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根に持つ

カテゴリ:自分事

自分というものの社会的な側面、「役割」をはがされた後に残るものなどあるのだろうか。

前回の記事を書いてから少し時間が経ち、改めてその根底となった問いを見つめてみると、ある前提に気づく。

役割をはがしきった後に残る、「本当の自分」なるものの存在。

そもそも、「役割」をはがし切る、というのはどういうことなのだろう。

家族、仕事、友人、恋人、趣味、地縁。普通、人は複数のコミュニティに所属し、それぞれのコミュニティで「役割」を持っている。

「役割」は自分と他者の接点となり、他者はそのインターフェースを通して自分というものを見る。他者がある人のインターフェースの全てと接点を持つということは普通は想定できないから、他者から見る自分には常に見えている部分と見えていない部分があるはずだ。

逆に、他者が「役割」を完全にはがした自分と接点を持つ、ということはありえるだろうか。人と人が接するとき、インターフェースとしての「役割」を介さないコミュニケーションというものが成立することは、あるのだろうか。

「役割」を前提に置いた以上、たとえば仕事仲間から友人へと関係性及び役割が変化・付加されることはあるにせよ、あらゆる役割から解放された関係性というものは、どうしても考えにくい。

そうなると、「役割」が剥がれ切った後に残る自分自身の空虚さに対する恐れというものは、誤った捉え方に基づいていた、と言える。

もしかしたら、単純に、得意な「役割」と苦手な「役割」があり、関係性の変化によって苦手な「役割」を演じる事態になることを恐れているのかもしれない。

その根底には、学校という社会にうまく馴染めなかった、という認識がある、と思う。「ともだち」という関係性は、僕にとって、いつもふわっとして落ち着かないものだった。

休み時間を共に過ごしたり、学校外で一緒に遊んだりしていても、何となく、他人に気を許せない自分がいた。表面上は楽しく過ごせていても、ともにいる時間が長いだけで、深くかかわれている実感がなく、どこかで自分が見限られるという不安もぼんやりと感じていた。

「気を許す」という単語を出してみたけれど、そういえば、僕は「許す」ことを今までしたことがないかもしれない。

プロジェクト学習や就活の自己分析の文脈でよく用いられる人生グラフ(モチベーショングラフ、人生曲線などの呼び方も)というワークがある。

初めてそのワークを体験した時、僕は制限時間の中で小学校を卒業することができなかった。大半の人が、自分のことをテンポよく振り返りながら、現在に至ったキャリアの転機くらいまでは到達できるというのに。

「あ、僕は、根に持つ人間なんだ」

あんなこともあった、こんなこともあった、と、幼稚園や小学校の頃の記憶がずらずら出てくるし、それはだいたい自分にとって都合の悪い記憶だ。人は嫌なことはすぐ忘れるというけれど、そんなことはないと思っていた。

みんな、嫌なことなんて、忘れているか、きっかけでもない限り思い出せないのだろうけれど、僕は少しの努力で思い出すことができる。それは、裏を返せば、過去のネガティブな記憶に僕自身が固執しているということかもしれない。

自分がしでかしたこと。他人にされて嫌な思いをしたこと。その記憶に関わる人たちの誰もきっと覚えていないようなことでも、僕は未だに根に持っている。

一度根に持ってしまうと、それを撤回することができない。そうして、その時点で関係性を終えてしまう。思い返すとそんなことばかりだったし、「よりを戻す」など僕にとっては想像も及ばない領域の行為だ。

根に持つといっても、そこに至るまでの閾値のようなものはある。根に持ったら「許す」ことはできないけれど、「許容する」ことで、根に持つまでには至らない。許容度は、特に仕事をしていく中で、社会に適応し「役割」を果たしていく過程で、後天的に身に付けたものだと思う。

根に持つのは、他人に対してだけではないかもしれない。自分がしでかしたミス、誰かを嫌な気持ちにさせた言動、不注意でさらした恥……。苦い記憶が今もなお残っているのは、過去の自分を未だに許せていないからだろうか。

こういう性格なので、”やらかした”人が未だにその会社や組織、土地に居座り続ける様子は、なかなか腑に落ちないでいた。周りからの目線とか、自分自身の羞恥心と折り合いをどうつけているのだろうか。

ところが、僕には「面の皮が厚い」と思えるような状況でも、周囲はそれなりにいつも通りに接していて、日常は少しの歪みを伴いながらも大きく変わることはあまりない。

他の人は、何らかの落としどころを見つけて許すことができているのだろうか。それとも、許したわけでもなく、それでも関わりを続けていくつもりなのだろうか。

相手に対して許すことができないでいるならば、これまで果たしてきた「役割」に変更を加えざるを得ない、という考えがどこかにある。関わり方が変わること自体が、自分にとっても、相手に対しても、どこか後ろめたい感じがして、できるだけそうした事態を避けたいのかもしれない。

後ろめたさを感じて関わり続けるくらいなら、できるだけ関わらないようにしたい。そういう気持ちがあることは、否定しがたい。

誰かと関わり続けることにこだわりや意志がないのかもしれない。うまく関われないという事態から目を背けたいのかもしれない。

結局、自分にとって都合の良い関係を築きたいだけで、そうした自分の「都合の良さ」にも嫌気が差して、それならばいっそ他人と関わるのは最低限にしたい。

それが一つの本音だろうな、と思う。

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