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都合よく批判される「知識詰め込み型教育」の意義

カテゴリ:世の中の事

「知識詰め込み型教育」は悪か

公営塾で教科指導に携わる身としての自己正当化と意味づけも兼ねて、主に高校生への指導という観点から「知識詰め込み型教育」を考えてみました。
つまり「(今の)学校の勉強なんか意味はない」という批判は害悪でしかないということを言いたいわけです。

日本は「知識詰め込み型教育」だからダメだ、という批判の声は依然として大きいです。
一方で「ゆとり教育」も散々叩かれるところに世論の無責任さがにじみでていますが。
(実際、ゆとりが見直された新課程では理数の学習量が増やされました)

詰め込み教育に対しては以下のような批判が主にあるようです。

1.学習意欲の維持が困難(内発的動機付けの問題)
2.知識習得の一過性(テストが終わったらすぐに忘れる)
3.激しい受験競争(ストレス増大、いじめ問題への発展)

このうち3についてはまったく根拠のない批判だというのが最近の見解のようですね。

最近は「知識詰め込み」の「知識」の部分に対する批判が大きくなっています。
PISA型学力とか、社会人基礎力などのハイパーメリトクラシーがその対抗馬となっていますね。
といってもゆとり批判によって「知識」も見直されてきたためか、現行の教育の中にどう新しい学力観を取り入れるか、という議論に移ってきているようには感じます。
以前のような明確な対立構造があるわけではないかもしれません。

※小中学校のことはあまり考慮できておりません、あしからず。

日本の大学は高校生の知識を活用・応用する力を高く評価している

「知識詰め込み」は本当にダメなものなのでしょうか。
その意義をもう一度整理してみたいと思います。

一般的にイメージされる「知識詰め込み」は「丸暗記」と重なる部分が多いでしょう。
しかし、難関大の入試問題は「丸暗記」では太刀打ちできない問題が多く出題されます。
(あるいは類稀なる「丸暗記」能力を以ってすれば…)
つまり、少なくとも大学入試においては、教科書の内容を十二分に理解し、場合によって応用できる力があること、抽象的な思考ができることが高く評価されているわけです。
このような生徒はPISA型のテストでも好成績を収めることが期待されます。

これは(「丸暗記」とイコールでない本来的な)「知識詰め込み」の成果といえます。
多くの知識を体系立てて、関連付けながら習得するというのは相当高度な能力です。
授業や参考書等のガイドラインも活用しながら、膨大な知識を構造化する訓練をするのが本来の「知識詰め込み」と言えるでしょう。

「知識詰め込み」の本当の問題(仮説)

本来の「知識詰め込み型教育」が、膨大な知識量を理解し、体系立てて、活用できる力を伸ばす教育ということを確認しました。
つまり、要求水準が非常に高いということがお分かりでしょう。
すべての日本人が現行の教育制度の下で現行の高校の教科書の内容を完璧に理解することは難しい、と率直に思います。
そして、日本の高校進学率、そして普通科の在籍者の割合はいずれも高く、これは世界でも稀のようです。

※ちなみに、教育国として知られるフィンランドも、「勉強できる人は高校、そうでない人は専門学校(日本の専門高校にあたる)」と進路がはっきり分かれています(参考:受けてみたフィンランドの教育)。

日本の高校生は基本的に偏差値で輪切りにされますから、大変なのは中位以下の高校です。
つまり、ハードなカリキュラムに対して実力が追いつかない生徒の存在が所与の条件になっているということです。
こうなると、教員の技量が高くない限りは授業や試験も暗記重視になるのも致し方ないところです。
単語や公式やアルゴリズムの「丸暗記」が横行し、試験勉強も単なる流れ作業になりかねません。

さらに、フィンランドのように自ら選んで普通高校に進む生徒ばかりではないので、モチベーションも低い傾向にあります(みんながいくからおれもいく)。
教科書の内容を理解すること、定期試験や入試でよい成績をとることに消極的な生徒の存在は、「丸暗記」横行に拍車をかけるでしょう。

実際、勉強はわかってはじめて面白いものです。
これだけ覚えることが多いと、学ぶ内容そのものへ面白さを感じるのは上位層くらいだと考えるのが自然です。
入試をベースにした外発的動機付けも、大学に行かないと決めた生徒には機能しません。

一般的な「知識詰め込み型教育」のイメージはこのような実態を基に形作られるのではないでしょうか。

逆に、難関大に合格するような生徒は相応の実力を持っていると言えるでしょう。
この話は日本の学歴主義()はある程度の精度で機能していると僕が考える根拠でもあります。

まとめ

本来的な「知識詰め込み型教育」が十分に機能すれば、本来ならPISA型のテストでも好成績がとれるはずです。
問題はそれが機能していないことであって、「ゆとり」か「知識詰め込み」かを議論する前にやるべきことがあるように思います。

今や高校全入どころか大学全入の時代であり、前提が変わっていることを無視するわけにはいきません。
いい大学に入ってもいい就職が保障されない一方で、中卒・高卒の待遇はますます厳しくなっています。

きっと、勉強できない・したくない子が高校・大学に行く、というのは昔からの常識ではなかったのでしょう。
つまり、”そういう子ども”が出てくることを教育制度が想定していなかったのではないかと。

学校教育におけるキャリア教育の推進が必要であるとされる背景について文科省は、少子高齢化社会が到来し、産業・経済の構造的変化や雇用の多様化及び流動化が進み終身雇用の慣行もなくなり、就職・就業をめぐる環境が変化していることを挙げている。その中でも、特に若年層における社会人・職業人としての資質・素養の欠如や、その背景にある精神的・社会的な自立の遅れを問題視している。その顕著な事例として、子どもたちが人間関係を上手く築けず、自分で意志決定が出来ない、そして自己肯定感が持てず将来に希望が持てない、進路意識や目的意識が希薄なまま進学し、就職しても長続きしないなど、生活や意識が大きく変化していることにあるという。これが長じて若者の中にもモラトリアム(自分探し)の傾向が強くなり、定職を持たない「フリーター」や学校教育も受けず職にすら就かない「ニート」、新卒者の早期離職を表す現象「七五三現象」などが発生・増加したとしている[3]

キャリア教育 – Wikipedia

“そういう子ども”に対応するためにはじまったのがキャリア教育です。
しかしながら優れた実践もあるとはいえ、全体として成果が出ているとはいえないところでしょう。
構造的な問題を建て増しで対応しているのですから、当然のことなのかもしれません。

こう考えると普通高校偏重の解消も視野に入れて、日本では軽視されがちな職業教育の意義を問い直すこともひとつの可能性としてありかなあと思います。
実際、高専の卒業生はこの不況下でも就職に困ることはないと言いますしね。

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