を共有する人たちと出会いました。こういう大きな言葉を「課題」に設定すると、経験則ですが、検討された「解決策」も大味になる印象があります。そうすると、そのお題目に集まる人たちの思惑もばらばらになり、課題解決は進まないし、結果、疲弊する。そういうパターン、見たことありませんか?
五城目で起きていることは、「課題解決」というより「一人ひとりがやりたいことを必要に応じて協働しながらやっている」という表現が近いように思います。やりたいことをやっているから継続する。やりたいことを互いに支え合う文化もゆるやかにある。だから、秩序立っていないけど、何かが起きる。それが「良いもの」だったら、結果的に町のため、地域の人のためになる。
いきなり五城目の話になってしまいましたが、何を言いたいかというと、オープンデータの活用は、こうした「勝手な企て」を促進するものである、ということです。この文脈から総務省が掲げる「オープンデータの意義・目的」を読んでみると、なんとなく、捉えやすくなるような気がします。
まちづくりをアップデートする
“まちづくり”という言葉はいろんな人がそれぞれにイメージするものが違うと思いますが、五城目のそれは「まちづくらないまちづくり」と言えるかもしれません。なにせ、町に関わる人が好き勝手に朝市を盛り上げたり、ラーメン二郎をみんなでつくったり、パーリーしたり、空き家をリノベしたりしているわけですから。そうした点の一つ一つが集積して線になり、面になる。10か年の都市計画がなくても、ぽつぽつとそうした動きが生まれている。
ここにおいて、行政は、住民にとって一つのリソースであり、必要に応じて活用するものとなります。もちろん、行政が主体となり、予算をつけて取り組む事業もありますが、その守備範囲を超えたところを、住民側が勝手にカバーしていると見ることもできる。しかも、当事者である住民が自ら着手するものだから、場合によっては具体的な課題に対して効果的な解決策が施されるケースも出てくる。
こうした民間主導の企てがぽこぽこと生まれてくるのが21世紀の”まちづくり”の在り方なのだろうな、というのが直感的に思うところです。やりたい人がやりたいことをやりたいようにやる。これを促す手段の一つとして、オープンデータと、それに伴うテクノロジーの活用があるのではないでしょうか。
昨日のイベントで紹介された事例として、「保育園マップ」というアプリがあります。北海道のとある女性が「保育園マップが欲しい」という一言から開発されたこのアプリは、保育園の位置情報だけでなく待機児童数などの情報が閲覧できるものです。現在も電話したりネットで調べたりすれば探せないこともないものですが、データとして活用するには「HTMLから引っこ抜く」といった(活用する側からすれば)無駄な手間がかかる場合も多い。子育て中のパパママがそれぞれ情報を取得しているなんて考えているだけで……実に効率化したくなる案件です。実際、リリースされてからの反響は大きく、今や各地で「保育園マップ」がつくられているそうです。
もちろん、行政等が持つ情報を、誰でも入手できて活用しやすい形式でオープンデータ化するというだけで、何かしらの解決策が出てくるとは限りません。しかし、活用可能なデータがあることで、誰かがそれを勝手にハックしていい感じに実装してくれる可能性が生まれるわけです。その可能性に賭ける。なんなら、ハッカソン・アイデアソンという場で(タウンミーティングでもいい)、住民のニーズを引き出し、しまいにはプレイヤーを集めてしまえばいい。「住民主体」とか「官民連携」という言葉の想起させる未来っぽい雰囲気、ありますよね。
Code for Akitaの意義
一人一台スマホを持つ時代ですから、情報をデジタル化し、共有可能なものにすれば、みんなが利用できるようになります。ガラケー時代は、山中で不法投棄された車を見つけ役場に電話しても、口頭で位置を伝えるのが難しかった。しかし今や、写真を撮って位置情報を送れば、手間なく的確に通報できます。
「こうしたら、もうちょっと便利になるのに」
オープンデータは、こうした個人の思いつきがテクノロジーによって実現しやすい時代の要請とも言えます。とはいえ、一般人がすぐにアプリ開発できるわけでもないし、そもそもデータがあってもそれをどう活用できるかをイメージするのも難しい。だからこそ、Code for Akitaのように、専門性を持ち、かつその専門性によってより住みやすい地域づくりを一般の人たちの手元に引き寄せようとする人たちの存在が大きくなります。
五城目の人々が手掛けるような、好き勝手な「まちづくらないまちづくり」は、オープンデータの存在によってそのカバレッジを一層拡大できるでしょう。一方、「データがあるから活用してみる」という思考では、いまいちつまらないものばかり出てくる予感もあります。(たぶん)オープンデータは、それを扱える専門家だけでなく、その当事者や現場のプレイヤーがいてはじめて生き生きと活用されるもの。その点で、中途半端にエンジニア経験があり、一方そうした現場にも片足を突っ込みつつある僕自身も関われる部分があるように思います。
今回のキックオフイベントの多くはIT関係者と行政関係者で構成されているようでした。そりゃあ、「IT」とか「オープンデータ」とか言われても、一般の人は寄り付きがたいわけで。この隔たりをどうブリッジできるか。
大枠として、自分なりに「オープンデータ」を把握できたかなと思います。今後はもう少し事例を調べつつ、例えば五城目だったらどんな可能性がありそうか、具体的なイメージができるようになりたいと思っています。
「ITとかよくわからんけど、なんか面白そう」って方、ぜひ一緒に勉強しましょう!
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カテゴリ:読書の記録
2013/06/13
TEDにも出演し話題となったサルマン・カーン氏が著者。
Khan Academyのこれまでとこれからを自身の信念と絡ませながら紹介しています。
論理は簡潔でテキストの端々から情熱が溢れだし、一挙に読み終えてしまいました。
未来の(あるいは現代のあるべき)教育のビジョンをこれだけわくわくさせられるものとして描けるとは。
本記事では僕が気に入ったところをかいつまんでご紹介したいと思います。
「完全習得学習」というシンプルなアイデア
完全習得学習の根っこの部分を一言で言えば、生徒はある学習内容を十分に理解したうえで、もっと高度な内容に進むべきだということです。そんなの当たり前だと言われそうですが、完全習得学習の歴史はけっして平坦なものではありませんでした。
世界はひとつの教室 「学び×テクノロジー」が起こすイノベーション
著者が運営するKhan Academyの重要なコンセプトが「完全習得学習」です。
現在の単元を完全に理解してから次の単元に進む。
このアイデアは学習における自明なプロセスであり、当然のように感じられるでしょう。
しかし、実際に我々が課されてきた学校のテストを思い出してみてください。
我々が学習内容をその都度漏れなく理解していたなら、赤点どころか平均点もありえません。
完璧な理解とは100点がとれるということなのだから。
一般的な教育及びその評価システムは理解度(質)を保障するものではありません。
単に全員に同じ内容を同じ時間だけ指導した(量は担保された)というだけの話なのです。
ある単元の理解が不十分なために、得意教科に突然つまずく生徒は少なからず存在します。
たとえば「三角比」。正弦定理や余弦定理でつまずく生徒は少なくありません。
多くの場合(既に学習したはずの)分数の処理と方程式の理解が曖昧であることが課題になります。
著者がKhan Academyで実現しようとしているのは、まさに質の担保です。
そして、この思想はクリステンセン氏の「教育×破壊的イノベーション」に共通するものです。
これは非常に重要なアイデアです。
一人一人の理解のスピードは違いますから、こちらの方が合理的です。
しかし、(残念ながら)既存の学校制度を前提にすればこの発想に行き着くことはないでしょう。
参考:「教育×破壊的イノベーション」-教育問題の根本原因と解決案
社会的・政治的産物である現行教育制度の正当性
「民主主義は最悪の政治といえる。これまで試みられてきた、民主主義以外の全ての政治体制を除けばだが」
ウィンストン・チャーチル
(民主主義がそうであるように)教育も現在の姿が最善であるという正当性はどこにもありません。
いまや当たり前になった授業や学期や学年の長さ、一日何時限という区切り、学習内容の「教科」への細分化などは、いったいどのような経緯で誕生したのでしょう?(中略)当時は先鋭的だったK-12教育(初等・中等教育)のイノベーションの数々は、じつは十八世紀のプロイセンに端を発しています。ひげから帽子、行進のしかたまで、何もかもが堅苦しいあのプロイセンで、いまの基本的な教室モデルは発明されたのです。(中略)プロイセンの哲学者にして政治理論学者、この制度整備のキーパーソン、ヨハン・ゴットリープ・フィヒテは、制度の目的を隠そうともしませんでした。彼はこう書き残しています。「人に影響を及ぼしたいのなら、話しかけるだけでは足らない。その人をつくり変えなければならない。あなたが望む以外の意思決定をできないように」
世界はひとつの教室 「学び×テクノロジー」が起こすイノベーション
政治的な意図と経済的な制約とからスタートした現在の教育制度も、一定の成果を出したことは間違いありません。
しかし、学年の横割りや「教科」の縦割りは、あくまで「大人の事情」です。
それが改善できる(そしてより良い効果を得られる)のならば改善すべきものであるはずです。
「大人の事情」で”スイスチーズ”のように穴だらけにされた生徒の理解。
学校で学んだことを実社会に応用できない大人たち。
設備や人材といった資源を遊ばせている夏休み。
実に義務的な目的で課され、家族との時間を奪う宿題。
著者は現行制度の犠牲者をこれ以上増やさぬためにも、抜本的な解決策を描いていきます。
「世界はひとつの教室」
未来の学校は垣根のない「ひとつの教室」を中心にすべきだと私は思います。さまざまな年齢の子がいてかまいません。一方的な講義や画一的なカリキュラムに支配されることがなければ、それができない理由はありません。(中略)年上の生徒やできる生徒が、理解が遅い生徒を教えたりして、先生の助っ人をします。年下の生徒は、お兄さんやらお姉さんやら、いろいろなお手本に接することが出来ます。
世界はひとつの教室 「学び×テクノロジー」が起こすイノベーション
マイペース学習(完全習得学習)が可能になれば、学年・学級の垣根はなくせる。
著者は、ここで生徒同士のコミュニケーションが生じるというポジティブな面を強調しています。
年齢混合クラスの必然的帰結としてさらに提案するなら、生徒と先生の比率はそのままに、クラスを合併してはどうでしょう。(中略)ただ、二十五人の生徒と孤独な先生がひとりいるクラスが四つあるよりは、七十五~一00人のクラスに先生が三~四人いたほうがよくはないか、と思うのです。これにはいくつかの明らかなメリットがあります。
世界はひとつの教室 「学び×テクノロジー」が起こすイノベーション
教員はチームとして生徒の指導に当たり、それぞれの強み・弱みを補完しあうことが出来る。
これは現行の制度(そして学校という施設)から出発して思いつくものではないですね。
また、マイペース学習が導入されれば教科指導の時間は現状より削減できる、と著者は言います。
であるならば、そうしてつくった時間をより創造的なプログラムにあてることもできます。
僕はまだKhan Academyのプログラムを体験したことがありません。
著者の思想をジャッジするにはまだ早いかもしれませんが、実に魅力的な提案でした。
日本語翻訳プロジェクトもあるようなので、ちょっと試してみます。
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カテゴリ:世の中の事
2013/05/08
「イノベーションのジレンマ」で有名なクリステンセンの著作。
タイトルにあるとおり、アメリカの公教育産業や教育研究の課題を挙げながら、
その解決策としての破壊的イノベーションの導入方法について書かれています。
クリステンセンの著書はこれが初めてでしたが、面白く読めました。
なるほどと納得できる部分が多かったですね。
話が大きいので書かれているままを信じるのは怖いところがありますが、
言語化されずにいたイシューをすっきりとまとめる腕力には感嘆してしまいます。
公教育の問題…キーワードは”動機づけ”
本書は日本語版の刊行にあたり、著者による日本人読者向けの解説が追加されています。
要約すると、こんな感じです。
日本は戦後教育によって優秀な理工系学生を多数輩出し、技術力によって欧米の競合を蹴散らした。
しかし、今や理工系への進学者は低下しており、日本の技術的地位は危ういものとなっている。
この現象は経済的な繁栄によってもたらされた。
日本が豊かになり、技術を身に付けて賃金や社会的地位を得ようという外発的動機づけが失われた。
日本の教育制度は、厳しいがやりがいのある理工系科目にも自発的に取り組む生徒を増やすため、
それらの科目を内発的動機づけが持てるような方法で指導することを模索しなければならない。
日本向けに書かれてはいますが、本書の主張はここにあります。
良い大学に入り、一流企業で定年まで勤め上げることが必ずしも幸せではない。
それはバブル崩壊以降の日本が証明してきたことです。
つまり、勉強自体が楽しくない子どもにとっては、勉強する理由が失われつつあるということ。
外発的動機づけに頼ることができなくなった今、教育制度が目指すべきは
内発的動機づけにより生徒が自発的に取り組める学習方法の実現である、と著者は言います。
ごもっともな意見ですが、多くの教育研究者がこの課題の解決に苦労しているのが実際のところ。
クリステンセンは、自身の専門性を武器にこの複雑な課題に真っ向から切り込んでいきます。
内発的動機づけが持てる学習方法とその障壁
クリステンセンが早速述べているのは、「人によって学び方が違う」ということ。
ここでは「多元的知能理論」という基礎心理学の分野の研究が引用されています。
本書で紹介されている、心理学者ハワード・ガードナーによる八つの知能のタイプの分類は以下の通り。
・言語的知能
・論理・数学的知能
・空間的知能
・運動感覚的知能
・音楽的知能
・対人的知能
・内省的知能
・博物学的知能
こういった知能のタイプと教育方法とがマッチしたとき、生徒は意欲的に学習できるそうです。
つまり、「内発的動機づけが持てる学習方法は一人ひとり異なる」ということ。
著者が目指すのは、(教師中心でなく)生徒を中心とした学習の個別化です。
この理想的な提案に対する反論はほとんどないでしょう。実現可能性を疑わないとすれば。
生徒は学習の個別化を求めていると認めるとして、現実の教育現場はどうでしょうか。
実際の学校教育では、個別化よりもむしろ指導の標準化が進んでいるのが実情です。
カリキュラム作成から校舎の配置まで、一つの改善のために違う部分の変更がただちに必要となるような
相互依存的な学校制度が前提となっていることがその理由として挙げられます。
著者はこれを工業型モデルと言っていますが、工場や飲食店のマニュアルの如く、
どこで誰がやっても同じ品質(=学力)を達成するには、プロセスを一律のものにする必要があります。
指導要領を作るのは各教科の専門家。そこに都道府県の方針が組み込まれ、教育委員会も手を加え、
各学校において各学年の学習内容の一貫性を踏まえた上でカリキュラムとしてようやく形になる。
指導方法も一斉授業が基本だから、クラスの学力を勘案して平均的なレベルの授業が展開されることになる。
ここまでくると、実際に指導を行う教員の裁量はほとんど残っていません。
学習の個別化とは生徒が各々の学習スタイルで自分で進度を判断しながら学べるということ。
定期的に試験を行う現行の方法では漏れがでてくるし、学力定着の評価も難しいのです。
新しい学習システムとは
生徒中心の教育を実現するためには、生徒の学習を個別化するシステムと、
その立ちはだかる障壁を乗り越えてそのシステムを導入する方法とが必要となるでしょう。
前者について、著者はコンピュータの導入の可能性を強調しています。
同じ数学という科目でも、様々な知能のタイプに応じた学習用ソフトウェアが開発されれば、
生徒は自分自身に合うソフトウェアを見つけ、それぞれのペースで取り組むことができます。
教員は授業を実施するというよりも、チューター・学習コーチとして
生徒中心の学習システムを支えたり、ソフトウェアを開発したりする役割を担うことになります。
「評価(テスト)はどうするのか」という疑問も出てきますが、バッチ処理的な現行方式では、
その時点での到達度は計測できても「次に進んで良いか」の判定にはほとんど使えていません。
ここで、自動車会社のトヨタの整備士の訓練プログラムが例として紹介されています。
トヨタでは、整備士をトレーニングする場合、一度に全工程を教えるのではなく、
「ある工程がマスターできなければ次の工程を教えない」という手法をとっているそう。
そう、生徒中心の学習システムにはこの方式を取り入れてしまえばいいのだと。
現在の学校は「時間は一定、成果はまちまち」ですが、
生徒中心の学習システムとこの評価方法によって「時間はまちまち、成果は一定」とできます。
ある単元を理解して初めて次の単元に進めるというように、学習の中に評価の工程を組み込めば、
わざわざ手間をかけてテストを作り、定期試験でまとめて評価を行うという必要はありません。
生徒中心の技術はどのように導入されるべきか
さて、先述のシステムをそのまま適用しようとしても、失敗は火を見るより明らかです。
そこでクリステンセン氏は、生徒中心の学習システムを「破壊的に」導入することを提言します。
(破壊的イノベーションについてはこちら)
破壊的導入は「コンピュータベースの学習」→「生徒中心の技術」の二つの段階を辿ります。
もちろん、これらのステップは著者のイノベーションの理論に基づいています。
まずは進級・進学に必要のない知識の学習の分野を狙います。
いきなり現行の教育制度がカバーする主要科目に手を出すのは難しいでしょう。
学校にも指導のノウハウがあり、優れたテキスト教材も書店で購入できるわけですから。
逆に、生徒が突然「デンマーク語を勉強したい!」と言ってくるケースを考えてみましょう。
一般的な日本の学校にはこのニーズに対応する方法はありません。
この「無消費層」にコンピュータベースの学習を導入していくのが事の始まりになります。
そうこうするうちに、youtubeやiTunesのように技術的なプラットフォームが現れるなどして、
教育ソフトウェアの開発は素人でもできるようになることだって考えられます。
(実際、少しずつそのようなプラットフォームが世に出回り始めています)
多様なソフトウェアが集まれば、あとは生徒が自分自身でカリキュラムを組み、学習するだけ。
教育内容を別とすれば、コストやアクセシビリティなど、
様々な面でコンピュータベースの学習は現行の教育制度より利点が多いことも見逃せません。
少子高齢化時代でも教員数を削減できるので、学校の統廃合も減らせるかもしれないのです。
筆者はここに、「生徒中心の技術」が現行制度をひっくり返せるポテンシャルを見いだしています。
まとめと感想とか
まとめてみると、こんな感じ。
経済繁栄
↓
勉強への外発的動機づけの低下=教育の諸問題の根本原因
↓
新しい動機づけ=内発的動機づけを学習に!
↓
意欲を持って取り組める学習は一人ひとり異なる
↓
一枚岩式の授業から、生徒中心の個別学習を実現すればよい!
↓
コンピュータを軸にした生徒中心の学習システムを破壊的に導入しよう!
「全員が意欲的に学習する」必要性は、教育が命題として課されている「貧困の撲滅」によるところが大きいということも忘れてはいけません。
実際、親の社会的階級や経済力が子どもの将来に引き継がれる事態は日本でも見られます。
家庭環境の格差による影響を、教育は学力格差の縮小という形で対応して来ました。
それでも現行の教育手法では限界がある、ということも個別学習の実現への動機付けとなっています。
本書では、教育研究のあり方や学校の組織としての構造についても言及しています。
これが結構面白い。あと、幼児教育に対する欄もあります。
(ここまで言及するとますます長くなるので、本記事では省略)
生徒の知能のタイプがどうとかは別として、たぶん一人ひとりに合った学習方法はあるはずで、
学校の中で幾つかの学習方法の中から「より意欲的になれる」方法を選択できるなら、その方がいいはず。
といっても子どもは”合目的的に”選択することはできないから、ここに新しい役割を担う教師の出番がある。
本書で描かれる未来の教育を想像しながら、これは北欧の教育制度に似ているかも、と思いました。
直接目にしたわけではありませんが、「個」を重視する姿勢は共通しているのではないでしょうか。
教師の役割も、日本とは大きく異なる印象がありますね。
個人的にはコンピュータベースの教育プログラムやソフトウェア自体は増えていくだろうと思います。
(というか増えています)
そして、それは徐々に家庭や友達同士など、ごく小さな範囲から普及していくことでしょう。
きっと、PC、iPad、Nintendo DSといったデバイスがその普及を手助けすることになるはずです。
誰でも手軽に教育ゲームを作れるプラットフォームだって開発されるのもそう遠くない未来の話かも。
あとは、本当にコンピュータで教育効果を出せるの?という素朴な疑問を検討するのみですが、
正直なところ、僕には「良い」も「悪い」も言えるだけの判断材料がまだありません。
学校に導入されたコンピュータは有効活用されていないのは明らかで、
「コンピュータを使った教育といったらこれ」といえるものもまだありません。
今は映像教材が主流でしょうか。Khan Academyもそうですね。
トータルで見ておすすめな本です。
教育に対しての新しい見方を求めている人は、ぜひ読んでみてください。
※本記事は過去のブログから転載しました。
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